第百八話 グロウの涙


「嘘だッ、何が狙いだ。手前は俺に何をさせたい。くそ、何が、俺には関係ねえ!」

抱え込むようにして頭を振ったグロウは、支離滅裂になりながらも自分自身に言い聞かせるように叫んでいた。
カーマインならば大丈夫だと何度も心の中で呟くも、迷いを示すようにグローシュの翼が不安定に瞬く。
取りこぼしたレギンレイブは、地面に刀身が刺さるよりも早く消えていた。
ヴェンツェルが放った言葉の呪いは確実にグロウへとしみこんでいた。

「グロウ様、落ち着いてください。大丈夫です、カーマイン様たちならきっと帰ってきます!」

「無事にとは言わないのだな」

揚げ足取りでしかない言葉をヴェンツェルにとられたユニは、反射的に睨みつけていた。

「もう消えてください。私達の、グロウ様の前に現れないでください。もうグロウ様の事は放っておいてあげてください!」

「ユニの言う通りだ。まだ未熟な軍隊とは言え、手負いの貴様一人を追い払う事ぐらいはできよう。いくらお主の魔力が並外れていようと、手負いの状態では長くは戦えまい。違うか?」

瞳に怒りを秘めながらステラが指差したのは、ヴェンツェルの右腕であった。

「見くびっておったわ。さすがはフェザリアンの女王、見抜いていたか。確かに以前グロウに折られたこの腕と、レギンレイブで傷つけられた傷が思わしくないのは認めよう」

ヴェンツェルが服の上からなぞったのは、袈裟懸けに斬られたらしき軌道を描いていた。
その軌道を描いた右腕も、注意してみれば小刻みに震えており何か後遺症でも残っているかのように見えた。
手の平をゆっくりと握り、開いてと繰り返してから苦笑したヴェンツェルは言った。

「フェザリアン如きに負ける事はないと思うが、つまらん怪我はしたくないのでな。退いてやろう、もうすでに用は済んだ」

ヴェンツェルの背中からグロウと同じグローシュの翼が生まれた。
まさかヴェンツェルがグロウと同じそれを持っているとは思わず、言葉を失ったユニとステラを無視してヴェンツェルは言葉をつむいだ。
間抜けにも罠の中に足を突っ込んだグロウを逃がさぬように、さらに引きずり込む為に。

「グロウよ、断言してやろう。今日か明日には、お前が愛したいと望んだ少女と、愛する事を譲った男は消える。十年と少し、お前が自分を押し殺し積み上げてきたものが一瞬にして消え去るのだ。考えろ、そして迷え。どうすれば救えるか、どうすれば誰の手も届かない場所に逃げられるのか」

「止めろ、俺は。もうあの二人は助けない、助ける必要が無い。あの二人は何があろうと、何処であろうと全てを乗り越えられる!」

「ならば絶望するがいい。全てが閃光の中に消え去るその時を知りながら救えなかった自分に」

「ステラ様!」

「わかっておる。もはやあの男、無事に逃がしてやるつもりなど無い」

これ以上ヴェンツェルとグロウを会話させてはいけないと、ユニは名前だけを叫んでいた。
もちろんステラはそれは解っており、すぐにユニの意図を察して未熟な軍隊に命令を下そうとした。
だがヴェンツェルが退く方が僅かに早かった。
退いていく最後の最後まで、考え迷えと呪詛のような言葉を残してからテレポートの光の中へと消えていった。
突然の来訪者は好き放題にグロウの心に楔を打ち込むと、現れたときと同様に突然帰っていった。

「ちくしょう、どうして。何処にも逃げられない。逃げてもカーマインたちが、ヴェンツェルが。全てが追ってくる。どうして誰も放っておいてくれないんだ。もう俺は誰にも関わりたくはないのに、どうして……」

「グロウ様、一度ステラ様のお屋敷に戻りましょう。大丈夫です、カーマイン様たちならきっと」

手の平で顔を覆いながらも、その指の隙間から止め処なく水滴があふれてきていた。
ヴェンツェルのおかげで完全に混乱の極みに達していたグロウは、自らの口から逃げるという表現を零していた。
今まで決して口にしようとはしなかった表現を容易く口にした事は、それだけグロウが弱りきってしまった証拠でもあった。
カーマインとルイセは大丈夫だと言い続けなければ、今にも倒れてしまいそうなグロウを支えながらユニは心配であった。
グロウが倒れ伏せってしまう事よりも、思いつめたグロウがカーマインたちを助けに行ってしまう事がである。

「ユニ、我も手を貸そう。お主だけではこの男は支えきれまい。必要ならば、ローランディアまで使者を出す事もいとわぬ」

「お願いします、ステラ様。一人でも多く、グロウ様を愛する人が必要です。グロウ様を死地から遠ざける、この場にとどめられる人が」

二人の女性に支えられながらも、グロウの涙はまだまだ止まる気配が見られなかった。





ステラとユニの手によって、ステラの屋敷に戻ってきたグロウはリビングのソファーに座らされた。
まさに座らされたと言う表現がピッタリなほどに、グロウの体はまったく力が入っていなかった。
うっかり支える力を弱めでもすれば、たちまちに糸の切れた操り人形のごとく崩れ落ちていた事だろう。
グロウを座らせた後一時ユニに任せたステラは、本当にローランディアへと使いを出す準備に走って行った。

「グロウ様、お加減はどうですか? 私にできる事があれば、なんでも仰ってください」

「ああ、大丈夫だ。大丈夫。ユニはそばに居てくれ。それだけで良いんだ」

言うや否やグロウがゆっくりと腕を伸ばすと、ユニはその腕の中に身をゆだねた。
こうするとグロウよりも自分が幸せに浸ってしまうのだが、最後の一線をグッと我慢してユニはグロウを見上げた。
その瞳はどこか虚ろで、輝くどころか雲ってさえ見えた。
カーマインたちの前から去り、ローランディアでレティシアに別れを告げ、追ってきたカーマインたちに本当の別れを切り出したまでは良かった。
どれも心のかたをつける準備が出来てから事を起こしたからだ。
だがヴェンツェルが全てを狂わせてしまった。
何の心の準備も無いままに、真実かどうかもわからない言葉をグロウに投げつけ、平常を保とうとしたグロウの心に大きな波を起こした。
薄情な話ではあるが、ユニはカーマインたちの安否よりもグロウの方が心配であった。
ヴェンツェルが起こした波にグロウは今にも溺れてしまいそうであったからだ。

「なあ、ユニ。一体、何が間違ってたんだ?」

「グロウ様?」

心配そうにグロウを見上げるユニの上から、零れ落ちるようにグロウの声が聞こえてきた。
意図があってつぶやいたのかさえわからず、ユニは自分を抱きしめるグロウの腕を掴んだ。

「あの日、俺はルイセの敵と戦う事を選んで、カーマインはルイセのそばで守る事を選んだ。例えカーマインにそのつもりが無かったとしても、結果的にそうなった。だが考えてみれば、俺やカーマインはヴェンツェルの思惑の中で母さんに拾われたんだ。そもそも間違いはそこからだったんじゃないのか?」

ユニはグロウが何を言いたいのか全く解らなかった。
ただただ不安だけが増していき、このままグロウに喋らせてはいけないような気さえしてきていた。
とにかく今のグロウは不安定で、危うい精神状態であるのだ。

「今は何も考えないでください、グロウ様。目を閉じて、私のことだけを感じてください」

ユニの懇願の声が上がるも、グロウはとまらなかった。

「ヴェンツェルの目的なんてわからねえけど、きっとろくな事じゃない。だったら、俺たちは母さんに拾われるべきじゃなかった」

グロウ自身、自分が何を言おうとしているか解ってはいなかった。
解ってはいなかったからこそ、その言葉が躊躇いも無く口から飛び出していた。

「大きなゆりかごの中で二人一緒に、何も知らないまま、何もできなままで。死んでいくべきだったんだ。俺だけでも」

聞いた瞬間、ユニは強く抱きしめてくる腕を無理に抜け出し、グロウの顔の前まで飛んでいた。
そして小さな手の平を振り上げていた。
たいした音はならず、グロウの頬の上でペチッと頬が凹んで元にもどった。
痛みなどあるはずが無いが、グロウは自分の頬を持ち上げた腕で押さえた。

「馬鹿も、馬鹿も休み休みに言ってください。グロウ様があの日マスターに拾われなければ、私は今この場に存在する事さえありませんでした。グロウ様は、私も同様に居るべきではないとおっしゃるんですか? 私は精一杯グロウ様を愛しています。だから、愛してください。そのような事は二度と仰らないでください!」

そう言ったきりユニは耐えることもできず声を挙げて泣き出してしまった。
自分の目の前で泣き出したユニを慰めるでも、一心に謝るでもなく、ユニの姿を視界に納めないように俯いて涙を零し始めた。
グロウはもう、何も考えられないほどに解らなくなってしまっていた。
もしも誰か時間を戻してくれるのなら、自分の命さえ捧げてもよかった。
ゆりかごの中に戻ってカーマインだけを残してゆりかごを脱したい。
カーマインさえいれば、この世界は上手く回っていたのだ。
カーマインさえいれば、ルイセは普通に幸せになれたのだ。
最初から自分と言う存在は異端であり、必要なかった人間だと思わずには居られない。

「心配になって戻ってみれば、やはりこういうことになっておったか。ユニよ、辛くとも今は感情的になるでない。それこそ奴の思う壺であるぞ」

「でもステラ様、グロウ様が。グロウ様が、死んでいくべきだったって……そのような事、決してないのに」

「ならばきちんとそう言うべきであろう。グロウが納得するまで、何度でも、何度でも」

何処までも落ちていこうとするグロウの手を掴んだのは、ステラの声と行動であった。
腕と大きな翼で包み込むようにグロウを抱きしめ、諭すように言ってくれた。

「グロウよ、生きているだけで誰かを傷つけ自分もまた苦しむのは誰でも同じである。女王と慕われる我でもそうだ。お主が羨むカーマインも。だから必要以上に気にやむ必要は無い。お主はお主の思うように、お主らしくあれば良い」

「だけど、俺はもう苦しみたくない。思い出したくない、忘れたい。忘れて欲しい、思い出して欲しくない。グロウなんて人間は居なかったことにして欲しいんだ」

「ならばまずはお主が忘れる事だ。それが出来なければ、心の奥底にそっとしまっておくだけで良い。今は辛くとも、いずれそれが思い出と呼べるものに変わるまでは、我やユニ。そしてこれから来るであろうローランディアの姫がお主のそばにいるであろう」

ステラの言葉が嘘ではなかったように、ドタバタと、時折転んだような音が廊下から聞こえてきた。
いくらローランディアが近いといってもステラが使いを出してからまだ一時間と経っていないはずである。

「グロウさん!」

グロウの名前さえ出せば簡単に誘拐できてしまうのではと心配したくなる人が、ドアを開けて飛び込んできた。





ソファーの真ん中に座りなおしたグロウは、左手をステラに、右手をレティシアに握られていた。
肩にはそこが定位置である事を主張するようにユニが陣取り、グロウは三人の存在を感じながら一人天井を仰いでいた。
その瞳から陰りは消え始めており、一度は落ちる所まで落ちた後の開き直りのようなものが見えた。
誰一人言葉を口にすることなく静かな時間が部屋の中で流れていたが、あるときを境にグロウが天井を仰ぐのをやめた。
そして最初に呟きを向けたのは、自分の首筋に持たれかかってきていたユニへであった。

「ごめんな、ユニ。素直に謝るよ。俺はお前に会えてよかったと思ってるし、もちろん愛している」

「いえ、私こそ。突然怒鳴ってしまって、申し訳ありませんでした。私も、グロウ様を愛しています」

グロウらしくない落ち着いた言葉遣いに戸惑いつつも、ユニはしっかりと答えていた。
言葉通りとても素直な言葉が、ユニの体に染みこんできたからだ。

「レティシアも、この前は突然に別れを切り出してすまなかった。お前が来てくれて助かった」

「今回だけは特別ですよ。私はグロウさんを愛する女の子である前に、ローランディアの姫です。コレまでだって結構苦労してるんです」

最後の方はからかい混じりの言葉にグロウは苦笑しつつ、ステラを見た。

「ステラ、今までで一番大きな借りを作ったな。今度まとめて返すから、楽しみにしててくれ」

「それは楽しみであるな。だが、そう言うからにはコレからどうするのか決まったようであるな」

ステラの言葉を肯定するように、グロウは頷いていた。
そしてステラとレティシアが握っていてくれた手をいったん離して立ち上がると、肩に座っていたユニを今しがた自分が座っていたソファーに座らせる。
グロウの言葉遣いや一つ一つの行動を見ていたユニたちは、ある事に気付いた。
それは単にグロウの言葉遣いから荒っぽい言葉遣いがなくなっていたことだけではなかった。
今目の前にいるグロウが本来の姿であるかのように、無理な強がりが消えていたのだ。
自然体と言ってよい程に体から力の抜けたグロウが、三人を見て笑う。

「俺、行ってくるよ。ヴェンツェルの言葉も気になるけれど、そんなのは二の次でいい。俺は過去の俺の想いに決着をつけてくる。何時までもルイセがルイセがってくすぶってるのも、俺を愛してくれる美女たちに悪いしな」

「グロウ様、でしたら私も行きます。約束しましたよね、例えグロウ様が」

「ユニ、今回は一人で行かせてくれ。一人で決着をつけなきゃ格好悪いし、約束で無理に互いを縛る必要ももうない。何処に行っても必ず帰ってくる」

危険だからではなく、必ず戻ってくると言う新たな約束をもってグロウはユニをなだめた。
それでも付いて行きたいと言いたかったユニであったが、両脇からステラとレティシアに止められた。
しぶしぶ納得したユニにすまなそうに一度謝ってから、グロウは言った。

「ゲヴェルを倒して無事に戻ったら、今度こそ俺は俺の為に生きてみようと思う。推薦か、もしくは闘技大会で優勝して騎士になる。戦争が終わって武勲なんてたてられないだろうけど、レティシアの婿候補として突っぱねられないぐらいにはなってみせる」

「えっと、それはつまり……そう言うことでよろしいのでしょうか?」

「いつになるか解らないけど結婚しようぜ、レティシア」

感極まって一人ソファーから立ち上がって駆け出そうとしてレティシアを、後ろの二人がしっかり止めていた。
ステラはレティシアの腕をとり、ユニはレティシアの目の前で通せんぼをしていた。

「少しぐらい抜け駆けてもよろしいではないですか。ユニちゃんはもとより、ステラ様も私からグロウさんを取り上げかけたのですから」

「過ぎ去った過去を掘り返すものではない。大切なのは何よりも今である」

「結婚だけは話は別です。私だってグロウ様のお嫁さんになりたいんですから!」

「私は別に独り占めまではいたしません。ただ一足先にグロウさんのお嫁さんになるだけです」

張本人の一人であるにも関わらず蚊帳の外に置かれそうになったグロウは、顔をくっつけ合ってにらみ合う三人をまとめて抱きしめた。

「慌てるな。誰もレティシア一人と結婚するって言ってないだろ。まだ何にも考えてないけど、俺は俺を愛してくれる人を全員幸せにする。なんとかそんな方法を考える。だから仲良くしてくれ、俺は三人とも愛してる」

三人は互いに見合ってから、仕方がないと諦めると一つだけグロウに約束をさせた。
意図したわけではないが綺麗に三人の声が一つに重なり、たった一つこれだけは駄目だと言う点をグロウに突きつけた。
ユニ、レティシア、ステラ、この三人を全員幸せにする事と。
これ以上グロウを愛し、グロウから愛され返される女性が増えないように、固有名詞を使った言葉に直させた。

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