第十五話 悟りの書


人間ではない、もっと別の何かの声が聞こえたと思った瞬間には、フレイは見知らぬ場所に足を着いていた。
建物の中であることは一目瞭然であるが、積み上げた石の壁は崩れ、足元の石畳にも底が抜けるほどに破壊された跡があった。
一体ここはどこで、あの声は一体と怯えるフレイの瞳があるものを捕らえた。
それは祭壇にも似た代であり、そこに収められているのは一冊の本であった。

「もしかして、これが悟りの書?」

ならばここはガルナの塔の中なのかと、無警戒に近寄っていくと悟りの書が淡い光を放ちだした。
それの意味を知るフレイは、私が選ばれたのかと近寄ろうとする足を止め、一気に遠ざかった。
何時でも抵抗できるようにさざなみの杖を構え、息を整える。

「でもなんで……私は僧侶でも、ダーマの関係者でもないのに。女なら誰でも良いって事?」

『それは違います』

塔の外で聞いた声が、フレイの頭に再び響いた。

「誰? ここに私を連れてきたのもアンタなんでしょ。姿を見せなさいよ、女の子一人が怖いわけ!」

『姿ならとうに見せております。悟りの書、それが私です』

「本が喋ってる? さすがルビスの遺産ね、なんでもありだわ」

言われて見れば、声が聞こえるたびに悟りの書が放つ淡い光が強弱を変えていた。
本当になんでもありだと、警戒はそのままに視線を固定させるフレイは、嫌な空気を感じながら早く来てとアムルの名を心のなかで読んでいた。
それが解ったのか、悟りの書が再び声なき声で語りかけてくる。

『やはり、貴方様の懸念どおり全てを忘れてしまっているようですね。ですがご安心ください、私はその為に貴方様につくられたのですから』

だが、フレイの混乱が増したのは言うまでもなかった。

「貴方様って誰よ。悟りの書はルビスの遺産なんでしょ? それと私にどんな関係があるって言うのよ」

『不安に思う事はありません。私は貴方様の害になるものではありません』

「質問に答えなさいよ。次無視したら撃つわよ!」

『私が敬うのは創造主であるルビス様のみ。この意味がわかりませんか?』

「回りくどい事、言ってるんじゃないわよ。そういうの嫌いなの。天と地にあまねく精霊たちよ。汝らの偉大なる力をもって邪を焼き尽くす業火を我に与えたまえ、メラミ!」

杖の矛先を向けるのが、ダーマの至宝である悟りの書である事も忘れてフレイは自ら作り出した火球を放っていた。
抱えきれないほど大きなそれが真っ直ぐに悟りの書のある祭壇へと向かうが、悟りの書が起こした行動は微々たる物であった。
自らの体を開いてページをめくり、淡かった輝きが僅かながらに強まりを見せる。
見た目にはそれだけであったが、フレイのメラミが直撃した途端、最初から炎など存在しなかったかのように光に飲まれて消えてしまった。
信じられないと杖に込めた力が抜けた途端、悟りの書が語りかけてくる。

『恐れる事はありません。処置はすぐに終わります。なにより、これは貴方様が望まれた事なのですから』

本を開いた状態の悟りの書から、弾ける様に全てのページが離れて舞っていく。
一枚一枚の紙となったそれ一枚一枚も淡い光を放ちながら、フレイを中心として球形を描きながら回転していく。

「私を、取り込む気?」

フレイの頭の中には、セイに聞かされた四年前の光景が蘇っていた。
セイラームを包み込んでいた悟りの書、球形であったそれは次第に楕円に歪んでいき……

『その逆です。私は貴方様に全てをお返しするのみです。全てを記した記憶、あのお方への愛、あのお方への憎しみ。そして自分自身への蔑み。貴方様の全てを今、お返しいたします』

フレイを包み込んでいた悟りの書の一枚一枚が、回転するスピードを上げだした。
途端にフレイの中に入り込んでくるのは、自分がいつも感じているよりもはるかに大きな揺らぎ、激しい感情。
おぼろげながらに頭に浮かぶアムルに似た誰かを愛する感情、とても大きな父のような、だけどオルテガではない誰かを憎む感情。
大切な人たちを裏切り、自らを蔑みながら、それでも突き進もうとする何よりも強い想いを浮かべるのは自分に良く似た女性。
それらが一斉に頭の中に流れ込み、処理しきれずにフレイは頭を抱え込んで座り込んだ。

「私の中に、なんなのこれ。入ってこないで! 私は私、貴方なんかじゃない!!」

『違います。貴方様は貴方様なのです。受け入れれば真実が見えてくる。それが悟りの書である私の役目なのです』

膨大すぎる情報に耐え切れない様子のフレイを見ても、悟りの書はただ受け入れろというのみ。
だが簡単には許容できない情報の波の中で、一つだけフレイが拒絶できなかった情報があった。
それは自分よりも小さな、誰よりも愛しい姿を持った少年の姿である。

「嫌、私が私じゃなくなっていく。助けて、お願い。アム、はやく……早く来て、アムッ!」

悲痛に叫ぶその名に対してだけは、悟りの書も何も言う事はなかった。





フレイが悟りの書によって呼び寄せられた頃、アムルとセイは一目散に上へと目指して駆け上っていた。
確かに元々二人には急ぐ理由があったのだが、その様子はそれだけではなかった。

「フレイ、すぐ行くから!」

「なんでこんな事に。まさか本当にフレイちゃんが選ばれるなんて!」

二人が階段を駆け上がる理由は、フレイにあった。
フレイが悟りの書に呼び寄せられてすぐに、アムルがその事に気づいたのだ。
もはやアムルの勘に理由などいらず、セイもすぐにその言葉を信じて先を急いだのだ。
セイの記憶どおり、一度バギクロスによって四階は破壊されフロアへの道が閉ざされていた。
よって少し遠回りながらも一度五階へと上りきり、そこから四階へのフロアへと飛び降りる事にしたのだ。

「でもなんでだ。悟りの書の洗礼には、一度面通しが必要なんじゃないのか? まだ俺に知らない何かがあるって言うのか?!」

「フレイ、フレイッ!」

「ちくしょお。アムルすまん。こんな事なら、もっとほかに安全な方法があったかもしれないってのに」

「聞きたくない。そんな言葉聞きたくないよ。助ければいいんだ、絶対に助ければいいんだから。聞きたくない!」

走りながら向けられた言葉を振り払うアムルを見て、セイは謝ってしまった自分を恥じていた。
四年前も、叫んだ言葉に何の意味もなかった。
意味があるとすれば助けようとする意思と、助ける事が出来たという事実。
それさえあれば、過程に何があろうと問題ではないのだ。
必要なのは助ける事が出来たという事実のみ。

「なら急ぐぞ、アムル。もうすぐ五階にたどり着く。そこからすぐに四階へと飛び降りられる場所があるはずだ」

確かに五階に上ってすぐに四階へと飛び降りれそうではあったが、単にそれは作りかけにしか見えなかった。
五階のフロアはまるまる床がなく、代わりに張られているのは数本のロープ。
だがそんなことに拘っている時間も今は惜しく、アムルは真下に見える四階の状況を見て叫んだ。

「フレイ!」

「アム?! 早く、私が……私が消えちゃう前に。早く!」

フレイが叫んだ意味とアムルが理解した意味は微妙に異なっていたが、アムルはすぐに適度にロープを渡ってから四階へと飛び降りていた。
しばしの浮遊感の後に足元から痺れるような感触が脳天へと走っていく。
すぐ後にも、アムルに続いてセイが飛び降りてきた。

「本当にフレイちゃんが……」

「天と地を造りし精霊ルビスよ」

「ちょっと待て、アムル!」
冷静さを欠いたアムルが詠唱を始めるのを、セイが止めようとしたが遅かった。

「汝の偉大なる力をもって我に金色の鉄槌を与えたまえ、ライデイン!」

轟音が鳴り響いたのは、はるか頭上だけであり、アムルの言う金色の鉄槌が掲げた誓いの双剣に落ちる事はなかった。
それもそのはずで、ここは塔の内部であり、雷が落ちたのは塔の天井部なのであろう。
だが何故だと上を見上げたアムルがそれに気づいたのは、全てが終わってからであった。

「落ち着け、アムル。まだフレイちゃんが完全に取り込まれるには時間がある。魔力を無駄に消耗するな」

「でも、フレイが!」

「だからこそ落ち着け。冷静さを欠いたら、助けるもんも助けられねえ!」

フレイから決して目を離そうとしないアムルの両肩を強く掴んで、叫びながらセイは言い聞かせた。
それでも何処までアムルが冷静になれるのか、怪しい物である。

「いいか、これから俺が塔の天井をぶち破る。ライデインはそれからだ。天と地にあまねく精霊たちよ。汝らの偉大なる力をもって邪を浄化する聖剣を我に与えたまえ」

風が渦巻き、セイの両腕へと絡み付いてくる。
幸運な事にそのすさまじさがアムルを冷静にさせたのは、セイにとっては嬉しい誤算であったろう。
誓いの双剣を手にアムルは力をためるかのように、目を閉じて時を待っている。
アムルが本来の力を発揮さえすればと、確信しながらセイは両腕を天井へと向け絡みつく竜巻を解き放った。

「バギクロス!」

二本の竜巻が垂直に上っていき、五階に張り巡らされたロープを巻き込みながらその天井を突き抜けていった。
特大の大穴がガルナの塔に開いたのを察してすぐに、アムルは二度目となる詠唱を唱え始めた。

「天と地を造りし精霊ルビスよ。汝の偉大なる力をもって我に金色の鉄槌を与えたまえ、ライデイン!」

頭上で交差させた誓いの双剣に、金色の雷が突き刺さる。
それと同時に落ちた時よりも輝きを強めながら、誓いの双剣の上で轟音を上げ続けた。

「アムル、行けッ!」

セイの叫びを合図として、フレイを捕らえている悟りの書のページたちへとアムルが駆け出した。
飛び上がり誓いの双剣を掲げるアムルの前に、入り込んだ影があった。
金色の輝きがスパークし、はじけ飛ぶ瞬間にアムルが見たのは、全てのページを失った悟りの書の表紙部分であった。
振り下ろした双剣が悟りの書の表紙が作り出す光の壁の前で止められてしまい、そのまま力が弾け跳んだ。
もうもうと上げる焦げた煙が上がるなか、フレイどころか悟りの書の表紙にでさえ届いていなかった。

「そんな馬鹿な。あれが止められた……」

「嘘だ、もう一度。天と地を造りし」

『止めよ。ルビス様の愛する子よ』

突然喋りだした声に、一時アムルの詠唱が止まった。

『この状況もルビス様は想定なさっていた。私は本来お前が持つ力と、ルビス様が与えられた力。両方を止めるキャパシティを秘めている。剣を収めよ』

それが魔法剣の力のことを言っているのかは不明であったが、確かに悟りの書の表紙が作り出す光の壁は尋常ならざる力であることは見るだけでわかることであった。
なによりも、魔法剣を、それもライデインという未知なる魔法を使ったそれさえ止められたのだから。
だが、それで諦めるかといえば全く別の問題であった。
フレイを包み込んでいる悟りの書のページたちはその回転を早め、フレイがさらに苦悶の表情を浮かべていく。
だからアムルはもう一度誓いの剣を頭上へと掲げた。

「どけ、どかなきゃ破壊する。フレイが苦しんでる。それ以外に理由なんて要らない」

『不可能だ。それに今のお前の力ではあと』

「天と地を造りし精霊ルビスよ。汝の偉大なる力をもって我に金色の鉄槌を与えたまえ」

アムルの中で何かが切れていたのかもしれない。
無邪気さや優しさを常に浮かべるその瞳に、憎しみの感情が宿っていた。

「ライデイン!」

三発目のライデインがアムルの誓いの双剣に落ちる。
だがこれまでの二発と決定的に違うのはそれが金色一色ではなかったことだ。
不安定に闇色と金色の明暗を繰り返し、やがてそれは左右に持った双剣に闇色と金色に分かれてほとばしる。

『馬鹿な、光と闇だと。これはあのお方とルビス様だけの力ではない。もしも私の考えが正しければ、なんと。なんと悲しいお方だ。なんとお優しい方なのだ!』

「どけぇッ!!」

悟りの書の表紙の葛藤をよそに、駆け出したアムルは双剣を思い切り叩きつけていた。
先ほどの一撃ではたわむ事も許されなかった光の壁が、薄いガラスでも割るかのように容易く打ち破られていく。
それでも不可思議なライデインの力はアムルの力を余程使うのか、打ち破ってすぐにアムルは大量の汗をかきながら膝をついていた。
ゆっくりと首を動かした先には、力を失い床に落ちた悟りの書の表紙が見えていた。
すぐに駆け寄ったセイがべホイミを唱えるが、効果は限りなく薄い。

「アムル、まだいけるか? あと一撃だ。一撃で良い」

「わかってる。フレイ、すぐに助けるから」

表紙は力を失ったようだがそのページだけはまだ力をそのままに、フレイを包み込んでいた。
もうすでにフレイは言葉を発する事すら出来ない様子であった。
ただ自分を見失わないように必死に、一番自分をつなぎ止めやすい事だけを考えていた。

(アム、私のアムッ!)

両手の手のひらを合わせ、一心に祈るようなフレイを前にアムルはもう一度誓いの双剣を掲げた。

「これで、終わりだ。天と地を造りし精霊ルビスよ。汝の偉大なる力をもって我に金色の鉄槌を与えたまえ、ライデイン!」

だが望んだ力は空から落ちることなく、アムルは呆然と上を見上げて呟いた。

「魔力が……つきた?」

「馬鹿な、あと一撃で。後一撃なんだぞ!」

「最初のアレがなけりゃ。焦らなきゃ、あと一回できたのに。どうしよう、どうしよう兄ちゃん!」

頼られても、セイは自分のバギクロスがアムルのライデインほど威力があるとは到底思えなかった。
アレは魔法としては完全に別格、威力もエネルギーも別物なのだ。
だが現時点でアムルの魔法剣に上乗せできる魔法は、セイのバギクロスを置いて他にはない。
フレイを捕らえた悟りの書のページたちは、段々とその回転を早め完全な球体であったそれが楕円へと形を変えようとしていた。
足りない時間の中で、出来る事はすべてやってみるしかない。

「いくぞ、アムル。天と地を造りし精霊たちよ。汝らの偉大なる力をもって邪を浄化する聖剣を我に与えたまえ」

セイの詠唱を聞いて、アムルが自らの腕を伸ばして双剣を構えた。

「バギクロス!」

二つの竜巻がアムルを襲うように放たれ、誓いの双剣へと吸い込まれていく。
吸い込まれきった後に残った静寂は一瞬であった。
爆発するように唸りだした二本の聖剣を持って、アムルが駆け出した。
助けを求めるフレイへと、聖剣の力を解き放ちぶつけた。
あまりの威力に四年前に一度崩れかけた塔が再び鳴動と共に、いたるところが崩れ始めた。
落ちてくる瓦礫に耐えながらも見た光景に、アムルもセイも言葉がなかった。
それは四年前と全く同じ光景。

「う、うわあぁぁぁぁッ! フレイ、フレイ!」

「アム…………」

信じられない、信じたくないと魔力の付加もなしにアムルはフレイを変わらず包み込む悟りの書のページへと双剣を何度もぶつけた。
拳こそ潰れなかったものの、そこもまたセイが体験した四年前と酷似していた。
セイ自身フラッシュバックのようにその光景を見ながら、まだだと萎みそうになる自分の心を叱咤していた。
アムルはもうライデインを使えるだけの魔力は残っていない。
自分の最大呪文であるバギクロスを使った魔法剣でも、四年前と全く同じ結果が待っていただけであった。
せめてライデインが、もしくはそれと同じぐらいの強さを持った呪文があればとセイは知る限りの呪文の名前を連ねたが見つからない。
たった一つ思い浮かんだのはシンと名乗った闇の勇者が使ったエビルデインであるが、奴は今はここにいない。

「なにか、なにかないのか。一度きりで良いんだ。なにか爆発……てきな。一つだけ」

ようやく思考の片隅に引っかかったのは、セイでも使えるものであった。
言ってしまえば魔力を欠片でも持っていれば使える呪文である。
たった一度だけ。
心臓が痛むように胸元の服を掴みながら、セイはコレしかないと決断する。

「一つだけ、ライデインを超える呪文があった。くれてやるぜ、俺の命!」

闇雲に誓いの剣をぶつけ続けるアムルへと駆け寄ると、セイは振り上げられたそれを素手で掴んでいた。
我を失いながらも驚いたアムルが力を抜いたが、すでに切れていたセイの指先から血が滴り落ちる。

「兄ちゃん、離してよ。フレイが!」

「落ち着けアムル、コレが本当に最後の手だ。集中しろ!」

さらに誓いの剣を掴む手に力を込めたため、滴るのではなく、セイの手から血が跳んだ。
そのうちの一粒がアムルの頬にかかり、顔を青くするのと同時にアムルはハッと我に帰る。

「いいか、集中しろ。取って置きの呪文を使ってやるから、それで思いっきりぶつけるんだ。絶対にフレイちゃんを助けるんだ。いいな、絶対助けろ!」

必死さを超えたセイの表情に旋律を覚えながらも、アムルは頷いた。

「俺が呪文を使っても振り向くな、いいな。真っ直ぐフレイちゃんに向かえ」

「うん」

「天と地にあまねく精霊たちよ。汝らに捧げるのは我が命、汝らの祝福によって我に最後の輝きを与えたまえ」

聞いたことも無い詠唱にアムルは振り向きかけたが、振り返るなという言葉を思い出す。
双剣に流れ込む脈動を持った力に希望を見出して、真っ直ぐにフレイを見つめた。

「じゃあな、アムル。行って来い。メガンテ!」

詠唱の通り輝きが誓いの双剣に宿り、アムルは走り出した。
その様子を見つめながら、力の抜けたセイの膝が床へとめり込むように落ちた。
眠るように薄れていく意識の中で、まだだと無理やり右手で胸を叩いて心臓を動かせる。
霞んでいく視界の中で、飛び上がるアムルの姿が見えたが、そこまでであった。

(相変わらず、俺はルビスに嫌われてるみたいだな。最後まで、見せてくれないなんてな)

ゴトリとセイの体が床へと倒れこんだ直後、光がガルナの塔を包み込んでいった。

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