グロウが意識を取り戻した時、そこは意識を失う前とは打って変わって静かな部屋であった。 カーテンの隙間から漏れて部屋へと入り込んでくる光はやわらかく、グロウの体をベッドのシーツと一緒に温かく包み込んでくれる。 光が漏れてくる原因は開けられた窓から入り込んでくる風のようであり、それにのって小鳥のさえずりまでも聞こえてきた。 風の匂いが故郷とは異なり、バーンシュタイン城のどこかの部屋かと思いつく。 バーンシュタインと言う単語を機に働き出した脳が最初に思い浮かべたのはたった一つの言葉であった。 「弱え」 持ち上げた腕を額の上に乗せて瞳を隠すと、同じ言葉を再度呟く。 ルイセに向けられた凶刃を防ぐでも弾くでもなく、我が身で受けるしかなかった。 それ以前にリシャールとカーマインの立ちさばきについていくのがやっと……ついていく事さえできなかった。 「よろしいのではないですか?」 迂闊としか言い様がなく、グロウはユニが直ぐそばに控えていた事にも気づいていなかった。 考えても見れば重傷者のそばに誰かいる事ぐらい当たり前である。 「勘違いするなよ、ユニ。弱いって言ってるのはカーマインの事だからな。いつまで経っても俺が尻拭いしてやらなきゃ何にも出来ねえ」 「グロウ様」 たしなめる様な声に、目の前によってきたユニに引き寄せられる。 「今ここには私とグロウ様しかいません。だから本当のご自分をさらしてください。私だけには何も隠さず、本当のグロウ様をお見せください」 サンドラから向けられたと錯覚するような、慈愛に満ちたユニの微笑であった。 常にあることだけを見つめて揺らぐ事のなかったグロウの瞳が揺れる。 長い年月の間ずっと心を縛り続けていた鎖が僅かな緩みを見せた。 「俺はあるものが欲しいんだ。ずっとずっと昔から。だけど手にしちゃいけない、許されない。だから自分や周りに嘘をついて誤魔化して……ユニ、俺をた…………」 完全に鎖を取り払う事は敵わず、グロウの口は逡巡の後に閉ざされてしまう。 「はい、よくできました。本日はここまでといたしましょう、グロウ様」 ユニは無理をさせるわけでもなく、少しだけでも本音を出す事のできたご褒美にそっと頬にキスを寄せる。 グロウは皆が言うほど強くなどないのだ。 行動に一切の迷いはなく、決して弱音を吐かず、誰もが理想とする前だけを見つめる姿は確かにあった。 だがその実情は、常に心を一つに決め付け、心の痛みを叫ぶ口を縫いつけ、他人には強く見えてしまう足場をつくる事なのだ。 確かにそれである程度の強さを身につけることはできるが、反面誰からも理解されることはない。 そして今回、積み上げた強さよりも上の領域へと足を踏み入れてしまった。 限界を超えた結果としてベッドに横たわっている姿がここにあるのだとユニは気づいていた。 「グロウ様が記憶を失くされている間、私は約束いたしました。グロウ様が忘れてしまっているのでもう一度その約束をいたします」 「ここではないほかの場所に俺が行こうとしても、お前はついてくる。ずっと俺のそばにって奴か?」 「その通りです。私は何処へでも、例えグロウ様が嫌がったとして、も……」 何時ものグロウの笑みで先に言葉を言われてしまい、肯定する言葉を続けたユニは妙な事に気づいた。 妙な事所ではなくおかしい。 記憶喪失であった間の記憶を忘れてしまっているはずのグロウから、何故その言葉が出てくるのか。 「その時初めて俺はお前に好きって言ったよな。嬉しかった。だから俺だってお前が嫌だって言っても、お前だけは連れて行くからな。覚悟しろよ?」 「ちょっと待ってください。どうして、いつ記憶喪失の間の記憶を取り戻されたのですか?!」 「何時だっていいだろ。どうするんだよ、俺はお前が嫌がっても連れて行くって言ってるんだよ。答えは?」 やっぱりもう少し本音を吐かせた方が良かったと思いながら、ユニはそっぽを向いて言い放った。 「言うまでもありません!」 むくれてしまったユニを眺めながら、グロウは両手を頭と枕の間に滑り込ませる。 リシャールに剣を差し込まれた腹はまだ熱を持ったまま痛んでいるが、胸のつかえが楽になった事の方が大きかった。 弱音を吐ける相手がいる事がどんなに嬉しい事か初めて知った。 ふくれ続けるユニをからかっていると、ドアが数回ノックされ、ユニが答えた。 ドアを開けて駆け込んできたのはレティシアであり、ベッドに飛び込もうかという勢いでグロウに抱きついてきた。 「グロウさん、お怪我をされたと聞いて無理を言ってきてしまいました。大丈夫ですか、何かして欲しい事はありますか? なんでも言ってください!」 「レ、レティシア様……グロウ様が」 青い顔をしてグロウを指差すユニに気づいて、抱きしめている為数センチ先にあるグロウの顔を見た。 まさに断末魔といった顔をしているグロウは、通常の痛みを通り越した痛みに叫び声も出せないほどであった。 寝転がっているグロウにレティシアが抱きついた為、かなりの負荷がグロウに掛かっているのだ。 レティシアが自分の失敗を悟ってパッと離れてすぐにグロウの叫び声がこだまする。 「ユニちゃん、どうしましょう?!」 「どうしましょうって、レティシア様最近過激になりすぎです。以前の慎ましやかさは何処へいってしまわれたのですか?!」 「私はなにも変らず淑女のつもりです。変ったのはグロウさんに愛され、私も愛する所だけですわ」 そう言って朱に染まった頬に両手を添える姿はある意味淑女には違いないが、どちらがより愛されているか言い合う二人は痛みを訴えるグロウをほったらかしである。 幸いにも重病人であるグロウの主治医とサンドラが叫び声を聞いてすっ飛んできたおかげで事なきを得たが、レティシアもユニもしっかりと怒られていた。 サンドラもバーンシュタインへと足を踏み入れていたようで、サンドラから経緯を聞く事ができた。 また聞きではあるが、グロウが意識を失ってからの事の顛末、エリオットがリシャールを受け入れた事まで。 そして弟同然のエリオットの王位奪還が成功し祝いの言葉をと口八丁で、レティシアはアルカディウス王から出国の許可を貰った事。 ただしサンドラという保護者の同伴を義務付けられ、サンドラもバーンシュタインに残ったグロウの容態を知るのに丁度良いからということらしい。 「今日の昼過ぎにはカーマインたちもこちらに来る予定です。エリオット王の簡単なお披露目がありますから。姫も一応はローランディア代表のようなものなのですが……」 「申し訳ありません。グロウさんが大怪我をされたと聞いて、いてもたってもいられず」 すっかりしょぼくれてしまったレティシアを前に、サンドラはかるい溜息をついた。 一国の姫が息子の一人を見初めてくれたのは嬉しいが、少々レティシアがグロウに毒されすぎである。 「はあ、これでは仕事にはなりそうもありませんね。私はもう少し主治医の方にお話を聞いてから、挨拶周りにいきます。レティシア姫はエリオット王のお披露目までは自由にしていてください。ただし、お披露目が始まったらローランディアの姫らしくしてください」 「ありがとうございます、サンドラ様。お披露目まではグロウさんとご一緒していてよろしいのですね?」 都合の良い解釈に頭を痛めながらも、サンドラは出来るだけグロウに安静にしているように念を押して出て行った。 「さあ、グロウさん。なんでもおっしゃってください!」 「なんでもと言われてもな……」 改まってそう言われても、そうそう思いつく事ではない。 自分で身動きは殆どできないし、身をよじろうとするだけでも結構な痛みがはしるのだ。 こっそりまた布団の中でキュアをかけ続けているものの、何ができるのか、何がしてもらえるのか。 さすがにレティシアの気合の入れようから何もないとは言えない。 「んじゃ、散歩」 「却下です」 とりあえず思いついた言葉を口から出してみたが、即座に睨みを効かせたユニに止められる。 「馬鹿も休み休みおっしゃって下さい。グロウ様は一応意識不明の重体だったんですよ?」 「俺もそう思うけどよ……レティシアもういないぞ」 グロウの指摘通り、レティシアは動けないグロウを散歩させるための道具を探しに出かけていた。 普段グロウのために出来る事などほとんどないのだから、何かしたくて仕方がないのだろう。 息をきらせて車椅子を借りてきたレティシアが戻ってきた時には、ユニが折れるしかなかった。 当然の事であったのだが、忘れていた。 男のグロウを車椅子に乗せることが一仕事である事や、少し動かすたびにグロウがうめき声を上げる事がではない。 ここがバーンシュタイン城であり、レティシアもグロウ、ユニも右も左もわからないという事がである。 病室として当てられた部屋をでたものの、どちらへ行けばいいのか。 散歩なのだから何処でも良いのだが、出来るのなら庭園や日差しの良い廊下ぐらいは選んで行きたいものである。 「なんだかこうも見慣れない廊下ばかりですと、元のお部屋に帰られるかも不安になってきますわ」 「一応憶えているつもりですけれど、自信はありません」 「戻りたい時は、誰かてきとうな奴つかまえて聞けばいいだろ」 レティシアに車椅子を押させながらてきとうに城内を進んでいると、さすがにすれ違う者たちが誰だろうと言う視線をよこしてくる。 中にはレティシアの顔を知っている者もいたようで、なおさらその場合にはグロウに誰だろうと言う視線が飛ぶ。 これがローランディア城内であればそんな視線を嫌がるグロウなのに、何故かここでは気にしている様子はない。 むしろ興味深そうに辺りを見渡す事さえあった。 「グロウさん、何処か目的地でもきめます? それとも廊下を歩くだけでいいですか?」 レティシアに問われ、グロウが考え込んですぐに向かいからとある人物が歩み寄ってきた。 地位こそ多少の変化はあったものの、変らず威風堂々とした姿で歩くリシャールである。 「あら、リシャール様」 「お前達、か……」 軽く声を発したレティシアとは違い、戸惑うような声がリシャールから漏れた。 車椅子にのるグロウを見れば、当たり前の反応であった。 グロウの傷はリシャールがつけたのだから。 「失礼する」 「待てよ」 視線を合わせないまま一礼して通り過ぎようとしたリシャールを、グロウが止める。 「日向ぼっこできるような場所に連れてってくれ」 何を言い出すかと思えば、継続してインペリアル・ナイト・マスターの座についている人物への言葉ではない。 下手にしか出られないことを見越したような有無を言わさないグロウの言葉に、躊躇しながらリシャールが頷いた。 グロウの傷を誰がつけたか詳しく聞いていなかったレティシアはともかく、連れて行かれる間ユニははらはらしっぱなしであった。 廊下を歩み幾度か角を曲がっていくと、バーンシュタイン城内の庭園へと出ることが出来た。 さすがに王宮内であるだけあって、手入れの行き届き日差しを受けて庭木が新緑に眩しく輝いていた。 「では、今度こそ失礼する」 「だから、待てって。レティシア、ユニ。少しの間リシャールと二人にしてくれ」 「え、ですが……」 逡巡したユニにはもう一度頼み込み、今度はリシャールに車椅子を押させて庭園の奥へとグロウとリシャールは入っていった。 敷き詰められた芝生を裂く様に敷き詰められた石畳の上を二人が進む。 リシャールが終始口をつぐむ為、グロウから話しかけるまで会話は一切なかった。 「お前さ、なんで目をそらすわけ?」 車椅子を押すリシャールへと振り向きながら率直な言葉を投げかけると、さらに視線をそらされた。 「どうせ甘いカーマインとお子様なエリオットが臭い台詞で、許すたらなんたら言ったんだろ」 「だが許されない事もある。お前は運よく生き残ったに過ぎない。弱い私のせいで、無駄に命を散らしていった兵もいるのだ。ゲヴェルに操られていた事など、言い訳にすらならん」 エリオットから言われた通り、インペリアル・ナイト・マスターとしての本分は全うする。 もちろん二度とゲヴェルの意志になど負けるつもりもない。 ただわからないのは、自分の弱さが原因で死んでいった者やその家族たちにはどうしたらいいのかだ。 許されないのは解っている。 だったらどういう態度をとればよいのか、考えている時間が何時まであるさえわかりもしない。 「お前さ。目をそらすぐらいなら、牢屋にでも入ってろよ」 頭を抱え込んで今にも座り込んでしまいそうなリシャールをさらに突き放した言葉がグロウより放たれる。 「お前の行動は中途半端なんだよ。許される、許されないじゃねえ。自分の罪を見て苦しみたくなけりゃ、牢屋に入って一生壁でも見てろ。罪の償いをしたけりゃ苦しくても、するべきことをしろよ」 「私は……何度でも立ち上がると決めたのだ。だから成すべきことは成す」 「だったら目をそらすな。誰かなんか言ってきたら、正面から言い返せ。とやかく言われる筋合いはねえってな。お前の生き方を決めるのはお前だ」 もちろんお前を恨むと決めた奴の生き方もなと付け加えるのをグロウは忘れなかった。 自分がどう生きるかを決めてよいのは自分だけであり、誰もそれを他人に強要してはならない。 後半には少し嘘があるが、少なくともグロウはそうやって生きてきた。 「随分と我がままで、自分に厳しい生き方だな。お前は、得意そうだが」 「ほっとけ、我がままは得意分野だ」 「一国の姫に甲斐甲斐しくも車椅子を押させる男だからな」 呆れるように言いながら笑みを見せたリシャールは、真っ直ぐグロウの瞳を見つめていた。 自らの罪を恐れながらも、真正面から見つめていた。 「あいつがなんかしたいって言ったからいいんだよ。俺は向けられた好意は全部受けて、全力で返す主義だ」 「ならば結婚を申し込まれたらどうするつもりだ?」 「さすがに……少し、困るな。結婚はしてやってもいいが、まわりがな。かっさらっても良いが、居場所がなくなる」 「いっそ、インペリアル・ナイトにでもなってみるか? マスターでも良いぞ? それならば誰も文句は言うまい」 「ナイトはともかくマスターってお前が……」 半分冗談半分真面目な言葉の掛け合いの中で、聞き捨てならない言葉をみつけて止める。 その時自分を真っ直ぐ見つめていたはずの瞳が含んだ色を、グロウが見逃すはずもなかった。 覚悟を決めている瞳は、輝きを薄れさせていた。 「お前、まさか」 「言ったと思うが、私もカーマインと同じ完全体のゲヴェルだ。だが厳密には違う点がある。そう言うことだ」 最後まで言いきられることはない言葉を察するのは容易かった。 「マスターの件はお断りだ。他人のお古に興味はない。責任持ってお前が受け持て」 言いながら腹の傷に触れたグロウは、無理やりこの会話を終わらせた。 少し離れた場所でお喋りをしていたレティシアとユニを呼び寄せ、お茶でも飲もうとリシャールと一緒に移動を始める。 リシャールほどではないだろうが、グロウも自覚が全くというわけではなかったのだ。 回復魔法をかけ続ける体から痛みが減ることはなく、ずっと平行線を走り続けていた。
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