第百三話 一瞬と永遠の奇跡


痛々しい傷跡を包帯で隠したまま、グロウは体を地面に投げ出していた。
体を受け止めてくれた草花の感触もわからないほどに、痛みと包帯が体を覆っている。
ラシェルの病院から少し離れた場所にある花畑で、グロウは空を見上げながら虚空を見上げていた。

「グロウ様、よろしいのですか?」

唯一自分のそばにいるユニの言葉は、ルイセのそばにいなくてという意味が含まれていた。
だがグロウは生返事を返すだけで、起きることもせず寝転がったままであった。
そばにいたからといって何も出来る事はない。
むしろそれはカーマインの役割であり、自分は邪魔になるだけの存在である。
そばにいない方がよい存在なのである。
なのにこうして今だラシェルから離れないのは、かすかに残った未練ゆえだ。

「カーマインがなんとかするさ。俺はそれを待っている」

「ではその後は、どうされますか? どうされようと私はグロウ様についていきますが」

ユニが言った何処にでもついて来てくれるという言葉を疑う事はなかった。
ずっと以前から交わしていた約束でもあるし、今の自分はユニやレティシアといった自分を求めてくれる人がいなければ生きていけない自信があった。
とりあえずはレティシアを迎えに行こう、そう思いグロウが始めてしっかりと空を見上げた。
昨晩ゲヴェルが現れた事が嘘のような青空、干したての洗濯物のような真っ白な雲がゆっくりと彼方の空へと流れていっている。
その雲の中から、一際小さな雲が急遽軌道を変えた。
グロウが空の中に追った視線にユニも気付き、空を見上げてすぐに呟いた。

「あれは、フェザリアン…………まさか」

段々と翼を持った人影数人がが近づくにつれ、その中の一人が見覚えのある人物である事が分かった。
その人は、グロウたちに気付くとさらにもう一度軌道を変えてお供と共に降りてくる。

「久しぶりであるな、ユニ。それに、愚か者」

「ステラ様、一体どうしてここに」

「少し気になることがあってな。あのグ」

「白」

シエラの言葉に割って入ったのは、グロウの呟きであった。
それを耳にしたユニは、シエラのドレス、翼、真上に伸びる雲と白いものへと視線をずらしていき最終的にグロウを見た。

「下着の色だ。すそが長いとはいえ、スカートで飛ぶな。ちらっと見えたぞ。でも似合ってる」

「う、うるさい。そのような物言いで我が喜ぶとでも思ったか」

僅かに頬を染め、スカートを押さえつける。
一応不敬と言う事でお供のフェザリアンたちも何か言いたげであったが、内容が内容なだけにとまどっていた。
そんなお供の態度を背中で感じていたステラは、咳払い一つで忘れるよう努めて言った。

「良くはないが、一先ず置いておく。あのグローシアンの娘はどうした?」

「さあな」

今まさに聞かれたくない内容に、グロウがわざとらしく寝返りをうってステラに背を向けた。

「グローシュは無事であるか?」

「ステラ様、どうしてそれを?」

「フェザーランドへと逃げ込んだ理由が理由なだけに、我らは常に地上を監視していた。此度の地上の争いが奴の策によることも気付いておった。そして最も重要なグローシアンの監視、先日部下からその反応が消えたとの知らせがあった」

「ルイセ様はヴェンツェルと言う者にグローシュを奪われて……」

グロウを気にしながら説明し始めたユニは、一度言葉を切ると何かに気付いたようにステラを見た。

「そうだ、ステラ様。ステラ様たちの科学力ならルイセ様を治せるのではありませんか?」

「やめろ、ユニ」

何故今まで気付かなかったのか、期待の眼差しでステラをみるユニであるが、制止の言葉は意外なところから放たれていた。
つい先ほどまで背中を向けて寝転がっていたはずのグロウである。
なにもやる気が起きなさそうにしていたのが嘘のように、少し怒りに満ちた眼差しでユニを射抜いている。

「ルイセの事はカーマインがなんとかする。俺たちは、もう何もしなくていいんだ」

「ですが、グロウ様」

「お主らしくない言葉も気になるが、先に答えておこう。我々の力を持ってしても、それは出来ぬ」

ステラの言葉に、駄目なのかと縋るようにユニが見た。

「グローシアンの発生は自然の力。それを取り戻すことが出来るなら、人為的にグローシアンを作れることを意味しておる。当面の問題は、ゲヴェルを止める手段が失われたということだ」

「それも問題ねえ。カーマインなら勝てるさ。何も心配いらねえよ。何も」

ゴロンと再び草花の上に寝転んだグロウは、仰向けになって空を仰ぎだした。
何もかもがどうでもいいように、投げ出すように見える姿を見て、ステラがお供の者達にふりむいた。

「お前達、事実の確認はこれまで。先に帰るがよい」

「女王様はどうされるのですか?」

「我もすぐに後を追う。少し、この愚か者と話すだけだ」

しぶるお供たちを言いくるめて帰させると、ステラは仰向けになるグロウの顔の近くに座り込んだ。
そっとグロウの頭を持ち上げると自分の膝をその下に滑り込ませる。
グロウも特に抵抗するわけではなく、されるがままになっていた。
ステラのほっそりとした指先がグロウの髪を優しくなでつけていく。

「なにを泣きそうになっておる。妹が命の瀬戸際にいる、それだけではあるまい。なにがあった?」

「別になにも。そういう顔をしてれば、美人が優しくしてくれるだろ。こうやってさ」

「それも一時の事だ。我はフェザリアンの女王、お主と共にいられる時間など僅かである。非常に残念であるが」

本当に残念そうな顔をするステラへと、グロウは手を伸ばしその顔を撫でた。
そのやり取りに嫉妬したのか、ユニがグロウの胸にちょこんと座り込み私のことも忘れないでくださいと怒った視線を送る。

「まったく、やきもち妬きだな」

「グロウ様がいつも妬かせるんです。反省してください」

頬を膨らませながら怒るユニを指先でからかいながら、グロウは体を起こした。

「さてと、ステラそろそろ帰るだろ。送っていく」

「我はフェザーランドまで飛んでいくつもりだぞ。歩いては何日かかるか」

「気にするな、俺も飛んでいく」

自分でも何故そんな言葉がすんなり出たのか、わからなかった。
ただ出来て当たり前という考えが浮かぶよりも前に、グローシュが自分の下へと集まってくるのがわかった。
少しずつかたどられていく翼。
コレまでのように荒れ狂う嵐の様にではなく、ごく自然にグローシュの翼が生まれていった。
グローシュの輝きが優しい風を生み出していく。

「グロウ様、何時の間に……できるのなら、何故昨晩」

「わかんねえけど、もうどうでもいい。ただそれだけさ。掴まれよ」

驚いた顔のユニを招き寄せ肩に乗せると、似たような顔で驚いているステラへと手を差し伸べる。
こういうことに慣れていないのかぎこちなく伸ばされた手を取り、グロウはラシェルから羽ばたいていった。





ミーシャがノックをして開けてくれたドアの隙間から、ティピが静かに入り込んでいく。
昨晩グロウたちがゲヴェルを追い返してから、病室の中の光景はある意味変わっていなかった。
瞳を閉じて静かに寝入ったルイセは、そのまま朝になっても起き上がることはなかった。
ただ眠っているだけではない。
その頬に触れても、耳に言葉を投げかけてもそれらに反応する事すらしない。
完全に深い眠りに陥ってしまっていた。

「ルイセちゃん、まだ目を覚まさない?」

「すぐに目を覚ますさ」

帰された言葉が強がりである事は間違いなかった。
まるで自分に言い聞かせるように言った様で、言葉が硬い。

「ねえ、アンタも何か食べてきなよ。昨日の夜から何も食べてないでしょ。ルイセちゃんはアタシが見てるから。それで心配なら外にミーシャだっているから」

「大丈夫、そばにいてあげたいんだ。ルイセが目を開けた時に、一番最初に笑いかけてあげたいんだ。一番最初に僕を見て欲しいんだ。ごめんね、心配かけて」

「わかった、わかったから頭を撫でようとしないでよ。恥ずかしいじゃない」

伸ばされた手をするりと抜けて言った。
その余りの慌てように一瞬だけカーマインがクスリと笑ったが、すぐにその目はルイセへと向けられた。
つい先ほど笑ったのが嘘のように、様々な感情を込めてルイセの容態を見守っている。
切なくなる、何故カーマインがそんな瞳をしなければいけないのか、何故ルイセが伏せっていなければ鳴らないのか。
だからティピは思うままに言葉をつむいだ。

「アタシね、楽しかった。アンタやルイセちゃん、皆と一緒に旅をしてこられて楽しかった」

カーマインは何も答えてこなかったが、ティピはそれで良いと思いながら続けた。

「元々アタシたちは、アンタたちのお目付役として作られたホムンクルスだけど、ちゃんとした存在として扱ってくれたし。ユニなんて、グロウと恋人になっちゃうし。そうやって普通に扱ってくれるのがとても嬉しかった」

ポロリとこぼれて来たものを必死に拭ってティピは続けた。
カーマインよりも先に泣いてたまるかと、一度は歯を食いしばり言葉を止めて我慢した。
涙の遅い来る波を耐え抜き、もう一度呟いた。

「だから、絶対に助けてあげたい。もしアタシの命が必要だったら、いつだってあげる覚悟はあるんだよ。でも、そんな覚悟があったって……」

「ティピそれは」

「嬉しいけど、嬉しくない……私が、元気になって。ティピがいなかったら、悲しいよ…………だから、そんなこと言わないで」

ティピの止め処ない感情を急きとめようとしたカーマインの言葉に、別の声が重なった。
途切れ途切れではあるけれども、幼くもない、今のルイセの声であった。

「ルイセ……ルイセッ!」

「ルイセちゃん、すぐに。すぐに皆を呼んでくるね。ルイセちゃんが元に戻ったって!」

「ティピ、待って」

すぐに廊下で待っているであろう皆を呼びに行こうとしたティピをとめたのはルイセであった。
声も出すのもやっとといったか細い声に、なんとかティピが踏みとどまる。
何故とめるのか、早く皆に知らせてやりたいと瞳に込めて振り返る。

「ごめん、ね。たぶん、そんなに時間がないから」

今自分の体に何が起こっているのか、突然目覚めた理由でさえルイセは把握しているようだった。

「だからカーマインお兄ちゃんと二人だけにしてくれる?」

「ティピ、僕からもいいかな?」

嫌だなんて口が裂けてもいえるはずがない。
例えこの言葉のやり取りが自分にとっての最後になろうと、譲らないわけにはいかなかった。
だからティピはあえて笑ってこう言った。

「まったく、ルイセちゃんはいつまでも甘えん坊なんだから。しっかりコイツに甘えちゃいなさい。このアタシが許してあげる!」

「うん、ありがとう……ティピ」

無理に笑ったティピが部屋を出て行くと、改めてルイセとカーマインは視線を重ね合わせた。
「ルイセ、体の方は大丈夫?」

「うん、辛いってことは全然ないの。ただ少し、眠いかな。でも我慢するの。ほんの一瞬だけど、グロウお兄ちゃんがくれた時間だから」

「グロウが?」

それはどういうことなのか、気にはなった。
だがルイセと喋りたいのはそのようなことではないと、カーマインは必死に心の中で叫んでいた。
ルイセが目を覚ましたら喋ろうと思っていたことが一つも思い浮かんでこない。
ルイセが目を覚ましたらいっそ伝えようと思っていた言葉が出てこない。

「意地悪だけど、優しいから。グロウお兄ちゃんだから。叶えてくれたんだと思う、最後のお願い」

相槌の一つでも打てば、少しはルイセの負担を軽減できた事だろう。
なのにカーマインは胸がつまり、ルイセの手を握ってやる事しかできなかった。

「ずっと前に、カーマインお兄ちゃんと約束したよね。ゲヴェルを倒したら、戦いが終わったら伝えたい事があるって。約束破ってもいいかな、悪い子になってもいいよね?」

「大丈夫、ルイセ一人だけ悪い子にはしないさ。僕も一緒だから、今伝えたい。今伝えられるのなら、約束の一つや二つ喜んで破るよ」

「ふふ、まるでグロウお兄ちゃんみたいだね。二人とも悪い子だ」

そこで一度言葉が途切れた。
言葉を口にするだけで相当体力が必要なようで、ゆっくりとルイセは呼吸を整えた。

「私ね、ずっと前から。ずっとずっと前から、カーマインお兄ちゃんのこと大好きだったんだよ」

「僕もだ。ずっと好きだった。妹なんかじゃない、一人の女の子としてルイセの事が好きだった」

「嬉しい、けど……もっと早く言えばよかったな。せっかく両思いになれたのに、時間が足りないよ。残念、だな……」

何の前触れもなく、握り締めていたはずのルイセの手がカーマインの手の中からすべり落ちていった。
ゆっくりと閉じられていくルイセの瞳。
誰からの説明を受けるでもなく、ルイセの言っていた一瞬が終わったのだとわかった。
もう奇跡は起こらない。
終わったのだ、愛おしい人の生が。
声を出す方法を忘れたかのように喘ぎ、言葉よりも先に瞳から涙がこぼれていた。
あふれ出す感情が許容量を越えて、自分が何を感じているのかも分からない。
悲しんでいるのか、怒っているのか。
だから叫ぶ、こらえていたもの全てを吐き出すように、その声が去っていく魂を繋ぎとめてくれるように。

「ルイセ、頼む起きてくれ。ルイセの言う通りだ、足りない。何もかもが足りない。伝えるだけじゃ、意味がないんだ!」

病院内の端から端まで聞こえるような声の大きさに、何事かと出て行ったはずのティピと外に居たミーシャたちが病室へと入り込んできた。
息を呑む声、嘘だと呟く声、悔やみ歯を噛む声。
それらを全て振り払い、叫ぶカーマインの体から黒い光が生まれ始めていた。

「伝えることができても、ルイセがいないこの世界に意味なんてない。もう一度僕の名を呼んでくれ!」

叫べば叫ぶほど、望めば望むほどカーマインの体を包む光が強くなっていく。
まるで陽の光を食らうように強くなり、またそれに反する様にグローシュの光が辺りを包み始める。

「ルイセ、君が好きなんだ。この先ずっと、君と共に歩いて生きたい!」

カーマインの体から生まれた黒い光とグローシュの光が交わり、病院が、ラシェル一帯が揺れた。
ルイセとカーマインを中心にして起きた爆発のようなものによって、ミーシャは尻餅をつきその上にティピが落っこちてくる。
病室の外からもざわめきと悲鳴が聞こえ、事の中心には当たり前のようにカーマインがいた。
ただ一点違ったのは、流れていた涙が一時的に止まっていた事であった。
その視線の先は、今しがた瞳を閉じ終えたばかりのはずのルイセがいた。

「また嘘、ついちゃった」

弱々しい超えながらも再び瞳を開いたルイセが、目の前のカーマインの泣き顔を見つめていた。

「一瞬なんかじゃない。今度はカーマインお兄ちゃんが時間をくれたみたい。この先ずっと一緒にいるために」

そんな奇跡を起こした実感は、カーマインには皆無であった。
ただ必死で、守ると誓ったルイセが自分の手のひらから零れ落ちていくのが堪らなく叫んだ。
奇跡だろうと、そうではなかろうとかまわない。
ルイセが今自分の目の前で微笑んでいる、その事実さえあれば何一つ問題はなかった。

「うん、この約束は守ってあげる。もう放さない、ルイセは僕が必ず守るから」

「ずっとだからね。今度こそ破っちゃいけない約束」

ベッドに横たわるルイセを抱きしめるカーマイン。
対するルイセもそれを受け入れ、そっとカーマインの背中に手を回して僅かに力を込める。
そんな二人の間に挟まれるのは、ヒビが入り砕けかけているプロミスリングであった。

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