何年も日に当たらず白かった肌は少し日焼けして青白いとはいえなくなっていた。
艶やかであるという点は同じであったが、そっとに出た事による最もわかりやすい変化だった。
そこに今は紅葉がついている。
ルーチェは自分の頬を触り、ふむ、と撫でながら非難した目で自分を見る少女を見た。
能面のように余り表情を変えない男と、合理的な種族であり冷静さを求められるので近年硬い表情をよくする少女は、お互い機嫌を損ねているらしいと察した。
「…酷い男だ。貴様は」
笑いも怒りも見せなかったステラの眉が少し寄せられているのを見て、ルーチェは聞いた。
「…寝起きにビンタをされ、非難までされる程酷いか?」
よく見れば、つい先ほど眠る前にデザートで食べた果物のように顔を紅く染まってもいたので、少し気が引けたのだった。
「酷い。私に歌わせておいて寝るとは何事かえ!」
明らかな怒声が返ってきて…合点がいったというわけでは無かったが、歌を聴きながら眠るのは、どうもフェザリアンにとっては屈辱的なことらしいと思ったルーチェは頬を撫でるのをやめた。
「ステラの歌は、好かった…お陰で目覚めた時の気分もとてもいい」
ステラは鼻を鳴らしてそっぽを向く。もう顔には皺ひとつ無いが、これが怒った時の顔なのだなとルーチェは息を吐いた。
窓から入る風が少し冷たい。ビンタを受けて赤いルーチェの頬には心地よかった。
「私の歌は子守歌代わりかや?」
ルーチェは答えずにベッドから立ち上がる。
同時に部屋の扉がノックされた。女王が追ってかと思ったのか身を固めた。
扉へ向かい、扉を開けるルーチェ。そこへ、小さな影が飛んできた。
「ティピちゃぁんキィィック!!」
それをかわしたルーチェへもう一つ、それよりは大きいが小柄な影がぶち当たる。
こちらは避けなかった。
「お兄ちゃん! あはっ、やっと会えたね! お兄ちゃん!」
抱きつくルイセの髪を撫でてやりながら、ルーチェはティピへと顔を向けた。
「また乱暴になったな」
「いーッだ!! アンタは温泉帰りにラシェルで休養してたんでしょ!! これくらい当然よ!」
どの辺りが当然なのかは疑問だったが、ルーチェは残り二名へと顔を向ける。
ウォレスとアリオストが苦笑していた。
「悪いけど我慢してくれ。ちょっと…一悶着あってね」
「カーマイン。フェザリアンを助けたって言うのは本当か?」
次々に言う二人の男の言葉に頷き、それにティピが初めて気づいたように部屋を見渡す。
「あっ!そうよそうよ!! 街中で噂になってたわよ?」
「お兄ちゃんほっぺたどうしたの?」
ルイセもルーチェの胸に埋めていた顔をあげ、抱きついたまま先程ステラに叩かれた頬に触った。
椅子に腰掛けて、女王は始終のやりとりを見つめていたがティピがステラの前で止まり、上から下までざっと見る。
「ティピ! 失礼だよ! お兄ちゃん誰にやられたの?」
「えー…だって、珍しいし」
「ホムンクルスか」
「ティピよ! 貴方が女王様?」
「如何にも」
ティピの態度にも別段何も言う事はなく、ステラは頷いた。
その返事に皆が安堵の声を洩らす。ルイセは一人何があったのかルーチェに効くので忙しかったが。
「よかったー! これで助ける手間が省けたわね。アンタ、よくやったわよ!」
そう言って、ルーチェの頭を突っつくティピにステラは首を傾げた。
「でもどーしたの? こーんな立派な紅葉ほっぺたにつけちゃって」
うりうりと頬をぐりぐりするティピをルイセが頬を膨らせて押しのける。
ティピはサッと逃げるとルーチェの頭に腰掛けた。
「何故じゃ。貴公らには関係のない事であろ?」
「え? だ、だって、フェザリアン達ったら貴方のこと助けないとか言うから…」
「そうであろうな。我一人の為に皆を危険にさらす事は出来ぬ」
先日と同じ言葉。先日のルーチェと同じように、寛ぐには少し狭い部屋に入ろうとしていた皆が聞きとがめた。
「捕らえられたアンタがそう言うなら理解できる。だが、救出側がそう言うってのはどういうことだ?」
「人間には理解できぬかも知れぬな。だが我々はあるがままを受け入れて生きてきた。そしてこれからも……アリオストとは誰じゃ?」
先と同じように答え、ステラは全員をザッと見回した。
「僕です。僕がアリオストですが…」
名を呼ばれ、当惑した様子のアリオストに女王が視線を向ける。
「そこの男はアリオストが答えると言っていた。何故無駄な事をする?」
「…無駄では、ありません。僕たち人間は最後まで決して諦めません。
(答えとして適当かは分かりませんが)父はずっとこう言っていました。歩き出す前から諦めるのは、愚か者のすることだ。この世界に生まれた以上、向かい風でもくじけず歩け、と」
アリオストの返事を聞いて、ステラは目を閉じた。考え込むステラにティピが時間が無いのだからと突っ込みを入れようとしたが、ルイセが慌てて止めた。
口元を押さえられ、もごもごと声にならない声を出すティピをルイセが必死で抑える間に、ステラは考えを終えて目を開いた。口元に柔らかな笑みを浮かべて。
「…考える価値のある問題かも知れぬな」
ステラはルーチェを見る。ルーチェは頬の赤い理由をアリオストに聞かれ返事代わりに肩を竦めていた。
「ぷはっもー! ルイセちゃん、アンタ!あたしを殺す気っ!?」
開放され、顔を酸欠で真っ赤にしたティピが視界を通り過ぎる。
「カーマイン。そなたらの用件とはなにかえ? 言うがよい」
どういう気まぐれかと、一瞬皆は考え、すぐに喜びに沸いた。少なくとも、フェザーランドで会ったフェザリアンよりも聞いてくれる…皆そう思った。
「…母が毒を受けた。フェザリアンの力を借りたい」
「私達の世界の薬では治らないから……偉大な知恵を持つ皆さんなら治す方法を知っているのではと……」
ルーチェが答えてすぐに、ルイセも黙っていられず補足を入れる。ティピもいつも立てない羽音を立てて、ステラに詰め寄った。
「アタシ達はマスターを毒から救ってあげたいだけなの! 力を貸してよ!」
うるうると、目を潤ませ祈るような仕草で迫る小人に、ステラは仰け反るように引いた。
「…我でよければ診よう。助けられるとは限らぬが」
「やったぁっ!」「お兄ちゃんやったね!」
喜びに体を震わせ、ティピが跳ね回る。ルイセも喜色を浮かべてルーチェに抱く。
ステラはまだ助かったわけでもないのに喜ぶ様子を見やり、次いでアリオストにも目を向ける。
「そなたは?」
我が事のように喜び、口元に笑みを浮かべていたアリオストは一瞬だけ驚き、すぐに自分の用を伝える。
「ありがとうございます。でも、僕の用事はもう済みましたから…僕の中にはあなた達と同じ血が半分流れています」
「そうか、お前がジーナの息子なのか」
合点がいき頷くステラに、アリオストは息を呑んだ。まさか、母の名前がステラの口から出るとは思わなかったのだ。
「教えてください!母さんは……」
「ジーナは我々の掟を破り、人間と暮らした。その非を認めないために、二十年も反省室にいる」
「それは…お聞きしました。一体どうすれば、どうすれば母さんに会えるのですか?」
一度言われていたとはいえ、アリオストは再度ショックを受け語調を荒げた。
人間と暮らした事が間違いだと言うステラに、それでも自分を抑えようと、アリオストは腕を掴んだ。
「認めさせることだ。そなたら人間が愚かでないという事を我々に知らしめることが出来れば、ジーナの罪は罪でなくなるであろう」
澄ました応対であったが、アリオストを刺激するには十分だった。
目を輝かせて、年下に見えるステラにはい、と答える姿には覇気があった。
ティピが頼もしげにアリオストを見て、アンタもアレ位しっかりしてればねぇとルーチェを小突いた。
そして拳を振り上げる。
「よぉーし、ルイセちゃん。そうと決まれば急いでマスターの所に行こうよ!」
「うん!」
その後、少しカレンの所に顔を出してからルーチェ達はルイセのテレポートによりローザリアに戻った。
屋敷は暖かな陽気や王都の喧騒などとは正反対に火の消えたような静けさで彼らを向かえ、あと少しの距離を急がせる。
足音をたてルーチェ達は部屋に踏み込んだ。疲れた様子の老人が寝室から現れてルーチェと視線を交わす。
「容態は?」
「良くは無いな。魔法は効かんし、新しい薬を飲ませてみたが、効果が薄い。その少女は?」
「新しい医者だ。ステラ、頼む」
「うむ…」
女王は名を呼ばれて肩眉を少し動かしながら、寝室へと入っていく。
「アンタ、なんで女王様の事呼び捨てにしたんのよ?」
ルーチェは答えずに、いつの間にやら腕を掴むルイセの小さな手を握った。
幸い、女王の知識の範疇でどうにかできる毒であり、解毒剤はすぐに作られた。
もう大丈夫だと言うステラが辟易するほど礼をいい、その日はそのまま暮れてしまった。
ステラを送り届けなければならなかったが、やんわりとステラが押し留めたのだった。ルーチェ達は気遣いに感謝した。
その日の夜は、久方ぶりに屋敷に心地よい静寂があった。
獣道8話 治ってから
フェザリアンの薬によって解毒され、久しぶりに心地よい眠りを終えたサンドラは眩しそうに、目を細めた。ルーチェがカーテンを閉める。
翌朝、もう一度(その後かなりプライドが傷ついたのか帰宅してしまったが)医者とステラが診察をして、ルーチェ達はサンドラと顔を合わせた。
目を覚ました事を信じられないという風にルイセは手を伸ばすのを戸惑っている。
「ルイセ…私に触るのも怖くなったかしら…?」
クッションで上半身を起こしたサンドラが苦笑をすると、ルイセの、サンドラに薬を飲ませる頃から決壊した出した涙腺から涙が落ちた。
興奮して昨日は眠れなかった事に加え、泣きすぎて赤く腫れた頬にまた涙を流して、ルイセは抱きつく。
「お母さん!」
そのまま泣きながら何度もサンドラの事を呼ぶルイセとルイセをあやすサンドラの姿に苦笑を浮かべながらウォレス達は退出していく。
ルーチェはそれをじっと、ルイセが完全に眠るまでじっと見ていた。
怒っているようにも退出したウォレス達のように苦笑しているようにも見える面で、しかし瞬きもせずにじっと見ていた。
「ルイセにも、無理をさせてしまったようですね」
衰弱している事を感じさせない様子でサンドラが呟くのを聞きながら、眠ってしまったルイセをサンドラの横に寝かせる。
「そう思うなら休んで回復することだ」
「わかっているわ。でも先に。女王様をお送りして…そうね。食事ついでに旅の話をしてもらいましょうか」
ルーチェは頷いて部屋を後にする。
寝室を出ると、窓からの日差しだけのサンドラの部屋で、退出したウォレスと、旅支度を済ませたアリオストの二人が立ち話をしていたのか、飲み物も持たず突っ立っていた。
扉の音で気付いた二人はルーチェの方を向いている。
「おめでとう。サンドラ様が回復して本当によかったね」
「アリオストのお陰だ」
素直に言うルーチェに、ウォレスがほぉ、と言葉を洩らした。アリオストも(勿論元々良い知らせに笑顔を見せていたが)笑みを大きくした。
「君からそんな言葉を聞くとは、思わなかったよ」
多分軽口なのだろうとルーチェも少し口元を緩めた。それには少し驚いてみせるのに、能面の様な無表情へと戻る。
「そう、そういう顔ばかりと思っていた」
「…サンドラには表情に出すぎるとよく言われるが?」
「そうかな? まあいいさ…悪いけど、僕はこれで失礼するよ」
アリオストは手に持った荷物を示す。ルーチェはただそうかとだけ答えた。
サンドラも礼を言いたいだろうし、何より助けてくれた彼らをもてなそうと屋敷の者は動いていた。
だから、本当にすまなく思っているのだろう。アリオストは困ったような笑顔を浮かべ、言葉を付け足した。
「君達の姿を見ていたら…僕も待てなくなったんだ。早く、フェザリアンに僕達の事を認めさせたい」
「俺の助けが必要なら呼んでくれ」
「ありがとう。じゃあ、またね。僕で協力できそうなことがあれば研究室に来てくれ。大抵はそこにいるから」
ウォレスとはその事で話をしていたのだろう、アリオストはそのまま手を振って去っていった。
見送りよりも今はサンドラと話でもするといい、そう言って見送りも辞したアリオストが去るのを、ルーチェは窓から見送った。
開いた窓からは、暖かい風が入り頬を撫でる。姿が見えなくなるまで見送り、ルーチェは新たな気配に振り向いた。
ステラが翼を器用に羽ばたかせ、廊下を滑るように移動してルーチェの傍に降りる。
「もう心配は無かろう…私もフェザーランドに戻るとしよう」
そう言い、ステラはまた滑るように廊下を飛ぶ。
だが角まで来て、ステラは振り向いた。
「そなたも来ぬか」
言われても足を動かそうとしないルーチェを、ウォレスが小突いた。
ルーチェは心なしか余り乗り気ではなさそうな様子で、ステラの後を走り出した。
流石に、街の中フェザリアンの姿は目立ったが、気にする風もなく二人は街を抜け、西へと走った。
天気はよく、風も程よい。街を西に出た道を通るのは二度目。姿は見えなかったが、前とは違う生き物の鳴き声を聞きながら、ルーチェは自由に飛ぶステラの横を走った。
普通に行くだけならもっと長くかかるのだろうが、ルーチェ達は日が落ちる前に岬へとたどり着いた。
アリオストと出会った岬で、ルーチェはステラを見送る。
「ありがとう。お陰でサンドラの命が助かった」
「…それは我も同じ事。そなたが来ねば我は今も囚われていただろう」
人間だけでなく、フェザリアンの間でも不吉と言われる色の違う両の目と、好意的に映る美貌に微かに浮かぶ微笑。
最初、死を予感させた妖眼だが、今不思議とそのように思うことはない。ステラはそう答えて目を逸らす。遠くに浮かぶフェザーランドが目に入った。
「俺が助けずとも、誰か来ただろう…俺は運がよかった」
同じようにフェザーランドを見てそう言うルーチェにステラは首を振った。
「それは違うが…よい。カーマイン、見送りご苦労であった」
ルーチェは会釈した。そして言う。
「この時間だ」
「何がかえ?」
飛び立とうと羽を広げ、ステラは聞いた。
待ちきれぬように羽が小さく動き、砂埃を立てる。
「今度会いに行く時間だ」
「勝手な事を言うでない。我は忙しい。ここで待つがよい…さすれば、そなたらが我を助けた事を疑う者はおるまい」
一度だけ振り向き、ステラはそう言って去っていった。
人影は小さくなっていき、逆に少しずつ大きくなる複数の影が小さくなっていく人影をとり囲んだ。
ルーチェは人影が全てフェザーランドに戻るのを見て、家へと戻った。
戻るとちょうど食事の時間だったらしく、家の者が用意した軽いものをサンドラの元まで運ぶ。
サンドラは起きており、ルイセは(誰が引き上げたのかは知らないが)サンドラの隣で眠っていた。ルーチェは医師が使っていたと思われる椅子を手繰り寄せて腰をおろす。
「ただいま」
「お帰りなさい。いい香りね」
ルーチェは頷いてサンドラの取りやすそうな位置に料理の載った盆をおく。
「ティピはどうした?」
「検査をしています。ティピは思ったより貴方向きかもしれないわ」
そのまま眠るルイセの髪を撫でながらサンドラが食べ始めるのを待った…だが、一向にサンドラは口をつけようとしない。
料理の香りの漂う部屋の中での奇妙な沈黙。だがそれを無視してルーチェはルイセの髪をなで続けた。
夜は深まり、明かりを点してあるとはいえ少しずつ暗く、そして気温が料理の温度と共に下がっていく。
少しづつ、しかし確実に重くなっていく沈黙に、ルーチェは面倒そうに息をはいた。
ルイセの髪を撫でるのをやめて、少し恨みがましい目で義息を見るサンドラに手を差し出す。
「…俺が食べさせよう」
「悪いわね。まだ疲れているみたいなの!」
全く悪いと思っていない上機嫌なサンドラの口に食べ物を運びながら、ルーチェは見送る前に言われていた旅の話を始めた。
報告といわれたので、それは簡潔にあったことだけを言っただけだが、サンドラの視線がどんどんと険しいものになっていく。
一人ステラを助けたと言ってもその手段については言わず、説明を続けるルーチェに…皿を空にしてサンドラは恐ろしく冷たいため息をついた。
「ルーチェ…」
「人の話を最後まで聞けとよく言われたような気がするが?」
サンドラが内心かなり自信を持っている、年齢からはかけ離れたはりを持つ白い肌が怒りで染まった。
色々と指摘したい事はあるものの、さてどれから言ったものかとサンドラはまたため息をつく。
「もう少し頭を使って動きなさい。話を聞く限り、どうにも無駄が多いわ」
「ごめん」
無表情に答えるのでどうにも本心から言っているのかは分かりづらい。
それをいいことにもう少し言い含めておこうと、ルーチェのほっぺたにサンドラの手が置かれる。
「大体、ジュリアン・ダグラスには負け越して」
憎憎しげに先日張られたばかりの頬が抓られた。
「たかが羽が生えただけの小娘にいいように叩かれるとは、どういうつもり?」
ルーチェは何も言わずにサンドラの手を取った。
細く、ルイセと比べると少し長い指先。栄養の足りない手は少しひんやりとして、魔法の実験や日々の仕事、ストレス…体に悪い時間が肌にかさつきを与えている手を握り締める。
相変わらず微熱を帯びたように熱い手に握られた手を、サンドラは澄まして引っ込める。ルーチェはすり抜ける指先をなんとか捕まえた。
「今後は傷がつかないよう気をつけよう」
「そういう事を言ってるのではありません。どうしてもっと自由に体を使わないのです」
とぼけようとしたルーチェの手に魔力の篭る爪が立てられた。
「フェザリアンを助ける時、体を動かしてみたのでしょう?」
「普段通りだ」
「そう? 気兼ねなく力を振るうのが余程楽しかったようね」
サンドラは指に血をつけたまま、やれやれとため息をついて大仰にがっかりしたという態度を見せた。
「私達に力を隠すような臆病者では離れに居た方がマシよ」
ルーチェは視線を傷のついた手に落とした。
すぐにあげてサンドラを見るが、少し瞳が動いているようで、明かりに光る目が一度だけぶれる。
「隠し事はできないな」
ため息をついてサンドラは指ではじいて血を飛ばし、ルーチェの額に当てた。
「ルイセができてから体調を崩した貴方を私がどれだけ調べたと思っているの? もっと気合をいれなさい。ルイセも貴方に傾倒しているのだから」
サンドラは濡れていない手でルイセの額に手を置いた。
ルーチェは黙って二人を交互に見つめた。両目は灯りなど無視して強く、生命力に溢れ輝いている。
「貴方は世界を救う光とか滅ぼす闇になるとまで呼ばれたのです。もっと成長なさい。でなければ外では生きていけない」
話を聞き続けていたルイセは目を薄く開けて二人の顔が重なるのを見てしまった。一瞬離れて二人の影の、額が当たる。
まだ同意しかねている…特にサンドラのルイセを信者呼ばわりするなどに内心反発していたルーチェは、鼻先の当たる位置にあるサンドラの言葉を聞いて少し覚悟を決め、手を握り締める。
「取るに足らない人物でしょうが、私が倒れた事を貴方のせいだという輩もいるはずです…分は悪いと言っておきます」
元々異端児であるのを再認識させられ、自分が人間でない事を分かっているという家族には応えなければとルーチェは拳を知らず握りしめる。
ただ、少し手は震えていた。
*
サンドラが起きてから数日…サンドラに毒をもった当人は森の中を移動していた。
銀色の甲冑に身を包み、無音で移動する獣は、バーンシュタイン領の奥深く、王の直轄地の中程で足を止める。
「…っ醜い狩りだこと」
その陽の瞳に入る狩りの姿は、人としては中々であったが…獣としては醜悪過ぎる。
兜の中で目が細められた。
「でも…闇の者はこの程度で満足か」
嘲って言い終えた次の瞬間、右腕が振られる。
「バーンシュタインの国王様、ご苦労様でした。ゆっくりとおやすみなさい」
仕事は終えた。
甲冑の騎士は劇薬を盛られ死へと加速した事に気づかず狩りを楽しむ男と、供の者達に背を向けて走り出す。
計画開始の記念すべき日に主の前にいられないのは残念だが、色々とすることがあるのだ。
弟を説得に…否、助け出しに行くことが許された。
闇の者どもの、特に邪悪な者達に囚われた弟を…
「愚弟め…」
主の意思は聞いていたが…納得できない。
彼女は奴らが来た闇に近い場に長い間いて、今もずっと邪悪の監視にあるから…だから未だに人のふりを強いられているのだと信じていた。
「邪悪を殺せば寝返ったふりも終わるはず」
走りながら銀色の兜を脱ぐ獣の顔は、ルーチェと同じ顔をしている。
一度しか顔をあわせていないとはいえ、同じ顔をした弟が別の道を選ぶなどありえないと信じて、ルーチェと同じ顔をした者はローランディアに向け走り続けた。
翌朝。バーンシュタインの国王は体調を崩し倒れた。
死にはしなかったが、崩御はそう遠くないと言う報が世界を駆け巡った。