第十五話 名前を呼んで
 何時の間に自分は巻き込まれ型の性格になってしまったのだろうかと、イヴは思った。
 自分が巻き込まれ型なのではなく、セフィリアやトレインが巻き込み型の性格なのだが、結果は同じである。
 今自分の目の前で両手の平を組み、懇願の姿勢をとるセフィリアの話を聞きなおす。
「セフィリアさん、申し訳ないですけれどもう一度お願いします」
「イヴちゃんに、相談に乗って欲しいのです。最近トレインの様子が妙に落ち着きなく、露骨に避けられたり。それに気付いてましたか? 最近トレインが名前を呼んでくれないんです」
「名前を、ですか?」
 言われて思い出してみれば、最近トレインがセフィリアの名を呼んだことは確かになかった。
 もとよりそんなこと逐一憶えているのはセフィリア本人ぐらいなので記憶のある限りであるが。
「それって何時頃ぐらいからなんですか?」
「最低でも私がこのアジトに来た辺りからです」
 イヴはよく憶えていないがトレインは元上司であるセフィリアを、気軽に名前で呼んでいたはずである。
 何を今さら躊躇うのか、イヴにはわからなかった。
 ただ一つ気になるのはセフィリアがアジトに来た辺りからと言うところである。
 それ以前からもセフィリアの行動はから回っていたし、トレインはにぶちんで気付きもしない。
 ただいくらトレインでも、逃げ込む場所にアジトを選ばれれば気付くまでいかなくても、感覚的に感じ取っているのかもしれない。
 とは思うものの、確信一つなく、さらに男のトレインの気持ちをイブに察する事は難しい。
「女に解らなければ、男に聞くのが一番です。セフィリアさん、スヴェンにも相談していいですか?」
「え、それは……少し遠慮したいです。その、さすがに異性に知られてしまうのは恥ずかしいものが、ありますから」
「はあ、そうですか」
 冗談を言うような人ではないことは、先刻承知である。
 頬を染めてコホンとわざとらしい席をする目の前の美女は、本気で周りにばれていないと思っている。
 相談にくるならくるで相談を受けにくい人だと思いながら、イヴは妥協を持ちかけた。
「なら、それとなく聞くと言う事で我慢してくれますか? 今回のことは少し、私の手に余りますし」
「相談に乗ってもらっている身ですので、イヴちゃんにお任せします」
 妥協を受け入れてもらえた事にほっとしたイヴは、セフィリアをつれてスヴェンの部屋へと訪れる。
 数回のノックの後に部屋に入り込むと、スヴェンがいつも吸っているタバコのにおいがまず感じられた。
 イヴは何時もの事なので気にもしないが、セフィリアは一瞬だけウッと顔をひきつらせていた。
 スヴェンは机でまた何か作っていたようだが、イヴたちが入ってきたことで椅子を回して振り返る。
「スヴェン、ちょっと聞いていい?」
「イヴが質問とは珍しいな。いつもは自分で図書館にでもいって調べるのに。答えられる事なら、かまわないぞ」
 いざ尋ねる所ではやくもセフィリアが狼狽してしまい、スヴェンが僅かに首を捻っていた。
「ある女性が大切なものを手放してまで、ある物を好きな男性にプレゼントしました。男の人ってこういう場合どう思う?」
「まさかイヴ、気になる奴でもできたのか?!」
 ガタンと椅子を鳴らしてスヴェンが立ち上がるが、素早く察したスヴェンの芝居だった。
 イヴの両肩を掴みながらセフィリアに見えないように合図を送っていた。
 誰だって多少の事情を知っていればそれがセフィリアとトレインの事だって気付く。
 ただわざわざイヴが名前を伏せた事から、事情があるのだと察してくれたのだ。
「そんなことない。ただ一般的な意見をスヴェンに聞いてみたくなっただけ」
「そうか、安心したぞ。そうだな。確かにそこまで女性につくされて喜ばない男はいない。ただしだ」
 あのトレインが女性につくされて喜ぶかは全く未知であった。
「人によってはその行為が重いと感じる奴だっている。夫婦ならまだしも、付き合ってすらいなければ余計にだ。ありがたい反面、自分の思いは別にしてどうしても応えなければならない義務があるように感じる事になるからな」
 あくまでこれは一般的な意見である。
 イヴも聞いていればなるほどと理解できなくもなかったが、セフィリアは別であった。
 自分の行為が重かったのかとマイナス面ばかりを気にしてよろめき、イヴの両肩に支えとなる手を置いた。
 そこにきてイヴもスヴェンも内容が悪かったと気付いたが、遅かった。
「たっだいまーッス!」
 玄関から響いてきたトレインの能天気な声に過剰に反応したセフィリアが玄関へと向けて駆け出した。
 部屋に残されたイヴはスヴェンをこらっと言いたげに睨む。
「スヴェン」
「すまん、すっかり普通に応えすぎた」
 案の定、セフィリアが駆けて行った玄関では予想通りの事態となっていた。





 散歩から帰ってきたトレインは、いきなりの出迎えに困惑していた。
 セフィリアが飛んで迎えに出てくれたことに気恥ずかしさのような不思議な気持ちを感じたのは一瞬のこと。
 目を潤ませてキスできそうな距離にまで詰め寄られ、後ろ足をだして後ずさる。
「お、おい。なんなんだよ、急に。なんかあったのか?」
「やはり呼んでくれないのですね? 私は貴方にとって重いのでしょうか?」
「はあ?」
 急に重いといわれ、トレインはセフィリアの体を上から下まで眺めてしまった。
 胸元から競りあがるのは見事な双丘で、そこから下れば谷が、谷を登れば今度は山が。
 いわゆる出る所が出て、引き締まる所が引き締まった体つきに太ったという考えは浮かばなかった。
 ただ自分は何処を見ているんだと女性の体を眺めた事から視線をそらす。
 勘違いであっても、それが決定打であった。
「申し訳ありませんでした」
 一つ謝罪の言葉を残してセフィリアがトレインを押しのけて外へと飛び出してしまった。
 訳がわからないトレインであったが、放ってはおけなかった。
「ちょっと待てって!」
 だが名前を伴わない呼びかけは逆効果であった。
 さらにセフィリアを加速させる原因にしかならず、トレインは混乱を極めながらも走るしかなかった。
 街から外れた場所にあるアジトから始まった追いかけっこ。
 これが普通の男女であれば一キロもいかないうちに立ち止まるか、つかまるかしただろう。
 逃げたのはクロノスが誇るナンバーズのリーダーである。
 無我夢中で走る速度も並ではなく、トレインでさえもつかまえるのは一苦労である。
 時折通りがかる車や自転車、人に吹き飛ばされ、吹き飛ばしそうになるとハラハラしたものである。
「いい加減に、立ち止まって説明してくれよ」
 何故太ったぐらいで逃げるのか、そう思っている時点でトレインの説得は意味がない。
 笑い話にしかならないすれ違いから続けられた鬼ごっこは、ついに街中へと突入してしまった。
 甚大な被害の賠償ものかとトレインがあきらめた所で、セフィリアは思ってもない行動を取り出した。
 いつまでも追いかけてくるトレインをまくために、手頃な建物の壁を蹴って屋根へと登り、段々と場所をビルへと変えていく。
「勘弁してくれ。頼むから」
 もう散歩は十分だと投げ出したかったが、セフィリアが逃げる以上追いかけるしかなかった。
 セフィリアの後を追ってトレインも同じ道を、建物の屋根からビルの屋上と飛び移る。
 するといつまでもトレインが追いかけてくることで、セフィリアが時折後ろを振り返っていた。
 これが道の上ならばよかったのだが、あいにく走っているのはビルの屋上、飛び移るのはビルとビルの間。
 また一つセフィリアがビルを飛び越そうとしたところで突風が吹いた。
 もう片足は宙に浮いている状態で飛びなおすことなど無理であり、余計な躊躇がさらにセフィリアの跳躍力を奪っていた。
 ビルとビルの間半分のところでセフィリアの体が落下を始める。
 普段ならば何かしら行動を取れたであろうが、頭に血が上った状態では良い案も浮かばなかった。
「セフィリア!」
 本能的に体を硬くした所に聞こえたのは、トレインの声であった。
 フワリと後ろから抱き寄せられた感覚の後に、弧を描いてビルがぐんぐん近寄ってきた。
 叩きつけられる前に止まったのは、トレインがビルの壁に両足を着けて勢いをいなしたからだ。
 何時の間にか閉じていた目を開くと、トレインがハーディスの飾り緒から伸ばしたワイヤーで自身を支えている姿であった。
「あのなあ、言っておくけど全然重くねえからな。腕一本でささえられるぐらいだ」
 もちろんトレインが言っているのは体重の事であるが、セフィリアが受け取ったのは違った意味であった。
「あのトレイン、先ほど名前を……」
「うっ……」
 意図して名前を呼んでいなかったようで、突っ込まれたトレインが言葉を詰まらせていた。
 すると再びセフィリアが表情をくもらせてしまうため、観念して言った。
「なんか名前を呼ぶのが馴れ馴れしいかって思っただけだ。かと言ってファミリーネームは余所余所しいし。もう、隊長でもないだろ」
「馴れ馴れしくなんてありません。私はトレインには名前で呼んで欲しいと思います」
「なんだ、最初から聞けばよかったな。最近どう呼んでいいかわかんなくて、呼びかけようにも困ってたんだ」
「あ、それで私を見た途端に何処かへ行ってしまったんですね?」
 ビルから宙吊りのまま笑いあう二人ともが、誤解と困惑が溶けた安心から気付いていなかった。
 普段女性を気軽に名前で呼ぶトレインがセフィリアを名前で呼ぶことを躊躇った理由をである。
 馴れ馴れしくして嫌われたくはない。
 それはセフィリアが重いと思われ嫌われたくはなかったと思うのと、ほとんど同じ理由であった。

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