深夜、すっかりあたりは闇に包み込まれ、昼間はビジネスマンなどの人ごみがごった返すはずのビル街は、人通り一つない。 今頃の時間帯であれば、ビジネスマンはとうに家で団欒の時間だからであるが、理由はそれだけではなかった。 女斬り裂きジャックとでも言おうか。 ビジネスマンばかりを狙う、賞金首三百万イェンがビル街に徘徊するようになってから、夜の人通りは絶えて久しい。 そんなビル街を顔色一つ変えずに歩くのはスヴェン・ヴォルフィード。 今回の釣り作戦にぴったりのスーツ姿の男であった。 「こちらスヴェン、以上はない。そっちから姿の確認はできるか?」 耳に仕込んだ小型の通信機に問いかけると、しばらくの間を空けて返答が返ってくる。 『人影は特にないよ。まだみたいだけど、スヴェン大丈夫?』 「釣りをやると決めたからには、誰かがやらなきゃいけないからな。それに俺がエサ役だから、ギャンザの時より安心している。トレイン、そっちはどうだ?」 今回監視役のトレインとイヴは、エサ役のスヴェンが歩く通りの両側に立ち並ぶビルの間、もしくは屋上から見張っている。 つまりイヴとトレインは完全に居場所が離れており、肝心のトレインからの返答が返ってこない。 故障でもしたのかとスヴェンが不審に思った直後、静寂一点張りであったビル街の中で金属同士がぶつかる甲高い音が響き渡る。 たった一度のそれではあったが、スヴェンが声を大きくしてイヴに言った。 「イヴ、音が聞こえた方に行ってくれ。俺も直ぐに向かう。もしかすると」 『空飛んでも良い?』 「このさい問題ない」 スヴェンが答えた直後、純白と金色の両極端な配色を持った輝きが頭上を越えていくのが見えた。 トレインが一向に連絡をしてこない事から、スヴェンは最近衰えを感じる事もある足を最大限に動かした。 ビルとビルの間の狭い道を、時に転がるゴミを蹴飛ばしながら走る。 何個のビルの間を進んできたのか、目的地が見えたときには、スヴェンの予感が当たる光景が広がっていた。 一人の女性を前に、呆然と立ち尽くすイヴとトレイン。 女性の足元に転がるのは、昏倒したもう一人の女性。 三人とも何も言葉なく立ち尽くす中で、女性は持っていたサーベルを鞘に納めてから囁く様な声で言った。 「あら偶然ですね、皆さん」 本当に偶然かよと言った顔をしているトレインとスヴェンを前に、セフィリアは続けた。 「通りがかった所に不審な女性がいたものですから。私が思うに、この方は賞金首だったはずですね。私は忙しい身なもので、よろしければ差し上げます。それでは」 去り際にトレインに意味ありげな視線を送って、夜の闇へと消えていったセフィリア。 三人はそろってその姿を呆然と見送りながら、立ち尽くすばかり。 かなり長い時間、セフィリアが見えなくなってからも見送っている中で、ポツリとトレインが呟いた。 「今回で、その偶然は何回目だったっけ?」 「俺の記憶が正しければ、五……いや、六」 「七回目だよ、スヴェン。あの人が偶然、私達の仕事現場に現れて。偶然、私達より犯人に遭遇して捕まえて、偶然居合わせた私達に犯人を渡すのは」 確認するというよりも、指摘するように言葉を端々で止めながらイヴが言い、スヴェンは何度も頷き続けていた。 「七回目か」 「七回目だよ」 そう呟きあったスヴェンとイヴは、去り際にいつもさりげない視線を送られるトレインを見た。 視線に気づいているのか、いないのか。 当のトレインは、珍しい事に笑顔が消えたように顔を引きつらせており、お腹の中に色々溜め込んでいるようであった。 それもそのはずで、犯罪者を捕まえるのはトレインにとっては仕事と言うよりも、半分趣味である。 毎度毎度、先に犯人を捕まえられて面白いはずがない。 「俺になんの恨みがあるって言うんだ。セフィリア!」 珍しく怒声に近い叫びをトレインが上げるも、ビル街にむなしく響くだけであった。 「まあ、俺は安全に犯人を捕まえられて、良い面もあると思うがな。婦女子に守られていると言う点を除けば」 「私も今回はスヴェンが危ない目にあわなかったから、感謝しても良いと思う」 「甘い、甘いぞスヴェン。それに姫っち。なんかこう、はめられている気がしてこないか。こう、見えないところで何かが」 「トレインが疑心暗鬼、ちょっと珍しいから面白い」 「相当うっぷんが溜まってるな。今回は金額もなかなかの物だし、好きに食わしてやるか」 偶然を主張するセフィリアに対して、不安ばかりを増長させているトレインは頭を抱えたりと、少し普段と様子が変わってきていた。 単にセフィリアがトレインに会う理由を作るためだけにと、そもそも考えるはずもない。 できる事なら少しは感謝や、好意をというセフィリアの思惑とは裏腹に、トレインの心は真逆へと進もうとしていた。 最強の剣術家であると同時に、策士でも知られるセフィリアであるが、色恋にまでは応用できなかったらしい。 その証拠に、偶然を特に強調して去っていったセフィリアは、頬を紅潮させながらビル街を駆け抜けていた。 「少し、トレインと目が合ってしまいました。何度も重なる偶然の出会いに、間違いなくトレインの目は変わり始めていますね」 色々な意味で周りが見えていないのではと思う程に、セフィリアは一直線に突き進んでいた。 その日はもう遅いと言う事で、犯人を受け渡してしてすぐにアジトに帰る事になった。 スヴェンの大盤振る舞いはその翌日となり、トレインの我侭から午前中から食事に出かける事となってしまった。 一度決めた事であり、次の仕事もない中で断る理由もなく、イヴも含めてご飯を食べに出かけた。 出かけ先は昨晩のビル街に近い、昼食時のビジネスマンを狙うお店であった。 さすがに午前中ということもあって開いている店も少なかったが、なんとか空いているお店を見つけて入り込む。 開いているというだけで、お客は他に一人であったが、気にせずテーブルに座る。 「まあ、偶にはと言う事で今日は俺は止めないから、好きに食え」 「後で後悔しそうな台詞だね。良いのスヴェン?」 「目の前のトレインの姿を見たら、さすがにな。たぶん後悔はしない」 言い切ったスヴェンの言う通り、トレインは昨晩よりもうっぷんが溜まったのか、疲弊したような顔色になっていた。 この男でもストレスを感じて生きているんだなと失礼な事を二人が考えていても、ややトレインの動きは緩慢であった。 食前にミルクを頼むところなどは何時も通りであるが、態度がいつも飯屋に来る時のそれではない。 頼んだメニューもパスタ一皿と、らしくない所か、心配になってくるほどである。 「トレイン、心配してるみたいだから言いたくないけど。大丈夫?」 「何言ってんだ姫っち。俺はこの通り、大丈夫だぜ。何時も通り!」 グッと握りこぶしの親指をつき立てて笑っているつもりだろうが、親指がぽっきり折れていた。 かなり末期なのではとイヴとスヴェンが見合う中で、突然の悲鳴が響く。 「食い逃げよ!」 叫んだのは先ほどメニューを取りにきたウェイトレスであり、逃げ出したのはトレインたちとは別に一人だけ店内にいた男であった。 いきなりの事でスヴェンとイヴは立ち上がる事もできなかったが、トレインだけは違っていた。 つい先ほどまで死にそうになっていた瞳を輝かせ、外へと飛び出した男を目で追っていた。 今スヴェンとイヴの目の前には、いつものトレイン以上に明るく騒がしい男がいた。 「待っちやがれこのやろお。この俺の目の前で食い逃げられるとでも思うなよ。と言うわけで、行ってくるぜ!」 「壊れた」 冷静なイヴの突込みが終わらないうちに、トレインはお店の外へと飛び出していた。 すぐさまロックオンしていた食い逃げ犯を追って通りを駆け抜ける。 向こうも追いかけられていることに気づいたようであるが、食べすぎでもしたのかお腹を押さえて走りにくそうであった。 「もっとがんばってくれよ。このままじゃあっという間に追いついちまうぜ!」 「な、なんなんだ。この男は!」 トレインは捕まるという意味とは違う意味で、食い逃げ犯を恐れさせていた。 食い逃げ犯の背後にまで近づくと思えば、わざと距離を取ったり、回り込んだと思わせてまた背後に回り込んだりと遊んでいた。 偶発的な犯罪の検挙であれば、セフィリアが現れるはずもないと考え、少しぐらいは遊ぶのも仕方のない事であっただろう。 結果はどうであれ。 「さあて、そろそろ観念して俺にとっ」 久方ぶりの快感に酔いしれようと、ついにトレインが食い逃げ犯に手を伸ばした所で急に食い逃げ犯の姿が消えた。 遊ばれていたのはこっちなのかと、トレインが急停止すると、ものの見事に食い逃げ犯は地べたに転んでいた。 その足を引っ掛けたのは、驚き顔でトレインと食い逃げ犯を見比べているセフィリアであった。 「あ……トレイン。ちょっと待ってください。まだこの街にいたのですか。そんな予定では、ええっと。とりあえずこんにちわ」 どうやら今度は本当に偶然であったようだが、トレインにとってはそうではなかった。 「セフィリア、なんの恨みがあって。いや、このさいそれはもういい。なんだか何を怒っていいのかわかんねえけど、とにかく俺の楽しみをこれ以上邪魔すんな!」 「邪魔、ですか?」 「楽しみを何時も横取りされて喜ぶ奴はいねえよ。だか、ら…………あれ、セフィリア?」 それ程きつく言ったつもりはなかったようだが、明らかにセフィリアはショックを受けた様子であった。 何時もより大きく見えた瞳が潤んでいるのは気のせいか、言葉に詰まったトレインは自分が悪いように感じてしまい狼狽していた。 そこへ追いつくようにスヴェンとイヴがやってくるが、事態は好転しなかった。 「食い逃げ犯を捕まえに言ったと思えば、レディを泣かせるとは何事だトレイン!」 「ぶっ、泣いてない。まだ!」 殴られた頬を押さえながら主張するも、「まだ」と言ってしまった時点で悪役はトレインに決定してしまっていた。 「イヴ、ひとまずセフィリアを頼む。俺はトレインにみっちり紳士としての道理を叩き込んでやる」 言われたイヴは、違う気がしたもののセフィリアの背に手を添えて少し離れた場所へと連れて行く。 スヴェンは自称紳士であるから、セフィリアが泣きそうな雰囲気を出しているだけで勘違いをしたが、イヴは違った。 ちゃんと事態を把握しようと試みてみた。 「あの一体何があったんですか?」 「邪魔をしているつもりはなかったんです。ただ喜んでもらえると思って、それにトレインに会える理由にもなるからって」 それを聞いたイヴは、頭を抱えた後に、浮かんできた考えを打ち消したくなっていた。 セフィリアの短い台詞から、経験の少ないイブにも感嘆に導く事のできる答え。 問いただしたくはなくても、トレインがスヴェンにボコボコにされている以上、聞くしかなかった。 「もしかしてトレインのこと?」 同姓だからだろうか、躊躇った後にコクンと頷かれ、イヴはよりにもよってとセフィリアに見えないように物好きなと言う顔をしていた。 一体何時の間に、どこでどう間違ってと諭してやりたい気持ちを押さえ込んで、イヴは言った。 「とりあえず、先に犯人捕まえるのはやめたほうが良いですよ。トレインの趣味みたいなものですから。あと会いたいのなら、普通にアジトに来てください。恥ずかしければ、表向きは友達である私に会いにきたと言うことで」 「そうしていただけるのなら、是非!」 先ほどまでの泣きそうだった雰囲気はどこへやら、セフィリアはイヴの手を取って目を輝かせていた。 その程度で泣き止む事ができるのなら、トレインがボコボコにされている意味は何処にあるのか。 トレイン以上に厄介な人なのではと思いながら、ひとまずイヴはトレインをボコボコにしているスヴェンを止めに入っていった。
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