体が痛くて何度も寝返りをうっている間に、ようやく気づき始めたのは体が痛いのはベッドが硬いからだと言う事であった。 確かに家にあるベッドは上から天蓋が張られているような高級ベッドではないが、普通のベッドであったはずだ。 目を閉じたままで辺りに手を這わせると冷たい、まるで石のような硬質な感触が味わえ、寝ぼけた頭で床にでも転がり落ちたのかと思った。 だが床は床で絨毯があるはずで、そんな馬鹿なと薄目を開け始めた頃、 「起きろ、ジョン!」 全く別人の名を呼ばれながら、背中から突き抜ける衝撃が石松 青人(いしまつ あおと)を吹き飛ばしていた。 一転二転とバウンドしながら転がる自分が理解できなくて、体が転がるのを止めてからハッキリした意識の元、急激な痛みが体を支配した。 「痛ッ、背骨! だれ、痛ェ、はうあァ!!」 のた打ち回り痛みを叫ぶ青人であるが、声の主に心配する様子はかけらもなかった。 「ご主人様がわざわざ来てやったのだ。喜び勇んで尻尾を振るのが礼儀と言うものであろうが。なあ、ジョン?」 「ちょま、俺はジョンなんかじゃ」 「何時までのた打ち回っておる。いい加減にこっちをむくがよい」 痛いと口で言っている青人の体をさらに踏みつけた誰かへと、青人が振り向くとそこには乳があった。 正確には、床から見上げた顔の半分が見えないほどに大きな乳があった。 名前を間違われたとか、足蹴にされたとかの負の行為を吹き飛ばすほどに好感の持てるそれに惹かれ立ち上がる。 当然の事ながら、大きな乳を持つそれは女の子であった。 テレビ以外で始めてみた金髪を後頭部で纏め上げ、身長は自分と大差なく高めであり、なによりも乳を強調して胸元をはだけられたその服が特徴的であった。 これまたテレビ以外で見たことも無いような黒のドレスで、これからお葬式ですかと今にも問いたくなってくる程だ。 「良いか、これから私がくるときは絶えず起きておれ。昼夜を問わず、喜び勇んで私に歩み寄ってひざまずくが良い」 「はあ…………」 可愛くて何よりも胸がでかいが変な子だと、半分興味が薄れた青人は辺りを見渡した。 彼女の服と同じように真っ黒な色彩の部屋で、窓はなく出入り口は一つ。 家で自分は寝ていたはずで、拉致監禁と言う言葉も目の前の彼女と言う存在によっていまいち現実感が乏しかった。 だが青人が辺りを見渡しているうちに、一歩近寄った彼女が自分の首に填めた金属製の輪。 それが正解であった。 「なんだこれ?」 「ペットに首輪は必須であろうが。私も時間があまりない故、躾はおいおいと言う事になるがの」 「はいはい、そうだな。でもこういう事はもっとそういう趣味の人相手にやろうな」 話にならないと、出来るだけ刺激しないように頭にぽんと手を置いてからたった一つしかないで入り口へと歩いて向かう青人。 その足が三歩目を踏み出そうとしたところで、後ろから何かに首を引っ張られ思い切り背中から倒れこんだ。 咳き込みながらも想像したのは填められた輪のせいだと言うことであり、目でそれを確認して全てを理解した。 彼女の手から伸びているのは薄らぼんやりと薄紅色の光を浮かべる鎖、それが繋がっているのが青人の首にある輪であった。 「さっきまで、そんなものガハッ」 「まさかご主人様を無視して勝手に出歩こうとするとは思わなんだ。コレは今すぐにでも、躾が必要かのう」 背筋が凍るような声に、脊髄反射的に青人はその場から横に跳ねた。 直後に灼熱の何かが視線の端を通り過ぎ、床に触れると同時に炎と熱を撒き散らしながら吼えた。 驚くほど早く炎は消えたが、床に残されたえぐれた破壊後が証拠として残っていた。 「な、な……な?!」 「思ったより素早いな。これは躾のしがいがありそうだ」 僅かに手に持つ謎の鎖に力を込めながらも、逆の手の平を上へと向ける。 唐突に、何の前触れもなく火の粉が現れたかと思うと、すぐに火へと、さらには炎へと成長する。 先ほどはそれを投げつけられたのかと理解し、ようやく青人は自分がとてつもない場所へと連れてこられたのだと理解した。 だが遅すぎる理解であった事は言うまでもなく、彼女の手のひらで踊る炎が球体へと変わり腕が持ち上がる。 混乱の末に何故かかわすよりも腕で顔を覆う事を選んだ青人であるが、ノックの音が二人の間に入り込んできた。 「セイブル様、そろそろお時間ですけれど。どうしましょう?」 一つしかないドアの向こうからの声に、セイブルと言う名らしき彼女は手の平の炎を握りつぶし舌をうった。 「すぐに行く。まったくこれからが面白い所であったのに。ジョン、私が戻ってくるまで大人しく待っておるのだぞ」 「たすかった…………」 酷く残念そうに言いながら、一つしかないドアへと向かうセイブルを見送りながら、青人は全身から力を抜いて倒れこんだ。 解った事と言えば、超常の力を持つ彼女がセイブルと言う名で、当然のように自分をペットとして扱っている事。 明らかに解らない事の方が多く、青人は首に填められた金属製の輪に触れた。 何せ突然鎖のような物がセイブルに握られてしまうのだから、これをまずは何とかしない事には逃げられそうもない。 そもそもにして首輪なんて気分が悪い。 「で、これって外れるわけ?」 首輪を指で一周なぞらえても、引っかかり一つなく滑らかな曲線が指に伝わるばかりである。 鍵穴どころか継ぎ目一つ見当たらず、どうやって填めたんだと首輪の辺りを引っかいても皮膚がむけて首がひりついた程度である。 「こんなんで逃げられんのかよ。って言うかそろそろ誰かまともな人が説明してくれ」 現実逃避のために何もかも投げ出して寝てしまいたい衝動に駆られ始めた青人の耳に、先ほども聞いたノックの音が耳に届く。 もしかすると内側からも簡単に開けられるのではと思う程に簡単に開いたドアから、セイブルとは違う少女が入り込んできた。 使用人のような存在なのか、メイド服を着込んで何かお盆を持っている黒髪の少女は、起きている青人を見つけセイブルとは何百倍もの差のある笑顔で微笑みかけてきた。 ただやけに血色の悪い肌が気になるところである。 「セイブル様がずいぶんはしゃいでいらっしゃいましたけれど、大丈夫でしたか?」 「全然大丈夫じゃない」 一度見た目に騙されている為に、酷く棘のある言葉を投げてしまったが、少女は気にした様子もなく変わらぬ笑みを向けてくれていた。 「お腹すいてるだろうからってご飯持ってきたんですけど、食べますか?」 「あ、食う」 「良かった。じゃあこれ、どうぞ」 言われて初めて空腹に気づいた青人は正直に答えて、少女からお盆を受け取ると、お盆の上はダイレクトに焼いた骨つき肉の塊と申し訳程度の野菜が転がっていた。 起き抜けにはきつ過ぎる代物であるが、何も食べないよりはと青人はかぶりつき出した。 テーブルも何も無いため、地べたに置いたお盆から取って食べる青人を放っておくわけでもなく、少女はじっと眺めてきてくる。 「もしかして、お盆とお皿待ち?」 「あ、違うの。ゆっくり食べてていいよ。生きてる人間なんて久しぶりに見たから、懐かしいなって」 「はへ?」 「もしかして、ここが何処だか聞いてませんか?」 ちゃんと自分の現状を知るチャンスだと、思い切り青人は頷いた。 「何処から話したらいいのかな? えっと、ここはジョンさんのいた人間界じゃなくて、魔界なんです。それでこの魔界を収めるのが先ほどの二代目魔王のセイブル様です」 「魔界……って言うか、ジョンじゃないから」 「あ〜、やっぱり人間ってその辺信じないんですよね。何度か人間界から召喚された人間を見たことありますけど、皆そんな反応ですし。私もこう見えて人間じゃないんですよ?」 どう見ても人間にしか見えない少女に疑わし気な視線をよこすと、何故か少女は自分の両手で頭を挟みこんでいた。 よく見ててくださいねと明るい声を残して、挟み込んだ両手を無造作に上へと持ち上げた。 「ほら、首とれますし」 冗談のように、スポンと離れ業をやってのけた顔が少女の手の中で微笑みかけてくる。 つられて上へと上がった視線を徐々におろしていくと、艶かしいくもややくすんだ赤い首の断面が見えた。 直後に青人の視界は白一色に染まり、意思を失った体が床へと倒れていった。 「あれ、ジョンさん。大丈夫ですか?」 しばらく揺り動かしても目覚める気配のない青人を置いて、仕方が無いと少女は食器を片して帰っていった。 ガッと自分の体に重みと痛みが加わったせいで、急速に意識を取り戻した青人は直ちにその場から飛び起きはなれた。 直感以外の何ものでもないその行動は正しく、つい先ほどまで自分が居たその場ではコレから足を振り上げようかというセイブルがいた。 蹴るよりも早く青人が飛び起きたために、いささか不機嫌そうではあったが。 「お前は、本当に躾が必要よの。私がきてやったというのに、またしても寝ているかと思い、起こそうとすれば即座に起きる。勝手極まりないとは、この事だな」 「人を起こすのに一々足蹴にしたり、蹴ろうとするな。いいか、なんだか良くわからんが俺の思いは一つだ。とっとと元の世界に返せ」 「嫌だ」 時間にして一秒にも満たない間しかない、返答であった。 「いや、もう少し悩めよ。頼むから」 「断る、なにゆえ折角手に入れたペットを手放さなければならぬのだ。お前は一生を私の手の中で過ごすのだ。大体にして何が不満なのだ。高貴なる存在である二代目魔王、その私に飼われる事の何が不満なのだ?」 「誰にとかそう言う問題じゃねえ。まずは飼うとか、人様をペット扱いする事を止めろ。即座に、止めろ」 「おかしな事を言うの。人間だとか種族など関係ないわ。私がお前をペットと決めた。それ以外の概念など必要ない」 「ああ言えば、こう言う。ああ、もう良いよ。ペットで!」 ふつふつと湧き上がる様子を見せながら、一気に沸点へと達しきった青人の怒りが声となってほとばしる。 知らぬ間に知らぬ場所に連れて来られ、ペット扱いで足蹴にしたり蹴られたり。 あるいはキレてしまうまでに、長く持った方なのかもしれない。 青人の口は留まる事を知らず、その後の事など何一つ考えずに脳よりも先に口が動いていた。 「だがな俺を安全なペットだと思うなよ。飼い主にだって平気で噛み付くからな。お前の概念ごとぶっ壊して、頭を下げてお願いしますから帰ってくださいって言わせてやる!」 「ぷっ、はーっはっはっは。私に頭を下げさせるか。そう言う馬鹿なところが可愛いものよ、ペットを飼う醍醐味よ。良かろう、私に一撃でも入れられたら帰してやろうではないか」 「んな、生温いことッ!」 言っていられるのも今のうちと、半分ほど台詞を残して青人の言葉が途切れた。 チリチリと焦げるのは即頭部にある髪の毛。 青人の髪を焦がしながら通り抜けていったのは、炎の塊であり、それが今背後で猛威を振るっていた。 背中からパジャマ越しに伝わってくるのは、感じた事も無いような灼熱の炎の余波であった。 「さあて、では始めようではないか。噛み付けるものなら、噛み付いてみるが良い!」 「やっぱちょっと待ァーッ!!」 次々と襲い来る灼熱の炎の塊を前に、思い切り青人は逃げ出した。 一歩でも立ち止まればたちまちに炎に飲み込まれ、骨が残るかは解らないが、確実に大焼けど以上の傷に見舞われることは間違いなかった。 噛み付くとか以前に、セイブルに向かってかけることも出来ずに、ただ逃げ回る。 端も外聞も捨て去って、反転するのに足の力が足らなければ、本当にペットのように両手を地について体を反転させる。 その様を笑いながらも手を休める様子のないセイブル。 「やべ、息が。普段からもうちょっと運動」 「先ほどまでの威勢はどうした。このままでは私に近づく事すらままならぬぞ。吼えるだけかの」 「心臓が悲鳴を上げたからなんだ。体がだるいからってなんだ。絶対負かす、絶対泣かす。動け、もっと動け俺!」 叫ぶままに青人は、セイブルを中心として同心円状に避けていた自分を変えた。 横に動く角度を減らし、目を凝らし炎を見つめて無駄な動きを減らしていく。 炎の微熱に頬や髪を焦がされても見向きもせず、ただセイブルを見つめる。 「ほう、思ったよりもなかなか」 「今頃気づいたって遅いからな。お前が俺をペットと決めたのなら、俺はお前を負かすって決めた。決めたからな、こんちくしょお!」 「良く何度も吼えられるものだ。だが心せよ。私は負けるのが大嫌いだ」 「だから負けてくださいってか!」 「私は負けるぐらいなら、世界を消す。それぐらい嫌いだ」 聞いた直後に、青人の体が僅かに鈍った。 「お前、もしかして三回ぐらい変身できて、そのたびにパワーアップとかできない?」 「たわけ、できるわけなかろう」 「ああ、そうだろうな。ちょっと安心したよ」 「一回しか」 「へっ?」 今度こそ立ち止まった青人の足元に、炎の塊が着弾し青人の体を軽々と吹き飛ばしていった。 横ではなく垂直に、うしろでんぐり返しを繰り返しながら壁際にまで転がった青人の体がようやく止まった。 完全に意識を失っている青人に、少しやりすぎたかとセイブルは部屋の外へと向けて声を放った。 「キリコ、ジョンの手当てをしてやれ。私は公務に戻るぞ」 「手当てってお怪我でも、ジョンさんのですか?!」 キリコと呼ばれて入ってきたのは、ゾンビと名乗り自分の首を切り離し持ち上げた少女であった。 部屋に入り隅っこで倒れている青人を発見すると、一目散に駆け寄って揺り動かす。 「ジョンさん、ゾンビにもなってないのに死んじゃだめです。ゾンビになれば死んでもいいですけど。起きてください!」 揺り動かしても反応がなければ、襟首を持ち上げて青人の両頬を往復でビンタをかまし、それでもだめならと揺すりながら頭を床に何度もぶつける。 「おいキリコ、そんな事をすれば本当に死ぬぞ。手当てをしたいならば、ちゃんとそれらしい物を持ってこい」 「わっかりました。それでは取ってまいります!」 勢い良く走り出したキリコを見送り、本当に大丈夫だろうかと青人をチラリと見やってからセイブルは立ち去っていった。 ズキズキと痛む、覚えの無い後頭部の痛みに首をかしげながら、青人はキリコが差し出してきたスープを受け取った。 キリコの手によって意識を取り戻してみればほぼ治療は終わっており、ズタボロになったパジャマの変わりまで持ってきてくれた。 膝辺りでカットされたジーパンと袖なしの皮ジャンをシャツ無しで羽織る。 良く表現して西部劇に出てくるヒットマン崩れか、良い感じで働かせられまくる奴隷にしか見えない格好に溜息しか出ない。 その溜息を誤解したキリコが心配そうに青人を覗き込みなが言った。 「あの、お口にあいませんでしたか? やっぱり朝みたいな骨付き肉の方が……」 「あ、違うよ。ちょっとこの青い野菜に癖があるけど美味しいよ」 「それは食べるタイプの薬草なんです。まだたくさんありますから、お代わりしてくださいね。私自慢の薬膳料理です」 セイブルの行動が行動なだけに、キリコの優しさが身にしみて微笑み返さずにはいられない。 「本当に美味いよ。特にこれ、なんの肉だかわかんないけど」 「ああ、それは処女の肝臓です。私のなんで、本人のお墨付きです」 思い切りむせ込んだ青人は、今しがた口に放り込んだばかりの肉をこっそりスープに戻した。 だがバッチリその現場をキリコに見られていたようで、笑いながら否定の言葉を吐いてきた。 「冗談ですよ。私のだったらとっくに腐ってますもん。ジョンさんって人を信じすぎですよ」 「いや、首外したりとか、君の冗談は本気で冗談になってないから」 しかも自分のではないと言っただけで、処女の肝臓と言う部分を全く否定していなかった。 本当に処女の肝臓だなんて生々しい物では無いだろうなという疑惑を抱きつつ、青人はそれを口に運びながらセイブルとのやり取りを思い出していた。 魔界の住人の間での力関係は不明だが、魔王と言うだけあってただの人間である青人に勝ち目は薄かった。 冗談の性質は悪いが明るいキリコがこれからをフォローしてくれれば、セイブルのペットに甘んじても生きていける自信はある。 だがそう生きていきたいかと聞かれれば即座にノーであり、選択肢の一つとして成り立ちもしない。 ならば、どうセイブルに勝つか。 「あの、ジョンさん。セイブル様のことですけど」 生まれもしない勝利への道を延々と考えている青人へと、少し声のトーンを落としたキリコが割り込んできた。 その神妙さに一度考えを中断した青人が、何かを決心したようなキリコを見る。 「セイブル様の事、あまり悪く思わないでくださいね?」 「え、また冗談?」 結構本気で聞き返した青人であったが、キリコに睨まれ少しだけ怯んでいた。 「ちょっとはしゃぎ過ぎてた所があったのは認めます。でもセイブル様が二代目だって言うのは聞いてますよね?」 「本人が言ってたな。二代目だって」 「魔界統一を成した先代の魔王様の後をセイブル様が継いで、立派に魔界の統治を行っています。それでもやっぱり直接統一を成した魔王じゃなくて色々あるんです。なのにセイブル様が本当に頼れたり、甘えたり出来る人がいなくて」 当然のように疑問に思った先代と、セイブルの母親の事を聞いても首を横に振られるだけであった。 非常に気まずい、聞かなければ良かったと思うような事柄に青人は声が出なかった。 はしゃぎ過ぎて殺されるのもたまったものではないが、その原因が抑圧や重圧、俗に言うストレスであるのなら同情の余地は一欠けらぐらいはあった。 もちろん、元の世界に帰るというのはこれっぽっちも譲れなかったが。 「こんな話突然去れても、ジョンさんも困りますよね。すみません、忘れてください」 最後に頭を下げて部屋を出て行ったキリコを見送りながら、青人は首を捻り、やがて元に戻した。 結局頭に浮かんだのは、無理なものは無理だという便利な言い訳だけであった。 後ろめたさを感じながらもキリコの言う通りに聞かなかった事にしようと立ち上がったところで、なぜかキリコが戻ってきた。 「すみません、お皿下げるのわすれてアッ!」 「あぶね」 目の前でこけたキリコを抱きとめると、飛び込んできた時以上のスピードでキリコが飛びのいた。 血色の悪い顔を少しだけ羞恥に染めながら言ってきた。 「すみません、あ……あの、お詫びに腕一本で勘弁してください!」 「いや、いらないから。普通に自分の腕をもごうとしないでくれる?」 「本当にすみません。また、しばらくしたらご飯もってきますね。そ、それじゃあ!」 騒がしい子だとテンパリながら食器を持っていったキリコの姿が、青人に一つの答えを導き出させていた。 だが本当にそんな事が出来るのか、出来れば試したくないと願いつつ別の方法を考え始めた青人がいた。 結局、他の選択肢が出ないまま、セイブルが部屋にやってきてしまった。 今度はちゃんと起きていて、ついでに仁王立ちまでして待っていた青人を見つけたセイブルが上機嫌に言う。 「ふむ、さっそく躾がきいておるようだな。さあて、今度は何をして遊ぼうかの」 よくよく冷静にセイブルを見てみれば、本当にここへ来ることを楽しみにしているような笑みである事に気づく事ができた。 即座に思い出したのはキリコが話してくれたセイブルの事情であるが、それはそれと青人は心の中で言い聞かせた。 何時までも仁王立ちのままで黙っている青人に、セイブルも何か変だと気づいた。 小首をかしげながら青人を伺うしぐさに、グラリと気持ちが揺れた青人であったが、思い切り心で叫んで弱きを駆逐しながら、決めた。 本当にキリコがくれたヒントが使えるのかを。 「なあセイブル」 「おい、ご主人様を呼び捨てとはどういう了見だ。様をつけんか、様を」 対抗するように両腕を組んで眉をひそめたセイブルへと、青人は爆弾を投下した。 「お前ってすっげえ胸でかいよな。揉んで良いか?」 そして、確かにその爆弾が爆発した。 気がつけば仰向けになっている青人の体全体が湯気をあげながら、軽い火傷を負っていた。 倒された自分の周りでは今にも消えそうな炎が揺らめき、やがて消えていった。 痛みに耐えながらも体を起き上がらせていくと、顔を真っ赤に紅潮させて癇癪を起こしたセイブルがそこにいた。 「な、何を言っておるか。ペットの分際で大それた台詞を、そんなに死にたければ死ね。死んでしまえ、そして胸の事には触れるな。これでも結構、気にしておるのだ!」 だったら胸をはだけた衣装を着るなという突っ込みを喉元で押さえつつ、確信を得た青人は笑っていた。 自らの手にある作戦のうちにあった唯一の気がかりが全て思い過ごしであったからだ。 「何を笑っておるか。そろそろ面白おかしく遊んでやろうかと思っておったが、撤回だ。思いっきり躾てやるから覚悟せい!」 「はっ、こっちこそ望むところだ。吠え面かくんじゃねえぞ!」 「この、ご主人様の偉大さを思い知るが良い!」 今までは片手からしか放たれなかった炎の弾丸が、セイブルの両手から途切れる事なく放たれていく。 単純に弾数だけは倍になっていたが、頭に血が上ったためか思いのほか精細さに、射撃精度に陰りが見えていた。 必死になってかわさずとも、むしろ動かない方が安全なのではと思えるほどに見当違いな方向へと炎が飛んでいった。 「動くな、じっと折檻を待っておらんか。馬鹿者!」 「じゃあ立ち止まってやろうか?」 言葉通り立ち止まった青人を見て、ますますセイブルが頭に血を上らせていく。 「どこまでも私を愚弄しよってからに。一度言ったからには動く出ないぞ!」 ムキになって撃ち放った炎が見事にそれていった。 途端に青人はその場から駆け出し、呆然とするセイブルへと向けて突っ込んでいった。 距離が三メートル程度に縮まった所でハッとしたセイブルが次弾を放つところで、青人は革ジャンに手をかけた。 至近距離で放たれる炎を前に脱ぎ去った皮ジャンを振り仰ぎ直撃させると嫌な匂いを発して煙が立ち込めた。 鼻に痛む煙の匂いにウッと後ずさったセイブルの目の前へと、煙を切り裂きながら青人が現れ炎を遣わせまいと両手首を掴み上げた。 もちろんセイブルが本気を出せばその程度の呪縛は、呪縛足りえなかったが最後の最後で青人がとっておきを繰り出してきた。 単純明快で、女の子ならば絶対に引っかかる手を。 「セイブル、好きだ!」 そう、始める前からダメージを負ってまで青人が確かめたかったのは、ペットだと自分を言い切るセイブルにこの言葉が通用するかどうか。 ペットと言い切る相手に言われて、意識するかどうか。 そして確信したとおりセイブルはペットだと言い切る割には、骨の髄まで思い込みきれて居なかった。 その証拠に何を言われたのか理解し切れないままに、頭のどこかが冷静に解釈しようと我を取り戻したセイブルの顔が徐々に、だが確実に赤く染まっていっていた。 「なッ!」 ある時点を持って、一気に赤に染まりきったセイブルへと、青人は最後の一撃を繰り出そうとしていた。 激しく動き続けた足は使い物にならず、両腕はセイブルの両腕をとどめており、ならば使えるのは後一つしかなかった。 セイブルへと詰め寄った勢いのままに繰り出した頭部、頭突きである。 勝利はもう目の前で、誰にも横槍が入れられない状況にまでなったところで、青人自身の脳裏に記憶の中の声が走る。 (なのにセイブル様が本当に頼れたり、甘えたり出来る人がいなくて) そう言ったキリコの声が何故か蘇り、躊躇した青人が無理やり繰り出した頭を引き戻し起こした瞬間それは起こった。 起こした青人の顔の数センチ手前にあったセイブルの顔。 セイブルを床に思い切り押し倒しながら倒れこんだ時に確かに触れていた、お互いの唇が。 「……………………」 「……………………」 言うべき言葉があるはずもなく、押し倒した青人も、押し倒されたセイブルも半開きの口が動かなかった。 冷や汗を流しながらやっちまったという顔をしている青人の手の束縛を解いたセイブルの指先が、唇に触れる。 真っ赤に熟れた、それをツッとセイブルの指先がなぞるにつれて、青人は自分の命のカウントダウンが始まっている事を悟った。 「あのさ、セイブル」 まずは自分が立ち上がり、さらに手を貸して立ち上がらせたセイブルへと何の意味もなく言った直後、右頬に痛烈な痛みをえぐり込まれながら青人の意識がそこで途切れた。 アレは一体なんだったのだろう。 左肘を机に突きたてた左手で自分の顔を支えながら、自分の右手の平を見ていた青人はそう思った。 教室では時折学校へと登校したクラスメイトが挨拶を交わし、馬鹿げた話に華を咲かせている喧騒が耳に届く。 それらに耳を立てるでもなく、自分の思考に埋もれていた青人は昨晩のことを思い出していた。 壮絶な夢にたたき起こされて慌てふためいてみれば、ベッドからずり落ちただけで時刻は午前二時。 魔界で丸一日はすぎていたはずなのにである。 「夢だったのかな」 喉元に触れてみても、あの忌々しかった首輪は当に消え去っており唾を飲み込んでも引っかかる事はない。 夢だったのかとまるで未練があるような自分の言い回しに首を振りながら、もう一度夢だったんだと言い聞かせる。 実は寂しがりやな魔王も、冗談の下手なゾンビの女の子も、全部想像の産物であったのだと。 「いや、それはそれでなんか俺が可哀想な奴だぞ?」 「何を一人でブツブツ言っておる」 「そうそう、こんな感じで偉そうに。胸がでかい以外になんの取り得もないくせに、大体全うな統治者である姿を俺は見てないつうの」 「だから胸の事には触れるなと言っておろうが!!」 突如、喉元に蘇った感触が強く引っ張られ、思い切り青人は席からずり落ちはいつくばさせられていた。 触れた喉元にはあるのは金属製の首輪であり、底から伸びる薄紅色に光る鎖は青人の前に立つ少女の手の中へと伸びていた。 周りのクラスメイトの視線を一身に浴びているのは、見覚えのありすぎる、夢のままの方が良かったかもと思える少女であった。 「セイブル、なんで……」 「ふん、私はどうでもよかったのだが。キリコがお前に会いたいとわめいて煩かったのだ」 「またまた意地張りすぎです。私が冗談で人間界に直通経路を開けば、何時でもジョンさんに会えるって言った直後に実行したのはセイブル様じゃないですか」 「そ、そんなことはないぞ。あれはお前が急かすから、仕方なくだな。とにかく!」 これ以上引っ張っては墓穴の嵐だと、セイブルがそこで断ち切った。 「お前を帰すとは約束したが、ペットを止めさせるとは一言も申しておらん。だから時折私がこちら側に来て、遊んでやろうではないかと来てやったのだ」 「そう言うわけですので、しばらくジョンさんのお家に厄介になりますね」 そう言った二人の少女を前に、青人は腹の底から笑いたい衝動に駆られていた。 学校という閉鎖空間の中に突然現れた二人へ向かう、周りの奇異な視線も、担任の開いた口がふさがらない顔も。 何もかもを吹き飛ばしたい衝動に駆られ、青人は思い切り笑い出した。
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