第四話 正妃VS愛人


シクシクと痛みを訴えるお腹を抑えながら、リュカは遠い目をして書斎の机の上でどこか違う世界を見ていた。
その呆けた顔の右頬には大人の女性の手形がくっきりと残っており、反対の左頬には小さな少女の拳の跡が解らないほどにつぶれていた。
椅子に座っているはずなのに、リュカの体が左から右へと傾いているのは、単純な威力の違いであろう。
そんなリュカの書斎へとノックの後に返事も聞かずに入ってくる影があった。

「父上、いい加減アレを止めていただけるとありがたいのですが、非常に研究の邪魔です」

それは何故かずぶ濡れになって、割れてしまったフラスコや試験管を持っているルカであった。
表面上は淡々としているが、薬を台無しにされて明らかに怒っていた。

「聞いてますか?」

だが反応が見えないリュカに苛立ちを覚え、ツカツカと書斎に歩み寄り見覚えのある瓶を取り出す。

「また下痢になってみますか?」

「はっ、ち、違うんだこれは! アレは薬のせい……だけでもないけど。不可抗力……というわけでもなくて! なんだかアレが何やらでそうなんだ! 痛ッ! お腹が…………はふぅ……」

ルカが取り出した下剤の瓶でリュカが一度は正気を取り戻したものの、また何やら凄惨な数時間前を思い出して、口から白っぽいモヤを出して気絶した。
その様子にルカは静かなる怒りを沈静化させるしかなかった。
これ以上追い詰めて胃炎を誘発させるわけにも行かない。
元はと言えばルカの作り出した薬が原因でもあるが、使う相手を間違えたと言う非がリュカにないことはない。
結局このような場合、男は黙って被害をこうむるしかないわけで、せめてとルカはとある事を考え出した。

「考えようによっては良い機会かもしれませんね。秘密の地下室でも作りますか……秘密の地下室、なんてミステリアスな響きだ」

少し危ない目つきになったルカが怪しげな笑みを浮かべながら退室していこうとする。

「ふふふっ、紫色の液体に、緑色の蒸気……生み出されるは神秘の秘薬」

秘薬とルカが呟いた所で、なにやらリュカの体が痙攣してビクついたのには、あまり意味は無かった。





男二人が弱っている理由、それは当然の事ながら公然と愛人としてグランバニアにやってきたビアンカに理由があった。
当然の事ながらフローラがそれを受け入れるはずもないのだが、ビアンカが間借りした場所がサンチョの家なのだ。
さすがに王妃のフローラと言えど、先々の王であるパパスの代から献身的に王に仕えるサンチョには強く物を言えない。
それからが始まりであった。

「まったく、ビアンカさんときたら、コレだから慎みと言うものを知らない方は困りますわ」

頬に手を当てながらいかにも困りましたわと言った感じで王宮の廊下を歩くのはフローラである。
仕草はとても清楚な女性らしいのだが、額に浮かび上がる血管が色々なものをぶち壊していた。
そんなフローラが道行く先の床の上に見つけた物、

「あれは……バナナの皮?」

王宮の廊下の上で、かなりの異彩を放つそれは、当然の如く風景から浮いていた。
しかもバナナの皮が置かれた少し先の曲がり角には、ドキドキしながらフローラを見つめているビアンカの姿があった。

「本当に嫌になりますわ。このような古典的な手に誰が引っかかるものですか。それに仕掛ける罠に品と言うものがありませんわ」

ビアンカが見ている事を承知の上で、そのまま歩き、バナナの上を華麗に飛び上がるフローラ。
このような物にとビアンカに見せ付けるように飛んだのがまずかった。
隠れていたビアンカが何かを引張る仕草を見せた途端に、バナナがその場所を移動し、丁度フローラが着地しようとしている場所へと移動した。
フローラが見たのは、バナナに繋がる細い糸。

「しまっ……ふぎゃ!」

もう着地地点も変えられずにバナナをふんずけて転んだフローラの口から、聞かれてはいけない叫びが漏れてしまった。
そして見計らったかのように歩いてきたビアンカが、フローラを見下ろして言う。

「あらやだ、まさかグランバニアの王妃であるフローラさんから「ふぎゃ」だなんて口汚い悲鳴が聞けるなんて。全く雨が降らなければ良いのですけど」

「おほほ、あら嫌だ。聞かれてしまいましたわね。月のない夜には後ろにお気をつけください」

ここで相手の罵っては負けを認めた事になると、フローラはビアンカが犯人と知りながらも大人しめの言葉で答える。
フローラが立ち上がると、お互いに口元に手を当てて奇妙な笑いを振りまきながらすれ違う。
お互いに姿が見えなくなってから、勝者は改心の笑みを、敗者は屈辱に地団駄を踏んでいる事を理解しながら。





つい小一時間ほど前に勝利を味わっていたビアンカは、足取り軽くグランバニアの王宮内を歩き回っていた。
まだ引っ越して来て三日と経っていない状況で、ビアンカの好奇心旺盛な探検心が刺激されているのだ。
そんなビアンカがとある階段の踊り場にたどり着くと、先のとがった靴が片方だけ落ちているのを見つけた。

「何コレ……トゥシューズ?」

階段の踊り場に忽然と現れたそれは、かなりのの異彩を放っており、当然の如く風景から浮いていた。
階段を折りだ先にある扉から、ドキドキしながらビアンカを見つめているフローラの姿があった。

「そうそうそう、今日も練習をかんばるぞってトゥシューズを履こうとしたら中に画鋲がって引っかかるか。そもそも私の靴じゃなーい!」

ちょっとばかりの余裕を見せてノリツッコミを行うと、ビアンカはトゥシューズを思いっきり蹴りつけた。
だがそこで全ては終わらなかった。
蹴りつけて吹き飛んでいったトゥシューズにくくり付けられていた糸が引張られ、カタンと何かが倒れた音が響いた。
トゥシューズに繋がる糸を目で追うと、それは二階の手すりに繋がっており、その上を小さなドミノがドンドンと倒れて行っていた。

「ドミノ? 私が歩いてくる時あんなのあったっけ?」

手すりの壁際まで倒れたドミノは床に落ちて、表紙に立てられていた本が倒れ、今度は本のドミノ倒しが始まった。
すでにビアンカの位置からでは何が倒れているのかはわからないが、何かが倒れる音が段々と大きくなり、時にボキッと何かが折れる音や、ブギャッと悲鳴のようなものが聞こえた。
そして最終的にドスンと大きなものが落ちた音が聞こえた。
なおかつそれがゴロゴロと転がる音が響き、階段の前まで転がってくると何故か急転換してビアンカ目掛けて落ちてきた。

「た、樽が……ちょ、重い…………!」

兎に角ドミノによって最終的に落ちてきた樽を真正面から受け止めてしまったビアンカだが、たっぷりと液体の詰まったそれを何時までも受けきれるはずがない。
少しでも油断すれば樽ごと階段を転がるしかない状況でビアンカが選んだ行動とは、知力ではなく、地力であった。
自らあるはずのない力を負けたくないと言う思いからひねり出し、液体のたっぷり詰まった樽を受け流して投げ飛ばした。

「どっせーい!」

その瞬間に腰にピキッと嫌なものが走ったが、ここで膝を付くわけにも行かずビアンカは逆に胸を張っていた。
何故ならばそこにフローラが居たからだ。

「嫌ですわ。何処の殿方が城内で騒いでいるのかと思えば、ビアンカさんでしたか。どんなに取り繕っても地というものは出てしまうものなのですね。私は「どっせーい」などとは口が裂けても言えませんわ」

「ふっふっふ、ついさっき見せた技をいきなり応用するなんてやるじゃない。でも私の引き出しはまだまだ深いわよ」

ここで相手に弱みを見せるわけにはいかないと、ビアンカはフローラの前で決して腰の痛みを見せずに不敵に笑ってみせる。
フローラが階段を上っていくとビアンカは一歩ずつ降りていき、お互いに口元に手を当てて奇妙な笑いを振りまきながらすれ違っていく。
お互いに姿が見えなくなってから、勝者は改心の笑みを、敗者は屈辱に地団駄を踏んでいる事を理解しながら。





その日、リュカの書斎に訪れる人が途切れる事はなかった。

「お父様、みそこないましたわ!!」

フローラとビアンカが争う度に、天空の剣を構えて襲撃してくるラナ。
攻撃力は一番高いのだが、甘いお菓子一つで言う事を聞かせられる分彼女はまだましであった。
もっとも、一度目の襲撃は不覚にも攻撃を受けてしまったが。
問題はなんの力もない、城のものたちであった。

「おかげで城中水浸しです!」

これはメイド長の悲鳴。

「夕飯に使うはずの小麦粉が全て床の上です!」

これは料理長の悲鳴。

「ガウガウ!」

無条件でビアンカの味方になってしまい、フローラにご飯抜きを言い渡されたプックル。
これはある意味自業自得でもあるのだが。
そして…………

「貴方、お話があります」

「やっほー、リュカ遊びに来ちゃった」

「………………なんですか?」

「………………なによ」

これは丁度リュカの執務室で鉢合わせてしまったフローラとビアンカ。

「うう……お腹が」

リュカが神経性胃炎になる日も近い。

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