魔女とヌイグルミ



気がつけば、そこは高科 仙太郎(たかしな せんたろう)にとって別世界であった。
窓の脇に縛られたカーテンは淡い桃色の暖かな色合いを振りまき、テレビや棚のちょっとしたスペースには小さな観葉植物や小物が置かれている。
可愛らしい女の子の部屋かと思いきや、並べ立てられた本棚には黒いハードカバーの分厚い本が並んでいた。
背表紙に白色で書かれた文字は、日本語ではないが、雰囲気では実用書のように見えなくもない。
そんな本棚以外は明るく暖色系でまとめられた六畳から八畳ほどの広さの部屋は、やはり仙太郎にとって別世界であった。
特に一度も訪れた事もなく、見たこともない部屋であればなおさら別世界であろう。

「どこだ、ここは?」

ありありと動揺を表に出したかすれ声を搾り出した後、とりあえず動こうとしたが自分の体が全く動かない事に気づいた。
何度力を入れようとも手も足も動かず、体を揺らす事すら出来ないでいる。

「ふんッ! お、どりゃ……動けッ!」

見知らぬ場所の居心地の悪さと、正体不明の全身麻痺からイライラが募り、気合の言葉も段々とやさぐれていく。

「動かんか、ボケ! 誰のおかげでここまで大きくなったと思ってるんだ。この、く。くぬやろうッ!!」

不安も動揺も彼方に吹き飛ばすほどの気合で、ようやく仙太郎の体はぐらつきコロンと可愛らしい形容できる転がり方で真横に転がった。
元々自分しかいない部屋の中で一人騒いでいた反動か、耳が痛いほどの静寂が訪れる。
九十度傾いた視界では、相変わらず知らない部屋の光景が広がるばかりで、仙太郎は少し泣きたくなった。
十分ぐらい涙は見せず心で泣いていていると、心から流れた水分の分だけ余裕が生まれ、より良く部屋をの中を見ることが出来た。
真っ先に飛び込んできたのは、自分が寝転ぶ正面にある姿見。
男でも余裕で全身を写せそうなほどに大きな姿見に移るのは、小さな食卓テーブルの上で寝転ぶ可愛らしいクマさん人形一つ。
本来自分が写るべき場所に、ふてぶてしくも寝転んで映っているクマさん人形、全長三十センチ足らずのそれが一つ。

「うえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ?!」

道理で先ほどから視界の視点が低い位置にあり、かつ体が全く動かせなかったわけである。
食卓テーブルをプラスしても床から一メートルもない。
腕を真っ直ぐ前に伸ばし足投げ出したお座り姿勢のから動くには、あまりにも間接と布地の余裕が足りなかった。

「く、クマ。死んだ振り、死んだ振りって俺が今そのクマなんだ。しかもどう見てもメイドインアジアの何処か。せめてテディベアがって、そんな問題でもねえ!」

一体何処から声を出しているのか、当然の疑問すら浮かぶ事もなく鏡に映る自分を見て叫び続ける仙太郎。
唯一の救いはパニックになっても動けない体のせいで、この部屋に被害が及ばなかった事であろう。

「誰か、セツメェ! いたいけな高校生が、突然テディベアに、なり損ねた!」

ゲームセンターにあったボタン連打ゲームを思い出しながら声を大にして叫ぶ仙太郎に、突然女の子の落ち着いた声が投げかけられた。

「随分と騒がしいと思ったら、気がついたようね。高科君」

「何奴、って本当に姿が見えん。すまんが起こして話しやすいようにテーブルに置いてくれると助かる」

「ええ、その前に」

仙太郎を軽々と拾い上げてくれたのは、見覚えのある制服を着た女の子であった。
日本人らしい黒々と艶のある髪を眉に掛かりそうなぐらいで切りそろえ、後ろ髪は腰まで届くぐらいに長い。
真っ白な肌といい日本人形を思わせるような淑やかな可愛さだが、表情までもが人形的すぎて万人受けはしないだろう。
何処かで会った事があるのかと仙太郎が思い出すよりも前に、おもむろに女の子は仙太郎の右腕に糸きり挟みを突き刺し、腕をねじり取った。
これほど奇妙な光景もなく、もぎ取られた腕から飛び出た綿が妙にリアルであった。

「腕、ちぎれ。うあぁー人、じゃなくてクマ殺し!!」

痛みはほとんどなかったが、それでも腕をむしりとられては叫ぶ以外の選択肢は見つからなかった。
混乱しながらもクマ殺しと訂正した仙太郎へと女の子は、何事もなかったかのように命令口調で呟いた。

「手元が狂うから、少し黙ってなさい」

「人の腕をちぎっておいて何をッ!」

「黙らないと次は首を問答無用でもぎりとるわよ」

「はーい、僕は良いクマだよ。だからいじめないでね」

行動の伴わない言葉だけでの脅してあったが仙太郎は、出来るだけ可愛く聞こえそうな、実際は気持ちの悪い声を出して大人しくすることに決めた。
怒りを抑えながら言われるよりも、こうして日常会話の一部であるかの様に言われる方が余程怖かったのだ。
ドリルを持った歯医者が目の前にいる時の様に目をきつく閉じて地獄が去るのをひたすらに待つが、それで恐怖がなくなるわけでもない。
時間の感覚など吹き飛んでどれぐらい経ったか不明であったが、やがて頭部についた丸い耳に「これでよし」という声が聞こえた。

「腕と足の付け根に遊びを入れたから、少しは動けるようになったはずよ」

「お、立てる。動く、歩ける。ありがとう、見知らぬ貴方。君はきっと良い嫁さんになれるぞ」

女の子の手から開放され、テーブルの上においてもらえた仙太郎は、まず直立できる事に驚いた。
さらに間接こそ曲がらない物のブンブンと腕を回したり、テーブルの上を歩き回る仙太郎が手足をバタつかせながら褒め称えた。

「月並みな褒め言葉ね。一応貰っておくわ。それにそんなに喜んでもらえると、貴方の魂をヌイグルミに移したかいがあったというものだわ」

聞き捨てならぬ言葉に、はしゃいで動き回っていた仙太郎の動きが止まる。
動くようになったばかりの腕を上げ小さな黒い爪のついた手のひらを耳に当てると、女の子へと耳を傾けた。
口から飛び出したのは、何故か英語であった。

「パ、パードン?」

「良いお嫁さんになれるとは、月並みな言葉ね。でも嫌いじゃないわ」

「アフター、アフター」

「貴方の魂をヌイグルミに移したかいがあったと言ったのよ」

「それだよ。何してくれちゃってんの? 本人になんの断りもなく、断りを入れられても困るけどッ!!」

普通ならばヌイグルミに魂を移すなど鼻で笑う所だが、いざ自分がなってみれば鼻で笑うよりも先に元に戻りたいと願ってしまう。
早く戻せと言う意味をふんだんに込めて詰め寄る仙太郎だが、あっさり摘み上げられ持ち上げられた。
そのまま女の子は仙太郎を自分の目船に合わせ、呟いた。

「いくらなんでもすぐには無理よ」

「すぐに無理とか言うのは若者の悪い癖だぞ。すぐに諦めるな、何事も」

「貴方は覚えてないでしょうけど、貴方の体は今頃ズタボロよ。今戻ったら痛みのショックで本当に死んじゃうかもしれないわ」

脅しなのか本気なのか、計りかねている仙太郎を見て女の子は続けた。

「無理なのは私じゃなくて、高階君の方。覚えてないでしょうけど、高階君は数時間前にトラックに轢かれたの。即死には至らず命だけは助かりそうだったけど、轢かれた拍子に魂がポロッと出たの」

「ポロって……人の魂を落し物みたいに言うなよ」

「そのまま成仏もかわいそうだったから、一時的に預かってあげたの。心配しなくても、時期がきたら体に返してあげるわ。だいたい一ヶ月から二ヵ月というところかしら」

それでどうするのと目で聞かれ、悩んだ挙句に仙太郎は現状を甘んじて受けることを了承した。
思い出してみれば記憶の中に視界一杯に広がるトラックのフロント部分が迫る光景があり、あながち嘘とも思えなかった。
トラックの急ブレーキ音など、滅多に聞けないそれも明確に耳に残っていた。
震えるように自分の体、クマのヌイグルミを抱きしめる仙太郎に、絶命一歩手前にまで傷ついた体に戻るような勇気はさすがになかった。
呼吸をしているのかは不明だが、何度か深呼吸を繰り返した仙太郎は、改めて聞きなおした。

「最後に一つ聞きたいんだが、お前一体なんなの?」

「黒柳 舞子(くろやなぎ まいこ)、貴方と同じ学校で同じ学年、一つ隣のクラス。由緒正しい魔女よ、勉強中のね」

勉強中という言葉を聞いてやっぱり体に戻してもらおうかと少し思った仙太郎の頭に、舞子の拳が容赦なく落ちていた。
ぶにょんと凹んだ頭部が、拳が離れるにつれてもとの形へ戻っていく。

「痛った!」

「失礼な反応をしたら」

「もう殴られてるよ!」

「首をねじりもぎ取るわよ」

「ごめんなさい」

この人に逆らってはいけないと薄々気づき始めた仙太郎は、素直に両手をついて謝っていた。
心の中では性格の方が魔女だと思いながら、恐る恐る顔を上げると、緊張を一気に解いたような笑顔が舞子の顔に現れていた。
それも一瞬の事で、すぐに機嫌のうかがいにくい薄味な表情へと戻ってしまう。
変な奴だ、そう仙太郎が思ったときには彼の頭が三百六十度回転させられていた。





「う、うぅ…………」

泣いていた、涙は出なくともさめざめと仙太郎はテーブルの上で泣き崩れていた。
何がそんなにも悲しいのかと言われれば、満たされている事が悲しかった。
満たされきっている自分が悔しかった。
時刻は午後九時、大抵の家庭では夕飯が終わりに向かおうとしている例に漏れず、舞子も夕食を終え湯飲みを両手に一息ついている。
できれば仙太郎も湯飲みを両手に一息つきたかったが、できるはずもなかった。

「やっぱり食後はお茶に限るわ。呑みすぎても困ることもないし」

自分の涙を見て見ぬふりどころか、見た上で惜しみない哀れみの視線を向けて、やがて無視する事にした舞子が憎かった。
ちゃんと全ての情報を与えてから選択肢を与えてくれなかった舞子が許せなかった。

「どうして、どうして教えてくれなかったんだ。ヌイグルミがご飯を食べられないって」

「馬鹿じゃないの。何処の世界にご飯を食べるヌイグルミがいるのかしら。それに元の体に戻ってもしばらく何も食べられないわ。それなら空腹感のない、今の方がマシだと思わない?」

そう、ヌイグルミに宿った仙太郎は空腹感を覚える事もなく、食事を取る必要もなかった。
必要がないからといって食事を食べたくないかと聞かれたら、また別の問題である。
口に食べ物を運んで、噛んで味わって、飲み込んで、消化して栄養分を吸収して。
言葉にすれば酷く単純な作業をどれだけ仙太郎が欲した事か。

「ああ、どうして俺はこうなる前にもっと食べておかなかったんだ。カムバーーック、空腹と味覚ッ!!」

泣くと言うよりも嘆き始めた仙太郎に嫌気がさしたのか、湯飲みのお茶を飲み干した舞子が立ち上がった。

「なんだ、味を味わえる魔法でも思い出してくれたのか?」

「そんなのないわ。シャワー浴びてくる」

簡潔に述べて舞子が部屋を出て行ってから数分の間、仙太郎は固まっていた。
空腹や味覚のことなど頭から軽々と押し出され、シャワーを浴びてくると言う言葉だけが何度も頭の中で繰り返されている。
男ならば一度は言われて見たい言葉に、ノヘッと笑っていられたのも束の間。
一度爆発し終えた火山が再度爆発するように、仙太郎は突っ伏して泣き始めた。

「だからどうして俺はヌイグルミなんだぁ!!」

初めて訪れた女の子の部屋、初めて呟かれた台詞。
ただ一点、自分がヌイグルミだという点だけが全てを台無しにしていた。
だがすぐに妥協点を見つけることが出来た仙太郎は、泣き止んでいた。

「あ、でも風呂を覗くぐらいでき」

妥協点を呟きながらお湯の流れる舞子のあられもない肢体を想像する途中で、ポロリと大切な物が落ちた。
すぐそこにあるであろう女の子の裸体よりも大切な物が落ちた。
反転しグルグルと回転して止まった視界の中で、見上げているのは首がなくなったヌイグルミの体。
言葉を失いながらも恐る恐る転がり落ちた首を手探りで拾い上げて、元にあった場所においてみる。
すぐにまた、転がり落ちた。

「落ちた。首、首が落ちた?!」

痛みはないもののあるべき場所にあるべきものがない不安の中で、慌てて転がり落ちた首を拾おうと探して回る。
だが視界に映る世界と、体がある場所にあるずれは思いのほかに大きかった。
どちらに向かって歩けばよいのか解らず、ムキになって探せば足元にあった頭を蹴ってしまい、また距離が開いてしまう。
グルグルと特殊な磁場を持った樹海を歩き回るように首の無いクマが頭を求めて歩き回る。
これが実物のクマであれば震え上がるような場面であろうが、実際はこじんまりとしたクマのヌイグルミがやっている事でありコミカルなだけであった。

「保険として呪いをかけておいてよかったのだろうけど、素直に喜べないわね」

どれぐらい同じ場所をグルグル回っていたのか、いつの間にかパジャマを着て戻ってきた舞子がちぎれた頭をつまみあげていた。
呆れた声の中にそこはかとなく軽蔑の声が混じっているのは気のせいであろうか。

「君が私に不埒な行為をしようとしたり、思い描いたりすれば首が落ちるようになっているのだけど、説明が遅かったかしら?」

首が落ちた時以上に首の無い体がワタワタと慌て、持ち上げられた首がつっと視線をそらしながら呟いた。

「少しばかり」

「私が首が落ちるように仕向けたのだけど、それでもあまり私の手を煩わせないでくれると嬉しいわ」

そのまま怒られるかと思いきや、甘すぎる注意で終えた舞子は、裁縫道具を持ち出して落ちた首をぬい始めた。
一週目は首を固定するために軽く首周りを縫い固め、二周目で頑丈になるように縫い固めていく。
その間ずっと仙太郎はいたたまれない気持ちで待ち、黙りこくって首の固定が終わるのを待っていた。
懇切丁寧に舞子が首を縫い終わったのを感じて、仙太郎はもう二度と自分を見失って首を落とすまいと誓った。

「悪かった。もう二度としない」

「そうしてくれるかしら。何度も高科君の首を縫うのは面倒だから。少し早いけれど、もう今日は寝ましょう」

そうだなと仙太郎が呟くと、ひょいと舞子の胸元に持ち上げられた。
寝ると言ったのだから行く先はベッドなのだろうが、何故そこへ仙太郎を連れて行く必要があるのか。
そう考えているうちに答えの出ぬまま仙太郎は舞子の手により、二人して同じベッドに入り込んでいた。
枕元に置かれるならまだしも、両腕で抱きしめられたままだ。

(うわぁぁぁぁ、なに。なんなのこれ、どういうこと?!)

風呂上りのシャンプーの香りに、直接伝わってくる高めの体温。

(なんでコイツは普通に寝入ってんの?!)

心で叫ぶ仙太郎とは対照的に、すでに細い息を吐きながら舞子は眠りに落ちようとしていた。
眠るどころか落ち着く事すら難しそうな仙太郎は、先ほど誓った言葉でさえ今すぐにでも覆しそうであった。
振り返れば寝息を立てる舞子の顔がすぐそこにあり、視線を下ろしていけば大きさは定かではないが双丘の膨らみがパジャマの隙間から見えることであろう。
自然と平常心を取り戻そうと、仙太郎は呪文を唱え始めていた。

(臨兵闘者皆陣烈在前、臨兵闘者皆陣烈在前、りんとうぴょうしゃ、ちんぽことうしゃ据え膳喰わぬはって全然違うッ!!)

もう我慢の限界と襲い掛かるよりも先に、首がもぎれ始めたため慌てて仙太郎は舞子の腕から逃げ出し、ベッドから転げ落ちた。

「わ、わからん。何を考えてるんだコイツは……」

首がもげ落ちるような呪いをかけて警戒しているかと思えば、何の疑問もなく仙太郎が入っているヌイグルミをベッドに運ぶ始末。
舞子が何を意図してそんな行動に出たのかは解らないが、仙太郎に対して悪意が無いのだけは確実である。
そもそも良く知りもしない相手の魂を保管し、あまつさえ部屋にいさせてくれなどしないであろう。
そう、仙太郎は舞子に感謝をしなければならない立場であるにも関わらず、行った事と言えば覗き未遂で手間をかけさせ、先ほども襲う直前であった。
実際三十センチ足らずのヌイグルミ姿でどう襲うかは別にして。
とにかく、仙太郎には感謝の気持ちが明らかに足りなかった。

「俺って、すっげぇろくでなし?」

自問自答の言葉は思ったよりも深く仙太郎の心を串刺しにし傷つけていた。





翌朝に舞子を目覚めさせたのは目覚まし時計のけたたましい音などではなく、空っぽになった空腹に染み渡る朝ごはんの匂いであった。
ここ何年かそんな目覚ましに縁のなかった舞子は、ベッドの上で起き上がってからもしばしぼけっとしながら時折目元をこすり上げている。
まだまだ当分の間、脳にスイッチが入りそうにない舞子を完全に目覚めさせたのは、朝から元気な仙太郎であった。
ベッドの上の舞子を見上げながら、寝起きには少し辛い声を上げてきた。

「起きろ、舞子。朝だ、飯だ!」

「なに?」

「朝飯だってんだ。起きて顔洗え、弁当だって出来ちゃってるんだぞ」

ようやく目が覚め始めた舞子は、とりあえずベッドから降りて仙太郎の前に座り込んだ。
じっと見つめるのは、禿げ上がった、焦げ目のついた仙太郎の後頭部である。
もちろんそんなもの昨晩の時点ではなかったはずだ。

「なにをしていたの?」

「助けてくれてありがとうな、舞子。最初にそう言っとく。それで色々考えたんだけど、ただ世話になるのも悪いし飯でも作ってみた」

「で、その禿は?」

笑顔と言うほどヌイグルミの表情は変わらないが、十分すぎるほどの言葉に戸惑いながらも舞子は聞き返していた。

「まあ、ちょっと最初は失敗するもんだ。うっかりガスで燃えた、はっはっは!」

「笑いごとじゃないわ。好意はありがたいけれど、危ない事はしないでくれる?」

「今度からは燃えないように気をつけるよ。だから、今は飯を食え。その前に顔を洗って来い」

今度からといきなり言った通り、やめるつもりは一向にないのだろう。
無駄に朝からテンションの高い仙太郎に促され、顔を洗いに行き戻ってきた頃には一人用の食卓テーブルの上に朝ごはんが待っていた。
キラキラと朝日を受けて輝くのは炊き立ての白米、その隣に夫婦の様に寄り添うのはお味噌汁。
ならば卵焼きやのりは白米と味噌汁の子供といった所か。
できればご飯を作りテーブルに並べる過程を逐一観察してみたい衝動にかられたが、それは明日以降の楽しみになりそうだ。
朝の限られた時間を無駄にしないためにも、箸と茶碗を手に取った舞子は、大人しく食べ始めた。

「けっこう、美味しいわ」

「そう言ってもらえると、焦げたかいがあったな」

何処までも明るい仙太郎の様子に、こみ上げる喜びの十分の一程度を顔に出して舞子が笑う。
それはとても珍しい事であったが、お弁当を袋に包むのに夢中な仙太郎は気がつく事はなかった。
思ったよりもゆっくりな舞子の朝食が終わると、仙太郎はせかす様に着替えを促し、鞄を用意して弁当箱をつめた。
その間に舞子は寝癖をなおして髪型を整え、後は靴を履いて家を出るだけになっていた。

「なんだかお母さんみたいね。行ってくるわ。大人しく待っていてね」

「大人しいかどうかはわからんが、部屋の掃除ぐらいするかもな。お母さんだし」

軽く上げられた手に応えて手を上げると、バタンと玄関のドアが閉じられた。
その後もしばらく腕を上げたままであった仙太郎は、ふとしたことを境にその場に転がった。

「ふぃ〜、疲れた。昨日から寝て無いから眠い、でも朝ご飯の後片付けがぁ……」

舞子がいた時とは打って変わって疲れた声を出す仙太郎。
床をゴロゴロと転がりながら、胸のうちにたまった疲れを床にこすりつけようとしているようにも見える。
実際はそんな事を考えていたわけもなく、本当に無意味に転がっていただけだ。
そのうち転がるのにも飽きると起き上がり、心機一転で洗物に立ち向かおうとまずは部屋の食卓テーブルへと向かう。
時間はいくらでもあるので、そこから食器を一つ一つ炊事場へと運んでいく。
全ての食器を遥か頭上の炊事場へと運び込み、水を張った洗面器へと食器を放り込んでいった。
お箸にお茶碗二つに小皿が二枚に、また箸。

「ちょっと待て」

最初に箸が投げ込まれ、何故今また箸が自分の手の中にあるのか。
もちろん朝ごはんを食べたのは舞子一人であり、洗うべき箸は一つであるべきである。

「てことは、入れ忘れた?!」

慣れないお弁当の用意に、さっそく仙太郎は致命的なミスを犯していた。
つい先ほど舞子が持っていった弁当には、箸が入っていないのだ。
早速知らせたいが、仙太郎は舞子の携帯電話の番号など知らないし、そもそも舞子が持っているのかどうかも知らない。
よくよく考えてみれば緊急時の連絡先ぐらい聞いておくべきであった。
だが知らないものは仕方が無いとして、取るべき行動は一つである。
今現在手に持っている箸を手ごろな布巾で包み込み、風呂敷のようにして首に巻きつけて、玄関を開けて一歩外へと出ていた。

「でも、よく考えてみれば別に届けなくても割り箸とかが売店に」

即座に勢いはそがれて冷静に考えたが、背後ではガチャリと鍵の掛かる音が鳴っていた。
たいしたことのない耳慣れた音ではあったが、やけにその音が仙太郎の背筋を凍らせた。
恐る恐る振り返れば完全に閉じてしまった扉と、自動的に鍵のかかるオートロックという罠。

「締め出された?!」

取っ手に飛びついてドアを開けようにも、ガンガンと鍵に抵抗される音がむなしく響くだけである。

「ウェイト、ウェイト。落ち着いて考えろ、俺。どうせ箸を届ける予定だったんだし、このまま学校に行って舞子になんとかしてもらおう」

幸運にも舞子の部屋はマンションの一階であったようで、階段やエレベータで危険をおかす必要は無かった。
最低限人影に気をつけつつも、こそこそと仙太郎はマンションそのものの出入り口から道路へと飛び出した。
途端に勢い良く回転する二つのわっかに容赦なく轢かれた。
ブチブチッっと嫌な音が響いた後に急ブレーキの音が朝日を裂いて響き渡る。

「あ、ぶね。なんだゴミか。猫でも轢いたのかと、やべ、遅刻する!」

そう呟いて自転車で去っていったのは、遅刻確定である同じ学校の男子生徒であった。

「ガ、ガッデームッ!」

昨日トラックに轢かれて、今日はいきなり自転車に轢かれてはさすがに口汚い言葉が自然と漏れていた。
しかも轢かれただけでなくゴミ扱いされれば、気にも障ることであろう。
三十センチ足らずの自分には自転車でさえ危険物だと、世の危険さを再認識した仙太郎は再び学校へ向けて歩き出した。
一人暮らしだけあって舞子のマンションは学校から一キロ程の場所にあった。
これならすぐにたどり着けるだろうと楽観視していた仙太郎は、まだ認識が甘かった。

「クマたん」

道の脇を駆け抜けていた仙太郎を指差して、通りすがりの幼女が呟いていた。
指差されているのが自分だとわかるやいなや、仙太郎は流れるように道路へと倒れこむが、興味を引かれた幼女は怖がりもせず近寄ってくる。

(ふふ、ヌイグルミ、私はただのヌイグルミ。動きもしなければ、喋りもしないただのヌイグルミ)

これ以上近寄ってきませんようにと心で祈るが、現実は無常である。

「クマたん。動いてた、ママーッ!」

母親を呼ぶだけならまだしも、幼女は仙太郎を拾い上げて走り出していた。

(いやぁ、拉致られちゃうッ?!)

心の悲鳴が幼女に届くはずもなく、ものの見事に拉致られた仙太郎は幼女の母親の前に差し出されていた。
だが幼女のヌイグルミが喋ってという言葉を母親が間に受けて信じるはずもない。
それはある意味当然のことであるのだが、あまり良い方向には動かなかった。

「そう、よかったわね。でもそんな汚いのは無い無いしましょうね。綺麗なの買ってあげるから」

(って、ちょっと待ていッ!)

幼女から仙太郎を取り上げた母親は、そばにあったゴミ捨て場の青いポリバケツの中に仙太郎を投げ捨てた。
投げ込まれた仙太郎が小さく悲鳴をあげたが、母親は空耳と判断したようだ。
まだ喋ったと拘る我が子の手を握りながら歩き始めていた。

「しゃべったの。あのクマたん、しゃべったのぉ」

「そうね。喋るクマさんを買おうねぇ」

ポリバケツのふちにまでよじ登った仙太郎は、去っていく親子を眺めながら、単純に恨む事も出来ずに仙太郎は疲れ始めていた。
まだ舞子の家から百メートルぐらいしか進んでいないが、様々な事が起こりすぎである。
このまま無事に学校へたどり着けるのか、大人しく舞子の部屋の前かマンションの近くで隠れていた方が良いのではないか。
迷っているうちに、とあるトラックがポリバケツの前に止まった。
車から降りてきたのは同じ青くくすんだ繋ぎを着た二人の男であった。

「今日は思ったよりも少ないな。さっさと積み込んじまうか」

「回収場所はここだけじゃないしな」

そう言うと二人の男は、辺りに置かれた黒いゴミ袋などをトラックの荷台へと積み込み始めた。
もちろん、仙太郎がまだ入っているポリバケツも忘れることなく。

(ちょっ、さすがに車でつれてかれるのは洒落にならん!)

全てのゴミを回収した男達がトラックに乗り込み、トラックを動かし始めた直後に仙太郎は荷台に乗ったポリバケツから飛び降りていた。
自分の身長の数倍以上の高さからのダイブは、言いしれぬ恐怖が伴ったが、何処へも知れない場所へ連れて行かれるよりはましであった。
一難、二難、三難と立て続けに起こった仙太郎は、ひとまず隣家の人しか通らないぐらいの狭い小道へと入り込み一息つくことにした。

「ゴミだ、汚いだの言われるならまだしも、本当にゴミとして回収されるとは……なんだこの敗北感」

「にゃぁ〜」

「にゃあじゃない。きっぱりとこんちくしょ、う……」

狭い小道にも天敵はいる物で、今度は野良猫に咥えられて拉致られてしまう仙太郎であった。

「舞子、なんでもいいからヘルプミー!!」

もちろんそんな叫びが届くはずもなく、仙太郎のピンチは続く。





筆舌にしがたいと言う言葉をこれほど実感したのは生まれて初めてのことであった。
猫に巣へとお持ち帰りされてからの大脱出から、今度は空から現れた黒い悪魔ことカラスに小突き回された。
いっそ持ってきた箸で応戦しようかとも思ったが、舞子の箸であると理性が訴えかけ逃げに徹した戦い。
逃げた先に待つのは、ふたがはずれ大きな口を開けた側溝であった。
アクション映画の主人公か、某栄養ドリンク剤の主演になったの様に腕だけで自らの全体重を支える事十数分。
またしても幼女に見つかり拉致されかけ、逃げ出してと、太陽が真上に差し掛かる頃にようやく仙太郎が母校へとたどり着いていた。

「へへ……ミッションインポッシブル」

インポッシブルは不可能の方なのだが、このさい仙太郎はどちらでも良かった。
よろめく体を校門の壁にもたれかけさせ、これから挑むのは最後の難関であった。
いかに生徒に、先生に見つからずに舞子の下までたどり着くのか。

「下手に見つかれば、八つ裂きにされそうだしな」

幼女とは違い拉致るだけでは飽き足らず、切り裂き分解なんて最悪のシナリオだって十分にありえた。
生きるか死ぬかの瀬戸際である事を覚悟しながら第一歩を踏み出し、

「危ない事はしないでくれるって言ったはずだけれど、どうしてここにいるのかしら?」

そこで仙太郎の任務は終わりを告げた。
ただし、一切無駄の無い表情で明らかに怒っている雰囲気だけを振りまく舞子を前にして。
もしかして本当の地獄はこれからかと思いつつも、仙太郎は声を絞り出した。

「な、なんで俺がここにいるって解った?」

「方法はいくらでもあるわ。問題なのは、貴方がここにいて、ボロボロなこと」

ボロボロを強調されややひるんだが、仙太郎は後生大事に布巾で包んでいた箸を取り出した。

「いや、弁当に箸入れ忘れて届けにきた。ほれ、これ」

差し出された箸を見て何を思ったのか、舞子が息を呑んで言葉を詰まらせていた。
あまりにも馬鹿な用事に笑いを堪えているのか、それとも馬鹿な用事に呆れて声も出ないのか。
やや俯いた拍子に長い髪が舞子の顔を隠してしまっており、どんな顔をしているかは見上げている仙太郎でさえわからなかった。
もしかしてすっごく怒られるのかと仙太郎が身を引いた瞬間、舞子は仙太郎を拾い上げ抱きかかえると走り出した。
すでにお昼の休みに入っていたのか、そこかしこにいる生徒の間をすりぬけながら走る。

「おい、舞子ってば。走るなら前見て走れ、危ねえぞ!」

抱えられ上を見上げながら言った仙太郎の額に、一滴の水滴が落ちてきた。
それが何であるか考えるまでもなく、押し黙った仙太郎をつれて舞子は、生徒の姿が見えない校舎裏にまで来ると、校舎の壁に背中を預けて座り込んだ。
相変わらず俯かせた顔は上げられる事はなく、仙太郎は腕の中から抜け出し舞子を見上げた。
何と声をかければよいのか解らなかった仙太郎がずっと見上げていると、俯いたままだが舞子が言葉を漏らした。

「どうして高階君は、私の弱いところをピンポイントでついてくるのかしら」

「それだけじゃ、よくわかんないんだけど」

「馬鹿だからね」

「え、どっち? 馬鹿だからピンポイントなのか、馬鹿だからわかんないのか?」

「両方」

「それって欲張りすぎじゃね?!」

少々オーバーアクションで突っ込んでやると、ようやく舞子が伏せていた顔を上げた。
瞳は潤んだままであったが、涙が流れるほどではなかった。
それにほっとしている間に、仙太郎はまたしても抱きかかえ上げられていた。
今度は逃げられないようにかなり力を込めて抱きしめられる。

「昨日、自分の事を由緒正しい魔女だって言ったけど、私はお婆ちゃんから技術を教わっただけでお母さんは普通の人だった。私の常識を外れた言動と行動にお母さんがまいる前に、私は家を出たの。だからあんなに家で喋ったのも、お弁当を作ってもらえたのも久しぶり。忘れ物を届けてもらうのも」

「ピンポイントってそういうことか」

「かなりグッときた。だからこれ以上嘘ついてるのも嫌だし、謝ろうと思う」

首がもげる呪いをかけたことか、それとも他にもっとすごい呪いでもかけたのか。
一時の間を持って舞子が白状した事実は、仙太郎の想像を遥かに超える事実であった。

「実は高科君が事故にあったとき、魂がポロッと落ちたって言ったけどあれは嘘。半分出てただけで戻す事も出来たんだけど、ちょうど持ってたヌイグルミに入れた」

「な、なんで……よりにもよって。じゃあ、全身ズタボロですぐに戻っても痛みのショックでうんぬんは?」

「それは本当、体は本当に重症だから」

「でも、なんで話した事もない俺をヌイグルミに入れて持って帰ったんだ?」

当然の疑問をようやく思いついた仙太郎だが、舞子が言いたくないという風に顔を背けた。

「言いたくないのか?」

口ごもるどころか、顔を背けるといった直接的な拒否の姿を見て仙太郎の方がドキッとさせられる。
このパターンはもしかして、ずっと前から見ていたとか、好みの男だったから死なすのは勿体無いとか、夢が膨らんでいく。
言って楽になれよ、本当に小さいけど胸に飛び込んでこいよと仙太郎は自分を抱きかかえている腕をポンポンと叩いた。
一定のリズムで、あやすように叩いていると決心がついた舞子が呟いた。

「いつも見てたから」

(ほら、きたーーー!!)

「騒がしい人だなって」

「そうそう、さわが……えっ?」

騒がしい人が好みなのですかと、ねじ切れそうになるまで仙太郎は首を回して振り返る。
呪いよりも先に首がねじ切れそうな仙太郎に気がつかずに、舞子は打ち明けた。

「こんな騒がしい人がいたら、少しは面白く、楽しい事があるかなって」

「要するに、舞子は寂しがりやか? 俺の魂をヌイグルミでお持ち帰りしたのも、昨日の夜わざわざ抱いて寝たのも。寂しがりやの一言ですか?」

「うん、私笑うの苦手だから。クラスにもあまり友達いないの」

補足つきで肯定されて、思いっきり仙太郎は叫んでいた。

「いなかったらつくれや、こんちくしょお! なんだよ、思わせぶりな態度しやがって。好かれちゃってんのかと思ったよ。魔女とヌイグルミの素敵な関係かと思ったよ。元の体に戻ったら幸せゴールインかと思ったよッ!」

「いいわよ。元の体に戻ったらちゃんと付き合うから。だからもう少しその体で付き合って」

「微妙だよ。告白っぽいけど、すっごい微妙だよ。付き合わなくていいから帰せ、今すぐ元の体に帰せ!」

「言っておくけど、すぐに戻れば地獄の苦しみが待っているわよ。全く動けず痛みと痒みが同時に襲う体。それでも帰ると言い張るの?」

急に冷たくなった言葉に気圧され、仙太郎は思い切り言葉を胸に詰まらせていた。
重症なんて傷はこれまでの一生で背負った事は無いが、漠然とすさまじいのであろうと言う事だけは理解できていた。
本当に魔女のような無理な選択を迫る舞子の顔は少し楽しそうであり、仙太郎の癪にさわった。

「ああ、いいよ。このままでしばらくいてやるよ。ただし弁当は作ってやらん、なんにもしてやらん。それでもいいな!」

「ええ、いいわよ。そばにいてくれれば」

今度グッと来たのは仙太郎の方であった。
理由はどうあれ、女の子にそばにいて欲しいと言われぐらつかない男はいない。

「ただし、浮気したらすごい事になるから」

だが違う意味で心臓をグッと握りつぶされるような冷たい声が、舞子から放たれていた。
その瞬間、思い切り地雷を踏んだ気がしたのは決して仙太郎の気のせいではなかったであろう。
まだまだ仙太郎の苦難はこれからの様であった。

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