夜の闇に穴を開けるように無数の星々が光を降り注いでいる。 一国であるグランバニアの中でも、この深夜に起きて仕事を行っている者がどれだけいることか。 両手で数えてしまえるのではと思うそんな夜中であるが、グランバニア王であるリュカの執務室の明かりは未だ消える気配を見せていなかった。 さすがに疲れの色は見えるものの、昼間と変わらぬ働き振りを見せるリュカは、とどめることなく握ったペンを書類に走らせていた。 時に書類に訂正を入れてはサインを施し、再考の余地があるのならばサインをしないまま読むのをやめる。 「もう少しかな……あと、ひと踏ん張り」 肩の凝り確かめるように肩を回してから、次なる書類へ手を伸ばすと控えめな音を立てて執務室のドアが開かれていく。 様子を伺うように顔を覗かせたのはフローラであった。 そしてリュカが未だ居眠りもせず仕事を続けていた事に驚きつつも、用意しておいた夜食とお茶を小さなワゴンに乗せて入室してくる。 「まだ起きてらしたんですね。あまり無理はなさらないでくださいね」 「大丈夫、あとはコレだけだから。続きはそちらでしようかな」 そっちとは、来客用のソファーとテーブルである。 フローラが用意したお茶とお菓子を食べながらと言うつもりであろうが、コレだけと掴んできた資料は一束と呼べるほどにある。 「お夜食を用意しておいてと思われるかもしれませんが、明日ではいけませんの?」 「今はちょっとね。あまり隙を見せられるような状況でもないから、やれる事はしっかりやっておかないと」 「隙とはどういう事ですか?」 リュカはフローラの声音に明らかにしまったという顔を作っていた。 疲れていたと言う事を言い訳にしても、決してしてはいけないミスであったがもう遅い。 ソファーに腰を下ろす直前であったが、今一度立ち上がり自分のデスクの鍵のかかる引き出しの鍵を開け、数枚の資料を取り出してフローラに渡す。 何を言われるかいくつか予測しつつ、リュカがお菓子をはみお茶で流し込んでいると、おおむね予想通りの言葉が返ってきた。 「本気ですか?」 「それを提出しに来た人たちは、おおむね真面目なんだろうね。よくも、まあ色々思いつくもんだよ」 フローラが手にした資料ですぐ眼に入ったのは、今後のグランバニアの勢力拡大についての意見書であった。 ラナとラインハットのコリンズ第一王位継承者との婚約から、王位継承者のいないテルパドールのアイシス女王へルカを養子に出すなど。 果てにはリュカを早々に王位から下ろし、ラナもしくはルカを王位につけると言う過激なものまであった。 信じられないとばかりにフローラが本気かと聞くのも別段おかしくもなかった。 「恩知らずもいいところですわ。誰のおかげで世界の平和が保たれているのか、グランバニアの名が世界に知れ渡っているのか」 「恩を売るつもりはないけど、いっそここまで馬鹿正直だと笑えちゃうよね」 「笑い事ではありません。貴方は家臣から馬鹿にされているのですよ。明日一番に意見書の出所を突き止め、罰する時は罰するべきですわ」 「そんなことしたら、今後誰も正直な意見を言えなくなっちゃうよ。裁量権はこちらにあるんだから、そこまで目くじらたてなくても」 まあまあと穏やかに収めようとするリュカに、ため息一つをついてフローラは怒りが消え去っていくのを自覚した。 当人が気にかけてすらいない状況では、周りが怒りを持続させるのは酷く難しいのだ。 もちろん、一定量を超えてしまえばその限りではないが。 「貴方が歯牙にもかけていないことは理解できました。それでも、その理由は教えていただけないのですか?」 自分用にもお茶を用意して喉を潤してから、フローラは問いかけた。 「歯牙にもかけてないわけじゃないよ。ただ、以前からこうなる事は薄々感じてたんだ。確かに功績だけなら僕はどの地域の王にも負けないとは思うけど、王としての自分がどれ程の器かは理解してるんだ。正直な話、むいてない」 「向いてない……確かに、貴方に理不尽な選択を迫ればどういう行動をとるかぐらいはわかります。まして国民の大をとって、小を見捨てるなどもできないでしょうね」 「そうだね。それに前回ラインハットに言った時も、ヘンリーにそれとなく気をつけろって忠告されてたし」 「本当にどうしたのですか?」 人に強気になれないのは知っているが、平気で弱みを見せるようなリュカでない事も知っている。 なのに恐れることなく弱みを打ち明けてくれ、信じられていると言う実感がうれしくもあり、少し奇妙に感じる。 何かあったのかとやや背の高いリュカを見上げると、ふいに肩に手を置いて抱き寄せられた。 しかも強く胸元に押し付けられるように抱き寄せられ、軽くフローラが焦り始める。 「あの、急にこういうことは。その心とか色々な準備がありますし」 「逃げちゃおうっか?」 「え?」 「だからさ、僕とフローラさん、子供たち。ビアンカもだけど。サンチョが望むなら、サンチョも一緒に。何処か僕らを知らない土地にでも一緒に逃げちゃおうか?」 あまりの突然な物言いに、フローラは答えられることなくリュカを見つめる事しかできなかった。 今もしも口が動くのならば、答えは決まりきった言葉を告げるのであろう。 ただ今日はその答えをフローラが口にする前に、リュカが唇を合わせてきた。 迷うことなく、躊躇することなく。 であったばかりの頃の少女のように、高鳴る胸の鼓動をフローラは感じていた。 「あの、貴方?」 「ごめんね、困らせるような事言って。弱音を吐いちゃ駄目だよね。でも今ので元気一杯もらったよ」 高鳴りが限界を突破し、カッと高潮した顔を自覚しながらフローラはソファーに供えてあったクッションを素早く手に取った。 重さを殆ど感じないそれを振り上げ、何度も無言でリュカに叩きつける。 からかわれたのか、事実はとうに関係ない。 ただ二児の母である自分の初心な様子が見られないように、必死に目隠しの意味を込めてリュカを叩き続ける。 「あの、フローラさん。痛くはないんですけど、そろそろ」 「嫌ですわ、反省の色が見られないです!」 一向に叩くのをやめないフローラにリュカが頼み込むが、あっさり断られてしまう。 反省の色と言われても、何をどう言えば反省の色が見えるのかがリュカには解らない。 「反省してますから。本当に、もうしません」 「それも駄目です。またしてください!」 第三者がいればどっちなんだと突っ込んだであろうが、さすがのリュカもそんな見え見えの地雷を踏むわけには行かなかった。 それよりも対して痛くなかったはずのクッションの攻撃の威力が、時間が経つごとに増えていく方が問題であった。 心なしか、時にクッションではなく拳が混じっている気がするのも問題であった。 「貴方がそのつもりなら、もっと気を使ったのに。ちゃんと来る前にお風呂に入ったりとか、もっとちゃんとお化粧したりとか。お仕事だと思って気を使ったのに」 「イタッ、イタタタタ。フローラさん、あのいつのまにかイタッ。クッション、クッションはどこいっちゃったんですか?」 段々とソファーの端へと追い詰められていくリュカは、いつの間にかクッションではなく直接、しかも全弾拳で殴りつけられていた。 耐え切れずにソファーから脱出するが、しつこくフローラは追いかけてきており、立ち上がったリュカにいつまでも追随してくる。 かと思った次の瞬間には、フローラの姿がリュカの前から一瞬で消え去っていた。 まるで幽霊のように闇にとける様に消えたかと思えば、ガシッと擬音が聞こえてきそうなぐらい自分の腰に誰かの腕が回っていた。 一瞬でリュカの背後に回りこんだフローラが、背中に赤い顔をうずめながら腕を回していたのだ。 そして、浮かぶリュカの足。 「ちょ、まさか。下はマットじゃなくてじゅうタッ!」 世界が天井が回転し、眼から星が飛び出た瞬間には、足元に見える窓から月が見えていた。 頭蓋の頂点が、首が、あらゆる体の場所が痛む。 せめて意識を失わなかったのは、フローラの良心の最後の一片が手加減してくれたからか、単にリュカが頑丈なのか。 「フ、フローラさ……」 だがリュカの気力もそこまでで、最愛の人の名を呼んだ直後には夜の闇よりも深い場所へと落ちていった。 変わりに正気を取り戻したフローラであるが、 「はっ、貴方一体誰にやられたのですか? 目を開けてください、私の声が聞こえますか!!」 ガクガクとリュカを揺さぶった事で完全に止めを刺す結果となった。 ちょっぴり口から泡を吹いていたようにも見えたが、朝まで手厚く看病されプラスとマイナスでゼロになる事であろう。 最後の一束である仕事の残りは、残ったままであったが。
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