第九十九話 一斉攻撃


小さな手でさらに小さな手を引いて走っていた。
短く息をとぎらせながらも、足だけは前へ前へと伸ばして駆けて行く。
ローザリアの中でも人通りのない、建物と建物の間に生まれた僅かな隙間の道路。
昼間なのに薄暗いそこをグロウはルイセの手を引き、併走するカーマインを時折気にしながら走っていた。
後ろから迫り来るのは、凶暴な犬の吐息と爪で地面をつかまえては蹴り出す音。
それが近くなるたびにグロウはルイセの手を強く握った。

「カーマイン。ルイセ、もうすぐだ。ここを抜ければ誰か大人がいるから」

「もうだめ、はしれなあッ」

「うわッ!」

「二人とも、ひぇ!」

ルイセが転ぶと同時にグロウの手がひっぱられて尻餅をつくように転んだ。
立ち止まり駆け寄りしゃがみこんだカーマインと転んだ二人の上を掠めるように大型犬がまたいで跳んでいった。
飛びかかった所で二人が転んでしまった為だろう。
目標を一瞬だけ見失い着地すると、唸り声を上げながらゆっくりと振り返る。

「うぅ……グロウおにいちゃん」

縋るように腕を掴んできた手を取ると、グロウは幼い顔に思いつめた表情を浮かべてカーマインとルイセに小さな声で伝えた。
その内容に無言で首を横に振ってきたルイセに念を押して、カーマインには頼んだぞと伝える。
念を押されようと納得しなかったルイセであったが、興奮しきった犬は待ってはくれなかった。
獲物を捕らえるべく身をひくくしていつでも飛びかかれる格好であり、グロウが立ち上がると同時に地面を蹴った。

「我が魔力よ。我が力となりて敵を撃て。マジックアロー!」

早口でまくし立て、飛びかかってきた犬の鼻っ面にグロウの放ったマジックアローが弾けた。
甲高い悲鳴を挙げて倒れこんだ犬を確認する間もなく、グロウはルイセの手を引いてカーマインを走らせた。

「はやく、いまのうち!」

「う、うん」

「グロウおにいちゃん!」

習いたてのマジックアローの威力はほとんど皆無で、目くらまし程度の意味しかなかった。
二人を先に逃がしたグロウの思ったとおり、一時的な視力低下を脱した犬は興奮を怒りに変えて吼えた。
自分とさほど変わらない大きさの、後ろ足で立てばそれ以上の大きさの犬に吼えられ、グロウがビクリと体を震わせる。
涙が目元に浮かび手足が震えても唇を噛んで、耐えた。

「行かせるもんか。ルイセは僕が守るんだ!」

カーマインに手を引かれ走り去ろうとするルイセの背中を後ろ目にみつつ、もう一度マジックアローを放つために両手に魔力を込める。
犬にもそれが解ったのか今度は迂闊に飛びかかってくるような事はなかった。
じりじりと間合いを計るように、ある意味では値踏みをするように移動をする。
そして飛びかかってくる犬。
グロウの記憶はそこからは少し曖昧になっていた。
犬に大怪我を負わされたせいか、必死にルイセを守ろうとしていたせいか。
ただぽっかりと空いた記憶の後で鮮明に覚えている光景もあった。

「泣かないでルイセ、もう大丈夫だから。大丈夫だから」

やっとの思いでたどり着いた家。
そこでは凶暴な犬から開放された安心感からか、カーマインにあやされながら大泣きしているルイセがいた。
グロウが戻ってきた事にも気付かず、カーマインに抱かれるようにして泣いていた。
その時は守れたのだとほっとしたものだった。
単純に自分が凶暴な犬からルイセを守ったのだと。
本当にルイセを守ったのは、怖くないもう大丈夫だと安心させ続けたカーマインだとも気付かずに。
そしてその日を境に、グロウとカーマインの位置が逆転した。





降りていたまぶたを開ける前から、辺りが明るく昼である事がわかった。
寝汗で衣服は肌に張り付き、体全体が粘着質を帯びたように気持ちが悪い。
ベッドから体を起こすと、グロウは乱暴に上着を剥ぎ取り脱ぎ捨ててから一度大きく息を吐いた。

「嫌な夢みちまったな」

夢を見た原因は幼児退行を起こしたルイセであるのは間違いない。
そのルイセはと言えば、今頃はカーマインたちに魔法学院へと連れられて適切な処置を施されている頃である。
今回ばかりは、サンドラから受けた王都外出禁止令が逆にありがたかった。
何年も前になくしたはずの笑顔を今さら向けられても、なにもできない。
仮にずっとこのままだったらと思ってしまえば自分で自分の首を絞めるようなものであった。

「グロウ様、少しよろしいでしょうか?」

「なんだユニ……いたのか。いるならそう言え、驚くだろ」

「はい、申し訳ありません」

本来大人しい性格のユニであるが、どこか俯き加減で暗い顔をしていた。
具合でも悪いのかと手を伸ばせば、遠ざかるようにふわりと手をかわされてしまう。
かわされてしまった手を所在なさげに見つめた後、グロウは頭を屈めて下から覗き込むようにユニを見た。

「ユニ、言いたい事があるなら言え。お前にそう言う態度をとって欲しくない。正直、辛い」

「では誤魔化さず、はぐらかさずお答えください。グロウ様は、記憶喪失の間の事を全部覚えてらっしゃいますね?」

念を押してからのユニの言葉に、グロウは自分が目を丸くしているのがわかった。
あまり答えたくはない事ではあったが、ユニの様子から嘘はつけなかった。

「ああ、全部憶えている。最初は本当に忘れてたが、直ぐに全部思い出していた」

「忘れていた振りをしていたのは、誰の為ですか?」

さすがに口をつぐんでしまったグロウを見て、ユニは問いかけ方を変えた。

「ルイセ様の為ですか? グロウ様が本当にお好きな方は、ルイセ様なのですか?!」

尋ねながら動揺しているのか、最後の方は詰問するような言い方であった。
同時にポロポロと涙を零しながら、消えそうな声でもう一度答えてくださいとユニが言った。
グロウがルイセの事を好きだった事が不満なのではない。
そうだとして、今までグロウからかけられた言葉、笑顔、全てが嘘だったのかが不安なのだ。
好かれていなくとも、コレまでのことがすべて嘘だと思いたくなかったのだ。

「そうだ。確かに俺はルイセの事が好きだった。物心ついたころからずっと」

そこで一度言葉を切ると、グロウは今度は逃がさないようにしっかりとユニを捕まえ胸元へと抱き寄せる。

「ルイセの関わる世界、友達や好きな人を守る為ならどんなに傷ついても平気だった。ルイセがカーマインと幸せになったら、ローランディアから消えるつもりでさえいた」

だからグロウは、ローランディアでの地位を何一つ望まなかった。
ルイセが好きなのはカーマインであったから、カーマインの出世街道の邪魔にならないように影に徹した。
かつてゼノスが指摘した日陰と言う表現は、むしろ自分から望んでなったことなのだ。

「ルイセには誰よりも幸せになって欲しい。だけど俺が俺自身の手で幸せにしてやりたいと思うのはお前やレティシアだ。幸せにしてやりたい女と、幸せになってほしい女は違うんだ。だからお前やレティシアに投げかけた言葉に嘘偽りの欠片もない」

「本当ですか? 私はグロウ様を好きでいてよろしいのですか? グロウ様は私を好きでいてくれるのですか?」

「お前な、俺との約束を忘れるな。俺が何処へ行こうと、お前だけは連れて行く。例えお前が嫌がってもな」

その台詞を聞いたのは、三度目である。
なのに一番心に響いたのは三度目の今であった。
体中から力が抜けたようにホッとしながらも、ユニは何かがきれてしまったように泣き出していた。
安心しすぎてわけがわからなくなり、グロウにしがみついて思い切り大声で泣き始めた。

「すみません、すみません。私、自分の事ばかり考えて。グロウ様にだって辛いと思うことだって」

わんわんと泣くユニの頭をなでつけながら、グロウの方も短く謝っていた。
ルイセの事で動揺して、ユニがそこまで思いつめていると気付きもしなかったのだ。
好きなだけ泣かせてやろうと深く抱きしめ小さな背中を何度も叩いてやる。
長く止まる事のなかったユニの涙が枯れ始め、何度か鼻を鳴らしているうちにユニが恥ずかしそうに上を見上げてきた。
まるで赤子のように泣き喚いたのだから相当恥ずかしいのだろうが、はにかみ笑おうとしたところでそれは起きた。
ローザリアの街全体が揺れたのではと思うような轟音が響き、ユニを抱えたままグロウが窓際へと駆け寄る。
爆煙が巻き起こっているのは城門付近で、通りを歩いていた人たちも何事かと城門方面へと振り向いていた。

「一体なにが。ユニ、お袋と連絡はとれるか?」

「あ、はい。少々お待ちください……アレ? マスター?」

ユニの様子から結果を聞くまでもなく、サンドラと連絡が取れないことは見て取れた。
それが解るや否や一度脱ぎ捨てた上着を手に取り、グロウはユニを連れて部屋を飛び出していた。
上着を身につけながら階段を駆け下り、玄関から家の前の通りへと飛び出し、適当な人間を捕まえ問いただす。

「おい、一体何があった? 何か知らないか?!」

「そんな事は衛兵にでも聞いてくれ。妙な奴らが突然城門を破って入り込んできたんだ。早く逃げないと殺されちまう!」

明らかな怯えを見せた男は言うだけ言うとグロウの手を振り払い城の方へと逃げていってしまう。
中途半端な情報が様々な憶測を生み出すが、王都の城門を破るなど正気の沙汰ではない。

「グロウ様、ここは一度マスターの元へ行きましょう。お体のこともありますし、今のグロウ様には戦う為の武器もありません!」

すぐさま城門へと向けて走り出そうとしたグロウの前へと立ちふさがりながらユニがまくし立てた。
自分の体の事も、武器がない事もすっかり忘れていたグロウであったが、ユニの言う通りにはできなかった。
先ほどの男は殺されると言ったのだ。
バーンシュタインとの戦争が終わったばかりの今、ローランディアを襲う相手といえば一つしかない。
今すぐに向かえばたくさんと言えなくともいくつかの命は救えるはずなのだ。
何よりも、罪のない命が無残にも消える事でルイセが悲しむような事はあってはならない。

「ユニ、お前なら俺が何を選ぶか解るだろう?」

「だからこそです。グロウ様は自身を犠牲にする事に慣れ過ぎています。それが一番怖いんです。いつか本当に……怖いんです。すみません、また私自分の事ばかり。グロウ様がお決めになってください」

「わるいな。俺はやっぱり行く方を選ぶ」

「はい、解っています。私が一番グロウ様の事を理解していますから」

今度こそグロウはユニを連れて破られた城門へと向けて走り出した。
逃げ惑う人の波はグロウの行く手を阻み、時に罵声と共に突き飛ばされる事もあった。
突き飛ばされただけで痛みを覚える体にムチを打ち走ると、ふいに人の波が途切れた。
大波が訪れる前の静かな一瞬のように。
グロウはそこで立ち止まり身構えた瞬間、真っ白な大波たちが現れた。

「見たところ兵士ではないが、逃げ遅れた市民か?」

「どちらでも同じだ。ローランディアは力をつけ過ぎた。奴らのいぬまに破壊する」

現れたゲヴェルの私兵は五人だけでユングの姿は見えない。
だが逆にそれだけの人数で城門を破ってきたらしく、これまでの私兵とは何かが違った。

「ユニ、下がってお袋に状況を伝えると同時に兵士をよこさせてくれ。それまでは何とか持ちこたえてみる」

ユニが頷きながらさがったのを確認すると、グロウはおもむろに右手を掲げた。
集中するように呼吸を細くゆっくりと遅らせ掲げた右手に魔力を集めていく。
抵抗を見せるのかとゲヴェルの私兵たちが構えを見せる前でグロウは剣の名を呼んだ。

「レギンレイヴ!」

グロウの右手から生まれた光が輝きを強め、弾けた。
辺りを包み込むような閃光がほとばしるが、閃光がおさまった直後の右手を見てグロウが舌をうった。
望んだ姿どころか、重み一つ右手の中には生まれていなかったのだ。
ヴェンツェルと相対してから何度も試みたが、やはり実際に敵を前にしても無理なようであった。

「こけおどしか。つまらん」

言葉通りの溜息をつきながらゲヴェルの私兵の一人が剣を片手にグロウへと駆けた。
無造作になぎ払われた一撃を屈んで避けると、口もとだけ見えるゲヴェルの私兵の顔が驚くのが解った。
魔法使いだと思っていた相手がいとも簡単に剣閃をかわしたように見えたからだろう。
実際それほど余裕のある避け方でもなかったのだが、グロウはこれ以上ないチャンスにさらに一歩距離を縮めた。
鎧で固められた体に素手で攻撃を当てられる場所は自然と決まってくる。
唯一の表情の変化が見えた覆面の隙間に拳を突き入れ、相手がよろめく暇もなく手のひらを開いて唱える。

「マジックアロー!」

初級魔法とはいえ、至近距離で顔面に放たれたそれを受けゲヴェルの私兵が耳に耐えない悲鳴を挙げて倒れこんだ。
だがグロウの本当の狙いは相手を倒す事などではなかった。
ゲヴェルの私兵と一緒に地面に落ちていく剣の柄を素早く掴み取り、刃を翻してゲヴェルの私兵の胸に貫き通す。
突き立てられた刃に呻いた直後、ゲヴェルの私兵の体が砂のようにボロボロと崩れていった。

「グロウ様、お怪我はありませんか?!」

「ああ、大丈夫だ。半分は狙い通りだ。余計にピンチを招いちまったがな」

言葉通り、ただの一般市民ではないと悟った残りの四人が示し合わせたように四方へと距離を開け始めた。
じりじりと移動し、グロウを中心にして四隅を形成する位置にまで移動した。

「城や市民が混乱に陥っている隙に一気に攻め込みたいのでな。貴様一人に時間を取られるわけにはいかない」

「四人がかりが卑怯とは言わねえよ。俺だって倍以上味方がいればそうする」

「死を間近にしてよく無駄口がたたけるものだ」

感心か呆れの言葉を残し、四人が同時に地面を蹴っていた。
四方からの同時攻撃を防げる数はどう考えても一つで、残りの三つの刃がグロウの命を切り裂いていく。
だからグロウはどの攻撃も受け止めない事を選択し、地面にファイヤーボールをたたきつけた。
自分自身でさえも焼き尽くそうとする炎の中で、同時攻撃から抜け出すために四方の隙間を目指し息を止めて走る。
四人が同じ目標に対して刃を振らなければ同時攻撃の意味はなく、炎と言う身を焦がす煙幕の中ならと思っていたグロウの読みは甘かった。
炎の中を駆けて抜け出そうとした瞬間、目の前にゲヴェルの私兵の一人が現れた。

「よく考えたと言いたいところだが、我らの能力を侮りすぎたな。たかが炎一つで目標を見失うとでも思ったか」

振るわれた剣の刃から身をかわすも、とめ続けていた息の限界も近くかわしきれなかった。
右肩の前あたりの肉が裂け血が噴出す。
肩膝を付きながらも、すぐさま剣を右から左に握りなおしたグロウであるがゲヴェルの私兵は止めの前に背を向けていた。

「どういう、つもりだ?」

「我らの剣の名はフルンチング、猛毒を染み込ませて打たれた剣。かすり傷一つで致命傷だ」

ぐらりとグロウの頭部がゆり落ち、ゲヴェルの私兵の言う猛毒のまわりが速いことを思わせた。
自分達の剣の毒の威力を知るがゆえか、グロウの最後を見届ける事もせずにゲヴェルの私兵たちは先を歩き出した。

「待て」

その足を止めたのは、グロウの制止の言葉であった。
奪ったフルンチングを杖にしてなんとか立ち上がり、ゲヴェルの私兵たちを止める。

「面倒だ、殺してやれ」

息も絶え絶えで今にも倒れこみそうなグロウを見て、ゴミでも捨てるような雰囲気で一人が言い放った。
ゲヴェルの私兵の一人がゆっくりとグロウへと歩み寄り、猛毒の剣であるフルンチングを振り上げる。
一刀のもとに切り捨てる為に大きく振りかぶられたそれがふるわれようとした瞬間、フルンチングが地面へと落ちた。
代わりにゲヴェルの私兵の腹部に突き刺さるのは、グロウが杖として使っていたはずのフルンチングであった。

「き、さま……なぜ」

「手前らの毒にはかなり世話になってな。おかげさまで毒には少し強いんだよ。やっかいな剣持ち出しやがって、手前で味わってみろってんだ」

足蹴にしてフルンチングを腹部から抜き去ると、すぐに杖代わりに舞い戻らせる。
耐性があるとは言っても、まったく効いていないわけでもなかったのだ。
すぐさま解毒の魔法を使いたいものの、そんな暇はとてもあるようには思えなかった。 二度も不意をつかれ、二人も戦力を失ったゲヴェルの私兵たちは目の色を変え始めていたからだ。

「もう手加減は抜きだ。姑息な手を考える暇もない一瞬で殺してやろう」

「四人がかりで斬りかかってきたのはどっちだよ。やる事がいちいち温いんだよ」

「くっ、言わせておけば」

残りの三人が同時にフルンチングを握り締めた瞬間、一本のマジックアローが地面に突き刺さった。
グロウを含めた幾つ者視線がそちらへと向かうと、兵士を引き連れたサンドラの姿がそこにあった。
マジックアローを放った手とは逆の手を上へとあげており、合図一つで魔法と矢が雨あられと降り注ぎ、兵士たちが突撃の構えを見せていた。

「グロウ様、マスターです。どうやら間に合ったみたいです」

「遅えよ。さてと、今度はこっちが四人がかり、それ以上で斬りかかる番だな。覚悟は言いか、ゲヴェルのクソども」

「退くぞ!」

それを聞いた途端にグロウが地面を蹴り、サンドラが合図と共に突撃の命を下した。

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