暗い部屋、常に日の差さぬ義母サンドラが言うには檻と同じ場所。

最初、ここにいる事に不満はなかった。

知らないものに興味はなくて、ただ館だけが自分の世界だった。

他者はいたが、本能的に親を名乗る彼らとは…何かが違うような気がした。

だから最初彼らは……例えると知識と技術を運んでくる働き蟻のような存在に過ぎなかった。

それが変わったのは、その蟻の一匹が死んだ時だ。少なからず愛着が沸いていた事を自覚した。

彼女らを気にかけるようになった発端は、それであったと…眼が覚めて、最初に考えたことはそれだった。

書物で読んだ働き蟻のように思っていた義父が死んだ夢を見る事は嫌っていない。

彼より今の自分は劣っている事を再認識する儀式のようなものだから。

未だにサンドラに苦労を掛け、ルイセは口では言わぬが父を欲している部分があると思う。

同一の存在でないのだから、別の存在として求められているのは好ましいはずだし…劣っている理由の幾つかは自分だけの特権のようなものだ。

しかし…「蟻より負担を掛けているなんて、気に入らない」

ルーチェは目を開く。

そういえば昨日は長椅子で眠ったのだったと、少し寝ぼけたままの頭で考え、また瞼を閉じた。

『世を滅ぼす元凶となる。また世を救う光となる』

そんな極端なの運命を持つという占いの結果から養母サンドラの屋敷内に作られた離れに軟禁されてから何年もの月日がたっている。

最初は強い心を持つまでは外と関わらせないという方針だったが、グローシュに対して変わった反応を示してから…それが光の運命を選択させるのに好都合であるらしいと、サンドラと王宮にいるという老人達の判断でこの離れは水晶を使った結界に覆われてからは何年がたっただろう?

その判断で外に出されるこの日をどう過そうか考えようとして、窓がなく、普段明かりをつけていない為暗い部屋に、ふいに明かりが点った。

「やっぱこれ位明るくないとね〜。
まったく、こぉんな暗い部屋にいたら性格まで暗くなっちゃうわよ?」

微かに唇を動かすと同時に耳に入る知らない声。

知らない匂い、気配に気づいてはいた。

今のところ、好きにはなれそうにない予感がする。

「ねえ。この絵は?」

「ティピ、それは触っちゃ駄目だよ。お兄ちゃん、絵を描くのが趣味なんだから」

別に趣味ではない。

時折見る他人の記憶を覗いているような内容の夢を忘れない為に、その情景を絵に起こしてみただけだ。

しかし…今朝の目覚めは、外へ出ることのできる日であるにもかかわらず、珍しく悪い。

先日読んだ本の登場人物は、長年恋焦がれた相手に逢える日は、台風が上陸しようと気分良く起きる事ができたらしいが。

今の自分と来れば、人の平均寿命の三分の一程を過ごして来た中でも下から数えなければならない程に悪い。日がな一日、意味もない事を徒然と考えてしまいそうな程に億劫だとルーチェは思った。

例えば、時折見る自分ではない者達の夢は何なのかとか、仮面の男はなぜ自分と同じ顔をしているのか。

なぜ奴等は外で…と言っても多分でしかないが、外で楽しんでいるというのに自分はこんな館でいなければならないのだとか。

ここにいるのは自分で選んだことなので八つ当たりだが。嘆息する。

体をひねり、お気に入りの寝椅子(カウチ)で頬杖をついていた手を寝かせて。

後少しはまどろんでもよいだろうと、顔を半ば腕に埋める。

一瞬目を開き盗み見た所、扉の方にはルイセと見たこともない小型の人形が飛んでいた。

手のひらに乗る程度の大きさ。短く纏められた茶髪と大きなしぐさから活発そうな印象を受ける。

サンドラお得意の魔法生物なのだろうと見当をつけて…ルーチェはまどろんでいたいのに相変わらず傍でわめいているのがなんとなく鬱陶しいので悪態をついてみることにした。

「ルイセ、珍しい物を連れているな…新種の虫か?」

かわいらしい、妖精のような外見をしたホムンクルスは怒りで眉を吊り上げ、得意の蹴りを食らわせる為に加速した。







ぐろーらんさー獣道 一話 初駆け







ルーチェ、義息を起こしに行ったルイセとつい先日外に出したばかりのホムンクルス、ティピが十分な時間がたっているが、戻ってこない。

ティピは一応お目付け役として創ったのだが、あの性格。

やっぱりじゃれあう事になったかしらと考えながらサンドラは歩き出した。

食事の用意をしなければならなかったとはいえ、サンドラは失敗したと思いながらルーチェの部屋へ入る。

少々荒々しく扉を開けてしまったのは、サンドラからすればしかたがないことだ。

「あっマスター! ルイセちゃんったら酷いんです!! あたしにいきなり魔法使ったんですよ!?」

「…ルイセ、どういう事ですか?」

予想外の訴えにサンドラは少しあっけに取られて娘を見た。

まさか兄に甘えるために邪魔者を抹殺などと言うまねをするとはと、不穏当なことを考えながらではあったが。

「うぅ…だって…ティピったら、お兄ちゃん蹴ったんだよ?」

悪気は感じているのか、声は小さかったがそれでも反発するルイセに、過激である。とサンドラは感想を持った。

母譲りの美貌は後数年すれば兎も角、今の所可愛らしい印象を与えている。

華奢な体と、身に着けた極端に股下の短い服、裾にファーがついた赤いワンピースもそういった印象を与えるのに一役買っているのだが…その印象が余計に今のルイセの行動が行き過ぎていて怖いとサンドラに思わせる。

魔法学院での成績は飛び級できる程に非常に優秀であるから暴発させるとは思えないし、魔法に関してルイセは間違いなく天才であるが魔法学院は教育、研究機関としての色が強いためただ卒業しただけで、義息に怪我を負わせられるとはこれっぽっちも思わないので…(お目付け役として作ったホムンクルスに攻撃を仕掛けたこと自体はサンドラにとっては別にそれ程問題ではない)少し注意しておけばよいと判断する。

ルイセはグローシアンだ。ある条件下で生まれた魔法に関する特殊な才能を持つ者はそう呼ばれる。

グローシアンがその特殊な才能で支配階級として君臨したという歴史からただでさえ、グローシアンという存在は疎まれる。用意周到を徹底させ無ければならない。

しかし…(外の学校にいれば治るかと思ったのだが)そのような環境と、余り相手をするのに適した者がいないからとルーチェといさせた自分の判断ミスは、ここまで義兄にべったりの状態を作っているとは思っていなかった。

考えながら、サンドラは昨夜と同じように半ば寝そべるように長椅子にもたれ掛かるルーチェの元に向かう。

その顔が少し眠そうで、ルイセの所為で昨日は安眠できなかったのだとサンドラは断定した。

本当はサンドラの所為なのかもしれなかったが、そんな事はこの女傑にとっては知った事ではない様子。

やはり一人で寝させるべきだ、義兄離れさせなければと、彼女は決意を新たにする。

「それは、コイツがあたしの事虫っていった…マスター?」

自分の話を聞いていない事を肌で感じたのか、ティピは創造主を呼ぶが聞いてはもらえなかった。

「サンドラ。この魔法生物は、例の目付け役?」

「アンタ!何マスター呼び捨てにしてんのよっ!?」

「ええ、ティピと名づけました。でも…この様子では考え直すのも良いかもしれませんね」

横で五月蝿くわめく上に、自慢の我が子をいきなり、なれなれしくもアンタ呼ばわりするホムンクルスに少し教育を間違ったかなと思わなくも無い。

目付け役なのだから、当然世間に出て行かねばならず…世間一般では魔法生物に馴れ馴れしくされたりするのを好ましく思う人間が多いとは思えない。

だから、余り一般受けをしない者は情が移らない内に手を打たなければならないのだが…

「ええっ!?ちょ、マスター!?」

「じゃあ…私がお兄ちゃんと一緒に行ってくるね!」

「ルイセは魔導実習があるでしょう?」

嬉しそうに宣言するルイセに、表面上困ったような顔をしてサンドラは釘をさした。

(ふぅ…いつまでたっても子育ては苦手ですね。もっと外面を作れるように教育しなくては)

母は顔には全く出さず、ルーチェの枕代わりに組まれた腕に手をやって起きなさいと、言う。

「マスター、魔導実習って?」

「私の行っている魔法学院のカリキュラムの1つでね、高名な魔術師の元で魔導研究を手伝うの。

でも私の場合はお母さんが宮廷魔術師をしているから得しちゃったな」

「甘えてはいけませんよ、実の娘だからこそ手加減せずに指導しますからね」

自分の後釜にするつもりなのだから徹底的にするつもりだという意思を隠そうとせず、目を細め少し強めに言い含める母に、ルイセは浮かべていた笑顔を引きつったものに変えた。

親の贔屓目があるのはサンドラにも否定できないが、成績などから見て獲得可能な優秀な者ではルイセは間違いなく筆頭なのだからしかたがない。

今のままでも問題ないように後人を育成しているとはいえ、数年前にアリオストという逸材を逃してしまったのだから。

「…はぁい」

「さ、冗談はこれくらいにして…皆、朝食にしましょう」

そして、すぐに起き上がらないルーチェには今度こそティピのキックが決まった。







ティピに蹴られてしぶしぶ起き上がったルーチェを最後尾につれ、部屋を後にした四人はほのかに光る廊下を歩いてゆく。

後ろから「ほら、さっさと歩く!! それと上着もちゃんと着るのよっ!!」と罵声が聞こえてきてサンドラは少し笑う…すぐに廊下は途切れた。

その区画を普通の屋敷と区切る扉の前で立ち止まる。

「今日からルーチェもこの扉を越える事ができます」

その気になればでる事もできたろうに。

ついに一度も抜け出さなかった子に、柔らかく微笑みかけて扉を越える。

離れと本館を繋ぐ、屋根の付けられた渡り廊下を歩く。

「お母さん。お兄ちゃんが…」

「ルーチェ?」

見ると、ルーチェが扉の所から一歩も踏み出さずに手をかざして庭を眺めている。

庭にはそこまで力をいれていない。

その分というか、離れに施された魔導技術や本館と繋ぐ渡り廊下、家具は良いものをそろえている。

だから、それらと比べ庭は標準的な、多くの人には悪くはないが…、と評されるであろう庭だった。

「良いな。とてもいい…!」

白い、本当に白い手をかざし、金銀の妖しい目を細めてルーチェが呟いた。

「色が、眩しいぞ」

呟かれた言葉に声の音に、今まで聴かされたことがない程の愛おしさを感じて…

表情を変えぬまま思わず、ルイセは不満そうにする。

「ルーチェ、行きますよ」

そう言ってサンドラは屋敷へ向かう。

慌ててティピが追いかけ、ルーチェはゆっくりと、ルイセはそんなルーチェの手を引いて、急いで母の後を追った。











短い廊下を渡り、四人は本館のルーチェのいた離れに近い場所に位置する部屋へ入る。

部屋に何かを煮るおいしそうな匂いが充満している。

ルーチェにとってはあまり経験の無い事だったが、特に不快ではないので何も言わず、窓際に座って外を眺める。

それを何を見ているのか気になったルイセが、頭の横で二つに分けて結んだ淡いピンクの髪を揺らして覗き込む。

視界に入ったツインテールの片方をルーチェは指でのけた。

視線の先には雲が流れてゆく空がある。

「お兄ちゃん、いつまで外を見てるの?」

そんなルーチェの様子を奇妙に思ったルイセが、聞く。

「ずっと、かな」

「そう…」

少し寂しそうに言って、ルーチェの格好に気づきルイセは瞬きをした。

「? お兄ちゃん…ちゃんと靴履かなきゃだめだよ」

実はこの男、未だに裸足であった。

それに、着ている鮮やかな紅のジャケットもちゃんと着ていない。

腕を通しているものの肘の所で止め、体にフィットした首までを覆うノースリーブで肩を出している。

服装に拘りでもあるのだろうか?とルイセの横からこっそり見ていたティピは思った。

「靴か…そういえば数年程履いた覚えがないな」

「履いたこと無いって、アンタねぇ…」

靴に関しては単に持っていないだけなのかもしれない。

ティピが驚き半分呆れ半分の声をあげた。

「ハァ……ルーチェ、貴方用に作らせた靴を幾つか用意してありますから、後で履きなさい」

可愛らしいエプロンを着け、料理を運ぶサンドラが少し困ったように言う。

「お母さん、他の人は?」

その母に、ルイセは不思議そうに聞いた。

確かに離れには誰も入らせないわ、一人娘もグローシアン…天賦の、魔法の才を持つゆえに特別視され人が離れてしまうという余人が寄りたくない要素は多い。

だが、サンドラは優秀であるし、屋敷で働こうという人はいる。

男はいないが、何人もの女給だかメイドだかが働いているのだ。

普段はそう言った人たちがしている事を、母が率先してしているのでルイセは不思議に思い、聞いた。

「親子水入らずにしてもらおうと思ったので、多くの人に少し暇を出したのよ」

屋敷を維持する為に残ってもらった者達には、その分苦労をかける事になりましたけどね、とサンドラは悪戯っぽく笑った。

何時もとは違う笑みは、屋敷のそこかしこで忙しそうにしているであろう者達には悪いが、なかなか魅力的だったという。

ちなみに教養を身につけさせようという動きは徐々に広まってきているのだが、こうした仕事は消えないだろうと宮廷は予想している。

働き先に寄れば仕事の割に高級であり、その上さぼりようもあるからだ。

貴族などの特権階級が破綻したり無くされたり、という方面に関しても討議されていない。

今の所、(汚職がないわけではないが)余り問題が発見されていないのだ…千年前、この世界に移住してから幾度も苦難を乗り越えてきたという歴史が慣習としてそれなりの義務を強いる為。

珍しくサンドラとルイセ作の食事を褒めて食事を終えたルーチェは、武器とサンドラ作、即効性の眠り薬を無理やり持たせられ、用意されていた幾つかの靴から靴選びをする。

膝近くまである物、その半分ほどの物。足首の辺りまでの物。

デザインも様々な物があり、迷った末。

最も種類の多い足首辺りまでの物から一つを選び履いて、彼は屋敷の外へと飛び出した。

ルイセとサンドラは、ルイセの魔道実習…ルイセの通っている学院から出された、高名な魔術師の元で魔導研究を手伝うというカリキュラムをこなすのに今日は急がしい為、一人だ。

放たれた魔法の矢のように、ティピが全く追いつけない程の速さで駆け抜ける。

西へ向け街を通り抜け、緑を抜けて…岬へ。

今日は近くを回ってきなさいと言われ、以前に夢でみた大陸の最西端の岬へきた。

足を投げ出して座り込み、見つめ続ける。

青、蒼…海と、空。

大地から、海から金の光が空へ吸い込まれていく。

眼で追い続け、見上げすぎて陽の光に眼を細めて手をかざす。

「約束を守ってくれたのですね?」

身を撫でる風、運ばれてくる微かな香に。

流れていく雲に、ルーチェは心奪われる。

「これを貴方にお返しします。そしてあの子に伝えてください。あの子に、愛していると」

もし、ここにサンドラ達がいれば嫉妬せずにいられぬ程に魅せられる。

「貴方、愛している。幸せだったわ」

現れ、指輪を置き去る幽霊に気づかぬ程、(気づいても無視する程)目の前の世界は彼にとって衝撃的だった。

空が赤に染まり、紫、そして夜の色に染まっていく。

「こんなものを見せないとは…どうしてやろうか」

口の端を綻ばせて言いつつ、手の中の奇妙な感触に左手を持ち上げる。

いつの間にか、その手には大振りの赤い宝石を戴いた指輪がった。

ルビーなどとは違うらしい赤い宝石も、その指輪自体もどこか自然の物とは違った印象を受ける。

それは、以前にサンドラに見せられた古い魔法の品々と似た印象だった。

入手経路は不明だが、一先ずはペンダントの鎖に通してふらりと立ち上がる。

今は気分が非常によく、細かいことに構って入られなかった。

もう一度見上げた空を、羽の生えた人間が横切る。

向かう先には雲の上に届きそうなほど高い山と…その山にかかった円盤が見える。

翼を持った人間は円盤まで優雅に飛び去った。

「あれは…」

「彼らはフェザリアン…あの山の頂上にある円盤、フェザーランドに住まうこの世界のもう一つの種族さ」

丁寧な説明と共に線の細い美青年が背後から近づいてくる。ルーチェの隣に立った。

ルーチェよりも背が高く、清潔感のある白い上着と眼鏡の奥にある知性の輝きが青年を学者か何かのように見せていた。

付け加えれば、淡い水色の髪といい白い肌といい、どこか色素が薄い…先ほど飛び去った鳥人間と同じく。

隣に立った時から人の良さそうな笑顔を見せ続けているが、どことなく冷たい印象を与えるところまでが、似ていた。

「フェザリアン。魔法の代わりに卓越した頭脳と飛翔能力を備えた種族、だったか?」

「そうだね…後は、彼らは種族全体が個だって事かな。

全体の意志が個の意志、個の意志が全体の意志…そうする事によって高度な文明を生み出してきたのさ」

「…俺はカーマイン。失礼だが貴方は?」

説明を始める彼の方へと向き直って、ルーチェは名乗る。

カーマインと言う名はサンドラが報告に使っている名前だった。公式、と言ってもいい。

ルーチェも本名がそのまま愛称のようなものなのだと思えば別段問題ない事だから、それに従っていた。

「ああ、ごめんごめん。僕はアリオスト。ここから東、ローランディアとバーンシュタインの間に位置する魔法学院の研究員さ。
飛行の研究をしている」

アリオストも、アリオストの言う施設もルーチェは知っていた。

サンドラが前に優秀な若手を獲得し損ねたと零していたからだ。

魔法学院とは、このローランディアと隣国バーンシュタインが魔法研究の為に作った施設で…そして,

「ルイセの通っていた学園か」

ルーチェの言葉にアリオストの表情は崩れ、笑顔の変わりに驚きが広がる。

ルイセを知っているかのような反応に、ルーチェは奇妙に思った。

街ですれ違った人間達と比べれば器量は良いが、アリオストのような友人がいるとは聴いていない。

「ルイセ? 君は彼女を知っているのかい?」

「ルイセは、俺の妹だ」

返答にアリオストは成る程と、口元に笑みにし直す。

「そうだったのか」

次は自分の疑問を解決しようとルーチェは問い返す事にした。

「ルイセを知っているのか?」

「彼女は有名なグローシアンだからね」

「グローシアン…?」

余り聴かない単語にルーチェは問い返す。

アリオストは頷く。

手をあげ、宙を漂う光を指差した。

「君が今も眼にしているこの光。これが魔力の源であるグローシュと呼ばれるものだ。

人は自らの精神力や、送魔線と呼ばれるグローシュを集める装置で集められたグローシュを用いて魔法を使う」

その話はルーチェも聞かされていた。

この世界は二つの世界が重なりあって存在している。

詳しいことはわからないが…元々別世界の存在だった人間は、別世界が滅びを迎えた時に今の世界と滅んだ世界を重ねる事によりこの世界へ移り住んだ。

だが、この世界には魔法の元であるグローシュはなく、宙に漂うグローシュは滅びを迎えた元の世界から微かに流れ込んでいるのだという。

人々はその少量のグローシュを集めるか、自らの精神力で魔法を使うしかなく…結果、魔法は一部の人間しか使えないのだ。

「グローシアンなら…必要ないとでも?」

「そう…グローシアンとは送魔線を必要とせず、自分の力だけで様々な魔法を行使できる特別な存在さ」

「…生まれの差で、か」

「なんだ。知っていたのかい?」

ルーチェの言葉にアリオストは苦笑する。

知っている者にしたり顔で説明していたのかと思うと少し恥ずかしい。

人とグローシアンの違いは生まれた時の天候にある…

滅んだ世界の影響が大きくなる日食、月食、皆既日食、皆既月食などの現象が起きている間に生まれた人だけが滅んだ世界からグローシュを得る術を身につけ、グローシアンと呼ばれるのだ。

その事を知っている者なら、当然先ほどの話も知っているはずだ。

が、ルーチェは首を振った。

「いや…母が、あいつが皆既日食の日に生まれたばかりに様々な術を覚えるのを気にしていたのを思い出した」

「サンドラ様が?」

グローシアンでも生まれた日によりその力に差はあり、皆既日食は最高の力を持つと言われる。

サンドラはルイセが力をつけてゆけば、あの性格だ…国に体よく使われないかと気にしていた。

そこまで話す気もないので、ルーチェは話を変える。

「ああ…それで、アリオストはなんでこんな所にいるんだ?」

「僕の研究内容が先ほどのフェザリアンに関わってくるからね」

乗ってくれたのか、単に自分の研究を尋ねられると説明せずにいられない性格なのか…アリオストは目を輝かせて山の頂上付近にあるフェザリアンの円盤を見る。

「僕の研究は人が空を飛ぶ事、いつか自分で空を飛んであのフェザーランドまで行く事なんだ」

フェザリアンの円盤を見て、日が完全に沈んだ事にアリオストは気づいた。

「…おっとそろそろ僕は帰るよ。しばらくは王都の宿にいるから、よければいつでも遊びに来てくれるといい。じゃあルイセ君によろしくね」

言って、アリオストは帰って行く。

ルーチェも程なく歩き出した。

月を、星を、そこへ昇っていくグローシュを見つめながら、ゆっくりと歩いていく。

時折虫の音に瞼を閉じて立ち止まり、少しすれば思い出したように歩き出す。

これで立ち止まったのは幾度目か、新たに混じった鳥の声を聞こうと立ち止まったルーチェの耳に、悲鳴が届いた。

眼が開けられる…視線の先には当然ながら襲う者達と襲われる者がいた。

どうするか?

不思議と助けるか否かではなく、家を出た時に手渡された武器で殺すかどうかを考えてルーチェは馬鹿馬鹿しいなと思った。

家ではサンドラとルイセが待っているのだ。

世間の事を考えれば、夜にまぎれて女一人を数人で武装までして襲うカスなど殺してしまった方がいいのだろうが…持っているのは青銅の剣。

ティピにも蹴られるだろうし、特にルイセなど血を浴びて自分が帰ったらどんな顔をするやら…ルーチェは苦笑しそうになるが、顔には出さず走り出す。

助けるのはただの気まぐれだが。とその女性を助ける事に何の疑問も持たずに…自分の中に彼らの行動に対する憤りが微かにある事を、ルーチェは自覚せずに行動を開始した。

「盗賊か…それとも」

昔から、不思議なことにどれだけ全力で動こうと汗ひとつかかない体質であるルーチェは短距離走の選手達のように合理的に体を動かし、すぐにトップスピードへと持っていく。

そして、今にも捕まりそうな、追われていた女の前で急停止した。

メイドのような服装をした妙齢の女の手を引き、腰を抱えて軽く飛び退る。

一瞬あっけにとられた男達から隠すようにメイド女の前に立つと、

「下がれ」

腰に備えておいた青銅の剣を鞘に入れたまま相手に向ける。

これで退いてくれれば楽ができたのだが、男達は勿論、優男一人を相手に怯まず追いかけてくる。

屋敷を出た時、サンドラから渡された青銅の剣は市販されたもので、さほどの性能はない。

売り物になっている片手剣の中では最低のものは抜いてもすぐ刃こぼれしてしまうし、血を浴びない為に鞘から抜くつもりは無かった。

一人目の喉を突き、もう一人の攻撃を受け止め、そらして相手の体勢を崩してから蹴り飛ばす。

喉を潰され叫ぶこともできない男と胃の中身を逆流させる男を見下ろしながらルーチェは奇妙な感覚を味わっていた。

サンドラの作った魔法生物を潰した事は何度となくあったが…その時からこの感覚はあった。

戦って経験して、覚えていくというよりも…既に覚えていることを思い出すように手足が動こうとする。

いや、夢で見た男の動きを再現しているようにも、思えた。

他の者でこういう事があると聞いたことは無い。

自分の夢は、ただの変な夢ではないのか?

「まさか…な」

念のために意識を刈り取ってから先程の女性に歩み寄る。

「あ、ありがとうございました」

そういって、頭を下げる女性。

青ざめていた顔は徐々に赤みを増してゆく。

肌が白いため少々目立つ頬の赤さはまだ呼吸も荒い為だけか、襲撃者を一蹴した男の容姿も一役買っているのかは、わからない。

ルーチェは先ほどの体験からまだ体を震わせている、美人と評してよさそうな女へ聞いてみる。

「助けてよかったようだが…男に襲われる趣味でもあるか?」

一言で言えば、メイドの格好をした看護婦。

そうとしかいえない格好をした女性の顔が驚き、すぐに怒りに染まった。

言った方は、人形の様な表情を消した面で相手の長く伸ばされた金の髪やしぐさなど、怒る相手を観察していた。

「な、何を言い出すんですか!?そんなわけありませんっ!」

「それなら」

ルーチェはサンドラからもしもの時にと手渡された眠り薬を差し出し、無理やり持たせる。

「身を守る用意もせずに夜外を歩くのは、やめておけ」

ルーチェは視線を移す。目の先には茂み。

視界の所々に狼の姿が見えていた。

「ここの住人達が食事に来たようだ」

告げるとカレンの手を掴み歩き出す。

「移動する。襲われたくないならついて来て」

だが、すぐに立ち止まり返事をして最初少し詰まりながら歩き出していた娘へと面を向ける。

「知り合いか?」

手を引いて歩き出しておいて突然止まった男の言葉に、どうかしたのかと疑問を面に出していた金の髪の女は困惑した。

「何のことでしょう?」

言う女にルーチェは振り向き、合点が言ったようにまた道を見る。

「武装した、騒々しそうな者が近づいてくる。三人は屑のようだが、一人は戦士だ」

舗装されていないとはいえ、獣道ではない。

「ぁあ? なんでまだ女がここにいるんだ? あいつらは何やってやがんだ!」

少しすると月明かりとグローシュの光に照らされて、ローランディア側からさらに三人の男たちがやっくるのが女の目にも映り、女は一瞬恐怖で身を硬くした。

先程の言葉から転がっている暴漢達の仲間だと容易に知れる。

そして、三名の最後尾に着く粗野な男が…体格もさることながら、両手に携えたそれぞれ凶悪な光を発するハンドアックスが見掛け倒しでないのなら、この暴漢達の頭目なのだろう。

「お前らは女を捕らえろっ!! あいつにはこのオズワルド様直々に引導を渡してやる!!」

暴漢達が一斉に走り出すのを見ながらルーチェは女を背に、ゆっくりと鞘にいれた青銅の剣を無造作に構えた。

「ここを動くな」

月に薄雲がかかり辺りが暗さを増したが、ルーチェの目には関係がない。

少しは神経が集中してゆくのを感じる。

幾つも見た夢で覚えた型はまだまだ甘いだろうが、如何に少しは腕の立ちそうな頭目がいようが。

暴漢如きが三人がかりになった程度で女一人守れないなどというわけにはいかない。

別にこの女がどうなろうと知ったことではないが、サンドラ達は気をよくしないだろうし…そう理由を決めて、ルーチェは動き出した。

オズワルドと名乗った男が嫌らしい笑みを浮かべる。

まだ距離もあり、手下二人の方が前にいたがルーチェは視界の端にその笑みを見て、オズワルドへと意識を幾らか傾けた。

次の瞬間、オズワルドはルーチェをけん制し、あわよくば仕留めようと体格通りの膂力を生かしバトルアックスを投げつける。

間をすり抜ける斧に二人の手下が震え、動きが止まる。

斧は回転し、空気を切って音をさせながらルーチェを目指す。

その軌道はもし避けてもルーチェの背にかばわれた女は傷つかないライン…どうやら相手は思ったよりもやるらしい。

斧を投げると同時に走り出していたルーチェは、オズワルドの評価を少しあげる。

半歩横に動いて斧を避け、少しの間動きの止まった手下の一人のあばらを砕き…崩れ落ちる相方に驚いたもう一人へは続けて攻撃を行わずに軽く下がった。

ルーチェの頭のすぐ横を斧が通り過ぎる。

「よくかわしたじゃねぇか。おいっ寝てねぇでさっさと立ちやがれっ」

戻ってきた斧を受け止め、そのまま打たれた箇所を抱えて倒れこんだ手下の背中に蹴りをいれ、オズワルドはルーチェに向かってくる。

だがルーチェにはオズワルドの相手をしている暇などない…向かってくるオズワルドが斧を投げようとする間にも、ルーチェの横を手下が抜けようとしているのだ。

蹴られた手下は折れた骨が蹴られたおかげでどこかに刺さったらしく、痙攣を始めた。

女へ向かう残り一人を止めるため、また投げつけられる斧を寸ででかわし、オズワルドに背を向ける愚を理解しつつ横を抜けた手下を背後から鞘で殴りつける。

頭が砕け血が噴出すが、血を浴びたわけではないのでよしとしたルーチェはその場から飛んだ。

ジャケットが大きく切り裂かれる。

ルーチェはサンドラにもらったものを切られて気を悪くし、振り向きざま振るった剣は、どうにかオズワルドが振り上げた斧を受け止めた。斧の刃が鞘を砕き、刃まで到達する。

「ほぅぅ、やるじゃねぇか…今なら俺様の手下にしてやるぜ?」

言いながら、先ほど投げた斧を回収する間がなかったオズワルドは、青銅の剣を半ばまで砕いた斧に逆の手を添え体重をかけて押し込んでくる。

ルーチェはさっさと剣を捨て、女の前まで後退した。

剣は、結局一度も鞘から抜かれる事なく真っ二つに折れてしまっている。

「さあ、武器も無くなったぜ。そろそろこのカスどもの代わりに俺様の為に働く気になったか?」

全く部下に対する愛情の無いらしいオズワルドの言葉を聞きながら、ルーチェは背後にいる女が不安を感じている事に不満を感じる。

「そうすれば助けてくれると?」

「命と交換だ。悪くねぇと思わねぇか? なんならその女で一緒に楽しませてやってもいいぜ」

性欲を隠そうともしない下卑た顔と舐めるような視線に、背にいる女が身を固くした。

視界の端に新たにローランディア側からやってくる戦士を入れながら、ルーチェは失笑を隠すため口元を押さえた。

「断る。貴様は後ろを気にしたほうが良い。あの女、どうやらお前に用があるらしい」

ルーチェの言葉で女の視線が…女の視線が何かを捕らえたのに、オズワルドがそちらへ注意を払う。

既にその姿はルーチェを除く二人にもはっきりと見えた。

グローシュに大きな金色の手甲と白い鎧を光らせ、オズワルドより更に体格に恵まれた大女が、駆けてくる。その表情は険しい。

「やっと見つけた! おいお前、何の恨みがあって俺を!!」

「ゼノス姉さん!」

「カレン……これは一体」

体格の違い。髪の長さもショートとロング色も女は金、大女は赤と全く違うが二人は兄妹であるらしい。

ゼノスという名前らしい大女は嬉しそうに自分を呼ぶ妹を見て、状況を理解できずに戸惑った。

オズワルドが舌打ちする間に、ルーチェはその間に死体が持っていたグラディウスを拾い上げた。

グラウディウスは青銅の剣よりはましとはいえ、大した物ではないが。

そしてゼノスの言葉から、カレンという名らしい女をかばうような立ち位置、構えをわかりやすいようにとって、言う。

「あんたの妹を助けるのに手を貸してくれないか?」

「てめえら、そういうことか。よくもカレンを!」

そんなルーチェとカレン、舌打ちし、森へ下がろうとしているオズワルドを見たゼノスの反応は至極単純なものだった。

怒髪天。全身を怒りで満たした大女は、転がっているオズワルドの手下を蹴り飛ばしながら自身の身長ほどもある、つまりは…刀身から柄まで含めればルーチェよりも長い大剣をオズワルドに振り下ろした。

咄嗟に斧を構えて飛びのいたオズワルド。

だが、大男は鎧を着込んでいるというのに、オズワルドより身軽だった。

斧も鎧も切り裂いて浅くない傷がオズワルドに刻まれる。咄嗟に動いていなければ内臓まで深く切り裂かれていたであろう事を考えれば、まだましだが。

「グぁっ…ちっ。きょ、今日のところは引いてやる。運が良かったな」

木に体をぶつけ、追い討ちをかける大男の斬撃を顔に深い傷を負いながらなんとかかわし、オズワルドは森の中へと消えた。

逃げていくオズワルドをゼノスは追わず、剣についた血をぬぐう事も忘れて自分の所へ来るカレンへ歩み寄った。

「カレン!何があったんだ?」

「奴等に襲われていた…心当たりはあるか?」

「そうだったのか…いや、心当たりは無いな」

剣を片手にカレンの肩を抱く大女は、オズワルドに襲われるような心当たりは無いという。

本人が無いという以上一先ずはそういう事にしておこうとルーチェは決めた。

人の問題に一々首を突っ込むほどお人よしではなかったし、そろそろ戻らないと帰宅したら小言を聞く羽目になってしまうように思ったからだ。

しかし、声も高く胸と尻はあるので見間違いようがないが、(平均からすると背は少し高いルーチェが)立っている時に女性の顔を見上げることになるのは久しぶりだなとルーチェは思った。

それ程背が高く、肉体も男が顔負けする程鍛え上げられていた。

「君のおかげで妹が助かったようだ。俺はゼノス、礼を言うよ」

ゼノスと名乗った大女は、体格などからくる豪快な印象を裏切り穏やかな、女性らしい笑みを浮かべた。

その傍らに立つカレンも笑顔を浮かべており、二人の笑顔にルーチェはふいに家族を思い出した。

(今まで気にもしなかったが)もし二人の笑顔が似ている理由が家族だから、なら…自分もそうなのだろうか。

(俺も笑えばルイセやサンドラと似た笑顔を浮かべるのだろうか)

表情を変えずに考えながら言う。

「礼を言われるほどのことはしていない。最後はこちらが手を貸してもらったしな」

「いいえ、本当に助かりました、ありがとうございます。私はカレンと申します。あなたのお名前は?」

「ルーチェだ」

言ってからルーチェは変に思う。

何故、この二人に名前を教えるのか…考えた瞬間、二人をそのまま子供にしたような二人の姿が頭を過ぎる。

ルーチェは微かに表情を顰めたその間にゼノスが大剣を担ぎなおして聞く。

「それにしてもお前、なかなかの腕だな。お前も闘技大会に出るのか?」

「…何の話だ?」

周りに転がっている死体を見て、聞いてきたゼノスにルーチェは言う。

「知らないのか? グランシルで行われる闘技大会だ。そこで優勝すれば城の正騎士に抜擢される事もある…!」

言いながらゼノスは笑みを大きくする。体格などからくる印象通りの、豪快な笑顔は多くの者が好感が持てるだろう。

ルーチェも悪い印象は受けなかったので、話に耳を傾けた。

「お前が出場すればいい試合ができそうだ。まあ、優勝するのは俺だがな」

「もう、姉さんったら」

姉の自信たっぷりの言葉にカレンは突っ込むが、否定するような印象は無くカレンも姉の実力を信頼しているようだ。

「おっと、もう遅い。それじゃあ、本当に世話になった。またな」

「ありがとうございました」

ゼノスが気軽に片手で挨拶をしたのに対して、カレンは丁寧に頭を下げてからローランディアの方向へ去って行った。

そして、また一人になったルーチェも同じ歩き出す。

虫の音に耳を傾けて、星の間に昇っていく金の光と、その隙間を飛ぶモノに引き留まってしまいそうになりながら家路に着く。

はずだった。

唐突に膝が折れ、糸が切れた人形のように倒れこむ。

ルーチェは狼が群れを呼び寄せる時の遠吠えのような、暴君が家臣を呼びつけるような、自分を呼び出す声が聞きながら、意識を手放し…心は連れて行かれる。

そして残された肉体は、心を連れ去った主の意思によりローランディア城へと、今ままでの周囲に合わせた程度ではなく、その肉体本来の能力を発揮して動き出した。











心地よい…恐怖を感じるほどに。

それが意識を取り戻したルーチェが最初に感じたことだった。

暗闇におり、奇妙なことに肉体の感覚がないのに、なぜか今までにない安心を感じる。

その理由は、突如暗闇に浮かんだ異形を見た瞬間、理解した。

銀色で硬質の、鎧の様な肌。

四つ目…ルーチェと同じく、金と銀の二種類の瞳。

この化け物は、間違いなく…

「貴方が俺の、創造主か」

あまりにも違う外見だが、ルーチェの心はそう、納得していた。

異形は何もいわず、しかし何かを行う片手間に違和感からルーチェを探っているのが探られている当人にはわかった。

自分の体が自分の意思以外で動いているのも、わかった。

そして、異形の知識が多少なりともこちらへ流れ込んでくるのが、わかった。

だが、それらはまた唐突に途切れてゆく。

突然異形が苦しみだした為に…ルーチェは目を開けた。

肉体の感覚がある。目覚めたルーチェは見覚えのない部屋壁にもたれ、座り込んでいた。

夜風が微かに右肩を撫でる。

部屋は散乱しており、怪しい黒服が一人死んでいる。

「…どういう、事だ?」

先程の体験は夢とは思えないし、寝ぼけてこんな所に迷うわけもない…つまりは創造主がこんな状態にしたのか、この部屋を漁っていた黒服を創造主が殺したのか。

うまく働かない頭でそこまで考えて、慣れ親しんだ波動にルーチェは視線を向ける。

部屋の奥に作られた機械に備えられた試験管が、妹のルイセと似た所のある波動を放っているのを見ながら、ルーチェはまた意識を手放した。











兄がローランディア城の母の研究室…それも賊らしき者と共に倒れているという通報が兵士からもたらされた時、ルイセの機嫌は悪かった。

ルイセに限った事ではなくサンドラもだったが。

せっかくのルーチェが離れを出た記念とも言うべき、久方ぶりの親子揃っての夕食であったというのに、肝心の義兄が居なかった事が母と娘の機嫌を急激に悪化させたのだ。

ティピなどは愚痴を零しながら触らぬ神にたたり無しとどこかへ消えたほどである…とは言っても、本人はうまくやっているつもりなのだろうが、見た目には全く怖くないのだが。

兄の所に入り浸っていたせいで、巨大なぬいぐるみなどを除けば余り物のない自室の大き目の鏡台の前で、ルイセは自宅の自室であるからか無防備にも、シックな色合いのグレーのチェック柄のキャミソール姿、有体に言えば下着姿のままで髪を手入れしていた。

残念ながらというべきか、それをとがめる者も無く、癖の無い、春に咲く牡丹の花びらと同じ色の髪を丁寧に拭いている。

そんな時に、兵士からの連絡を盗み聞きしていたティピから報告があった。

初めて家から出たという事もあり、帰りが遅いのを心配していてもいたルイセは顔を真っ青にして駆け出した。

急ぎ廊下を走り母の所へ行くと、寝台にルーチェが寝かされていた。

枕元ではティピが様子を見ていて、何か変だと唸っている。

顔色は普段と変わらずいつも通り、一見呼吸をしていないように見える。

それでも倒れていたと聞いていたルイセは兄の前髪に手をやり、整いすぎた…作り物のようにも見える顔を心配そうに見つめた。

「お母さん。お兄ちゃん大丈夫なの?」

「怪我はありません…珍しく、疲労が少しありますが」

サンドラはルイセと違い、宮廷にあがる時に来ている服を着用していた。

鏡の前でおかしな点が無いか確認し、寝台に眠るルーチェを見てからルイセの肩に手を置いた。

「私はこれから研究室に向かいます。流石に賊に荒らされたまま置いておくわけにもいきません」

早急に対応しておかないと何か不味い事になるかもしれない。

それは避けておくべきだし、後日城の警備体制の不備などを指摘しなければならない。

また仕事が忙しくなりそうだとサンドラはため息をついた。

「うん…お母さん、いってらっしゃい」

「ええ。ルーチェを頼みます」

休めといってもどうせ聞かないだろうと、娘にルーチェを頼んでからサンドラは城へ向かった。

扉が閉められ、城へ馬車で向かうのだろう…すぐに馬が道を蹴る音が微かに聞こえた。

それが遠ざかっていくのと共に、ルーチェの瞼が開かれる。

「…ルイセにティピか」

「お兄ちゃん。目が覚めたの? 体は大丈夫?」

「何がルイセにティピか、よ。 アンタねぇ…ルイセちゃんに心配かけたんだからほかにいう事があるでしょうがっ!!」

「ああ」

胸を撫で下ろし安堵する妹と悪態をつくティピを見る。

また知らない部屋ではあったが、二人がいるので気にならない…多分、時刻はまだ夜だろうと、見当をつけた。

自分が妹に髪を撫でられるなんて、変な事だなと思いながら。

「すまない。心配をかけた」

「ううん…そんなことないよ」

「そうよ。もっと反省しなさい」

全く反対の返答を返す二人にルーチェの顔に苦笑が広がる。

すぐに表情を消した。

ルイセはいつもならこのまま話を聞くなりしてもっと相手をしてくれる兄がそんな顔をしたのに違和感を感じた。

「悪いが、少し眠る」

「う、うん。初めて外に出て、お兄ちゃんも疲れてるよね」

「…ああ。お前も休んで…そうだな。悪いが明日、起こしにきてくれないか?」

「うんっいいよ。おやすみなさい」

「ったく。明日は勝手にうろつくんじゃないわよ」

「わかったよ。ティピ」

ルーチェは瞼を閉じた。

暫く寝顔を眺めてからルイセは立ち上がり、音を立てないように部屋を後にした。

この部屋に来た時とは一転して機嫌のよさそうなルイセにティピは話しかける。

「よかったわね。あいつ、大丈夫そうじゃない」

「うんっ」

ティピは笑顔で返事を返すルイセの肩に停まった。

「しっかし、どうしてマスターの研究室にいたのかしら? 明日になったらそこの所だけでもちゃんと吐かせ無いと駄目ね」

「も〜ティピったら。あんまりお兄ちゃん困らせちゃだめだよ?」

自分の肩に座ってうまくバランスをとりながら、腕を組んでうんうん頷いているティピにルイセは笑い、ティピは自分の体に触れるルイセの肌と生地の感触にまた唸った。

「ルイセちゃんは甘いっ!! アイツにはビシッといっとかないと絶対、調子に乗るわよ!!」

「そんなこと無いと思うけど…」

不満そうにするルイセに言おうかどうか迷ったが、ティピは結局言っておくことにする。

自分はこの兄妹のお目付け役なのだからと一人納得しながら。

「ところでさ…ちょっと生地薄くない?」

え?とルイセは最初何の事かわからず聞き返すが、ティピの視線が自分の服装に向かっているのを見て、合点してまた笑顔になる。

「えへっ、かわいいでしょ。ネグリジェにするかちょっと迷ったんだけど、今日はちょっと大人っぽい色のキャミソールにしたんだ♪」

嬉しそうにティピに見せるルイセに、ティピは唸った。

確かにティピの目にもかわいいとは思ったが、微妙な透け具合がやはり気になるティピであった。

「…ルイセちゃんにはもうちょっと大人しいのがお似合いよ」

「うぅ〜、お兄ちゃんだったら似合うって言ってくれるもん」

「あいつに見せていいわけないでしょうがっ…!」

本気で言っているかはともかく、二人はそんなやり取りをしながら離れていった。

ルーチェはそれらを聞き取りながら、明日のいいわけと今後の事を少し考える。

創造主に会ったことは言わない。

信じられないということは無いだろうが、どう見ても化け物にしか見えない創造主から生まれたなどと言えば少しはショックを受けるだろうし…何より、嫌な予感がするのだ。

あの異形の元に連れて行かれた時の感覚は、創造主と創造物の関係からか心地よいものだったが…あの異形は間違いなく危険だ。

自分が解放されたのは、あのルイセと似た波動を浴びたからだろうと予測がつく。

なら、今自分がこうしているのはルイセいるからではないのか。

そして、ルイセの存在を異形は快く思っていないのではないだろうか。

異形から得た知識は貴重であるし、異形の手元にいるのは創造物である自分にとって幸福であるようだが…

「その考え如何によっては…」

そこで迷いが生じている自分にルーチェはやはりもう少し情報と時間の必要性を感じた。

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