第二話 笑顔の理由
 それはとても珍しいことであった。
 必要最小限、可能な限り効率の良さを重んじるセフィリアが、自分の手のひらを見て物思いにふけるというのは。
 手を怪我をしている様子もないし、セフィリアが何をしているのかはベルゼーには図りかねた。
 だが本来セフィリアが見るべきなのは、彼女の手元に置かれた書類であり、自らの手などではないという事は知っていた。
 セフィリアが座る執務机の前に立つこと十分、ついにベルゼーは切り出した。
「休暇中に、何かあったのか?」
「いえ、何も……と隠すのも怪しいですね。トレインに会いました。偶然ですが、思ったよりも良い休暇となりました」
「それはよかった。ならば、休暇が良かった分、働いてはくれないか? 物思いにふけるなど、普段の君らしくもない」
「私が? 物思いにふけっていたのですか?」
「そうだ」
 自分が物思いにふけっていたと言う自覚も内容で、セフィリアはベルゼーの言葉こそを疑っていた。
 ベルゼーはただ黙って自分の腕時計をセフィリアへと向けて見せた。
 入室時間からいって、確かに時計は十分程度進んでいた。
 時計の針を確認してようやく、物思いにふけっていたことに気づいたセフィリアは、急ぐ素振りを見せないままに目の前の書類を手に取った。
 慌てふためいた様子は微塵も見られなかったが、ベルゼーは直ぐにセフィリアから書類を取り上げる事にした。
「ベルゼー、どういうつもりですか?」
「再び休暇とはいかないが、少し息抜きをする事だ。それ程急ぎの用事であったわけではない。また後にする事にしよう」
「そう、お気遣い感謝します」
 今度こそ確実に自分の様子がおかしい事を自覚したセフィリアであったが、その症状までは止める事はできなかった。
 退室するためにドアを開けたベルゼーへと、気がつけば意味のわからない問いを投げつけていた。
「ベルゼー、貴方はどのような時に笑いますか?」
「それは任務に関係する事か?」
「いえ……疲れているようです。忘れてください」
 馬鹿みたいな問いかけだったと、セフィリアは自分の感情の揺れが誰のせいなのかようやく思い当たる事になった。
 着物を着た自分へと笑ってみろと言ってきたトレイン。
 あの日から数日たった今でも、実際に手が繋がっているように温もりを感じる事がある。
 錯覚だとわかっていても、笑ってみろと言ったトレインの言葉が頭から離れない。
「必要があれば笑い、必要がなければ笑わない。私にとってはその程度だ。この答えで満足か?」
「十分です。普段の私であっても、そう答えるでしょうね」
「ならば私が次にこの部屋を訪れる時は、普段の君に戻っている事を願う。以上だ」
 ベルゼーが部屋を出て直ぐに、セフィリアは大きな溜息をついていた。
 それすらも普段の自分らしくない行為だと思いつつも、止められず、止まらず、自分が自分ではないように思い通りに行かなかった。
 何度振り払おうとも笑ってみろと言ったトレインの顔が忘れられず、セフィリアはまず自分が笑えない事への解明を優先する事にした。
 自分がしっかりと笑えさえすれば、自然とトレインの台詞も忘れられるはずだと。
 そう決め付けるとセフィリアは内線の電話を手にとって、ある人物の部屋へと電話をかけた。
「私です。すぐに来てもらえますか?」
 電話の向こう側のお淑やかな声に率直言葉を伝え、電話を切ること数分。
「突然の内線、急務ですか。セフィリアさん?」
「急務と言えば、急務です。一つ答えてもらえますか。あなたはどんな時に笑いますか、シャオリー?」
「笑う、ですか?」
 やはりベルゼーと同じように、問いかけの内容に驚いたようであるが、すぐにシャオリーはセフィリアの目の前で笑って見せた。
 それは敵を油断させる時の、欺瞞に満ちた笑みであった。
 元々変装を得意とするシャオリーがそう言った種類の笑みを用いても仕方がなく、返答もセフィリアの思ったとおりの答えであった。
「質問の意図がわかりませんが。この笑顔じゃ、不満ですか? こう笑えば、色々融通が利きますけれども」
「その種の笑みは、私も意図して使う時があります。すみません、私の欲している答えとは違うようです」
「よくわかりませんが、ジェノスさんの方が適任ではないですか? ちょっと行って呼んで来ます」
 そう、確かにセフィリアはあの時、トレインの前で笑っていたはずだ。
 今のシャオリーのように特別欺瞞に満ちていたわけではないだろうが。
 ではトレインの言う笑いと、何が違うのか。
「セフィ姐、シャオに呼ばれてきたでやんすよ。もしかしてデートのお誘いとか?」
 悶々としたセフィリアの内面とは対照的な、何の悩みもなさそうな明るい声がドアを開くと共に放たれた。
 軽薄そうな笑みと口調を持ったジェノスは、確かにシャオリーの言う通り欺瞞には満ちてはいなかった。
 だが明らかに違うと思ったセフィリアは、ドアが開いて数秒で言った。
「もう、結構です。私の求める答えとは違う気がします」
「用件を聞く前に、冷たすぎるでやんす。セフィ姐、俺にも聞いてくださいよ」
 しつこく食い下がるジェノスに、一応聞いてやる事にした。
「ジェノス、あなたはどんな時に笑いますか?」
「そりゃもちろん、可愛い女の子たちをナンパする最中に決まってるじゃないですか。あ、もちろんセフィ姐と話してる今もそうでやんす」
「私と話している時……つまり私に独り言を言えと?」
「セフィ姐、お疲れでやんすか?」
 まさかと思い口にしてみた答えでは、ジェノスを心配させるだけであった。
 気の毒そうな視線が少し傷ついたものだが、追い払うようにジェノスを退室させたセフィリアは、何かが違うと思い始めていた。
 シャオリーの様な笑いは仕事用であり、ジェノスの笑いは完全に趣味の世界である。
 それ以前に、何故自分はここまで笑おうと努力しているのか。
 さらに男に聞いたのも間違いの始まりであるのかと、女性に連絡をとり、聞き方を変えてみようと思う。
 すぐに電話をとるセフィリアであったが、そこで行動が行き詰まる。
「ナンバーズは全員が男。ナンバーズ以外……リンスレット、ダメですね。私はあの娘に嫌われています。仕方のない事ですが。なら他に、そうですね。あの娘がいいでしょう」
 すぐに電話を取り直したセフィリアが電話をかけると、コール一回に満たないタイミングで電話が繋がった。
 さあ用件を伝えようとセフィリアが口を開けた刹那、向こう側からマシンガンの用に止まる事のない言葉が放たれた。
「あー、セフィリアさんだー。お久しぶりです。キョウコはムカついても我慢してますよ。何か用ですか? そうそう聞いてくださいよ。昨日買い物に行って、可愛い鞄みつけたんですけどお小遣い足らなくて。その代わり、可愛いキーホルダー買ってきたんですよ、黒猫の。おそろいです。そうだ、セフィリアさんも今度一緒に買い物に行きましょうよ。良い店一杯知ってるんですよキョウコ。どうですか? ダメですか? それならご飯はどうですか? 奢ってくれると嬉しかったり。あ、こっちに繰るならお土産はクロのご飯で良いですよ。外国の珍しいのが希望です。でもあんまり美味しい過ぎて、クロが好き嫌い激しくなっても困りますよね。そうなったらどうしましょう?」
「少し、私にも喋らせてもらえますか?」
 たびたび電話しているのか、キョウコのマシンガンに圧倒されることなく一言で銃口に言葉を詰め込み詰まらせた。
「いいですよー。どうぞ」
「あなたが笑いたいと思うときはどんな時ですか?」
 たいした質問をしたつもりはなかったのだが、突然電話の向こうが沈黙してしまった。
 キョウコが沈黙するなど、今までなかった事なのでさすがにセフィリアも戸惑いを隠せなかった。
 電話の向こう側へと呼びかけるべきか、迷って数秒、キョウコの絶叫にも近い感激したような声が届いた。
「大好きな人の前でに決まってるじゃないですか!」
 かなり耳に響いた声は、おさまる様子はなかった。
 だがセフィリアは受話器を耳から遠ざける事もなく、逐一キョウコの言葉に耳を傾ける事のもなかった。
 ただ一言、大好きな人の前でと言う言葉だけが何度もセフィリアの頭の中で響き続けていた。
 固まる事数秒、まだキョウコが喋っている途中で受話器を置くと、動揺を表すかのように無意味に立ち上がったり座ったり、部屋をうろついたりとし始めた。
「女性は大好きな人の前で笑いたい……私は、トレインの前で笑おうとしていた。つまり私はトレインの事が好き?」
 ベルゼー辺りがこの場にいれば、即座に勘違いだと言ってくれたであろうが、あいにくこの場にはセフィリア一人であった。
 勘違いが勘違いのまま、どんどんセフィリアの中で進んでいってしまう。
「しかし、何時の間に。トレインはかつては部下であり、今は何の関係もない身。でも、本当にでしょうか?」
 元々不安定気味であった精神状態で、自問自答を行う事でさらにセフィリアは深みへとはまっていっていた。
 手をつないだ手がいつまでも温かかったのも、その手を見て呆けていたのもそのせいだと思わされる。
 そうだったのではないかという疑問が、確信へと変わるのには時間は要らなかった。
「いえ、そう考えれば全てつじつまがあいます。私らしくない私。そう、私はトレインの事が好きだったんですね?」
 呆けていた時とは打って変わって目が覚めたように、セフィリアはすぐにベルゼーを呼び出した。
 その時に、先ほど読みかけであった書類を持ってこさせ、必要な仕事を何時も以上のスピードでこなしていく。
 なんのためにか。
 何よりもセフィリアらしく合理的に。
 好きならば会うために、その準備をする為に、その時間を作るために、セフィリアは猛スピードで仕事を仕上げていった。
「やる気になったのは良いが、倒れない程度にしておけ」
 そうベルゼーが心配するほどに。
 だが、そのような心配は一切無用とでも言いたげに、セフィリアの仕事への猛追は終わる事はなかった。

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