音が鳴りそうなほどに荒々しく瞼を開いた孝也は、薄紫色の空に迎えられていた。 太陽が沈んで数分と言った所か、残り陽と夜の闇が交じり合った曖昧な時間帯である。 そんな事にすら気付く余裕もなく体を跳ね起こすと、手が自然と胸へと触れた。 手から伝わってくるのは激しく乱れた胸の鼓動。 何が起きて何があったのか、急いで辺りを見渡せばそこは元居た世界樹の根元であり、そばには今にも目を開けそうに瞼を振るわせる光輝と信博がいた。 「起きろ、二人とも起きろってば!」 頭は混乱しながらも、起こさねばならないと気がはやる。 ここにいてはいけない、世界樹の根元で寝てはいけない。 孝也が二人に手を伸ばす直前で、二人が孝也の時のように目を剥くように瞳を開いた。 「うわあああああッ!!」 ただ孝也の時と違ったのは、起きて直ぐに二人が重なるように悲鳴を上げたことだ。 悲鳴を上げることで二人が抱いていた恐怖がさらに増幅していた。 ここではない別の世界、人を異形へと変えるウィルス、それに感染し変えられてしまったヴァリアー、そしてドラグナーであるセレナを見捨てて逃げた事。 危機から来る恐怖と、後ろめたさから誰ともなく走り出した。 大声を上げながら裏山から、人の営み、自分達が正常な世界にいる実感を求め街へと向かって駆けていった。 裏山の山道を駆け抜け、アスファルトの道が続く道路の上を走る。 その辺りになれば民家も見え始め、電気の灯りが孝也たちを包み込み、踏みしめる硬いアスファルトが走る足の裏を思い切り跳ね返す。 安全な元の世界に帰ってきたのだ、そう実感するにつれ足が鈍っていく。 鈍りだした足が立ち止まった頃には、各自の家まで数分の住み慣れた住宅街まで帰ってきていた。 「もう、走れない……」 「数か月分は今日一日で走った気分だ。明日体育でマラソンしろって言われても、ボイコットするぞ僕は」 息を整えながら頭に冷静さが戻ったのか、光輝からそんな冗談までも飛び出していた。 孝也は道路に座り込んで、光輝は民家の塀に持たれ、信博は自分の両膝に手を置いて身を屈めて息を整える。 「一つ確認したいんだけど、光輝もガンちゃんも夢を見たか? すっごいリアルで、綺麗な女の人と……化け物がでた」 思い切って尋ねた孝也の問いかけに、光輝と信博がギクリと体を瞬間的に硬直させる。 答えを聞くまでもなく、それだけで十分であった。 「ごめん、僕が逃げ出しちゃったから。セレナさん、だいじょ」 「やめろ、ガンちゃん。仕方なかったんだ。正直に言おう、ガンちゃんが逃げ出さなくても僕が逃げ出してた。それとも今からもう一度世界樹の下で寝てみるかい?」 半ば脅迫的な光輝の問いかけに、もう一度信博がごめんと小さく呟く。 格好良く助けに行こうなんて言うのは簡単だ、だがまだ自分達は子供なのだ。 だったら大人に助けを求めるのか、それも無理だ。 誰が信じてくれるものか。 三人という数の人間が同じ経験を同時にしていると言っても、また子供という言葉がそれを許さない。 証人にすらならない、考えながら光輝が歯噛みしていると急に明るい声で孝也が言い出した。 「そんな落ち込むなって、二人とも。俺逃げる時少し振り向いたんだけど、セレナ姉ちゃんがすっげえ勢いでヴァリアーを倒してたぜ。だから大丈夫、姉ちゃんはヴァリアーやウィルスを倒すドラグナーだって言ってたじゃねえか。負けるわけがない」 「本当かい、孝也君!」 「孝也が情報源ってのが不安だが、やっと安心できる情報だよ」 孝也の言葉を聞いてホッとしながらも、二人は短い言葉を放ってすぐに黙り込んでいた。 本当はわかっていたのだ。 大丈夫だという孝也の言葉を貰いながらも、セレナはちっとも大丈夫じゃない事を。 村一つがつぶされた事をセレナは驚き、襲ってきたヴァリアーの数にも驚いていた。 だがセレナは大丈夫なんだと思わなければならなかった。 そう思わなければ、見捨てて逃げてきた自分達はその重みに潰されてしまうかもしれないからだ。 「そろそろ帰ろうぜ、結構遅い時間になっちゃったし。光輝は家庭教師あるんだろ、ガンちゃんは家の手伝い」 「さすがに家庭教師はなんとしてでも回避してみる。色々ありすぎて疲れちゃったよ」 「僕は疲れてるからなんて言ったら殴られそうだから、一応手伝って体調が悪いふりしてみる。父さんは駄目でも、母さんが助け舟出してくれるだろうから」 孝也が言い出してからゆっくりと、ゆっくりと三人は家へと向かって歩き出した。 残っていた陽の光もとっくに途切れた暗闇の中では解りにくかったが、三人の顔色は悪くなる一方であった。 下を向いて歩けば溜息が出て、空を見上げれば後悔の波が瞳からあふれ出しそうになる。 まさか自分の人生でそんな日が来るとは、孝也は思いもしなかった。 昨日は二人と別れてから家に帰り、何時も通り夕飯を食べてお風呂に入って寝てしまおうとした。 正確には世界樹の下で寝た以降の事を全て忘れてしまおうとした。 だができなかった。 目を閉じればあの時逃げ出した自分達にむかって逃げろと言ってくれたセレナの姿が思い出せる。 また一つ、溜息がこぼれた。 「なーに、朝っぱらから溜息なんてついてんのよ!」 威勢の良い声と共に、ランドセル越しから張り手が叩きつけられた。 前のめりとなる体を止めるには一歩足を踏み出すしかないのだが、孝也は不意にこのまま転んでしまいたい衝動にかられた。 恐らく痛いだろう、だがその痛みが欲しいと思い孝也はそのままアスファルトの上に倒れるように転んだ。 「って、ちょっと。何転んでるのよ。起きなさいよ、孝也」 「痛ぇ」 「当たり前よ。突然叩いた私も悪かったけど、ちょっとは耐えなさい」 転んだ状態の孝也に手を差し伸べてきたのは、昨日のドッジボールの時の相手である女の子であった。 差し出された手を拒否し、孝也は立ち上がると一人で歩いていってしまう。 「ちょっと無視しないでよ。あ、もしかして昨日の事怒ってる? 実は最後にアンタにボールぶつけたの私なんだよね」 張り合いのない孝也に女の子は持っていた奥の手を出して、来るかと身構える。 確かに一度は孝也を立ち止まらせる事はできたのだが、振り返ってくる事すらなかた。 暗い声が返ってくるのみであった。 「明日になったら、乗ってやるよ。だから今日はあんまり絡まないでくれ」 孝也らしからぬ言葉に女の子は追いかけることも出来なかった。 憤慨するよりも先に、一体どうしたのかと心配になってくる。 もちろん正直に何があったのか問いただしてもみたいのだが、心配しているとも思われたくない。 そんな葛藤を女の子にさせているとも思わず、孝也は黙々と歩き校門を抜けて教室へと向かって歩いていった。 「おはよっす」 元気のない孝也の挨拶に、教室内がざわめいた。 面倒な反応だと思っていると、挨拶一つでざわめくまでに至った理由が直ぐそこにあった。 光輝と信博である。 二人とも何時ものように一緒に喋りながら孝也を待つでもなく、自分の席で俯くか腕を枕に眠り込もうと必死であった。 恐らくは孝也と同じく眠れなかったのだろう、忘れられなかったのだろう。 そして、孝也も二人と同じように自分の席に座ると何もかも忘れようと努めた。 「お前達、今日はすごい静かだな。互いに喧嘩でもしたのか?」 担任の教師をはじめ、三人の中以外で親しい者たちからも同様の言葉はかけられた。 もちろん孝也たちは違うと答えながら、授業を抜いた全ての時間を机に伏せって過ごしていた。 心配そうにかけられていた言葉も、そっとしておくのが一番かと誰から掛かることなくお昼の給食の時間となった。 普段ならば喧しいぐらいになる時間であるはずなのに、教室内は三人のせいでお通夜かと思うぐらいに静かである。 音を立ててはいけない無言の密約でもあるかのように、食器の音一つ鳴らしはしないかとビクビクとした雰囲気が教室を占める。 一番最初に耐えられなくなったのは、その雰囲気を作り出しているうちの一人信博であった。 給食を途中で放り出し、孝也と光輝の前に歩いていく。 「二人とも、ちょっといいかな?」 コクリと頷いた二人も立ち上がり、三人で教室を出て行った直後、教室内では解放されたかと安心する盛大な溜息が幾つも漏れていた。 そんなことになっていることすら気付いていなかった三人は、一度外履きに履き変えて校舎の裏手へとまわる。 コレから話し合う内容が内容なだけに、誰にも邪魔されたくなかったのだ。 三人で円を描いてしゃがみ込む。 「二人とも、これ見てくれる?」 そう言って信博が服の襟首を見えやすいように伸ばすと、ややいびつに巻きつけられた包帯があった。 「ガンちゃん、それってもしかして」 「うん、セレナさんが巻いてくれた包帯。昨日お風呂に入る時に気付いたんだ。たった数時間だったけど、僕らがセレナさんと一緒にいた証」 声の届かない相手に祈るようにそっと服の上から信博はそれに触れて言った。 「あんなに怖い事、本当は忘れちゃいたかった。でも出来なかった。二人ともそうだよね?」 「ちょっと話したぐらいなのに、セレナ姉ちゃんの顔がすぐに浮かんでくるんだ。実は昨日は大丈夫って言ったけど、嘘だ。俺たちが逃げたせいで、セレナ姉ちゃんがピンチになってた。後ろから殴られて剣を落として。それでも俺たちに逃げろって言ってくれた」 「確かに忘れられないのは本当だ。だけど、まさか……助けに行こうって言うんじゃないだろうね」 本当にまさかという思いを込めて光輝が尋ねると、驚くべき事に信博が一番最初に頷いてきた。 「そのつもりだよ。だけど僕一人じゃ、また逃げ出すのが精一杯だ。だから二人も一緒に行って欲しいんだ。三人ならできる、これまでもずっとそうだったでしょ?」 「ガンちゃん、俺も。俺も行く、セレナ姉ちゃんを助けたい。そうしなきゃ、こんな気持ち抱えて普通に遊んでいられない」 「二人とも何を言っているんだ。あんな目にあって、理由はわからないけど帰ってこれて。また同じように帰ってこれる保障なんてないんだぞ。そんなの馬鹿のやる事だ。昨日散々思い知らされただろ、僕らが無力な子供だって。何も出来ない子供なんだって。だから口にはしなかったけど、忘れてしまおうって意見になった」 信博の意見に同意したのは孝也であり、反対したのは光輝であった。 「いいか、昨日の事実から考えてあちらの世界での数時間はこっちでの十数分ぐらい。もうすでにセレナさんが捕まってから数日経ってるかもしれない。それどころか……ころ、間に合わない可能性の方が高い」 言葉を躊躇った事から光輝だってできる事なら助けたいと思っている事は間違いなかった。 ただ一番冷静に考えて、何もしないのが一番安全で正しい行いだと思っているのだ。 一人を助ける為に、三人が出来るかも定かではない救助に行くなど馬鹿げている、そもそもそれは救助ではない。 英雄的行為に酔いしれた蛮勇的行為である 「僕は行かないからな。二人には悪いけれど、それが一番正しいと思ってる。ウィルスもヴァリアーも全部は向こう側の世界の事だ。だったら、向こう側の人たちで解決すべきだ。言い訳だけどね」 最後に付け足した言葉で自分自身を傷つけたらしく、光輝は唇を噛んで押し黙ったまま立ち去ろうとする。 残された孝也や信博も、光輝の言葉の正しさはわかっていたつもりだ。 だが誰にも頼る事が出来ない以上、自分達でやるしかないのだ。 セレナを見捨てたと言う、生まれて始めて持った大きな罪悪感は甘くはなかった。 熟睡する事は当然のように出来ず、普通に眠ろうと瞳を閉じただけで繰り返しセレナを見捨てた場面がフラッシュバックする。 「光輝、今日の放課後。一度家に戻って準備してから行くぞ。六時に世界樹の下で待ってる」 「行かないって言ってるだろ。孝也もガンちゃんも、向こう側に行くって言うなら絶交だ。二度と口利かないからな」 「光輝君、待ってるから。僕も孝也君も、一緒にセレナさんを助けに行こうよ」 孝也に強く言い返した直後に信博から一方的な約束を伝えられると、光輝は走り出していってしまう。 すぐに追いかけ言い聞かせようとした孝也の手を、信博が捕まえ大丈夫だと小さく呟いた。 ちゃんと光輝も解ってくれる、来てくれると信じている信博に孝也も止められ空を見上げた。 光輝の気持ちの方が本当はわかるのだ。 口では行くと言いつつも、本当は怖くて仕方がない。 だがセレナを見捨てたままこのまま何事もなく過ごしていく方が、自分が歪んでいってしまいそうでもっと怖かったのだ。 午後の授業が終わりを告げ、結局光輝とまともに口を利けないまま放課後となってしまった。 最後にもう一度だけ説得しようとした孝也であるが、放課後になると同時に光輝は逃げ出すように帰ってしまった。 くそうと憤るも、時間も大してない為すぐに信博と一緒に下校していった。 「それじゃあ、六時に世界樹の所で。孝也君、道は覚えてるよね」 「たぶん大丈夫、準備したらすぐに行くよ」 途中の道で信博と別れた孝也は、家に戻って直ぐに倉庫へと駆け込んだ。 整理されてない倉庫の中はほこりがたまって汚かったが、なんとか目的のものを見つける事ができた。 父親が高校生の時に使っていたと言う金属バットである。 孝也にとってはかなり重量級のものであるが、その重さが心強く持っていくならコレにしようと思っていたのだ。 倉庫の外に出て何度か振ってみる。 思ったよりもさらに重かったが、振り心地は十分であった。 「よしっ、後は着替えて」 玄関に金属バットを置いて、家に上がると着ていた服を脱ぎ捨てる。 格好も出来るだけ動き回るのに楽なものを着ていくつもりなのだ。 最終的に選んだのはジーンズタイプのハーフパンツにTシャツ、あとはなんとなく帽子を選んでみた。 一見ただの野球少年にしか見えなかったが、特に問題があるわけでもない。 姿見の前で気合を入れて、目元に力を入れる。 「もう逃げない、助けに行くんだ。出来る、セレナ姉ちゃんも行ってた。俺らはグロー……なんとかで、感染しないんだ。だから、怖くない」 自己暗示などという言葉は知らない孝也であったが、鏡の前で怖くないと繰り返し呟く。 気合が入れ終わると玄関で靴の紐を結びなおし、金属バットを手に持つ。 家を出ると真っ直ぐに世界樹を目指して走った。 途中で光輝の家に寄ろうかとも思ったが、信じてみた。 口ではなんと言おうと来てくれるはずだと、疑わずに真っ直ぐ走った。 早く出すぎたせいかまだ世界樹の下には誰もきておらず、孝也は意識して目を見開きながら二人を待った。 孝也の次に現れたのは信博であった。 「孝也君、おまたせ」 「ガンちゃんって、なにその荷物」 孝也が驚いたのも無理はなく、信博は大きなリュックをポンポンにしたものを背負って歩いてきていた。 信博の大きな背中からはみ出るぐらい大きなリュックに何が入っているのか。 一度それを信博が降ろすとドスンと地面が凹んでいた。 「あ〜、重かった。薬に携帯食からキャンプセット。あとヴァリアーは火に弱いから、アルコール度数の高いお酒とチャッカマンも入ってるよ」 「お酒って、別に他の燃料とかでも」 「灯油とかガソリンでも良かったんだけど、売って貰えそうにないし、酒屋だからお酒なら家にいくらでもあるしね。それに引き換え、孝也君はやけに軽装だね」 「一応武器は持ってきたけど、金属バット。後は光輝だな」 最後の一人となった光輝を待つ。 空は赤焼けになり、信博が持ってきていた目覚まし時計で確認すると六時五分前であった。 後五分、光輝を信じてただ待つ。 孝也は金属バットを地面につきたてグリップ部分を両手で掴み、信博は降ろしたリュックの横に座り込む。 静かにだが刻々と過ぎていく時間によって、時計の長針が真上を目指していく。 まだ光輝の姿も見えず、声も聞こえず長針が真上を六時を示してしまう。 「光輝の野朗、腰抜け! 口だけ男!」 ちゃんと来ないといったのだから口だけではないのだが、他に言いようが見つからず孝也はそう叫んでいた。 一方的に信じていただけでも、それだけの時間を一緒に過ごして育ってきたのだ。 だから現れない光輝を許せずバットで地面を叩く孝也であったが、その肩をいつの間にか立ち上がっていた信博が掴んでいた。 「大丈夫だよ、孝也君。光輝君は必ず来る。だから僕らは先に行こう。もっと信じてあげよう、光輝君のこと」 「でもさ、ガンちゃん」 「大丈夫、絶対に来るよ」 頑なに来ると主張する信博に根負けして、孝也はそれ以上光輝の事を悪く言うのは止めた。 そのままドスンと座り込み、金属バットを抱いて世界樹の幹に持たれ目を閉じる。 「ガンちゃんがそこまで言うなら、もう少しだけ信じてやる。その代わり待ちもしない。アイツが必死に追いかけてくる姿を見て笑ってやる」 「うん、先に行こう。セレナさんを助けに」 信博もまたリュックを背負いなおして世界樹の根元に座り込んでその幹にもたれ掛った。 不思議なもので、先ほどまで眠気などさっぱりなかったのに、座り込んで目を閉じた瞬間猛烈な睡魔に襲われ始めた。 昨日も感じた別の場所に吸い込まれていくような睡魔に、瞬く間に二人の口から静かな寝息が漏れ出していた。 向こう側へと行く為に瞳を閉じた二人は気づく事すらなかったが、夕暮れの風に揺れる世界樹が僅かな輝きを放っていた。
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