景色は激流の様に流れ、悲鳴は風に押しつぶされて消え、涙は乾くより早く置き去りに。 ルティンはただ落とされまいと、飛竜の背中と一体になったように体を硬くする事しかできなかった。 風圧によって荒波のようにはためく自分の髪の毛が、なおさら恐怖心をかきたてる。 恐怖で硬くなった体からは時間感覚など消し飛び、一分一秒でも早く終わりが来る事を待ち望む。 大空舞う飛竜の背中で、それ以外にできる事など何一つ存在しなかった。 それなのにルティンが必死にしがみ付いている飛竜は、長めの首を曲げて振り向くや否や無茶な事を言ってきた。 「何をしている。それでも私の歌姫か。目を開いて立て、そして歌うのだ」 竜独特の大型楽器のような野太い声は、この暴風の中でも迷うことなくルティンの耳に届く。 「で、ぶわべば!」 なんとか言い返そうとした必死の反論も、顔を上げて口を開いた途端に飛び込んできた風によって中断させられた。 これ以上食べられないとばかりに、ルティンは口を閉じて再び顔を伏せた。 悔しいとか、負けるもんかという思いが欠片も浮かぶ事はなく、ただただ恐怖から逃げるように大声で泣き始める始める。 「もう降ろして。もうやだ、もう家に帰る。帰りたい、帰してよ!」 今度は涙を置き去りにすることなく、地上に雨を降らすように涙を振りまいて叫ぶ。 雫が背中に落ちたのが解ったのか、ルティンを乗せた飛竜はそれぐらいの声をあげて歌ってくれればと思いつつ高度を下げていった。 地面が近づくほどに、飛竜の翼が生み出す風に草花が悲鳴を上げ始めた。 限りなく停滞に近い速度までスピードを落とすと、二、三度翼をはためかせてから地面に足をつけた。 それからちょっと背中を傾かせると、未だなき続けているルティンが転げ落ちてきた。 体が何回転しようと、地面にぼとりと落とされようと、ルティンは泣き続けていた。 「これが私の歌姫とは、泣きたいのはこちらの方だ」 やれやれといった溜息が飛竜、ギアからもたらされた。 「ウッ、泣きたいのはこっちで、いいのよ! 馬鹿、冷血竜、私は高い所が駄目なのに。それになんで私なのよ。他にも、私の村にはもっと綺麗で歌の上手い歌姫候補がいたじゃない。それを……よりによって彼氏が出来た当日に選ばなくても良いじゃない!」 「綺麗で歌が上手いだけの歌姫にどんな意味があると言うのだ」 泣き喚きながら自分の体をたたき出したルティンへと向けて、ギアはもう一度溜息をついていた。 竜は、最強を示す言葉であり、この世界の支配者という意味でもあった。 ドラグニアと呼ばれるこの世界には、全ての創造主たる神はすでにいない。 竜族が殺してしまったからだ。 神の最後の言葉は竜族にたいする恨みではなく、竜族という種族を生み出してしまった事への悔やみであったという。 その日から竜族は世界の支配者となったわけであるが、この世界には竜族とは正反対に、最弱を示す種族である人間がいた。 多少の知恵はあるものの、他の種族の餌か玩具にすぎない人間であったが一つだけ類まれなる能力があった。 それが歌である。 特に人間の女性の歌は、竜の力を増幅する作用があり、竜は人を守護する代わりに力を増幅する歌姫を、人間は歌姫を差し出す代わりに竜による庇護を得た。 最強と最弱の種族が手を組んだのが、この世界ドラグニアであった。 とは言うものの、竜と人間が対等であるはずもない。 人間は歌姫を差し出す事で、かろうじて竜に生かされているに過ぎなかった……はずである。 「いい加減、泣き止まぬか。煩くてかなわん」 「煩くて結構よ。こっちはまだまだ喚き足らないんだから。言っておくけど、私だって好きで貴方につれられてきたんじゃないから。歌姫候補が竜に選ばれながら嫌だって言えるわけないじゃない。そんなことしたら村八分よ。村の外よりも怖い目にあうんだから」 「むう…………」 ルティンをとある村で歌姫として選んでから数日、こうなっては喚くルティンを止める方法がない事は重々承知していた。 黙して時を待ち、喚き疲れるまで待つのが一番なのである。 毎度思うようにいつまで続くのだろうかと言う、皮肉にもルティンが空で思っていた事をそのまま地上でギアが思っていた。 十七と言うまだまだ成長段階の、人間の中でさえ小さめのルティンが、自分より何倍も大きいギアに罵声を浴びせ続ける。 この小さな体のどこにそこまで喚ける元気がと呆れ始めた頃に、それは聞こえた。 まだまだ喚き続けるルティンの声を一時的に耳から書き出し、その音に耳を傾ける。 それは人間が庇護を求める時に使う、竜笛の音であった。 「ルティン、話は後だ。竜笛が聞こえた」 「竜笛……まさか、どこかの村が襲われてるの?!」 「そこまではわからんが、背中に乗れ。聞こえてしまった以上、無視していくわけにもいかん」 竜笛が聞こえた時に発生する義務に従い、ルティンを背中に乗せたギアはその翼を大きく開いた。 草原の色よりも濃い緑色の羽が風を仰ぐ。 いざ、庇護を求める人間の下へと地面から足が離れる瞬間、勢いがそがれる声がもたらされた。 「できるだけ低く飛びなさいよ。そうじゃなかったら、耳元で泣き喚くんだから」 ギアは返事の変わりに、わざと聞こえるように溜息をついていた。 出来るだけ低級飛行を続けた先にあった村から少し離れた場所では、信じられない光景が広がっていた。 ギアと同じ竜の死体があったのだ。 ただしこちらは飛竜ではなく、地を馬よりも早く駆けることの出来る地竜であるらしかった。 腹のど真ん中を貫かれたように穴をあけられ、絶命してから、幾ばくかの時間は経っていたようでる。 その傍らでは、歌姫らしき少女が倒れてはいたが、駆け寄ったルティンの様子からこちらは無事のようであった。 「誰にやられたのかはわからぬが、竜族が他種族に負けるか。竜族のプライドにかけて、私が敵をうたねばならんな」 「ねえ、こっちの子は無事みたいだけど、なかなか目を覚ましそうにないみたい。竜の背中から振り落とされた時に、頭でも打ったのかも」 「かまわぬ。今すぐに起こせ、頬でも叩けば意識ぐらい戻るだろう」 さも当然のようにギアはそうさせようとしたのだが、ルティンが簡単に承諾するはずもない。 案の定、出来るわけがないだろうと怒られてしまう。 「頭を打ったかも知れない子に、そんなことできるわけないでしょう。ちょっとは考えて発言しなさいよ」 「なぜ私が見知らぬ人間の女の身を……」 「なんか言った?」 「いや」 ルティンの言い分に従い、死んでしまった竜の歌姫をその辺に寝かせると、できる事が何もなくなってしまった。 全くの時間の無駄だとギアはあきれ果て、ルティンが歌姫の看病を始めた所で、近くの村の者が数名やってきた。 竜の死体を見るやぎょっと顔色を変えたが、ギアを見るやその顔色は直ぐにも戻っていた。 村の安全が保障されるのなら、相手は誰でも構わないようであった。 「はじめまして、旅の竜の方。私どもはあちらに見える村の」 「前置きはいらん。何者がこの竜を殺したのか、それさえ聞ければ私がその者を退治しよう」 「それが……私どもは家に閉じこもっていた為に、恐らくそれを見たのはそこのアニスだけかと」 低く頭を下げた村人が見たのは、ルティンが横に寝かせた歌姫であった。 外傷は全くみられないものの、あまり目覚めるような兆候はみられず、時折何かをうわごとのように呟くのみであった。 すると村の男数人が気絶するアニスを、看病するルティンから奪うように無理やり起こし始めた。 先ほどギアにも言ったように、ルティンはすぐに庇うように立ちふさがった。 「ちょっと、何をするつもりなのよ。この子頭でも打ったかもしれないのよ」 「頭ですんだら御の字だろう。こっちは村の存続の危機なんだよ」 「この子も村人の一人のはずでしょ?」 「仕方がないだろう。アニスだけしか、いいからよこせ!」 決してアニスと言う名の歌姫を渡そうとしないルティンに苛立った若者が、まずはルティンを何とかしようと腕を伸ばす。 その瞬間、辺り一体を揺るがす地響きが起こった。 村人達はもちろん、対抗しようと立ち上がったルティンまでもが尻餅をついた状態でギアを見上げた。 地面を揺るがしたのは、ギアが振るった尻尾による物であったからだ。 「もうよい。死体の状態から見て、まだ近くにいるだろう。適当に探して始末をつけたら知らせる。それでいいな?」 「申し訳、それで全く問題ありません。なにとぞよろしくお願いいたします」 苛立ったギアの声に恐縮するように、村人一同が深々と頭をさげてきていた。 一方ルティンは、村人の態度を見て諌めるなどギアにも良い所があるもんだと、見当違いな事を考えていたりする。 「死んでしまった者の埋葬は任せる」 頭を下げる村人一同に言うと、ギアはルティンを背に乗せて村から離れるように飛んでいった。 低空飛行と言えど、ギアの体格から高い事には変わりなく、ちょっと腰が引けた声でルティンが言った。 「ちょっと見直したわよ。アニスって子に乱暴しようとした村の人を怒るなんて」 「誰もそのような無駄な事をしてはいない」 「あれ、ちょっと照れてる? 見直してあげたんだから、素直になりなさいよね」 「照れてなどいない。それにしても、あの竜を殺した下手人は一体何者だ」 話を変えるようにギアが言った後に、ルティンは頬に指先を当てて考え込む。 「竜って最強だけど、無敵ってわけじゃないんだね。他の種族に負ける所なんて初めて見たわ」 「竜族は最強の種族だ。私が勝てば、あの者の敗北はなかった事になる」 「いや、さすがになかったことには……って、今気づいたんだけど。私も一緒にと言うか、歌わなきゃダメってこと?!」 「何を今更、そのための歌姫であろうが」 辺りに目を光らせていたギアにとっては、本当にいまさらの事であった。 竜は自らの力を上昇させる為に、歌う事の出来る人間の女、つまりは歌姫を共にいさせる。 本来ならば、それ以外に理由はないはずである。 「嫌だ、絶対に嫌。これ以上高く飛んだら泣くんだから。結局歌えないんだから、私はいなくてもいいじゃない。さっきの村でも良いから帰る!」 「案ずるな。先ほどやられた竜は地竜だ。恐らく相手も飛びはすまい」 「絶対よね、絶対でしょうね。だったら……良くはないけど、我慢する。あ、言うの忘れてた。あの子、うわごと言ってたんだけど」 忘れるなと注意をしたかったものの、相手の情報が聞きたくてギアは深くは突っ込まずに促した。 「なんかね、オーガに襲われたって。小さくて強いオーガに」 「オーガだと?」 オーガとは力はまずまずあるものの、知性と言う物がほとんどない。 そのような生物に、ましてや子供に竜が負けるなどと考えた所で、ギアは負けたという言葉を振り払うように首を振るった。 相手が何であれ、自分がその者を殺せば全ては丸く納まる。 今一度そう考え直して辺りに目を光らせたものの、相変わらず竜を殺した者どころかうさぎ一匹見当たらない。 何度か方角を変えて探し回るも見つからず、一時間は経とうという頃にルティンがある方角を指差していった。 「ねえ、あそこの人に聞いてみたらどうかな? 何か知ってるかもしれないわよ」 そう言って指差された先には、珍しい人間の身でありながら一人旅をしているらしき男の姿が見えた。 真っ黒に薄汚れた鎧と、ボロ布に包み込まれた大剣らしきもの。 そのような武装をした所で人間の力など知れていると、ギアがそちらに方向転換を行うと同時に、男が振り向いた。 光無き両目には、ただギアの姿だけが映しこまれていた。 「きゃッ!」 急遽百八十度方向転換を行ったギアの背中の上でルティンが転げた。 急にどうしたと声をかけるよりも早く、ギアが悲鳴に近い声を上げた。 「逃げるぞ。何がオーガだ。あれは人間だ!」 ギアが何を言って、何を恐れたのか。 わけがわからず後ろを振り返ったルティンは、声をかけようとした男が背負っていた大剣をボロ布から開放したのを見た。 その瞬間に耳に届いたのは、泣き叫ぶような亡者の悲鳴。 元々遠くにいたために、すでに距離にして五百メートル以上は離れているだろう。 なのにルティンも漠然とだが、追いつかれるであろう事を察したのは、明らかに男が持つ剣が放つ怨念とも言うべき冷気のせいであった。 男が駆けると、最速のはずの飛竜との間が見る見るうちに縮まっていく。 「逃げきれんか。仕方が無い、歌えルティン。私一人では到底勝てない!」 理由がわからず混乱するルティンの目の前で再度反転したギアは、その大きな口を男に向けて開いた。 チロチロと舌のように出しては口内に戻されていたのは炎の切れ端。 吐き出された火球は、まるで夢でも見ているように軽々と男の大剣によって切り裂かれた。 留まる所を知らない男の足がギアへと追いつき、禍々しい悲鳴を放つ大剣がギアの体を引き裂いた。 昼間でも薄暗い森に身を隠したギアの背中に、ルティンは探してきた薬草をすりつぶして塗りつけていた。 血の方は森に逃げ込んですぐに止まったものの、傷跡は痛々しく残ったままである。 申し訳なさそうにしながらも手は休めずに、ルティンは傷口へと薬草を塗り続ける。 あの時、男の一撃がギアを両断しようとした時、男はルティンの姿を確認するや大剣の動きが鈍った。 ギアもそれを見逃さずに尾で男をなぎ払い、命からがら逃げ出した。 逃げ出すしかなかったのだ、戦闘を経験したことがないルティンが歌えない以上。 「ねえ、傷大丈夫?」 「コレぐらいで死ぬ事はないが、まず戦闘は無理だろうな。隠れてやり過ごしたい所だが、まず見つけられるだろう」 ギアは、咄嗟に歌えなかったルティンを攻めるような事はしなかった。 だからなおさらの事、ルティンはいたたまれない思いにかられるしかなかった。 「あの人、急に襲ってきて。それに貴方の態度、一体なんだったの? 人間、じゃないの?」 「アレはもはや人間ではない。竜と人との在り方の歪みから生まれるドラゴンスレイヤーだ」 「ドラゴンスレイヤー?」 「そう、この世で唯一の竜の天敵。竜を狩る事ができる人間、それがドラゴンスレイヤー」 竜を狩る事ができる人間と言われても、ルティンにはさっぱりに理解する事ができなかった。 最強の種族が竜で、最弱の種族が人間。 それは世界の常識であり、最強と最弱が手を結んだのが竜と人の在り方であるはずである。 その歪みが生み出すとはどういうことなのか。 「ルティン、お前は先ほど寄った村人について何か思うことはなかったか?」 「村の人たち? なんだか貴方に対してすごく腰が低かったような気がするわ。反対にあの子や私に対してはすごく強気だったけれど」 「腰が低いのではない。私を恐れているのだ。人間は脆弱な生き物だ。竜の保護なくしては存続さえ難しいほどに。だから歌姫と言う生贄を差し出す事で、生存を許された弱い生き物なのだ。お前も言ったな。歌姫の誘いを断れば村八分にされると」 「うん、だから周りの圧力で断れなかった」 正直にルティンが答えると、長い沈黙を持ってからギアが続けた。 「竜にとって人間は所詮、家畜同然だ。だから自然とその扱いも相応になっていく。服を着る事を許されない歌姫、荷物のように運ばれ、満足に餌も与えられず。だが逆らえない。逆らえば待つのは竜による蹂躙か、その他魔物による蹂躙か」 「そんな酷い竜なんているの?! だってギアはちゃんと私が泣いたら降ろしてくれるし、歌えなくても怒らない。さっきだって……」 「竜の中にそう考える者もいると言う事だ。だからこそ、生まれるのだ。ドラゴンスレイヤーが」 話が繋がるのはここからであった。 「人間の力は歌だ。竜の力を増し、時には傷を癒し。だがもしも、竜を恨み、歌にそれが込められたとしたら? 恨み辛み、幾人もの歌姫の怨念が篭り、やがてそれは形を成す。竜を殺せるだけの力を秘めた竜殺しの剣、それを人間が操った時、竜を殺すだけの生物であるドラゴンスレイヤーが生まれる」 「竜を殺すためだけの……もしかして、勝てないの?」 「今のままでは難しいだろうな。一対一では歌姫の力を得て、ようやく五分と言ったところだ」 そう呟いた後、まだ傷も癒えきっていない状態でギアは立ち上がろうとしていた。 巨体を支える為に足が地面を踏みしめれば、ふさがっていたはずの傷口から血がにじみ始める。 もちろんルティンは止めようとしたが、反対にギアに咥えられられて背中に乗せられてしまう。 「相手がドラゴンスレイヤーならば時期にこの場所も知られる。その前にお前を故郷とは言わないが、先ほどの村まで送り届ける。すぐに竜笛で他の竜を呼んで事情を説明するのだ」 「でも貴方はどうするつもり? 言ったじゃない、歌姫の力を得て五分だって」 「案ずるな。ドラゴンスレイヤーは竜を殺すためだけの生物。人間には無害だ。むしろここで私が倒れたのならば、他の魔物によってお前の命が危ない」 「私じゃなくて、貴方の事を言ってるのよ。何をこんな時に、私の事なんか心配してるのよ」 以前から思っていたのだがどうにもギアは竜らしくない。 特にルティンに対しては、まるで同種を扱うように、我侭ですら受け止めてくれる。 そもそも何故あの日、村に居た幾人かの歌姫から一番の美人でも、一番歌が上手い子を選ばなかったのか。 ルティンの疑問は、ギアが羽ばたくと同時に聞こえた轟音によって中断された。 「思ったよりも早く、見つかったか!」 なぎ倒される木々に巻き込まれないように羽ばたいたギアは、明らかに顔をゆがめていた。 それでも歯を食いしばり飛び立つと、すれ違うようにドラゴンスレイヤーの剣が通り過ぎていっていた。 こうなってはルティンが怖がるのを無視して高度を高くとりたいものだが、最初に受けた傷がそれを許さなかった。 所々木に体をぶつけながらも森を抜け出すために、低めの空を駆け抜ける。 だが森を抜け出して気がつけば、その真横でドラゴンスレイヤーが竜殺しの剣をすでに振り上げていた。 せめてルティンだけでもと気は急いても、かわせるタイミングでもなければ、奇跡を願う相手はすでに先祖が殺害済みだ。 どうすればと迷ったギアの耳に、心地良い声が聞こえた。 青い、ただ青い空を風さえも置き去りに駆け抜けるイメージが頭に浮かぶと同時に、ギアの体が加速し剣が相手を見失う。 「ルティン!」 聞こえたのは歌声であった。 まだ足元がおぼつかない様子で、時に方膝をつきながらもルティンが歌を奏でていた。 歌の調子が軽快な音調から、陽だまりのような暖かい音調に変わる。 噴出したはずの血がせき止められ、見る見るうちに傷が癒されていく。 剣をかわせた事実よりも、傷が塞がっていく事実よりも、ルティンが歌った事実にギアは歓喜の叫びを上げた。 「歌姫の力を得て五分。だが私が歌姫を得たのならば話は別だ。さあ来るが良い、ドラゴンスレイヤーよ。歌姫の怨念よ。私が断ち切ってやろう、私の歌姫ルティンの名にかけて」 応えたわけではないだろうが、ギアの声によってドラゴンスレイヤーがその命を狙って駆ける。 ギアの背中の上ではまたもや歌の音調を変えていた。 戦いの序曲をあらわすように、自然と怯えていた膝が伸びて、ルティンの体が声にしたがって踊り始める。 歌によって湧き上がる感情がギアの喉から吐き出された。 灼熱の炎、それがドラゴンスレイヤーめがけて飛ぶと、相手は前のように切り裂こうとするがそのまま押し流されていった。 地面に押し付けられると同時に着弾した炎は、唸りを上げて空を食い尽くす。 それでもまだ炎の揺らめきの中からドラゴンスレイヤーは現れた。 「ルティン、まだいけるな!」 「あまり喋りかけないで。結構必死なのよ!」 縦横無尽に空を翔る竜の背中は、どのような舞台も及ばないほどに最低の舞台である。 岩肌のようにゴツゴツとした肌は、時に上下さえ裏返るほどに変わり続ける。 およそ歌うのも踊るのも適さない舞台で、ルティンはただギアに死んで欲しくない事を願いながら歌い踊り続けていた。 歌が奏でるのは、訪れる転機。 炎を切り裂くどころか、受け止めるのも危険と判断したドラゴンスレイヤーは無視を決め込む事にしたようだ。 絶えず炎をかわして少しずつ距離を縮めていく。 歌姫の力を得ても、焦りは確実にギアの心を蝕んでいた。 決して耐えることのなかった炎と炎の間に隙間が生まれ、徐々に歩を進めていたはずのドラゴンスレイヤーが一気に動いた。 突然の事に閉まる喉、炎は完全に途切れ、振り上げられる竜殺しの剣。 ルティンの歌声がまた変わっていた。 「う、うおぉぉぉ!」 飛ぶ為ではなく、ドラゴンスレイヤーを吹き飛ばす為に羽が動く。 吹き飛ばす事はかなわなかったが、バランスを崩す程度は出来た。 ギアの体の上を竜殺しの剣が走るが、浅い裂傷が走ったのみであった。 一旦距離を開けるも、逃がすまいとドラゴンスレイヤーがすぐに追ってくる。 「ちょっと、何が話は別だよ。五分どころか、先に傷受けちゃったじゃない」 「高揚している気分に水をさすな。それに最初の一撃に比べれば、全くの軽症だ。そう、最初の……?」 何故自分は最初の一撃で絶命せずにすんだのだろうか。 突然の事で動揺し、さらにはまだルティンが歌を満足に歌えなかったはずなのに。 斬られる瞬間、ドラゴンスレイヤーの瞳には何が映っていたのか。 「できるはずがなかろう!」 突然怒り出したギアに気をとられていると、その背中が大きく揺れた。 「ちょっと、なに一人で勝手に怒りだしてるのよ。ちゃんと説明しなさい」 「いや、しかし」 「いいから、教えなさい。私は貴方の歌姫、言わばパートナーでしょうが。一人で戦ってるんじゃないんだからね!」 本来なら黙っているつもりであったが、パートナーと言う言葉がギアの口を開けさせていた。 竜の天敵であるドラゴンスレイヤー、その弱点、天敵。 それを確信する為の事実と対処法を話したときに、確かにルティンは顔色を青ざめさせていた。 だがパートナーだと発言した以上、甘えることはなかった。 「絶対助けなさいよ。間に合わなかったら、私も恨んでドラゴンスレイヤー作っちゃうんだから」 「間に合わせてみせる」 頷きあった直後、ギアは高所恐怖症のはずのルティンを空高くへと連れて行った。 恐怖心から歯をすり合わせて我慢する音が聞こえたが、ルティンは来るべき時のために耐えていた。 さすがにドラゴンスレイヤーは空を飛べないのか、追ってくることも出来ずにギアたちの真下でその足を止めていた。 動かずにじっとこちらを見上げるドラゴンスレイヤーへとギアは急降下を始めた。 「タイミングを間違えるな。危ないと思ったらすぐに風の歌だ、すぐに向かう」 返事は歌で返された。 戦いの終結、メキメキと体中が軋むほどにギアの体に力がみなぎり始めた。 対するドラゴンスレイヤーもただ待つのではなく、その身をやや屈ませてから急降下してくるギアを見上げた。 陥没するほどに蹴り込められた地面に反発して、その体が翼を得たように跳んだ。 お互いに接触するまで十秒。 一秒にも満たないためらいの後に、ギアの背からルティンが跳び下りた。 自分に向かって落ちてくるルティンを見て、ドラゴンスレイヤーが明らかな戸惑いを見せた。 このまま剣を振り切れば、竜もろとも少女まで殺してしまうことになる。 竜は殺せても人を殺せない、それがドラゴンスレイヤーの弱点。 硬直したドラゴンスレイヤーの横をルティンが落ちていく、ハッと気がついたときには接触まで五秒をきっていた。 慌てて振り上げられる竜殺しの剣。 「遅い!」 振り上げきる前にギアの顎が竜殺しの剣を加え、力を込めた。 互いにすれ違う威力も加えられ砕ける竜殺しの剣。 意識を失ったように体から力を失くしたドラゴンスレイヤーを尻目に、ギアは空をまだ落ちていた。 「ルティン!」 耳に届いたその歌で体を加速させ、自らの歌姫を救いに空を駆けた。 ギアが地面に空けた大穴に、ドラゴンスレイヤーであった動かぬ屍を埋めて埋葬する。 墓石は、砕けた竜殺しの剣の欠片である。 地面にペタンとお尻をつけたまま墓石に向かって手を合わせるルティンへと、ギアは埋葬を手伝わされた事に文句を言わなかった 彼にとっては傷をおったものの、ルティンが歌ってくれた事と、同族のあだ討ちと得る事の方が多かったからだ。 名も知らぬドラゴンスレイヤーへと感謝をしても良いぐらいであった。 「ねえ、なんでこの人竜殺しの剣を手に取ったのかな?」 「推測になるが、近しい者が歌姫として選ばれたのだろう。どう扱われたのかはわからんが、恨むのには十分すぎる理由だ」 「あのね、貴方も私に恋人ができた当日に選んだのを忘れないでよ」 「ふん、恨むなら恨めばよい。所詮そういうものだろう」 言っていることが無茶苦茶な気がしたが、つい今しがたつけた決心の前に小さなことであった。 「あのね、ギア。私もう少し貴方の歌姫としてがんばってみようと思う。だから私の我がままを二つ聞いてくれる?」 「内容によるな。村に帰るというのは却下だ」 「歌姫としてがんばるって言ったでしょうが。まず一つ、もしも他の竜が歌姫に酷いことしてたら容赦なく喧嘩を吹っかける事」 「私に同族と争えというのか?」 「この程度で驚かないでよ」 竜同士で争えという事をこの程度といわれ、閉口するしかなかった。 もう一つは何なのか、とりあえず聞いてみたギアにルティンは言った。 「ドラゴンスレイヤーが現れたら、これも積極的に戦う事。どう考えても人間は弱いもん。今さら竜の庇護を抜け出せるとも思えない。だらか竜が人を殺さず、人が竜を殺さず。できればもっと友達みたいになれたら良いなって思うの。例えば私とギアみたいな」 「私とお前は友達だったのか?」 「違うの? だってギアって私の我侭聞いてくれるし、ギアは我侭で私を連れてきて。我侭が言い合えるのって友達だからじゃない?」 何故か友達、友達と連呼されてギアは気分を害してしまったようだ。 対等の存在と思われて気分を害したのではなく、もっと別の理由のようでルティンにはいまいちわからなかった。 「その二つは了承してやる。だからもう友達というのは止めろ。さっさと村に帰って知らせてやるぞ」 やはり友達とルティンには言われたくないようで、首を傾げるしかなかった。 友達でなければやはり家畜、もう少しましな方で愛玩動物扱いなのかと悲しくなったルティンはその考えを必死に振り払った。 そもそもギアからはそのような扱いを感じるときがこれまで一切みられなかった。 だったら何のつもりで歌姫として選んだのか。 いくら考えてもさっぱりわからない。 「最後に一つ、なんで私だったわけ? ほら、友達なら友達に恋人ができたら察するべきじゃない? 恋人が妬かないように距離を置こうとか」 「ええい、恋人、恋人と。まだ返事はしていなかったであろう。だからアレは無効だ。断じて恋人などではない!」 つい耐え切れなくなって叫んでしまったギアは、明らかに自分の失言を感じ取り、ルティンもまた言葉に含まれた意味を感じ取っていた。 友達といわれて不機嫌になったり、思えば先ほどの村人が自分に乱暴しようとした時も、尻尾を地面に打ちつけ怒っていた。 恋人ができた日に歌姫として選ばれた自分と、選んだギア。 略奪愛。 思いついたのはろくな言葉じゃなかったが、間違いはなかった。 「はっは〜ん、そう言うことだったんだ。ギアが私をね。種族を超えた愛か、困っちゃうなぁ」 「な、何を馬鹿な事を。最強の竜族であるこの私が、何を馬鹿な事を。あるはずが、あるはずがない。何を馬鹿な事を」 面白いぐらいに動揺を見せたギアは、何を馬鹿な事をと三回も言っていた。 これでは認めたも同然で、次の一言でギアはこの先完全に手玉に取られることが決定したようなものだった。 「そうよねえ、世界最強の竜族が人間の私なんか。私も本当はギアの事……」 その言葉が罠だと思っていても、ギアの口が半分以上言葉を発しようと開いていた。 否定を行えば、諦めの言葉が送られ、肯定を行えば好意を認めたようなものである。 世界最強の竜族が、世界最弱の人間に追い詰められる構図は、そうはありはしない。 目の前で不適に笑うルティンに見つめられる事に耐えられなくなったギアは、瞳を覗き込まれないようにしながらルティンを咥えて背中に放り投げた。 多少の悲鳴は聞かないふりをして、そのままルティンを背中に乗せたまま空高く飛び上がる。 「ちょっと待って、さっきは必死だっただけで、まだ高い所は!」 「知っている。昔木登りの途中で落っこちてからだろう」 「貴方、一体何時から私のことを見てたのよ。それって私が物心もつかない頃の話なのに」 「違う。これは……そうだ、お前が寝言で」 「そうだとか言った時点で思い付きじゃない!」 重なり合う竜と歌姫の悲鳴を残して、風となった飛竜が空を駆けていく。 だが心が重なり合うには、まだまだ時間が要るようであった。
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