第百九話 ゲヴェルの居城


初めは、本当にただの森だった。
北の方にあるためにやや針葉樹の多い森というだけで、これまでの旅の間に見てきた森となんら変わらなかった。
だがリシャールの案内で森の奥へと、目印となる沼地へと近づくほどに空気が変わり始めていた。
ゲヴェルの波動に敏感なルイセやリシャールに尋ねるまでもない。
ゲヴェルの放つ濃厚な闇の波動が森中を包み込んでいる。

「なんか気持ち悪い、それに風が滑ってるみたいで飛びにくいったらありゃしない」

「確かにな。俺の鼻も早々にいかれちまった。土地は住む人の人柄を表すと言うが、中々嫌な土地になったもんだ」

だるそうに森の中を飛ぶティピが愚痴った後に、ウォレスが皮肉げに言い放った。
元々気配やその場の雰囲気に敏感なウォレスである事から、その影響を受けてしまったのだろう。

「ここはまだ奴のお膝元程度だ。奴の居城に入り込めば、この程度では済むまい。もう直ぐ目印の沼地が見える、気を抜くな」

そう言ったリシャールの声の中に違和感を感じたカーマインは、先頭を歩いていたリシャールに追いつきこっそり声をかける。

「リシャール、なんだか調子が悪そうな声だったんだけど。大丈夫かい?」

「お前は何の影響も受けていないようだな。これほど濃密なゲヴェルの波動は初めての事だ。再び乗っ取られるとは思わないが、少々厄介だ。かと言って遠慮は不要。戦闘になれば迷わず指示を出してもらって構わない」

「下がっていろと言っても聞かないタイプだね。グロウと似てるよ、そう言うところ。ただし、危険だと自分で判断したならちゃんと教えてくれないか。皆を危険にさらすような事だけは許さないよ」

「心得た」

慣れないパーティでの軽い打ち合わせを終えると、再び目印である沼地を目指し歩いた。
ただ歩くと言うだけなのに、いつも以上に疲労の蓄積が早いような感じさえ受けた。
それは間違いなく濃密なゲヴェルの波動のせいなのだろう。
口数が少なくなるまでの時間も早く、見えてきた沼地をリシャールが指差した時には誰ともなく安堵に似た溜息をついていた。

「この沼地を抜ければ、奴の居城の入り口が見えてくる」

「と言う事は、この沼地を抜けるんですか? それはちょっと……ねえ、ルイセちゃん」

「うん、ヒルとか居そう」

自分で呟いた台詞でカーマインにしがみ付いたルイセを見て、リシャールが沼地を背にして振り返った。

「お前達、いつもこの程度の事で文句を言っていたのか? 甘やかされすぎだ。それに沼を迂回すれば時間を食いすぎる。文句を言わずに渡るぞ」

この程度の事と言われムッとしたミーシャとルイセであったが、事実今までがその通りであった。
ここ最近の所では、バーンシュタイン城突入時の秘密通路がある古井戸を降りる時、もう少し前ではオリビエ湖の洞窟の絶壁を渡る時。
いつもその辺りはカーマインは優しく、グロウがからかいながらなんとかしてくれていた。
反論のしようがないため、グッと我慢をしてリシャールの後を追ったカーマインの後をルイセとミーシャが追って沼へと足を踏み入れた。
一度調査でもしていたようで、リシャールが歩いた場所は、靴が半分埋まる程度であった。

「あ〜、すっごい安心した。驚かされた怒りはゲヴェルに、ヒッ!」

沸々とした怒りを溜め込んでいるような事を言っていたミーシャの声が、急に裏返った。
その瞬間、ミーシャの直ぐそばの沼が盛り上がると同時にミーシャは高々と足から持ち上げられてしまう。
沼の中から現れたのはユングであり、ミーシャの足を掴んだまま振り回して沼地の中に叩きつけようとする。
咄嗟のしかも足場の悪い沼地の中ではカーマインもリシャールも素早い動きは不可能であった。

「ウォレスさん、ミーシャをお願いします」

「任せておけ。ミーシャ頭を庇って体を丸めろ!」

意図を察してウォレスが特殊両手剣をユングの腕目掛けて投げつけた。
その結果を見届ける間もなくカーマインは次なる指示を飛ばしていた。

「リシャールはルイセを連れて、向こう岸へ渡ってくれ。ルイセは僕らの援護を、リシャールは護衛を」

「きゃあああ!!」

野太いものが両断された音が聞こえた後で、ユングとミーシャの悲鳴が重なった。
ウォレスの投げつけた特殊両手剣がユングの腕を切断したのはよいが、振り回されていた支点をなくしたことでミーシャが吹き飛ばされたのだ。
真下や真横に投げ出されなかっただけましであるが、今のミーシャにまともに受身を取れという方が無理であった。
ミーシャが投げ飛ばされた上空を見上げたのは一瞬、カーマインはすぐにウォレスへと向かってかけた。

「ウォレスさん、失礼します!」

「気にするな、うおおおお!」

沼地の中で何とか飛び上がったカーマインは、片足をウォレスの鋼鉄の拳に乗せた。
先に謝罪したとおり、ウォレスの腕力を加えて踏み台として跳んだのだ。
そのままミーシャを引き寄せ抱くと、沼の泥水を盛大に跳ねさせながら着地する。

「カーマインたちが沼を出るまでは小規模の魔法で牽制しろ。大きな魔法ではカーマインたちを巻き込む。打ち込むのは近場の敵だけで良い」

「はい、カーマインお兄ちゃんもウォレスさんも急いで。我が魔力よ、我が力となりて敵を撃て。マジックアロー!」

リシャールの指示でルイセがマジックアローを唱えた。
初級魔法と入っても皆既日食の、さらには新のグローシュに目覚めたルイセのマジックアローである。
常人のソウルフォース並みではないかと思うような太い魔力の矢がユングたちを正確に打ち抜いていく。
沼地に隠れるまでは良かったのだが、ユングたちはその沼に巨体の足をとられて満足に動けずに居た。
ユングたちがまごついている間にカーマインたちが沼を渡りきると、カーマインはミーシャを降ろして言った。

「ルイセ、それにミーシャ。ファイヤーボールを一度だけ沼に打ち込んで。その後直ぐに逃げるよ」

「……えっ。あ、はい。なんだっけ、とにかく焼き尽くせファイヤーボール!」

カーマインにお姫様抱っこされた直後と言う事もあって、ミーシャはルイセに恨めしそうに見られながらなんとか詠唱に成功した。
二つのファイヤーボールが沼へと突き刺さると沼の水気が蒸発し、大きく泥を跳ね上げていた。
沼の中に居たユングたちにとって視界が無いに等しくなった事だろう。
先に宣言したとおり、その間にカーマインたちは沼を離れてさらに森の奥へと走っていった。
少しでも先ほどのユングたちから距離を離したかったこともあるが、他にもいないはずがないユングたちを警戒してのことだ。
だがそんな警戒も虚しく、進んだ先でカーマインたちを待ち構え再びユングたちが唸り声を上げていた。

「ちっ、一々倒し手入れは時間の無駄だ。少し遠回りになるが仕方が無い。お前達、私の姿を見失うなよ」

そう言うと、前方に現れたユングたちを避けるようにリシャールが横道の茂みへと飛び込んでいった。

「ルイセ、少しの間ティピを頼む。ウォレスさんは僕と位置を変わってください。僕がしんがりに立ちます」

「了解だ。さっきの沼での奴らが追いついてくる気配は無いが、確実に距離はつめているはずだ」

滑った空気に飛びつかれたティピをルイセが抱いてやり、カーマインは一時ウォレスと位置を変わる。
もう逐一細かい説明もなしにウォレスは了解すると、ミーシャを伴いリシャールを追いかけていった。
少々の茂みは蹴飛ばし、明らかに邪魔な木の枝などは剣で伐採しながらリシャールは、森の中を駆けていった。
時折最後尾のカーマインが振り返り追っ手を確認するが、ユングたちを完全に振り切ったようで姿は全く見えなかった。

「リシャール、大丈夫だ。もう振り切ったみたいだ」

「ふぇ……やっと休憩できる」

「私も、少しでいいから休憩欲しい。これじゃあゲヴェルと戦う前にくたくたに」

カーマインの言葉を聞いてつい腰を下ろそうとしたルイセの腕をリシャールが、ミーシャの腕をウォレスが掴んだ。
まだ安心するのは早いということを示すように、二人の顔つきは一瞬の気も抜いていなかった。
それが正しかったように、後ろではなく真正面の茂みが割れるように押しつぶされた後、ユングが飛び出してきた。

突然のことではあったが、正面と言う事が幸運であった。
そこに居たのはリシャールである。

「どうやら、何かがあるらしいな」

冷静にそう呟いたリシャールが飛び出してきたユングの胸を剣で一突きした。
両腕を上げて飛び出してきたユングは防御の暇もなく、胸を貫かれていき耐えた。
ゆっくりと動かなくなっていくユングが完全に動かなくなってから、ウォレスたちはもう一度あたりに気を配った。
ユングの声は辺り一体に広がっており、四方八方から少しずつそのユングたちが近づいてきているように感じられた。

「どういうこと? 全然振り切ってないじゃない」

「いや、そうじゃねえ。振り切りはした。ただ、ユングたちが俺たちを目指して集まってきてるんだ」

ルイセの手の中で文句を言ったティピの言葉にウォレスが訝しげに答えてきた。
ユングたちが自分達を正確に追ってこられる理由がわからないからだ。
考えても見れば、先ほどの沼でもそうであった。
自分達があそこを通るタイミングがわからなければ、無駄に沼のそこで何時間も待って居なければならない可能性もあったはずだ。
なのにユングは沼のそこで自分達を待ち構え、真上を通り過ぎようとしたミーシャの足を正確に掴んで見せさえした。

「俺たちの中に、目立つ何かがあるのかもしれねえ。奴らだけにわかる、なにかが」

「目印のようなものか。可能性としては二つ、考えられる。ないとは思うが、私やカーマインの思考をゲヴェルが読んでいるか」

「どうだろう。ゲヴェルの波動は感じても、気配は感じないし。そもそも僕はゲヴェルに操られた事はほとんどないから。リシャールもゲヴェルの波動を跳ね返す事ができるようになったんだろう?」

最初からないと思っていたので、リシャールは挙げた可能性の一つをあっさり捨てた。

「そのはずだ。となると、もう一つの可能性。ゲヴェルが見ているのが、ルイセが放つ光の波動かだ。これだけ濃密なゲヴェルの波動の中で、ひょっこりルイセが現れれば目立つ事だろう」

指摘されたルイセは肩を小さくしながら、皆を上目遣いで見た。
ゲヴェルの波動を押さえ込む事が出来ると知ってはいても、自分がその波動を無意識にはなっていることには気付いてなかったのだろう。
それはそのまま垂れ流しの状態である事を示している。

「責めている訳ではない。力に目覚めて一ヶ月も経っていないのだ。波動を上手く操れなくても仕方が無い。だがどうにかルイセの光の波動を隠さなければゲヴェルの下にたどり着くのも困難だ」

「ルイセちゃん、なんとか光の波動をゼロにできないの?」

「そんなの無理だよ。自分じゃ上手く認識すらできないし。例え出来たとしても、河の水を一人でせき止めろって言われるのと同じだもん」

ティピの一応の提案は、すぐさまルイセに却下されてしまった。
確かにルイセほどのグローシュは河の流れのようなもので、止めようにも後から後から湧いてくることだろう。

「なら逆に考えよう。リシャール、僕らでルイセの光の波動を隠してしまおう」

「そうか、お前と私がゲヴェル化することで闇の波動を放ち、ルイセの光の波動を見えにくくするのか。意識して闇の波動を出すなどした事はないが、他に方法はない」

話がまとまると直ぐに立ち上がったカーマインとリシャールが精神統一を始めた。
二人の体から闇色の光がジワジワと放たれ始めていく。
同時に瞳が開かれた時には、二人の衣服が波立つ程に激しい闇の光が放たれ始めていた。

「上手くいったかな?」

「わからぬ、直ぐに逃げられる準備だけはしつつ一度隠れるぞ。それで見つからぬか、ユングたちが何時までも現れなければ成功だ」

手近な場所にあった大木に二手に分かれてカーマインたちは登った。
リシャールとカーマインはもちろんルイセと、ウォレスはミーシャを連れて別の大木の上に隠れた。
しばらくすると一匹のユングが辺りを見渡しながらやってきたが、キョロキョロとしながらで意図してきたようには見えなかった。
そのユングもしばらくすると、また別の場所に歩いていってしまった。
ホッと息をついたのは、目印となっていたであろうルイセである。
何時しか自分達を目指して集まろうとしていたユングたちの声も途絶えており、もう大丈夫だと確信したところでカーマインたちは木から下りていった。

「さて、これで偶然遭遇する以外は無駄な戦闘はなくなったと考えていいだろう。立ち止まることなく奴の居城へと入り込み、奴を目指すぞ」

確認するようにして呟いてからリシャールは走り出し、次にルイセ、カーマインと挟み込むような形で隊列を作った。
再びリシャールの案内で森の奥へと突き進んでいく。
リシャールの言った偶然の遭遇は起こらず、カーマインたちは真っ直ぐにゲヴェルの居城を目指す事ができた。
そしてたどり着いたのは、森を遮断するかのように現れた絶壁の岩場であった。
そこに大きな亀裂の入った場所があり、リシャールが歩み寄っていく。

「ここが奴の根城だと思われる場所の入り口だ」

「なんだか、水晶鉱山のあの場所を思い出すね」

ティピの言う通り岩場を裂くようにして出来ている亀裂は、地面から遥か上空にまで続いており、その幅も工夫すればゲヴェルすら通り抜けられるほどに大きかった。
カーマインは一人岩場の裂け目へと近づくと、すぐそばにユングやゲヴェルの私兵が居ない事を確認してから振り向いた。
ここから先は引き返す事はかなわない。
もちろん命の保障なんて何処にもないが、確認したそれぞれの顔つきはコレからゲヴェルと見えるのだと言う覇気が目に見えるようであった。
グロウが居ない穴はリシャールの存在が十分に埋めてくれており、後はもう本当に突き進むのみであった。

「行くよ、皆」

返された力強い頷きに背中を押されたように、カーマインはその亀裂へと足を踏み入れていった。
次にルイセ、今度はリシャールと少しだけ隊列に変化を組み込みながら五人はゲヴェルのいる場所を目指して再び走り出した。

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