救世の王国と呼ばれる国が、この世界にはあった。 大小八つの大陸から成るこの世界の、とある大陸に山脈によって囲まれた深い森の中にその国はあった。 グランバニア王国。 天空の王者に認められし聖女ラナの生まれた王国である。 当然の事ながら未来も現在も過去も、輝かしい歴史ばかりがある国ではなかった。 だが現在は間違いなく、輝かしい歴史の真っ只中にある王国であった。 「拝啓父さん、母さん…………魔界を統べる王との戦いから二年。今日も空は青く、心地よい風が吹くほどに世界は平和です」 グランバニア王国は王城と街が一体化した特別な造りとなっていた。 元気に城下を走り回る子供や、賑わう商店と青い空に点々と落とされた雲を窓から同時に見下ろし、見上げたのはグランバニア王のリュカである。 見た目は何処にでもいる若造に見えないことも無かったが、優雅にノートに筆を走らす姿はどこか神秘的な雰囲気を秘めていた。 「でも」 それまでスラスラと動いていたペンが、行き場を失ったかのようにピタリと止まってしまう。 同時に、リュカが纏っていた神秘的な雰囲気が薄れていき、代わりにドロドロとした暗雲のような雰囲気が現れ始めていた。 何処からだろうか、雷鳴とは違うがドンッドンッと地鳴りのような音が聞こえてくる。 「でも……でもッ!」 プルプルとペンを持った腕が振るえ、手に持ったペンがミシミシと悲鳴を上げ始める。 そしてリュカの居た執務室の前で擬似雷鳴音が止まり、一気に爆発してドアを開けた。 「お父様、次の魔王は何処ですか。私待ちきれなくてお父様に直接直訴に参りましたわ!」 擬似雷鳴音の主は、キラーパンサーと呼ばれる赤い鬣を持った巨大な獣に乗った女の子であった。 世間一般では聖女と呼ばれるグランバニア王女のラナであるが、何処の誰が平原の殺し屋とも呼ばれるキラーパンサーに乗った聖女を想像するだろうか。 リュカはどうにもしがたい痛みをお腹に集めたまま執務机にうつぶせに倒れていた。 それでも意識ははっきりとしているようで、持っていたペンが断末魔と同時に黒色のインクを撒き散らした。 「ラ、ラナ……あれほど城内でプックルに乗ってはいけないと」 「そのような些細な事など、魔王の襲来がない事に比べたら塵ほどのことでもありませんわ」 リュカの視線が絨毯に点々と染み付いたプックルの足跡に注がれているとも思わず、ラナはプックルの背から降りると、背負っていた剣を鞘に入れたまま掲げた。 癖のない真っ直ぐな紫色の髪が揺れ、腰に手を当てて剣を掲げる凛々しくも可愛らしい姿など、さすが聖女だと我が子ながらリュカは思ってしまうのだが、あいにく性格に問題があった。 「私は一日も早くこの天空の剣を使いこなさなければいけないのです。その為には今再び世界に未曾有の危機が訪れる事が不可欠なのです」 「ガウッ!」 「ほら、プックルもその通りだと言っていますわ、お父様」 「いや、今のは本末転倒だって突っ込んだんだけどね。って言っても、聞いてないよね」 諦めに染まった顔でリュカがもう一度言ってやれとプックルを見ると、付き合ってられないとばかりに部屋を出て行ってしまう。 再びその四つ足で絨毯を汚しながらだ。 「あらあら、何の騒ぎかとおもったらラナだったのね。お父様のお仕事の邪魔をしてはいけませんよ」 「お母様」 「ああ、フローラさん。丁度良い所に」 プックルと入れ替わるように執務室に顔を出したのは、ラナの母親であり、リュカの最愛の妻でもあった。 プックルの足跡と剣を掲げるラナを見て、おおまかに何があったのか察したようで困り顔である。 もっとも、これが毎日のやり取りとなれば困り顔だけでいる方が逆に難しいのであるが。 「さあ、ラナ。何時までのポーズをとっていないであちらの部屋でお茶にしましょう。美味しいクッキーもあるわよ」 「お、美味しいクッキーですの?」 やはりまだ十歳の女の子、甘いお菓子に目が無くて掲げた天空の剣の剣先を重量そのままに床に落とした。 そのあまりの重さに剣先の鞘の形のままに、床が凹んでいた。 それはそのまま、ラナが天空の剣に認められていないことを示していた。 「わかりましたは。この話はまた後日という事で、お父様」 「ああ、うん。また後日ね」 娘の背中を押していく妻の後姿に多大なる感謝の念を惜しまなかったリュカであるが、数秒後にその感謝の念は崩壊してしまう。 何か言付けを忘れた気楽さで戻ってきて、軽くドアを覗くように顔を覗かせたフローラの言葉によって。 「貴方、後始末お願いしますね。プックルの足跡に、壊れたドア。あとそこの床の凹みもお願いしますね」 「ちょ、待ってください。そんな事は召使いやメイドの子に」 「あら、グランバニアの王たるものがそれぐらい、それぐらいのことで召使いやメイドの手を煩わせるのですか?」 「う……いや、あの」 「煩わせるのですか?」 もう後三秒我慢していたら、リュカは泣いていたかもしれない。 その前にリュカの首が、一度カクンと落ちるように頷いた。 「王様、そのような事は我々に言いつけてもらえば直ぐに適任を手配しますので」 「いいよいいよ、これぐらいのこと僕だってできるからさ」 廊下の絨毯についたプックルの足跡を消しているリュカに、メイド長や召使いの長が焦って話しかける。 だが帰ってくるのはまるで日曜大工を受けた隣人のような言葉で、やめさせることも出来ないで居た。 笑顔の裏では本当は頼んでしまいたいんだけどと思っているのだが、こういった言葉が影で国民の受けをよくすることも否めない。 ようやくメイド長と召使いの長が引き下がってから、雑巾を片手にリュカは溜息をついた。 「フローラさんも昔はおしとやかで控えめな女性だったのに、何時からだろうあんな風になっちゃったのは」 あんな風とはもちろん、リュカに対して無理難題、実行できないのではなく立場上実行しにくい事柄を押し付ける事である。 子供にも城の人間にも優しい昔のままなのに、リュカに対してだけ態度が変わるのである。 「何時からだろう、僕なにかしたかな……」 「父上、雑務を行うのなら無駄口を行わずサッと終わらせてください。そう言った姿は平民には受けても、貴族連中には印象が悪いんですよ?」 「ああ、ルカか。分かっちゃいるんだけどね」 たははと情けない笑みを向けた相手はラナの双子の兄弟であるルカであった。 元気が斜め後ろへとほとばしっているラナとは違い、澄み渡った冬の湖を思わせる雰囲気を持つのがルカであった。 片手の脇に持っているのは、新しい魔法書であろうか。 魔道の研究が彼の趣味である。 「またラナですね。全く勇者になるだなんて夢物語を何時まで信じていれば気が済むのですかね。理解に苦しみます」 「夢を持つ事はいいことだよ。ルカはないのかい、そういう夢みたいなものは」 「僕のは夢ではありません。目標です。昏倒無形な妄想と一緒にしてほしくありません」 「あいかわらずキツイね。で……その目標は秘密なんだろ?」 「魔道を極めるなどと小さなことでは有りません。それがヒントの一つです」 このようにルカはルカで、違った意味でリュカの手に余る所があった。 だがラナと違ってルカがその事を自覚していた。 「話はずれましたが、王がそのような姿を見せるのは好ましく有りません。父上はもう少し、母上に強く言い聞かせるべきです」 「苦手なんだよ、言い聞かせるって事が」 「それぐらい知ってます。これを使ってみてください、試作品ですが」 ルカが懐から取り出したのは、真っ赤な瓶に星型の黄色いシールが張られたものであった。 軽く振ると液体が波立つ音が聞こえ、飲み薬に見えないことも無かった。 「ファイト一発に特殊な改良を加えたものです」 「押しが強くなるとか?」 瓶に込められていたコルク栓を抜いて口に含みながら問うが、答えは帰ってこない。 「ルカ?」 かなり不安げに聞きなおすと、あまり聞きたくない類の答えが帰って来た。 「若いメイドの方がいても我慢してくださいね。母上がいる部屋まで三百メートルもありませんから。それとできる事なら、ラナのように騒がしくない弟か妹を期待しています」 「ちょ、え……これってまさか!」 次第に赤くなりだしたリュカの顔に比例して、発汗が始まり声も変わり始めるが、興奮剤の類なのかと言葉が続かなかった。 キュルっと嫌な音をリュカのお腹が鳴らしたからだ。 赤かった顔も段々と熱が引いて青くなり始め、違った意味での発汗を始めた。 「ル、カ……これ、お腹が…………何を、入れたの?!」 「おかしいですね。確かに興奮剤の方を」 首を捻りながら再び懐をあさったルカが、冷静な顔のまま先ほどとは違う瓶を取り出した。 その時に少しだけおやっとルカの表情が変わった。 「父上、申し訳ない。間違えて下剤の方を渡してしまったようです。ですが心配はいりません。死にはしませんから」 「ルカぁ〜……ぁ……と、いれ」 「ここからトイレは少し遠いですよ。それよりですね、本物の方はどうしますか?」 なにやらリュカの苦しむさまを明確にメモに取りながら再度問う息子に、危うくリュカは明確な殺意を浮かべてしまう所であった。 だがお腹のあれ具合の方がよっぽど重傷であり、お尻をキュッと絞りながらお嬢さん走りでトイレへと走り出した。 その様子までもスケッチ入りで記録したルカは、置きっぱなしになったバケツを手にとって歩き出した。 相変わらず冷静な顔つきではあるが、良いサンプルが取れたのか少し嬉しそうにも見えた。 「あの一瞬で懐から今夜一発をかすりとめるとは、やりますね父上。妹か弟、楽しみにしていますよ」
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