第七話 信念、それは背中に宿るものなの(前編)
 もちもちのお餅が笑顔を浮かべたとしたら、さぞ今のなのはとそっくりなのではと、すずかはお弁当箱からおかずを口に運びながら思っていた。
 端から見ると少しだらしなくも見える笑みをなのはは浮かべ、目の前のお弁当にはまだ一度も箸をつけていない。
 なのはがこんな様子を見せるようになったのは、意外にもあかねと喧嘩をした日の翌日からである。
 なにやらあかねの記憶が戻ったらしいのだが、あかね本人は家の都合とやらで三日前からずっとお休み中であった。
「フェイトちゃん、本当に何も知らない? やっぱりどう考えても、何か良いことがあったと思うんだけど」
「うん、あかねの記憶が戻ったこと以上は」
 確認の意味も含め、すずかが小声でフェイトに訪ねるもやはり答えは変わらなかった。
 それにフェイトの言葉は、なのはが未だにサイドポニーの髪型でいることが証明していた。
 約束は果たされていないものの、それに匹敵する程に良いことがあったのか。
 解らないならば、なのは本人に尋ねるのが一番手っ取り早いのは誰の目にも明らかであるのだが、容易にそれが行えない理由があった。
 にへらと笑うなのはの隣にいるアリサである。
 天国と地獄、これほどまでに容易く想像できる対比図があるものであろうか。
 アリサは箸の先にちょこんとご飯やおかずをのせては、ぼそぼそと不味そうにご飯を口元に運んでいた。
 瞳にも何処か暗い光が宿っており、時おり箸を動かす手が止まったかと思えば、ミシリと不必要な力が込められた音と共に呟きが耳に届く。
「ユーノの馬鹿、ユーノの馬鹿、ユーノの馬鹿」
 それのみを繰り返し呟いていたアリサの目は、完全にすわっていた。
 ほぼ半年振りに海鳴市に来た恋人が、数日と経たない内に、連絡もないままに帰ってしまったのだから仕方のないことかもしれない。
 その理由がお仕事だと聞かされてはいても、納得なんてとても出来なかったのだろう。
 そんなアリサがいるからこそ、幸せ真っ只中に見えるのなのはに、その理由を尋ねることが出来ないでいた。
「うん、見ない振り、見ない振り」
「ん?」
 視線を微妙に目の前のなのはとアリサからずらし呟いたすずかに対して、フェイトが小首をかしげていた。
 なんでもないと首を振ったすずかは、何か他の話題を探し考えをめぐらせる中で、ピッタリのものを見つけた。
「そう言えば、今日はアリシアちゃんとは一緒じゃないの?」
 幾度かお昼の時間にお話したペンダントが、フェイトの胸にないことに気付いて訪ねた。
「傷も直ったし、今日はあかねに母さんの所に連れていってもらったんだ。アリシアはユニゾンデバイスで、本来は人の姿になれるらしいんだけど本人が良く解ってないから、外側から調整してやり方を教えるんだって」
「ん〜、ちょっと良く解らないかな」
「私も詳しく解ってるわけじゃないけれど、簡単な手術みたいなものかな」
「そうなんだ、上手く行くといいね」
 心の底からそう言ってくれたすずかに、フェイトがありがとうと答えた所で、携帯の着信音が鳴り響いた。
 ビクリと体を震わせたのはフェイトであり、その驚き方がまだ携帯に慣れていないことを表していた。
「フェイトちゃん、マナーモードにしておかないと。先生にばれたら取り上げられちゃうよ」
「気をつける。あ、母さんからだ」
 本局にいながらどうやって地球の携帯電話に連絡を入れられたかは不可解であったが、二つ折りの携帯を開いて届いたメールを開く。
 文章の前半は、たまには本局に寄って顔を見せてくれと言う内容であり、後半にアリシアの調整が上手く行った旨が書かれていた。
 添付されていた写真には、プレシアとアリシアが、あかねたちと一緒に写されていた。
 デバイス部より分離されたアリシアの姿は、一緒に写るプレシアたちとの対比から三十センチ程度であろうか。
 本当にこれでは姉ではなく妹なのではと思いながら、フェイトはこみ上げる笑みがとめられなかった。
「上手く行ったって?」
「うん、ほら」
「あ、本当……あかね君、ユーノ君?」
 フェイトと瓜二つのアリシアを見て呟こうとしたすずかの言葉が躓き、知り合いの男の子二人の名前を呼んで止まった。
 だが体だけは鋭敏に動き、フェイトの携帯電話を二つに折りなおし、その袂へと返していた。
 突然どうしたのかときょとんとしているフェイトに愛想笑いをしつつ、振り返る。
 どうか先ほど呟いた二人の男の子の名前は聞こえていませんようにと祈りながらであったが、それは無茶なお願いであったようだ。
 なのはもアリサも、好きな男の子の名前が呟かれるのを聞き逃すはずがなかった。
「ごめんね、あまり話し聞こえてなかったけれど。あかね君も写ってるの?」
「私も見せてもらっていいかな、フェイト」
「うん、構わないよ」
 ことの重大さが良く解っていないフェイトが素直に携帯を渡してしまい、すずかは終わったと率直な思いを胸に抱いていた。
 そしてそれは不幸にも、間違いではなかった。
 少し離れた場所にいる恋人が写っているとウキウキしながら、携帯を開いた二人がピシリと固まった。
 買ったばかりのフェイトの携帯を壊すようなことはなかったが、動揺と怒りを表すようにプルプルと震わせていた。
「あれ、見間違いかな。あかね君が、綺麗なお姉さんに抱きつかれてるように見える」
「奇遇ね、なのは。私も自分の所有物が誰とも知れない女に弄ばれてるように見えるわ」
 メールに添付されてきた写真には、プレシアとアリシアを中心に、淑やかそうな女性にしなだれかかられているあかねと、何故か頭部を甘噛みされているユーノが写っていた。
 一応二人は嫌がる様子を精一杯写真に写りこませていたが、二人の恋する乙女には全く意味がなかったようだ。
「ありがとう、フェイトちゃん。とっても良いもの見せてもらったの」
「本当に、戻ってきた時が楽しみだわ……」
 フェイトに携帯を返しながら、全く同じ笑みを見せるなのはとアリサ。
 動揺、怒り、やるせなさ、様々な感情を押し殺した笑みは、ある意味で綺麗だったかもしれない。
 だからフェイトは良いものや戻ってきた時が楽しみと言う言葉を、素直にアリシアを指したことだと思いどういたしまして、ありがとうと答えていた。
 ただ一人すずかだけが二人の感情を理解していたが、二人が写真を見ることになった切欠を作ることになった自分は悪くないと、自己防衛をするぐらいしか出来なかった。





 恐ろしい勘違いをされたあかねとユーノであったが、写真にどのような姿が映っていようとも、二人は真面目に自分の成すべきことをしていた。
 ユーノは世界の記録が埋まるとも言われる無限書庫にて闇の書に関する情報の収集、そしてあかねは訓練室で訓練に明け暮れていた。
 手に持つのは、アリアに用意してもらった訓練生用の簡易ストレージデバイス。
 ゴールデンサンやクロノのS2Uに比べると見劣りせずにはいられない一品であるが、処理の鈍重さが逆に訓練を行う上では丁度良かった。
 簡易デバイスの鈍重さを考慮に入れて、常に先を読んだ状態で魔法を使用せねばならない。
 その上、忙しいロッテやアリアがいない今のような状況では、二人が用意した訓練用の傀儡兵が相手のためなおさらであった。
「縛れ!」
「Long range bind」
 傀儡兵の中でも最速の動きを誇る空戦タイプ、やや離れた距離を考慮して選択した魔法を使用する。
 集束していく魔力の輪を感知した傀儡兵が、バインドから抜け出す為に翼をはためかせ急上昇した。
 下半身の一部でさえかすることなく逃げ出されたが、最初から織り込み済みのことであった。
 傀儡兵は高く飛びあがった位置エネルギーを内部に含み、急降下、あかねへと強襲してくる。
 いつもならばそこで防御魔法を展開しながら真正面からぶつかっていただろうが、あかねは距離を稼ぐように後ろへと飛んだ。
 そのままもう一度、簡易ストレージデバイスの杖先を傀儡兵へと向ける。
「Hoop bind」
 使用した魔法の確認の為だけに簡易ストレージデバイスから流れる音声。
 傀儡兵が迫り来る道筋へと合計三つのバインドを差し向けるが、若干左に逸れていた。
 傀儡兵もそれを理解したのか、あかねへと至る道筋を右へと修正し流れるように軌道を変えて飛んだ。
「よし、狙い通り」
 既に決着がついたかのような声をあかねが挙げた直後、傀儡兵は何の前触れもなく現れたバインドに体を縛られた。
 羽の自由さえも奪われ落下していく傀儡兵を見て、あかねはようやく上手く行ったと拳を強く握った。
 突然傀儡兵を縛り上げた三つ目のバインドは、空間にあらかじめ設置しておくタイプのバインド、ディレイドバインドである。
 設置した場所から動かすことはもちろん、対象が触れなければ発動もしないが、代わりに発動から縛り上げるまでがどのバインドよりも早かった。
 初めてバインドによる対象の捕獲に成功したあかねは心底喜んでいたが、まだ傀儡兵は活動を停止してはいなかった。
 それに加え更なるバインドで畳み掛けなかった結果、ディレイドバインドを引きちぎった傀儡兵が急上昇して襲い掛かる。
「あッ!」
「Protection」
 自他共に認める防御魔法の才能が、傀儡兵の持つ槍を止めてはいたが訓練としては失敗であった。
 完全なる油断だと、大きく溜息をついたあかねは一先ず傀儡兵へと向けて停止コードを発動させた。
「Activeity stop」
 簡易ストレージデバイスが発した音声の後、防御魔法へと槍を突き入れていた傀儡兵の動きが止まる。
 とは言っても落下防止の安全装置が働き、ゆっくりと滑空して床に足を透けてから本当の意味で活動を停止させた。
 あかねもまた同じように訓練場の床へと降り立つと、力を失くしたようにそのままぺたんと尻餅をついて足を投げ出した。
 本局に来た初日にロッテに気絶させられた後、目覚めて直ぐに訓練が始められたが、真っ先にアリアに指摘され決断を迫られた。
 今のまま欠陥魔導師でいるか、本当の意味で魔導師となるか選べと。
 つまりそれは攻撃魔法を使えるようになるかどうかと言う意味であり、迷うことなく欠陥魔導師と答えたら盛大な溜息をつかれた。
 それでも正規の生徒でも、管理局員でもないことを踏まえ、アリアにバインドをマスターするよう言われた。
「結果は可もなく、不可もなくと言う所ですけれど」
 捕まえ損ねた傀儡兵を見上げ呟いたあかねの言葉通り、攻撃魔法よりはよっぽど才能があるが、防御魔法に比べて見る影もない。
 つまりは至って普通の才能しかなかったと言うことだ。
 それでも防御魔法しか使えなかった時に比べれば、格段に戦闘の幅が広がり、足りない才能と技術は増幅魔法で補えばよい。
 だが傀儡兵さえ満足に捕まえられなければとても実戦、シグナムたちを相手には使えない。
 もう後五分休憩したら訓練を再開しようとあかねが時計を見上げていると、その直ぐ下にある訓練場の扉が開き、小さな何かが飛び込んできた。
「あかね君、お疲れさま」
「アリシア、駄目です今は抱きつかないで下さい。僕は汗だくなんですよ!」
 それがアリシアだと解るや否や、あかねは跳ね起き牽制の言葉を放つ。
 言葉が通じているのか、いないのか。
 三十センチほどの小さな体を手に入れたばかりのアリシアは、スキンシップを求めてあかねの隙を伺っていた。
 可愛らしく唸り声を上げながら隙を伺うその姿は、さながら小動物であった。
「後で一緒にシャワーを浴びればいいんだもん」
「アリシア、自由に動き回れて嬉しいのはわかるけれど。わがままを言ってはいけません。あかね君が困っていますよ」
「はーい。じゃあ、あかね君は後にして、今はお母さんにぎゅーってしてあげる」
 後から扉を潜ってきたプレシアへと矛先を変え、その胸に飛び込みアリシアは両腕を広げた。
 抱きつくと言うよりも単にくっ付いているようにも見えたが、プレシアに撫でられ満面の笑みをアリシアが見せている手前口にするのははばかられた。
「あかね君、アリシアが我がままを言って御免なさい」
「いえ、妹が出来たみたいで楽しいですよ。それで訓練場に足を運ぶと言うことは、調整が済んだんですか?」
「ええ、頼まれていた通りに。アリシアと別離させた通常のデバイス部分を、ストレージデバイスに。でもよかったの? ちゃんとしたデバイスマイスターに頼めば、インテリジェントタイプにすることも出来たのに」
「ストレージタイプで、よかったんです」
 アリシアの意識が取り出され、本当の意味で初代ゴールデンサンの抜け殻となってしまった金色の宝玉。
 フェイトのリボンを繋げ首飾りとなっているそれを受け取り、あかねは首にかけた。
「初代ゴールデンサンは、一人しかいません。その名前はアリシアが受け継ぎましたし、仮にこのデバイスに新たな知性を植え込んでも、僕はこのデバイスをゴールデンサンとは呼べません」
「あかね君、大丈夫。太陽のお兄ちゃんの分まで、私が頑張るよ。なんたってアリシア・テスタロッサ・ゴールデンサンだもん!」
 別れの言葉に答える暇もなく砕けてしまった兄貴分、あれほど大きな存在を失うことは生まれて始めてのことであった。
 今自分が抱える思いを、自分はもちろん他の誰にも味わわせたくはない。
 宝玉を握り締めながらいつの間にか表情を沈み込ませていたのか、アリシアが目の前で力説する様を見て笑顔に変える。
 こんなにも小さなアリシアがあれだけ大きな名前を継ぐ決心をしているのに、自分が立ち止まっている暇などない。
 少しでも早く、少しでも強く、全てを守れるように。
「貴方がそれで良いと言うなら、これ以上は何も言わないわ。それでそのデバイスの新しい名前は、どうするの?」
「もう決めてあります。G4U、クロノさんのS2Uから頂きました」
「どういう意味なの?」
 最初はS2Uの意味が解らなかったあかねは、アリシアの疑問に苦笑するしかなかった。
「ゴールデンサン・フォー・ユー。貴方の為に輝く太陽。デバイスを指す言葉であると同時に、あかね君自身をも指す言葉ね。とても良い名前だと思うわ」
「自分自身を指したつもりはないんですけれど……ありがとうございます、ちょっと嬉しいです」
 あかねは気恥ずかしそうに笑いながらお礼を口にすると、纏っていたバリアジャケットを解除した。
 カードへと戻った簡易ストレージデバイスをズボンのポケットに突っ込み、代わりに首に下げたG4Uを握り締める。
 様々な思い、戦わなければならない人たち、守らなければならない人たち全てを思い浮かべながら呟く。
「G4U、セットアップ」
「Stand by ready. Set up」
 もはや完全にゴールデンサンの面影もない起動音を耳にしながら、あかねの体は太陽に似た光の中に包まれていった。
 一度は私服へと戻った姿が、再びバリアジャケットへと変換されていく。
 運動に向いたノースリーブのシャツと半ズボン、そして両の手には甲の部分に宝玉が埋め込まれたフィンガーレスグローブ。
 感触を確かめ腕や足を動かす間に、もっとも重要なコートが上からかぶせられる。
 象徴とも言える黄金色のオーバーコート、裾をはためかせながら羽織ったあかねは自然と眼差しを引き締めていた。
「うん、とっても格好良いよあかね君。フェイトにも見せてあげたい」
「そ、そうね。とても、格好良いわ(若い子の感覚はよくわからないわ。私も年をとったのかしら……)」
 アリシアとは違い、プレシアはなにやら言葉に詰まった様子を見せていたが、あかねは気にせず訓練を再開しようと傀儡兵に向き直った。
 だがG4Uを通して傀儡兵の起動をかける前に、再び訓練場の扉が開かれた。
「あら、皆さんお揃いで」
 扉を開けたのはアリアであり、この場にプレシアやアリシアがいたことから、もしかしてと口にしてきた。
「あかね君の専用デバイスが届いたのかな? それなら少し時間もありますし、手合わせしてみましょうか。どれほどバインドを扱えるようになったのか、見てあげるわ」
「はい、お願いします!!」
 初代ゴールデンサンの話をして思い出したせいか、あかねの返事はことのほか大きなものとなっていた。
 事情を知るプレシアやアリシアにとっては、あかねの気合が入ることに何もおかしなこととは映らなかった。
 だがアリアにとっては、専用デバイスを受け取っただけにしては、少々異質なものに映ったようだ。
 そしてその勘違いから、ぽろっともらしてしまうことになった。
「もしかして、あのネズミ君から聞いちゃったのかな。十一年前の、クライド君のこと……」
 もちろんそれが何のことであるか、あかねもアリシアも解らずきょとんとしていたが、さすがにプレシアは知っていたようだ。
「ハラオウン家と、闇の書の因縁のことね」
「因縁って、なんですか?」
 気軽に口には出せないことなのか、話すべきか迷う様な素振りを見せたプレシアは、一度アリアに視線で確認を取ってから話し始めた。
「闇の書は、転生と再生を繰り返しながら主を変えていくロストロギア。百五十年の歴史を誇る管理局の歴史の中でも、何度も煮え湯を飲まされてきたわ。そして今回の事件の一つ前、十一年前にも一度、管理局は闇の書に遭遇した」
「その事件を担当したのが、私とロッテの父様であるギル・グレアム。当時は、艦隊指揮官という地位にあった。そんな父様の最も信頼する部下の中にクロノのお父さん、クライド君がいた」
「有名な話だわ。かのギル・グレアム、最大の戦果であると共に最大の失態。決して捕獲できないと言われた闇の書を捕らえ、だが逆にそれが悲劇の引き金となった。護送中に暴走を始めた闇の書、戦艦一隻が乗っ取られ艦隊全てに向けてアルカンシェルの砲撃準備に入った」
「その乗っ取られた戦艦の艦長がクライド君で、父様はクライド君が望むままにその戦艦をアルカンシェルで沈めた。そうしなければ、艦隊全てが沈みかねなかった。けれど父様は責任を取って艦隊指揮官を辞任。以後一線を退いてしまわれた」
 父親の命を奪った闇の書、以前駐屯地として使用しているマンションで見せたクロノの表情の意味がそれなのか。
 クロノは闇の書に対して拘りや、敵討ちにも似た感情を抱いているのだろうか。
 確かに憎むには十分過ぎるほどの理由があるが、あかねは違うと思った。
「クロノ君、可哀想。リンディさんも。闇の書なんてなければ」
「違うよ、アリシア」
「違う? でもだって、闇の書さえなければ事件そのものが起きなかったんだよ」
「闇の書のあるなしの方ではありません。クロノさんもリンディさんも、自分自身を可哀想だなんて思ってない。きっと二人が考えてるのは、二度と同じことが起きない様に事件を解決する。それだけです」
 そうなのかなと少し難しそうな顔をしたアリシアの頭を撫でつけながら、あかねはそうであって欲しいと思っていた。
 ユーノにでも聞かれたらまた、それは神聖視なんじゃないのかと言われたことだろう。
 神聖視、あるいは勝手な想像による押し付けであるかもしれないが、そうであると信じたかった。
 そんなあかねの気持ちを察してのことか、プレシアもまたハラオウン親子が抱く想いを口にした。
「そうね、あの子には私も一度叱られたわ。世界はいつだってこんなはずじゃないことばっかりで、ずっと昔から何時だって誰だってそうなんだって。あの子は、世界の残酷さを理解しながらも、世界そのものを憎んだりはしない。闇の書に対しても、きっと同じよ」
「ぶう、クロノ君凄すぎ。今一番太陽のお兄ちゃんに近いのはクロノ君かも。負けてられない、お母さん魔法教えて。私だってもっともっと凄くなれるもん。それであかね君とフェイトのお手伝いするの」
「それにはまず勘で魔法を使うことを止めないとね。ちゃんとデバイスとして、演算の結果で行使しないと。あかね君、私はアースラの方にいるから。デバイスの調子が悪くなったら、何時でも言ってちょうだい。もちろんなにか用がなくても、寄ってくれれば歓迎するわ」
「はい、G4Uありがとうございました」
 アリシアを連れて戻っていくプレシアを見送ると、あかねは一度大きく伸びをして体をほぐした。
 両腕を上に伸ばし、あたかも太陽を掴むような仕草を行う。
 プレシアが口にしたクロノの言葉。
 世界はいつだってこんなはずじゃないことばかりで、ずっと昔から何時だって誰だってそうなんだ。
 きっと、シグナムたちも闇の書が行うはやてへの侵食で、こんなはずじゃなかったと思ったことだろう。
 止めたいと思う、救いたいと思う。
 だからもっと力を、こんなはずじゃなかったと叫ぶ人たちを暖かく、眩しく照らすことの出来る光が欲しいと思う。
「絶対に闇の書を止めてみせる。アリアさん、手合わせの方よろしくお願いします」
 その為にも自分のバインドが、一流の魔導師相手に何処まで通じるのか試してみたい。
 その結果如何では更なる訓練を、そう思っての言葉であったが、手合わせを申し出た本人であるアリアの瞳が暗く沈んでいた。
「アリアさん?」
「あ、ごめんなさい。なんでもないわ」
 そう言ったアリアは訓練場の中央にいるあかねへと歩み寄りながら、一人呟いていた。
「闇の書はそんな簡単じゃない。思いだけじゃ誰も救えない、なにも解決できない。出来るのは、確かな手段と躊躇わない決断なの。そうだよね、父様」
 確認するような呟きは小さく、直ぐそこにいるあかねにさえ届かないようなものであった。

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