第二話 記憶を失くした子猫
 お世辞にも広いとも綺麗とも言えない一人暮らし用のアパート。
 住み着いて何年になるかはわすれてしまったが、全くの他人が足を踏み入れたことはなかったはずである。
 重症と呼べるほどの怪我を負いながらテーブルの椅子に腰掛けていたトレインは、腹部に巻かれた包帯へと触れながら首を回した。
 本来ならば自分が寝ているべきであるベッドには小さな膨らみが小さな寝息と共に体を上下させていた。
 今回自分が始末したターゲットの子供。
 闇医者の治療を受けた後も、何処かに捨ててくると言う選択肢が浮かぶこともなく、そのままにしてある。
 傷による熱で少しぼうっとする視界の中で視線を動かし、テーブルの上においてある小さな銃を手に取った。
「ガキの頃から持ってるもんって言ったら、これぐらいのもんだな」
 それは両親と普通の生活を奪ったザギーネから一番最初に与えられた子供用の護身銃。
 机の引き出しの奥に眠っていたものを引っ張り出してきたのだ。
 もう十年以上整備されておらず、子供の手では引き金が引けないほどさび付いていた。
 錆び落としや油を引っ張り出し整備し終えたのが少し前、一体整備してどうしようかと言う思い投げ出したのがたった今。
「本気でザギーネと同じことしようって言うのか。俺のときよりも小さくて、男でもねえんだぞ」
 自分の時は確か八歳前後の頃で、両親を殺された怒りを胸に無謀にもザギーネへと銃を構え撃ち放つぐらいはやってのけた。
 最初から素養があったかまでは覚えていないが、殺気だけは一人前だというザギーネの呟きを覚えている。
「止めだ、意味がねえ。このガキはその辺に捨てる。一度捨てようとした命を救われたような気もするが、だからってこっちが拾ってやる理由もねえ」
 立ち上がる際に痛んだ腹部のせいでよろめき、とっさにテーブルに手をつき支える。
 つまらない任務でつまらない怪我を負ったものだと舌打ちをし、子供用護身銃を手に取りもとあった机の引き出しの奥へと乱暴にしまいこむ。
 そのままベッドに歩み寄ると、小さな膨らみを作り上げているシーツを剥ぎ取る。
 包み込まれていた暖かさが消えたせいか、余所行きの洋服に身を包んだ幼い少女が体をさらに小さく丸めていた。
 普通の人間ならば保護欲を刺激されていたかもしれないが、トレインはそんな言葉何処か遠い場所へ置いてきた暗殺者である。
 自分の目の届かない何処かへと目の前の幼い少女を捨てる。
 そう決めて幼い少女を持ち上げようとした手であったが、ピタリと止まってしまう。
「ん……」
 身じろぎし、もぞもぞと動く幼い少女。
 再び無造作に持ち上げようとトレインが手を伸ばすと、パチリと何の前触れもなく幼い少女の瞳が開いた。
 まだ少し眠そうに瞼が落ちかけていたが、すぐに開きまっすぐトレインの瞳を下から覗き、ふにゃっとその顔が笑った。
 その笑みに完全にトレインの手は止まってしまった。
 怒りや脅え、父を殺され幼いながらにも負の感情を浮かべるならまだしも、何故自分を見て笑ったのか。
「おはよう、パパ」
「なに?」
 驚きに固まるトレインの目の前で体を起こした幼い少女は、辺りをキョロキョロと見渡し少し首を傾げる。
 ここが何処なのか良く解っていないようで、頭を抱えながらうんうん唸り始めた。
 どれぐらいそうしていたことか、きりがついたのかあっと声を挙げる。
「思い出した。私、シルビア。変なの自分の名前忘れるなんて。ここ何処、パパ?」
「俺のアパートだ」
「あ、ぱーと?」
「家のことだ」
 まだ事態を理解し切れていないトレインは、シルビアの問いかけに言葉短く答えていた。
「じゃあシルビアのお家。なんだか前と違う気がするけど、パパがいるからここがシルビアの家」
 何が嬉しいのか、シルビアはわっと声をあげ両手を挙げた。
 あまりその行動に意味はなかったようで、すぐにあまり喋らないトレインを見上げ小首を傾げ始めていた。
「どうしたの、パパ?」
 目の前の少女は記憶がない。
 一時的な混乱なのかもしれないが、原因は目の前で父親を殺されたショックに他ならないだろう。
 それで殺した本人を父と呼ぶのはどういった皮肉か、もはや笑うしかなかった。
 捨てようとした気持ちを踏みつけ、大声は出さずに心の中だけで笑いつくす。
 手の平で顔を覆い打ち震えるトレインを最初はどうしたのかと見ていたシルビアであったが、直に飽きたのか両手を広げてせがんできた。
「パパ、抱っこして」
「また後でな」
 まるで本当の父親の様に言いつける様にシルビアの頭に手を伸ばそうとしたトレインであったが、玄関のドアをノックされその手を止めた。
 剥ぎ取ったシーツをシルビアの腰まで掛けなおし出向く。
 警戒心なく玄関へと向かったのには、ドアをノックした人物に心当たりがあったからだ。
 玄関のドアを開ければ、予想通り怪我を負った自分をここまで運んだセフィリアが紙袋を両手にそこにいた。
「悪いな」
「どうせすることのない休暇でしたから。私は本部や拠点に住まいを持っているので、普段しない日用品や食料の買出しはある意味新鮮でした」
 本来ならば寝ていなければならないほどの傷を負ったトレインの代わりにセフィリアが買出しに言ってくれた、それだけである。
 紙袋を一つずつトレインに渡すと、これで用は済んだとばかりにセフィリアは長い髪を振りながら振り返り去ろうとする。
 所詮はただの同僚、たまたま重症の所をみつけ必要だからと手を貸したに過ぎない。
 ただ振り返り際に視界の隅にそれが目に入ったのか、セフィリアは直ぐに振り返りなおしていた。
 半分ほどしか開かれていないドアの向こうに居るトレイン、その足元に隠れ半分だけ顔を覗かせている幼い少女。
「起きてきたのか?」
「うん」
 恥ずかしいのかそれとも人見知りか、トレインの言葉に頷いたシルビアはもじもじとトレインの足に隠れてしまう。
 そう言えばトレインが幼い少女をさらって来たのだと思い出し、セフィリアは視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
「こんにちわ」
「こ、こんにちわ。あの……」
「はい、なんでしょうか?」
 女として可愛らしい少女は嫌いではない、そんな意味を込めたわけではないがセフィリアは笑みを浮かべ答えていた。
 以後トレインがこの幼い少女をどうするかは深く考えず、今ここにいる少女へと問い返す。
「ママ?」
 きょとんとした表情を見せるセフィリアというのも、酷く珍しいものであったことだろう。
 その後は少し難しい顔で眉根をひそめた後で、素直に助けを求めるようにトレインを見上げていた。
 セフィリアも全てを見ていたわけではないが、トレインがこの幼い少女を暗殺の現場から連れ出したことぐらい察していた。
 理由も意味も知らないし、知る必要もないと思っていたが、さすがにママと呼ばれては知らないままにはいられなかった。
「トレイン、この子は?」
「今日のターゲットのだ。一時的なものかはわからねえが、記憶がこうらしい」
「そうですか」
 本人の目の前なだけに明言は避けられていたが、セフィリアにとっては十分であった。
「申し訳ありませんが、私は貴方のママではありません」
「ママじゃない?」
 はいそうですと肯定の言葉を返そうとしたセフィリアであったが、子供というものがどういう生き物なのかを知らなかった。
「いや」
 トレインのズボンを握り締めたシルビアは、違うと言うセフィリアの言葉を拒み、ぐじりと涙を浮かべ鼻をすすった。
「ママだもん。パパがいるからママだもん。ママじゃなきゃいやだ!」
「いやだと言われましても、事実は変わりません」
「やだやだやだやだ!」
 冷静に諭そうとするセフィリアであるが、論理的な会話が成立しなのが子供である。
 どんな理屈が存在し、正しかろうと嫌なものは嫌。
 どういい含めれば良いものか、困ったようにもう一度セフィリアはトレインを見上げていた。
 お手上げと言うやつである。
「とりあえず、部屋に入ってくれセフィリア。玄関先で泣き喚かれるのが一番まずい」
「そうですね、では少し失礼します」
 こうしてトレインの部屋に上がりこんだ人間は、今日というこの日にゼロから二人へと増えた。
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