早朝をすぎた宿は、昨晩の喧騒が嘘のように驚くほどに静かであった。 町を出るものはとっくに宿をチェックアウトし、留まる者は惰眠をむさぼっているからだ。 そんな惰眠をむさぼっている側のレンとフレイを置いて宿内の酒場へときたアムルに、声をかけるものがいた。 テーブル一つを陣取って酒瓶を傾けているセイである。 鼻の頭が赤く酔っているのには間違いないが、その目がはっきりと開いており、まだ起きたてであるようだ。 「よぉ、アムル。早いな……美人の姉ちゃん達は? まだ寝てんのか?」 「うん、昨日遅かったし今日は昼に発って、誘いの洞窟前で一泊してから行くって聞いた。ところで、兄ちゃん朝っぱらから飲んでていいの? 仕事は?」 「仕事? ああ」 聞かれて、アムルの方に勘違いがある事に気付いたセイが笑いながら答える。 「俺は別にここで雇われてるわけじゃないからな。金がないからたまに手伝って宿代を安くしてもらってるのさ。色男、金と力はなかりけりってな」 「あ……う、うん」 おどけて肩をすくめながら言ったセイに、アムルは色男に同意するべきなのか、金と力がない事を否定すべきなのかわからなかった。 曖昧に頷いておいたが、セイが酒をあおりながら器用に肩眉だけをあげた。 「なんだなんだ? こんな良い天気に、元気がねえなぁ。 どうした、恋の悩みか? 兄ちゃんに話してみ」 「別にそんなのないよ」 「無いだとぉ? 嘘をつけ、嘘を。俺がお前の頃にはもう、モテてモテて。何人と付き合ったけ、ミーナだろリリララだろ、それから……」 照れてごまかしもせず言ったアムルに、思い出しながらセイが指を順に折り数えていく。 指を一本折り数えるごとに当時を思い出してニヤけるセイを見て、アムルが不思議そうに尋ねた。 「女の人と遊ぶのが楽しいの?」 「当たり前だ、それ以上に楽しい事なんかないぞ。 いいぞ、女の子は。柔らかくて、良い匂いがして、俺が神だったら世界中を女の子で埋め尽くすな」 「そりゃ、姉ちゃんは柔らかくて暖かいけど」 質問同様にズレた答えにセイはコメカミを押さえながら、違う違うと首を振る。 「馬鹿野郎、姉ちゃんじゃ意味が無いだろ意味が。手も出せねえし」 「手?」 「そうだ。女の子と仲良くなって、洒落た店で飯食って酒を飲ませてさ。良い雰囲気になったら部屋にでも誘って」 熱く語るセイも、何処から楽しくなるのかと待ち焦がれているアムルも気づいていない。 話し込む二人にスッと背後から近寄る影に。 「部屋に入ったら本番だ。だが、焦っちゃいけねえ。まずは軽く触れるように」 「一体なんのお話かしら、と〜っても楽しそうね?」 身振り手振りまで混ざり始めていたセイの動きがピタリと止まってしまった。 それだけ後ろから投げかけられた声に、反論しがたい重みがあったのだ。 振り向いて相手の顔を見る事さえできないセイの変わりに、相変わらず何も気付いていないアムルが振り返った。 そして後ろに立っていた相手を見て、アムルだけは嬉しそうに笑いかけた。 「あ、姉ちゃん。もう起きたの?」 「アンタが着替えたりゴソゴソやってたから起きちゃったのよ。 ……でも、まあおかげですっかり目が覚めたけどね」 アムルと喋る時だけ雰囲気が戻ったが、またすぐに逃げ出そうとしていたセイをフレイは鋭く睨みつけた。 「どこ行くのかしら?」 「いや、ちょっと俺はこれからボランティアで薄幸の美少女の見舞いにいかなきゃならん。確かに、こんな良い天気だ。フレイちゃんが俺をデートに誘いたいと思うのは仕方が無いが、あいにく俺の体は一つしか」 「言いたい事はそれだけ?」 「あ〜〜っと、だから……俺は行かねばな」 「アムに変な事吹き込もうとして、二度と帰ってくんな。この酔っ払いが!!」 屋内だからと、魔法ではなく硬い、硬いだけの杖でセイはしこたま殴られた。 昨晩見た回復呪文で回復できるだろうからと、手加減など一切無い。 もしくはするつもりさえなかったのかもしれない。 朝から男の汚い悲鳴と撲殺音が宿から漏れだし、朝の爽やかさを汚していく。 隣近所から苦情が出たのは言うまでも無い事であった。 「全く、貴様ら姉弟は人に迷惑をかける事しか知らんのか」 「ピーッ、ピーピ!」 セイの悲鳴が響き渡った後、レンとキーラが悲鳴に起こされ起きてきた。 レンは不機嫌になりながらも、眠気は続いているのか目を何度も瞬きを繰り返している。 そんなレンの前で、悪気というものを一切感じさせない軽さでセイが笑っていた。 「まあまあ、レンちゃん許してやりなよ。フレイちゃんも悪気があったわけじゃあないんだからさ」 「根本の原因のアンタがなんでそんなに偉そうなのよ!」 「原因はフレイちゃんだろ? 今から性教育はちゃんとしておかないと、子供ができちゃったりしたら大変だぜ」 「もういい、貴様も黙れ」 今のやり取りだけで何があったのか大体の事情を察したレンは、剣の鞘でセイの後頭部を思い切り殴る。 「うおぉぉぉ、脳の奥から染み出すこの激痛、まさか新種の愛?! この俺が一人の女に」 「うっさい、死ね!」 「ああ、止めて。蹴らないで、そっちの趣味はまだ早い!」 床に転がりながら痛みに悶えるセイをさらにフレイが踏みつけているが、誰も止めようとはしなかった。 ここ数日で急に多くなった溜息をレンがついていると、近所に謝ってきた女将が戻ってきた。 「女将さん、ごめんなさい」 真っ先にアムルが謝ると、女将は笑いながらアムルの頭をなでた。 何故なでられたのか解らないといった顔をしているアムルに、女将が笑いかける。 「なにを気にしてんだい、この子は。酒場が集まるこの辺じゃ、苦情なんて日常茶飯事さ」 「そうそう、酔っ払いとか不審者とかゴロゴロしてるからさ。嫌だねぇ」 「どっちもアンタの事じゃない。この酔っ払い兼不審者」 「姉ちゃん、もう止めようよ。兄ちゃんと仲直りしてよ」 指をセイに突きつけたまま、フレイはそれ以上ののしれなくなった。 確かにこれ以上何を言っても、再び迷惑をこうむるのは女将だからだ。 なによりも、アムルに嫌われてまで気に食わない者とケンカをしたくない。 まだまだ言い足りないという表情をしながらも、フレイはセイに向かって言い放った。 「仲直りなんてしないけど、止めてはおくわ」 「あら冷たい。仲良くしようじゃないの、フレイちゃ〜ん?」 (コイツ、いつか締める!) せっかく譲歩したのに、変わらぬセイの態度にフレイは心の中だけで誓う。 「なにはともあれ、起きてしまったものは仕方が無い。少し早いが、出るか」 「あ、もう出るのか? なら準備をしねえとな」 レンの言葉を聞いて、真っ先に反応したセイに視線が集まった。 何故お前が準備をする必要があるんだと。 「待て、貴様。まさかとは思うが、付いて来るつもりか?」 「え、ほんと」 「却下!」 再度聞きなおしたアムルをさえぎり、理由を聞く前にフレイが迷い無く裁定を下した。 「酔っ払いのたわ言になんか付き合ってられないわ。行くと決めたのなら、さっさと行くわよ」 「姉ちゃん、理由ぐらいは聞こうよ」 「なあに、アム? アンタはまさかこの酔っ払いがついてくる事に賛成なの?」 「う……」 「賛成なの?!」 アムルの頷きは、フレイが怒り顔で詰め寄ったことでかき消された。 だが、賛成だと言えても結果は同じだったかもしれない。 「私も反対だ。酔っ払っていたとはいえ、昨日の酔っ払いを相手にした時の動き……足手まといだ」 至極真っ当な意見が、レンによってもたらされたからだ。 「あらら、嫌われちまったなこりゃ。確かに俺は力は無いけど、回復や援護の魔法は大の得意だぜ。見たところ、回復系はアムルが少しだけ使えそうだが……長旅をするなら回復魔法は必須だぜ」 「確かに、怪我で養生するぐらいなら無理してでも回復させた方が無駄な時間は減るな」 セイの言い分も、同じぐらい真っ当な意見であった。 もしもの場合を考えて、レンが賛成派に傾いていく。 「ちょっと待ってよ、レン。確かに必要かもしれないけど、何もコイツじゃなくてもいいんじゃない? なんなら、ちゃんとした僧侶の人に」 「ついてくるわけないだろ。僧侶なんて精霊に祈るしか脳のないくせに、他人には真っ先に犠牲になってこいって真顔で言えるやつらばっかだ」 ほんの一瞬、ほんの一瞬だがセイの雰囲気が変わった。 やけに実感のこもった言葉が重く聞こえたが、気がついたときには酔っただらしない顔をしていた。 セイ以外の誰もが目を丸くして、先ほどセイが浮かべた表情と今のセイの表情を見比べている。 「ふっ……俺に惚れると焼けどじゃすまないぜ」 「死ね、勘違い馬鹿!」 フレイが勢い良く罵ったため、先ほどのセイの表情は見間違いかと誰もが結論付けた。 「とにかく、精神的なものを無視してまでこんな奴を仲間にすることないわ。却下、それ以外にないわ」 頑として譲らないフレイは、勝手に結論を下すと部屋へ荷物をとりに戻ってしまった。 アムルは酷く残念そうに、セイを見上げた。 本当は男の仲間が欲しかったのだが、姉がああでは仕方が無いと諦める。 「兄ちゃんごめんね。俺は一緒に行きたいんだけど……」 「まあ、仕方ねえな。確かに精神的なものを無視してまで俺と一緒にいる理由はないし」 「理由ならあるよ。俺が兄ちゃんと一緒に旅したい!」 ストレートなアムルの意見に、ふっとセイが笑った。 「そうだな。でも、まあ……すぐ会えるさ。すぐにな」 アムルの頭をなでながら、セイは意味ありげに呟いた。 そこに含みがあることまではアムルは読み取れず、レーベにまた寄る事があったら会いに来る事を約束した。 レーベを出てからも、アムルは何度も何度も振り返っていた。 会って一日すらたっていない相手なのに、アムルは妙にセイの事が気になっていた。 単に男の仲間が欲しかったのもあるが、それだけではないような気がしていた。 「結局あの宿は父さんにとって行きつけだったってだけなの?」 「女将が言うにはそうらしいな。アムルをみてすぐにオルテガの息子だとわかったのも、オルテガが同じサークレットを付けていたのを見たことがあったかららしい」 「あのサークレット母さんの手作りだもんね。あ〜あ、どうせなら私にも何かくれたっていいのに。昔使ってた杖とか法衣とか」 「ピーーッ」 言葉ほどには残念そうに思えない程度にフレイが呟くと、肩に乗っていたキーラが急に後ろを振り返り叫んだ。 またアムルがレーベを振り向いていたため、レンとフレイの歩みから送れたらしい。 いい加減苛立ったフレイが、しかりつける様に言う。 「ちょっとアム、いつまであんな奴気にしてるのよ。早めにでたからって、ゆっくり歩いてたら着くのが夜になっちゃうわよ」 「うん……ねえ、やっぱり兄ちゃんに一緒に来てもらうのは駄目?」 「その問答はこれで四回目よ? 駄目ったら駄目。あんなのいたって百害あって一利なし」 「なんで? だって兄ちゃん回復呪文ができるじゃん。一利どころか何利にだってなるよ」 「そういう問題じゃなくて、アムの教育上よ」 最後の台詞はポツリとだったが、一番フレイが気にしている事であった。 「とにかく、この討論はもうお仕舞い。いいから忘れなさい」 「ん〜〜〜……姉ちゃんの馬鹿」 「すねても駄目」 勝手に討論を切り上げると、フレイはさっさと先に歩いて行ってしまう。 すねたアムルを放ったらかしにしてしまう程に、セイと同行するのが嫌らしい。 ポツンと残されたアムルは俯いて、その足が完全に止まってしまっていた。 そんなアムルを見かねたレンが仕方が無いとばかりに、アムルの頭に手を置いた。 「アムル、私は諦めろとは言わないが、今はこれ以上何も言うな。タイミングが悪いし、フレイが意固地になるだけだ」 「でも兄ちゃんすごく良い人なのに、姉ちゃんが悪口ばっか言うし」 「良い人? 確かに、リンチされたとは言え私たちを庇っての行動だったしな」 「半分寝てたからたからうろ覚えだけど。それだけじゃないよ。結局兄ちゃん一人が怪我しただけで、全て納まったじゃん。あのままレンと姉ちゃんがケンカしてたら絶対周りを巻き込んでたよ」 確かにそう取れない事もない、だが。 「どう見ても、アレは普通に手も足も出ずにリンチにあったようにしか見えなかったが……」 真相がどちらであるかは、本人に聞かなければわからない。 さらには、セイが本当の事を喋ればであるため、結局は無意味な議論であった。 「例えそうでも、今は間が悪い。後で私が良い案を考えてやるから、今は歩け」 「うん、ありがとう」 やっとアムルが笑うと、レンの手を握って歩き出した。 せっかく笑ったのに離せとも言えず、されるがままでいるとフレイが射殺しそうなほどに繋がれた手をみていた。 (私にどうしろと言うのだ) レンは空いている方の手で思わず頭を抱えそうになったが、すぐにある事に気付いて視線を上げて遥か前方を見上げた。 「地震? いや、違う。何かが爆発した?」 レンが感じた振動のようなモノはとても微細なもので、気づけなかったフレイとアムルは急に顔色を変えたレンを不思議そうに見ていた。 すると遠くを眺めはじめたレンの視界に空へと上っていく一筋の煙が見えた。 それは生活によってできるときの白色ではなく、何かが勢い良く燃えるときの黒色に染まっていた。 煙が上がっているのは、今自分達が向かっている誘いの洞窟方面である。 「フレイ、アムル。走るぞ!」 レンの視線の先にある黒い煙を見たことで、さすがに二人も何かが起こっている事に気づいていた。 返事は頷くだけにして、レンの後を追い走り始める。 平坦な草原を駆け抜け、なだらかな丘を登り駆け続けていく。 半分以上はきただろうが、まだ誘いの洞窟への距離は十分過ぎるほどにあるのに、フレイとアムルの息が切れ始めた。 「チッ」 立ち止まって振り返ると思わず舌打ちしてしまったレンだが、二人から反論は上がらなかった。 息が切れた等と弱音を吐いている場合ではないと、わかっていたからだ。 「ん? ……」 自分だけでも先に行って何が起こったのかを確かめるべきかと、前に向き直ると誰かが向こうから歩いてきた。 アリアハンの兵士のようだが、血が流れた右腕を力なく垂らしたまま左手で支えていた。 足取りもかなり危なっかしく、目に見えている所意外にも怪我をしているのかもしれない。 「おい、大丈夫か!!」 「あ、あぁ……」 レンが駆け寄ると、兵士はレンにもたれる様に倒れこんできた。 そのままうわ言のように、途切れ途切れに呟いた。 「陛下に、伝えな……け……れば…………盗賊が、誘いの洞窟を………………ウッ!」 「解ったから、喋らないで。いま薬草を」 「いや、無駄だ。この傷の深さでは、薬草は無意味だ」 「私の事は、良い……陛下に…………」 火傷や切り傷の痛みに体を痙攣させながらも、男は自らの使命を果たそうとしていた。 助けてやりたい、だがこの中で唯一回復呪文ができるアムルも、これほどの重症は治せない。 だから、アムルはつい口に出してしまった。 「兄ちゃんが、いれば」 アムルの言葉に目を見開いたフレイが、弾かれたように誘いの洞窟へ向けて走り出した。 「姉ちゃん!」 「待て、フレイ! くっ」 レンも止めようとしたが、兵士を抱えていたため追いかけ損ねる。 このままここにおいていくわけにも行かず、レンは自分の道具袋から万が一の為にと買っておいた物を握らせる。 「おい貴様、ここにキメラの翼がある。一般人でも誰でも良い、伝言を引き継いで貴様は休め」 「す、すまない。アリア、ハン……へ」 キメラの翼を受け取った兵士が呟くと、その姿が魔力の球体に包まれて空へと上がっていく。 空へとのぼり切ったかと思うと、その魔力の球はアリアハン方面へと飛んで行き、視界から消えていった。 これで死ぬような事は無いだろうがと見送ったのは一瞬、レンはすぐさま思考を切り替えた。 「追うぞ、アムル。フレイを止めるぞ!」 「うん!」 分にも満たぬ間をもってフレイを追いかけた二人。 あまりにも急で、予期せぬ出来事の連続に誰も気づいていなかった。 この丘の草の中に、流れる風とは間逆になびく不自然な草があったことに。 誰も気づいていなかった。
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