恋をする暇なんてなかった


 大勢の生徒達が部活にいそしむグラウンド。
 そこから聞こえてくる声を耳にしながら、やや早足で尾田 知世(おだ ともよ)は歩いていた。
 校門をぬけて校舎をぐるりと回りこんだその道は、グラウンドの直ぐ脇にあった。
 少し首を回せば金網の向こうでは野球部の部員達が白球を追いかけているのだが、知世はその程度の動作さえ行う素振りも見せない。
 まるで自分が歩いている道と運動場の間に、果てしない溝でもあるかのようである。
 そんな風に黙々と足を進めていた知世が立ち止まったのには理由があった。
「危ないッ!」
 聞き覚えのない男子生徒の声がグラウンドから聞こえたからだ。
 明らかに自分へと向けた声だと思った次の瞬間には、男子生徒の言う危ない物体が目の前を通り過ぎていた。
 知世の前髪を僅かに揺らすぐらいに近くを通り過ぎ、アスファルトの道路にぶつかると鈍い音を立ててからまた跳びあがった。
 視線でそれを追うと、二度目の着地は道を通り過ぎた所にある溝の中へと落ちて、溝の中で何度も体をぶつけながら動く気配を消した。
「おい、大丈夫か?!」
 危うく硬球がぶつかりかけたのだから金網越しに叫んでいる男子生徒は酷く動揺していた。
 気持ちはわからなくはないのだがと、知世は三十センチ程度の浅い溝からボールを拾い上げると言った。
「肝心なのは、危ないからどうするべきかだと思う。しゃがむのか、止まるのか。今度からは言い方を気をつけた方がいいわ」
「お、おう」
 金網に作られた専用の入り口から身を乗り出した男子生徒に、下手投げでボールを返す。
 ずっしりと重いボールが指先を離れて山なりに飛んでいく。
 あんな物が高度から落ちてきて当たれば本当に怪我ではすまない。
 自分が怪我でもしたら家の中は妹弟たちの手によって瞬く間に荒野と化してしまうと、知世は見当違いな安堵の仕方をしていた。
 ゆっくりと投げられたボールが男子生徒に受け止められた瞬間、破裂音のようなものが聞こえた。
 干してある布団を思い切り叩いてもここまでの音はでない。
 硬球が目の前を通り過ぎても驚かなかった知世が驚いたその音の発生源は、グラウンドのすみにあるブルペンであった。
 野球に疎い知世はブルペンなどという言葉は知らなかったが、その球を投げたのがピッチャーであると言うことぐらいはわかった。
 同じ高校生とはとても思えないほど大柄な、だけれども毎日のように見ている姿がそこにあった。
「まあ、最初は大抵そう言う反応するよな。異常だろ、あれ。なんであんなのが無名のこんな学校に来たのやら」
 驚き丸くなった目を元に戻すと、先ほどの男子生徒が話しかけてきていた。
 確かに驚いた事は間違いはないのだが、ある程度投げた本人を知っていたので驚きは直ぐに消えていた。
 納得といってよいかもしれない。
「家から近いからって噂程度には聞いたことある」
「もしかして、知り合い?」
「いいえ、ただの同じクラスってだけ。私は名前ぐらいしか知らないし、あの人は私のことすら知らないと思う」
 本当に同じクラスというだけの、下手をすれば廊下ですれ違っても挨拶すらしない間柄。
 別に珍しい事でもなく、何を思う事もない。
 なにやらクラスメイトが球を受けてくれていた人に叫んでいるが、そう言う人だ。
 それっきり興味を失くした知世は、自分が立ち止まった位置に戻り、再び足を動かした。
 無駄な時間を使ってしまった為に、前以上に早く足を動かして家へと向かって歩いていった。





 しなる腕が弾くように白球を手放し、狙いを定めたミットへと一直線に向かう。
 高速で回転する白球が周りの空気を丸ごと巻き込んだまま吸い込まれていく。
 巻き込んだ空気が耐え切れずはじけ飛んだ音を想像し、期待通りに破裂音が鳴り響いた。
 竹下 直人(たけした なおと)は眉をひそめ不満げに首をかしげる。
 期待通りの、ではなかったからだ。
「くっ……痛ッ」
 キャッチャーマスクの向こうから苦悶の声が響き、ミットから転がり落ちた白球が土で汚れていく。
 期待通りの音が鳴らなかったのもそうだが、ボールを落とされた事の方がなおさら腹立たしかった。
「お前、なんだよ。落とさずしっかり取れよ。キャッチャーだろ?」
「てめえな……」
 たかだか二十メートルにも及ばない距離で痛みを訴える声が聞こえなかったはずがない。
 なのに一番に相方である女房にかけた言葉に心配という文字はなかった。
 思い通りに行かない苛立ち、その気分にさらに拍車をかけられた行為をただ責める。
「ほら、ボール返せよ。次はしっかり頼むぜ」
 要求したものは返されず、全く別の物が返された。
「ふざけるな。お前は肩でもぶっ壊してえのか。二十球やそこらで全力で投げやがって。ピッチャーの自覚があんのかよ!」
「全力、だって?」
 投げ返された言葉に苛立ったのは、直人も同じであった。
 理解していない。
 一番ピッチャーを理解していなければならないキャッチャーが理解していなかった。
 あの程度の球が、ピッチングを開始して二十球やそこらで投げた球を全力だと思われた。
 理解するしないどころではなく、れっきとした侮辱であった。
「自分の下手なキャッチングを俺のせいにするなよ。なにが全力だ、この程度で。お前こそ、それでもキャッチャーかよ!」
「ああ、キャッチャーだよ。ほっとけば何を壊すかわからないお前みたいな暴走列車に付き合ってやってる心優しいキャッチャー様だよ!」
 声が届く範囲全ての時間が止まったかのように静まり返っていた。
 野球部だけではなく、他の部の者さえ練習を止めている者も居た。
「いいか、暴走列車。お前は凄いよ、認めてやる。球は速いし、その上重い。だがそれだけだ。全然尊敬できねえ。一緒に野球をやりたいって思えねえ。なんでか解るか?」
「うるせえな。関係ないだろ。俺もお前も野球がやりたい。俺はピッチャーがやりたい。お前はキャッチャーがやりたい。他に何もいらねえだろ!」
「アホだアホだと思ってたが、そこまでアホか。アホを通り越して馬鹿になって一週回ってアホに戻ってくるぐらいアホだ。もう止めた。アホの球受けてアホが感染したら困る。じゃあな、アホ直人」
「なに帰ろうとしてんだよ。ちゃんと最後まで俺の球を受けてけ!」
 言うだけ言って帰ろうとする相方を止める言葉を発するも、反応は辛らつなものであった。
 怒鳴り返されるよりも酷い。
 立ち止まり、哀れみを送る瞳で見つめられ深く溜息をつかれた。
「そんなにピッチャーやりたかったら、壁にでも向かって投げてろよ」
 何を言っても無駄なのかという諦めの混じった声に直人がわずかにたじろぐ。
 何が悪いのか、そもそも自分が悪いという考えが全く浮かばない。
 言葉にした通り、野球が好きでピッチャーがやりたくて、甲子園、プロと道が続く。
 周りには程度の差こそあれ、野球が好きな者が集まり、球を受け、守ってくれる部員達。
 何が悪い、どこに悪い事などあるものか。
「おい、誰でも良い。あの馬鹿の変わりに受けてくれ!」
 思うままに叫ぶも、誰もが目をそらし名乗り出る者はいない。
「無茶言うな直人。お前の球を受けられるのは、お前が喧嘩をやらかした健二ぐらいだよ。ちゃんと後で謝っとけよ」
 歩み寄ってきたキャプテンが諭すように言う。
 言葉にはしなかったが、誰が悪いのかはその声から明確に指摘されている。
「くそッ、なんで俺が謝らなきゃいけないんだよ!」
 苛立たしげにマウンドの土を蹴り上げると、キャプテンの制止も無視して帰りはじめる。
 練習着のまま、部室から鞄を持ち出し、校門からではなく金網に設置された出入り口から道路へと踏み入れる。
 一人で出来る練習だっていくらでもある。
 むしろ濃密な個人練習の時間が増えたと自分に言い訳をしながら、直人は何時も使っている神社へと向けてランニングを兼任して走り出した。
 少々大きめのバッグが邪魔ではあるが、道具が入っているためおいていくわけにも行かない。
 大きさは邪魔であるが、重さをウェイト代わりに、一歩一歩確かめながら走る。
 学校から近い家よりも先に見えてきた神社は、小高い場所に建てられており、お決まりの苔むした階段が出迎える。
 石段の前で軽く腿上げをしてから駆け上る。
 息をする事すら後回しにして足で石段を蹴り上げ自分を神社へと向けて押し上げていく。
 一段一段丁寧に早く駆け上がりきると、大きく息を吐いて膝に手をつくと乱れた息を整える。
「うわー」
 すると突然、間延びした歓声がかけられた。
 まさか人がいるとは思わずに顔を上げると、子供がいた。
 小学校低学年ぐらいだろうか、走りよってくると今しがた直人が登ってきた石段の遥か下をのぞき見て、それから直人を見上げる。
 まさにポカンといった表現がぴったりなほどに目を丸くしていた。
「お兄ちゃん、いっぺんにここまで登ってきたの?」
「ああ」
 面倒だという気持ちを隠そうともせずにぶっきらぼうな台詞を言うも、男の子はまた石段の下を見つめて驚いていた。
 何故こんな人気のない神社にいるのか、当然なら思い浮かぶ疑問すら彼方に置き去りにして、直人は子供を無視して何時もの場所に歩きよった。
 神社の敷地の中で一部地面の土が深くえぐれ、何度も埋めなおした跡が残るその場所。
 そこにたどり着くとバッグを下ろして長めのタオルを取り出し真ん中辺りを右手で握り締める。
 マウンドに見立てたその場所から仮想のバッターを睨みつけ、大きく振りかぶる。
「なにしてるの?」
 気分に水をさされた事ではっきりと眉間にシワが寄るのが自分でもわかった。
 振りかぶった腕を解き放ち、無言でバッグから予備のタオルを取り出して子供に投げつける。
 言葉なく投げつけられたそれを受け取っても首をかしげていたが、一切の説明は行わなかった。
 そのうち飽きるか諦めて帰るだろうと思ったからだ。
「シャドウピッチング」
 ただ最低限練習方法の名を呟き、仮想のバッター目掛けて振りかぶりなおす。
 バッターに向けて九十度に回転させた足が地面を踏みなおし、軸となって体を回転させる。
 引き絞り弾ける様に逆回転を始めた体から左足が前へと飛び出し、利き腕がタオルごと唸りを上げながら回転する。
 まるで自分が台風の目になったかのように、世界が回る。
 それでも見つめた先だけは見失う事はなく、前へ飛び出した足が地面に噛み付くと軸足が地面を蹴りだした。
 同時に腕に掛かっていた負荷も消え去り、仮想のバッターへと仮想の球が向かう。
「よし」
 空を切るバット、食い破るほどに音を立てたキャッチャーのミット。
 審判の腕が上がり、ストライクのコールが聞こえる。
 それら全てが細やかに脳裏で思い描けた事に思わず飛び出した声であった。
 もう、直人の頭の中からタオルを投げつけた子供の事など跡形もなく消え去っていた。
 たった一球で満足するわけにも行かず、思い描いた場所、相手、チームとイメージを交えて試合を続ける。
 なにも相手が空振りばかりではない。
 投球の間に体がぶれればイメージの中でもボールはストライクゾーンを離れ、時に仮想のバッターに打たれることだってある。
 これは試合なのだ。
 現実と何一つ変らない、毎日欠かさず行われる直人だけの試合。
 百何十球と投げ続け、時間の感覚さえも吹き飛んだ直人は、汗が眼に入ったことで痛みを覚えた瞬間、意識が現実に合致した。
 まだ肌寒い春の夜風の中で、湯気が出るほどに体は蒸気していた。
「もう夜じゃねえか」
 途中で切り上げた部活が夕方であり、完全に闇に落ちた暗がりから一時間、下手をすれば二時間はすぎているだろうか。
 そろそろ切り上げるかと、額の汗を拭うと風を切る音が聞こえた。
 ハッと気がついてみれば、すぐそばでタオルを投げつけた子供が自分と同じようにシャドウピッチングを続けていた。
 ボタボタと滝のように汗を落としながら、直人の見よう見まねの不恰好な投球術のまま続けていた。
「マジかよ」
 それだけではなく、直人が一息ついたことすら気がついていない。
 目に汗が入ったと言ういいわけを抜きにしても、子供の集中力は直人を超えていた。
 疲れきったはずの腕が息を吹き返して、歓喜の震えをうったえていた。
 自分と同じぐらいに真剣に練習に打ち込める人間に初めて会えた気がした。
 歳の差こそあれ、目の前の子供は自分と同じ人種であると胸の鼓動が伝えていた。
「お前、お前名前は?!」
「あ……」
 投球の合間を見計らい興奮した声で問いかけると、振り向いて直ぐに子供は足元から崩れるように地面に転んでいた。
 いくら集中力があろうと、直人の目の前にいるのは子供である。
 体がほとんど出来上がっている直人に知らずに付き合っていれば、オーバーワークになるのは当然である。
「あれ? なに、変だな……あれれ?」
 それが解らない子供は言う事の聞かない体に驚き、なんとか起き上がろうと四苦八苦しはじめるが、直人がすぐに止めさせた。
「無理すんな。無茶して、体が疲れてるだけだ。もう遅いし、送ってくから背中に乗れ」
 最初はおんぶされる事に戸惑っていた子供であるが、意を決して直人の背中によじ登り始めた。
 しっかりと子供を背負いなおし、自分のバッグも手に持つと、直人はゆっくりと神社を後にした。
 石段だけは苔むしている事もあり、注意深く降りていき、降りきったところで尋ねた。
 一番聞きたかった子供の名を。





 荒れ狂う油の海から狐色となった鶏肉を全て拾いきると、ガスをきり一息ついた。
 本当に一息つくだけで今度は大皿を用意して熱々のから揚げをよそい、刻んでおいたキャベツを横に山と積む。
 それをテーブルの上に運ぶと、備え付けた茶碗や箸を確認してから、何もしない妹弟たちを呼ぶ。
「アキ、友則、拓哉、椿。ご飯できたわよ」
 家の各所から返事が返ってくるが、返さないものもいる。
 それはきまって今年高校受験を控えたアキであるのだが、それに加えて今日は一人足りない。
「友則、椿、拓哉は?」
「知らねえよ。イヤッホ、から揚げじゃん」
「椿も知らない。拓君まだ帰ってきてないんじゃないかな?」
 言われて時計を見上げてみれば、すでに針が八時をまわろうとしている。
 これが友則のように中学にでも入っていれば夜遊びととらえるだけだが、小学二年生の拓哉では心配が先に出る。
 そもそも弟が帰ってこなければその事を教えて欲しいものだが、気の利かない妹弟たちに期待するのも間違っていた。
 長男と三女に先に食べていろと伝え、二女のアキにも大声で伝える。
 三人の返事を背中で受け止めながら玄関へと向かうと、靴も履かないうちから扉が開き始めた。
「こんばんわ、誰かいますか?」
「目の前に」
「うおった、落とす。落ちる!」
 何がどうなったのか、何故か現れた見覚えのある彼の言葉に答えると、驚かれた。
 その拍子に背中に背負っていた者を落としかけて、背負いなおす様子を見せる。
 少し覗き込んでみれば、これから探しに出かけようとしていた次男が背負われていた。
 静かに眠っている様子から疲れでもして動けなくなったろうことはなんとなく予測できる。
 わからないのは、何故この人に背負われているのか。
 何をしていて動けなくなったのかだ。
「できれば説明、してくれる?」
「あ、すみません。それより先に、拓哉寝かせてやって良いですか?」
 呼び捨てでやけに親密そうな所も気になるのだが、何時までも他人同然の人の背中に乗せているわけにも行かない。
「友則、ちょっときて」
「なんだよ姉ちゃん。って誰この人?」
「私のクラスメイト、拓哉を背負ってきた理由は知らない。疲れてるみたいだから寝かせてあげて」
「クラス、え?」
 直人がクラスメイトと言う言葉に妙な反応を示した事から、知世はやはりなと自分の認識が正しかった事を確信した。
 弟の拓哉を背負ってきた目の前の人物、竹下 直人は自分の事を知らないのだ。
 戸惑っている姿は珍しいものであるが、見ていて愉快と言うわけでもない。
 ただ簡潔にことの経緯を欲した。
「尾田 知世、貴方のクラスメイト。すぐに忘れてくれてもいいわ。ただうちの拓哉を貴方が背負ってきた理由だけは教えて?」
「お、おう」
 まだ戸惑いを残しているものの、大まかな経緯は直人の口から聞くことが出来た。
 神社での出会いから、拓哉が倒れるまで。
 少し驚いたのは、なにかとぼうっとしている拓哉の事を直人がやけに褒めていた事であった。
 拓哉の事となると興奮したように褒めちぎり、絶対に凄いピッチャーになれるとまで言っていた。
 ただ一つ、拓哉が野球をまったく知らないと言う点だけは悔しがっていたが。
「だいたいわかったわ。もう帰っていいっと言いたいけれど」
「なにか、あるのか?」
「家に電話してから帰りなさい。普段なら今頃は家についている時間でしょ? 多少心配してると思うわ」
「そうですか……」
 相変わらず知世に対しては初対面の人に対する態度であるが、知世は気にせず電話口へと案内した。
 直人が電話で簡単に現在地と直ぐ帰ることを伝えた事を見届け、さらに玄関から見送る。
 すると玄関を出て直ぐに直人が振り返ってきた。
「尾田、あのさ……拓哉のことだけど、今日ほどには遅くならないようにするから、明日もいいかな? 拓哉にはもう約束してあるんだけど」
「ええ、わかったわ」
「そうか、サンキュ。また明日な」
「貴方が私のことを覚えていればね」
 挙げられた手に皮肉に近い言葉を投げかけ、直人を見送る。
 すぐにその背は駆け出したことで小さくなっていく。
 しばらくその背を見送っていると、自然と溜息が口をついて出てきていた。
 思ったとおり、自分の周りにいる中でも特に自己中心的な人物だったと、変らぬ評価は地面すれすれに低かった。
 なにも拓哉が無理やりつきあわされると思っているわけではない。
 ただ、自分の仕事がまた一つ増えた、そう思えたのだ。





 直人と拓哉の出会いから、変った事とほとんど変らなかった事があった。
 変ったのは直人が部活に顔こそ出すものの、部活の中で一切のピッチング練習をしなくなったのだ。
 体を温める程度の運動こそすれ、ピッチングの練習は全て近くの神社で拓哉と行うようになっていた。
 そしてほとんど変らなかったのは、間接的なつながりを得た直人と知世の関係であった。
 会えば視線を交し合う事はあっても、会話などない。
 考えるまでもなく、直人の興味は知世の弟である拓哉であるし、知世はもとから直人に興味がない。
「起立、礼」
 委員長の声が教室内に響き、複数の頭がそろって下げられる。
 無意味に横柄な教師の頷きが帰ってくると、教室中から椅子を床で引きずる音が響く。
 全ての授業と担任の連絡事項が終わったのだ。
 知世はいつものように鞄に教科書やノートを詰め込み、友達に軽く言葉をかけてから教室を抜け出していく。
 楽しそうに部活に向かう友達を見て心が動かないわけではないが、家に帰らねばならない理由がある。
 片親の母しかいない尾田家では、働きに出る母のかわりに知世がずっと家事全般を引き受けているのだ。
 妹や弟が小さな頃から、拓哉は今でも小さいが、それからずっとだ。
 慣れていると言ってしまえばそれまでだが、深く考えなくなったきっかけは色々と諦めたからだろう。
 なにを諦めたのかは、色々とあって言いつくせない。
「尾田、ちょっと待ってくれ」
 珍しくかけられた声に振り向くと、教室から一歩出たところで直人が手を挙げていた。
 用件は考えなくとも拓哉関係だとはわかり、戸惑いなく振り返る。
「拓哉に伝言? 今日は無理だとか」
「いや、違うけどさ……やっぱりいいや」
 直人が何を言いよどむのか、取りやめの言葉を聞いて知世はきびすを返して歩き出す。
 十歩ほど歩いて、なんとなく振り返り、言う。
「それじゃあ、後で」
「おう」
 今度こそ振り返ることなく帰路に着いた知世は、何時ものように校門を回り野球部のグラウンドの脇を通り過ぎる。
 ゆっくりと歩いたせいか、それとも直人が急いだせいなのか。
 グラウンドの中に直人の姿を見ることが出来た。
 周りに部活仲間がいるというのに言葉を殆ど交わさず、だけれども誰よりも真剣に練習に取り組んでいた。
 以前野球部の誰かが言っていた通り、直人の運動能力は頭一つ飛びぬけ、そして野球という物を見ている位置が周りと違うのだろう。
 両方の意味で直人は周りから浮いている感じを受けた。
「関係ないわね。忠告して聞く人とも思えないし…………する必要もないじゃない。帰ろう」
 気がついてみれば足を止めていた知世は再び歩き出し、仕事が溜まっているであろう家へと向かった。
 それほど学校から離れていない家へとつくと、着替える暇も惜しんで知世は動き出した。
 まずは昨日の洗濯物を全て洗濯機に放り込みスイッチを入れる。
 給水が行われ出し洗剤を入れるとすぐにキッチンへと向かい、冷蔵庫の中身をチェックする。
 買い足したばかりの冷蔵庫の中は食材であふれ、何を作ろうか迷う事はあれ、食材が足りないと悩む必要はない。
 いくつか今夜のメニューに目星をつけると、朝食のぶんの皿洗いをメニューを考えながら始める。
 息をつく暇もない行動を淡々とこなす知世は、その全てが手馴れていて不備が見受けられなかった。
 皿洗いが終わる頃にまず三女である椿が帰ってくる。
 洗濯機がとまり、洗濯物を干している間に長男の友則が、続いて次女の明菜が。
 夕食を作り始め、作り終える頃には七時をとっくに過ぎており、先に食べていろと弟妹に継げて最後の仕事に出かける。
 神社で直人と練習をしている拓哉を迎えに行くのだ。
「これが一番疲れるわね」
 外に出て最初に思ったのがそれであった。
 家ですら気がぬけないのに、弟を迎えに行く為とはいえ親しくもないクラスメイトと顔を合わせなければならない。
 かと言って、クラスメイトのしかも男に毎日毎日家にこられてはたまったものではない。
 神社が見えてくるとその石段の前で拓哉と直人が楽しそうに喋っていた。
「お姉ちゃん!」
 こちらに気がついた拓哉が駆け寄ってきて、そのまま抱きついてくる。
 のほほんとしていた性格の拓哉が汗だくになるまで打ち込むものをみつけ活発になったのは、唯一の利点だったかもしれない。
「よお、今日はちょっと遅かったか?」
「毎日定時というわけにもいかないわ。時間がきたらそこで終わりというわけにもいかないもの」
 それで夕食が遅れればもっと面倒なことになる。
 ご飯を用意する術を知らないひな鳥たちが口やかましくあれこれ言ってくるからだ。
「拓哉、帰るわよ。一応私と貴方の分のおかずは隠しておいたけど。友則あたりが探し出す可能性もあるから」
「食べられないのやだ。帰る。直人お兄ちゃん、また明日ね」
「おお、また明日な」
 後ろを振り向きながら手を振り、前を見ない拓哉が転ばないように手を引いて歩く。
 手を振るのをやめたかと思えば、毎日している練習の事をこと細やかに教えてくれる。
 今度は後ろではなく知世を見上げて喋る為に、前を全く見ない。
 注意深くない所は相変わらずであると思って歩いていると、急に拓哉がその足を止めた為に腕をひっぱられる。
「拓哉、どうしたの?」
 質問には答えず、手を離して服をたたき出した様子を見てなんとなく答えがよめた。
「直人兄ちゃんから貰ったタオルがない。とってくる」
「待ちなさい」
 急に走り出した拓哉の手をとり、止めさせる。
「もう遅いから明日にしなさい。明日も神社に行くんだし、竹下君が気づいて持って言ってくれた可能性もあるわ。明日聞いておいてあげるから」
「でも、もしも本当に忘れちゃってたら誰かにとられちゃったりしないかな?」
「大丈夫よ。誰もとったりしないから」
 後ろを振り返り名残惜しそうに歩き出した拓哉は諦めてくれたのだろう。
 何処にも保証のない安心のさせ方であったが、全うな人は神社にあのタオルが落ちていても拾ったりはしない確信はあった。
 真ん中で強く握られ跡がつき、時に地面にこすれたタオルはタオルというよりもボロ布に近くなっていっていた。
 そんなタオルであるが、名残惜しそうに何度も拓哉は振り返るのだから大切なのだろう。
 それが直人からもらったものだから。
 知世から見ればわがままが服を着て歩いているような人物であるだけに、大切だと思える拓哉が少し不思議であった。





 教室で呼びかけられるまで、知世はすっかり忘れていた。
 少し見上げるような位置からかけられた声に振り向くと差し出されたのは、軽く洗われた跡の見えるタオルであった。
 ボロはボロであったが、自分も見覚えのある拓哉のタオルである。
「これ、昨日拓哉が忘れていったろ」
「すっかり忘れてたわ。ありがとう、拾っておいてくれたんだ。あの子いつまでも気にしてて、今朝も聞いておいてって頼まれてた」
「それとさ」
 もう一つ何かを直人が鞄から取り出すしぐさを見せるが、そこは最後の授業が終わったばかりの教室である。
 普段関わりの一切見えなかった直人と知世が呼びとめ、ボロいタオルとはいえものを渡していては周りを刺激する。
 案の定物珍しげな視線が各所から飛び、知世の友達が揶揄の声を交えてからんでくる。
「知世、なにしてるのかな? アンタが男の子と話してるなんて珍しいじゃない」
 何かあったのかと疑う意味であるのは間違いなく、これには直人の方が戸惑い言葉をなくしていた。
 きっぱりと免疫のない行為に、違ったかなと思っていると何時もと変らない知世の声が放たれた。
「弟の忘れ物を返してもらっただけ。それに、そんな暇ないもの」
「アンタもうちょいときめきってもんを覚えたら、普通こういう風に戸惑うもんよ。悟りきった聖者か、アンタは」
「自分から進んで冷やかしの対象になる気はないの。いちいち説明も面倒だし」
 こういう風にと指差された直人は、さらに戸惑いを強めようとしていたが知世の冷静な言葉に我を返らされていた。
 確かにそう言う事に興味はあるが、それでもそれ以上に興味がある事があるのだ。
 小さな可能性を見ているのが楽しい。
 今はまだ無理だが、いずれ大きな舞台で共に野球をしてみたい。
 なんとか知世をからかってやろうとしている知世の友達へと、浮かんできた考えをそのまま述べる。
「俺も、今は興味ない。野球がしたい。尾田の弟、拓哉って言うんだけど、そいつと思いっきり野球で勝負がしたい」
 言いながら、直人は今まで自分が誰かと野球をしたいと思った事がなかった事に気づいた。
 いつも自分がピッチャーをできればそれでよかった。
 誰がどこを守ろうと、自分が投げて相手チームを押さえ込めばそれでよかった。
 ふと沸いたのはそれでよかったのだろうかという疑問。
 ただ自分がやりたいことだけをやって、自分のみの結果だけで満足してしまう。
 もしも拓哉にそう思われていたら、自分はショックを受けるだろう。
 だがこれまでの自分は自分のチームメイトに対してそう言った感情で接してきていたはずだ。
 自分のそういった態度が気にされていないはずがないのだ。
「おーい、直人君。って、知世なに放っておいて帰ろうとしてるのよ」
「時間がかかりそうだったから。家に帰らないと」
「本当に火の気所か、燃えるものすらないのね」
 自分の考えに没頭しているうちに知世もその友達も直人の目の前から去っていた。
 それでもしばし考え込んでいた直人の方に手を置いたのは、部活のキャプテンであった。
「部活、行こうぜ直人。久々に受けてもらえよ、お前の球を。受けてほしそうな顔してるぞ」
「ああ……ところで、アイツの名前ってなんだっけ?」
「アイツ? 尾田さんのことか?」
「いや、キャッチの」
「お前、さすがにそれは呆れるというか……まさか俺の名前もか?」
 躊躇しながら頷かれてしまい、うな垂れると同時に自己紹介は忘れなかった。
 その日、改めてチームメイトの名前を覚えていった直人は、最初こそ名前を覚えていなかったことに顰蹙を買いながらも一緒に練習を行った。
 拓哉との練習も面白いが、やはり年齢的な体力の差から同年代との練習は格別であった。
 投球練習も節度さえ守れば、気持ち良い音で受けてもらえる。
 それだけではなく、自分では気がつけないような癖や悪い所などまで指摘してくれる。
 ただ野球をするのではなく、誰かと、特定のチームメイトたちと野球がしたい。
 一人と皆、どちらが楽しいかは考えるまでもなかった事だ。
 改めて直人はこれまでの自分の愚かしさを知った気分だった。
 久しぶりの部での練習は遅くまで続けられ、体が重く感じるほどまでに疲れきってから直人は家へと帰ることになった。
 思い体を引きずり、玄関を開けると同時に倒れこんでしまう。
 調子に乗ってオーバーワークとなってしまったようだが、疲れさえも心地良い眠りの道具として直人は場所も構わず眠り込んでいった。
 そんな直人を起こしたのは、一本の電話であった。





 自分が相変わらず自分の事しか考えていなかった事を実感しながら、直人は神社へと向けて走っていた。
 母親からたたき起こされて出た電話の先には、聞いたこともないような声で狼狽する知世であった。
 用件を聞いて直ぐ神社で待っていろと伝えると、家を飛び出し走った。
 十分程度走り続けて見えてきた神社の石段の前で待っていた知世は、電話での声同様に、普段の冷静さを失い落ち着きなく辺りを見渡していた。
「尾田、拓哉は?」
「まだ見つからない。一緒じゃなかったの?!」
「すまん……実は」
 正直に今日は神社にこれなかった事を話す。
 久しぶりに同年代と思い切り練習をした事が楽しくて、いけない事を伝えない所か寝てしまっていたことまで。
「拓哉はまだ子供なんだから、伝えるべき事は伝えてよ。私にだってよかった。どうしてそう自分の事しか考えられないの!」
「すまん」
 謝罪しか頭に浮かばず、ただ謝ることしか出来なかった。
 知世の一方的な糾弾も受け入れなければならないと思うが、今は拓哉を探す事の方が先だ。
「後でいくらでも謝る。だから今は拓哉を探そう。この事は誰かに伝えたか?」
「まだ……母さんにも、他の弟や妹にも。伝えられるわけないじゃない。頼ったからって拓哉が見つかるわけじゃない」
 たった一人で心配し、探していたようで答えながら知世は必死に唇をかみ締めていた。
 確かに直人は自分の身勝手さを知ったが、知世もまた一人で抱え込みすぎだと思った。
 誰にも頼らず、または頼れないのか。
 胸に湧き上がった気持ちをグッと堪え、直人は言った。
「一度家に戻ろう、それで帰ってなかったらもう一度この辺りを探してみよう」
「うん」
 歯を食いしばりながら走る知世を気遣いながら、一度だけ通った知世の家へと向かう。
 その道すがらも拓哉を探すがその小さな姿はかけらもみつからない。
 時折夜にも関わらず声を張り上げてみるが、結果は同じであった。
 それならばせめて何事もなく家に戻ってと言う気持ちが湧き上がるが、見えてきた家に飛び込んだ知世は変らぬ顔色で戻ってきてしまう。
「駄目、戻ってないって。妹たちに、変に思われるといけないから、急いで神社に戻りましょ」
「ああ、何処にいっちまったんだ」
 一時的に冷静な仮面を被りなおした知世の言葉を受けて、苛立ちと共に直人はつぶやいていた。
 神社に戻り、十数分に一度石段の前に戻る事を繰り返しながら拓哉を探して回る。
 二人で石段の前に戻るたびに報告し合い、望まぬ結果に表情を曇らせていく。
 それが何度目の事か、直人がみつからないと言うとついに知世は石段の上へと座り込み抱えた膝に顔をうずめてしまった。
 もう探し始めて一時間、もっと二時間はいっているだろうか。
 直人は焦りと自身への苛立ちを募らせていた。
 どうしてちゃんと伝えなかったのか、どうしてもっと拓哉の事を考えられなかったのか。
 拓哉の事と考えた所で、ふと頭にある事が浮かぶ。
「尾田、石段の上。神社に行くぞ」
「もう探した。いい、母さんに伝えてみる」
「いいから、その前に来い!」
 ついに諦めた知世の腕をとって無理やり連れて行く。
 力ずくの行為に知世もこれで最後だと、やがて自分の足でしっかりと石段を登り始め直人の後をついていく。
 急勾配の石段を登りきると、続く石畳の正面に神社の社がどっしりと構えている。
 夜である事と拓哉の事がかさなりやけに不気味に感じる社。
 それらには見向きもせず直人はある地点へと歩み寄った。
 石段を外れた土の上で、他の場所よりも削れて深くなった場所である。
 しゃがみ込んだ直人がその土に触れている姿を見て、どういうことかと問いかける。
「ねえ、何してるの?」
「俺は何時も拓哉のピッチングを見てきた。一日で土が大体どれ位掘れたかも知ってる。だから見れば拓哉がここにきたかどうかぐらいわかる」
「本当?」
 一日でどれ位掘れたか云々は半分嘘だが、土を見ればわかるはずだった。
 暗くて見えにくいが、手で触れると表面にえぐれた土がもりあがっていた。
「たぶん来てた。俺が拓哉なら……待ちきれなくて練習を始めて、止めてくれる人がいなくとつかれきるまでやめない」
 ぶつぶつと言いながら立ち上がった直人を、すがるように知世は見ていた。
「本当に疲れきって気がつけば俺は来てなくて、帰ろうとするけど疲れて眠くなって……」
 まだ呟いている直人は、その視線を神社の社内にある境内へと向け、歩き出した。
 木の階段を登り賽銭箱があり、境内と外を別ける柵が広がる。
 その向こう側を覗き込むと、いた。
「みつけた。こんな所で寝てやがった!」
 直人の歓喜の声を聞いた途端、知世は腰がぬけた様にその場に座り込んでいた。
「よかった。本当によかった。私の勘違い……」
 そう、拓哉は何処かにいってしまったわけでも、最悪の事態になったわけでもなかった。
 疲れて眠くなり、勝手に境内に入り込んで寝てしまっていただけなのだ。
「ごめんなさい。ちゃんと探してなかった、素直に謝るわ。全部私の勘違い」
 ほっとした表情のまま言われても、直人は知世を攻める気にはなれなかった。
 確かに勘違いではあったが、事のはじまりは自分が伝えるべき事を伝えなかったからだ。
 拓哉を寝かせたまま抱き上げると、境内を降りて知世に言った。
「俺も悪かった。早く帰ろうぜ、あんまり遅くなるとお前の弟と妹が心配しだすだろ」
「大丈夫、あの子達なら、そこまで気をまわさないもの」
 さきほどと言っている事が違うが、とりあえず拓哉を抱き上げたまま知世の家へと向かう。
 するとどうであろうか、知世の考えとは違いその妹や弟たちが家の外で待っていた。
 こちらに気付くなり走って駆け寄ってくる。
「姉ちゃん、拓哉はみつかったのか?!」
「あ、拓君がまた知らない人の背中で寝てる」
「椿、人を指差しちゃ駄目よ」
「友則、椿、アキ……もしかして、ばれてた?」
 一応知世が確認してみると、ばればれだという答えがそろった声で返ってくる。
「予想外。まあ、いいわ。友則、拓哉をお願い」
「あいよ、こんな時間までなにやってんだかコイツは。不良だ、不良」
 以前のように友則に拓哉を渡すが、その瞬間に意味深な視線を送られる。
 値踏みに近い、ジロジロとした視線の後にニヤニヤと笑いかけられる。
 直人とて身勝手ではあっても朴念仁ではないつもりなので、それがどういった意味なのかぐらいわかる。
「ほら、友則。早く連れて行きなさい。貴方たちも、早く家に戻りなさい」
 案ずるまでもなく知世が追い払うように妹や弟たちを家へと帰し、直人へと振り返る。
「竹下君、あらためてごめんなさい。それと、ありがとう。また明日ね」
 何事もなかったかのような知世の表情に、頷きかけた直人はそこで踏みとどまった。
 何事もなかったわけではないのだ。
 そして知世は何事もなかったかのように努めている。
 そこが直人は喉に小骨が刺さったような違和感を感じてならず、何かを伝えたかった。
 だが思ったよりも言葉は浮かばず、言い放った言葉は文章にすらならなかった。
「お前、泣け」
 言われた意味がわからずに少し思案顔をした知世は尋ねた。
「いじめっ子?」
「だーッ、違う! そうじゃなくて、なんかこう色々あっただろ。慌てたし、お前はグッと我慢してるし。こう、なんか発散しろよ。だから……」
 自分でも言っていてわけがわからなくなり、直人は一つ溜息をついて諦めた。
 明日会うまでに整理しておこうと思い直し踵を返すと、その背中にぶつかってくるものがあった。
 振り返ろうとする前に、そのぶつかってきたものが言う。
「振り返らないで、耳をふさいで。貴方は何も見てない、聞いてない。知らないふり」
 有無を言わさない声に正直に耳をふさぎ目をつぶると、背中から震えが伝わってきた。
 震えの正体は声を抑えて涙を流す知世であった。
「よかった。本当に何もなくてよかった」
「あのさ」
「忘れるの。私は泣いてなんかない。今日は何もなかった」
「口は閉じてろと言われなかった」
 そこだけは譲れず、まったく整理できていなかった言葉を急いで直人はまとめる。
「お前、もう少し甘えろよ。我慢しすぎだ。深い事情は知らないけど、なんかお前を見てるとモヤモヤする。あ、言っておくが俺にじゃないぞ。甘えるのは家族にだ」
 言ってから紅潮したまま慌てて修正した直人は、続けた。
「大変だったら手伝ってくれって言うだけじゃねえか。言ってくれなきゃ、アイツらだって手伝って良いかわかんねえだろ。少しは俺を見習え、すごいわがままだったぞ。思い出して恥ずかしくなるぐらい」
「まだ、わがままは治りきってない」
「すまん、大口叩いた。治りきってないかもしれない」
 気がつけば、直人は振り返っていたし、知世はもたれ掛るのを止めて自分で立っていた。
 数秒お互いに見つめあい、ぎこちなく直人が言った。
「それじゃあな。また明日」
「ええ、そうね。気をつけて」
 そう言いあった時には、やはり知世は元通りの何事もなかった顔で直人を見送っていた。





 昨日の帰り際のアレは一体なんだったのか。
 四限目の終わりを十分後に控えて昼飯の事を考えるよりも、直人は自分の席から見える知世を盗み見ていた。
 知世が落ち着き払った冷静な性格であることは、すでに重々承知である。
 だが昨日の今日で、なにもなかったように顔を合わせても軽く挨拶する程度で会話もないのはどういうことか。
 鞄のファスナーの隙間から見えるのは、先日渡し損ねたお古のグローブが顔をのぞかせている。
 今日の夕方に拓哉に直接渡せば良いのだが、なんとなく知世を通して渡したかった。
 理由はわからないが溜息が出ると、授業終了の鐘が鳴る。
「起立」
 号令にのそのそと従い、購買にパンでも買いに行こうと足を動かすと目の前に滑り込むように知世が現れた。
「うわッ!」
「女の子に対してその反応は失礼だと思うわ」
「急に現れたら普通びっくりするわい」
「そう、なら今度からはそうするわ」
 今度って何度も目の前に滑り込むように現れるつもりかといぶかしんでいると、知世が直人の机の上に弁当を置いた。
 両手が塞がっては困る状況でもあるまいに、何がしたいのか直人には図りかねた。
 すると知世が座れと言ってくる。
「あのさ、俺購買に行かねえといけないんだけど」
「机の上のそれ、貴方には何に見えているの?」
「弁当」
「それは何をするためのもの?」
「食べる為のもの」
「なら食べなさい」
 そこまで言われてもわからず首を捻っていた直人は、長い時間をかけてようやく答えに行き着いた。
 それに気がついてみれば、知世の手にはもう一つ弁当が納まっている。
 喜べばいい状況だと思うのだが頭がついてこず、直人は大人しく席についてから気付いた。
 当然の如く、まわりから惜しみなく注がれる好機の視線にだ。
「なあ、もう少し方法考えられなかったのか?」
「別に、この事に関しては諦めない事にしたの。だから気にしない」
「わけがわからん」
 大人しく弁当を食べる事にした直人を前にして、知世は自分も弁当を包む袋を解きながら言った。
「私は全部諦めていた。家事全般を引き受けて、自分の事をする暇がなくて、何もかも自分の事は諦めていた」
「諦めなくていいだろ。一杯一杯だったら、手伝ってくれって言えばいいって言ったろ」
「そう言ったら、見事な結果になったわ。まさか妹たちまで家事不能者になっていたなんて……」
 頭が痛そうにこめかみに手を添えた知世を見れば、なんとなく手間が増える結果となったことが見て取れた。
「だから家事についてはいっそ私が引き受ける事にした。これは諦めているわけじゃなくて、むしろ手伝って欲しくない。だから今のままで私は一つだけ諦めない事にしたの」
 変ったようで変っていない知世の生活であるが、前向きにはなったようで頷き返す。
 相変わらず淡々と喋っているようで、どこか生き生きとしているようにも見えるからだ。
 もごもごと弁当を口に運んでいると、次の言葉で咳き込まされた。
「恋だけはしてみようと思う。部活も、趣味も、自分の時間もいらない。暇がなくたって、恋をする暇だけは作ってみせる」
「ゴホッ、気管に…………はッ。お前、それ一人で出来る事じゃねえぞ。相手、その恋の相手はどうするんだよ」
 気管に入ったなど半分言い訳に利用して、直人はやけに狼狽する自分を誤魔化して問うた。
「人が渡したお弁当食べながら馬鹿な事を聞かないで。他に誰がいると言うの?」
「これ昨日のお礼じゃ」
「貴方は迷惑をかけた方でしょう。それは私が、恋をした相手に、渡したお弁当」
 恋と言う言葉を使うには相応しくない、露骨と表現したくなる言い方であった。
 言われた直人はお弁当を口に運ぶ事を止め、固まっていた。
 確かに相手が自分であると聞かされ、安心してかつ喜んでいる自分がいる。
 ただ、少しも照れる様子も見せずに言い切った知世を前にしてどういった態度をとればよいのかが解らない。
 自分だけが慌てふためいているようで、反抗するような言葉が口をついて出てしまった。
「解った、了解した。だけど教室で言うな。ばれるとか以前に、筒抜けだぞ」
「わざと筒抜けにしてるの。誰も手を出さないように、誰にもとられないようにね」
 しれっと言い返されて、直人はもはや言い返す気力もなかった。
 それどころか、口では勝てない事と悟らされていた。
 もうあれこれ言うのはやめようと、弁当を急いでかき込んで袋にしまいなおすと、自分の鞄から小さめのグローブを取り出しおいた。
「これ俺が昔使ってて、手が大きくなって使えなくなったやつ。拓哉にやるよ」
 一方的な流れを変えたくて取り出した秘密兵器は、かえって流れを悪化させた。
 普段感情が読めない知世が、ありありと不満を前面に押し出していた。
「大馬鹿」
「お、大馬鹿って。なんだよいきなり」
「説明してあげましょうか? 自分の馬鹿さ加減に穴掘って隠れたくなるわよ? 私は恋をすると宣言して貴方は了解した。それで、取り出したのが拓哉への贈り物? 貴方の目は一体何処へ向いているのかしら?」
「わるい……」
「拓哉と仲が良くても結構。ただし、貴方は私を見ていなさい。私のことを一番に考えなさい。そうすればわがままも治って一石二鳥だわ」
 どっちがわがままなんだよとは、さすがに直人は口にはしなかった。
 ただわがままな恋人が急に現れ、なんだか大変そうな毎日が待っていそうな気がしてならなかった。
目次