最強の魔法の名は



そこはとあるお城にあるとある中庭。
たった一人の城主であるお姫様のために咲き乱れる花たちに混じり、大きな実をつけているトマトが植わっていた。
少々どころか、周りからかなり浮いているそのトマトの木の前に座り込んでいる少年がいる。
手塩にかけて育てた娘を微笑ましく眺めるおじさんの様な似合わない表情を作っている事から、彼がこの中庭にトマトを植えた事は一目瞭然であった。
年の頃は十六、七といった所か、行動こそおじさんくさいものの老けて見える事はなく、身に着けている厚手の藍色の服から騎士見習いとわかる。
彼はしばらく真っ赤に熟れたトマトを眺めた後、たっぷりと水を汲んだジョウロから水をやり始めた。

「良い色になってきた、なってきた。これなんか食べ頃だな」

一番出来の良いトマトを愛おしそうに触れていると、小鳥のさえずりには程遠いのに少年の耳には心地良く聞こえてしまう声が聞こえてきた。
必死に助けを求めるような声に振り向くと、声同様にとても愛らしい姿をした少女が駆けてくるのが見えた。
純白のドレスの広がるスカートの裾を両手でつまみあげながら走ってくる。
少年が立つすぐ目の前まで来ると、事情の説明を一切せずに少女は一気にまくし立ててきた。

「アレク、かくまってくれ。追われているのだ!」

「またですか、ミル姫様。今度はどなたですか? 歴史のイワン先生ですか? それとも算術のクリスレイさんですか?」

「ええい、そんな事はどうでもよい。かくまってくれるのかくれないのかどっちなのだ!」

アレクの呆れるような曖昧な顔を見て痺れをきらしたミル姫は、答えを聞く前に所狭しと植わってるトマトの木の後ろへと身を滑り込ませていった。
小柄なミル姫の姿はトマトの木の幹や葉によってパッと見全く見えなくなったが、これではアレクはかくまうしか選択肢がなくなってしまった。
まいったなと苦笑を浮かべるアレクの元へと、しばらくしないうちに一人の老齢の男がやってきた。
かなり重そうな体に鞭打って必死にミル姫を探していたようで、かわいそうなぐらいに汗だくとなっている。

「ふぅ、ふぅ……おお、アレク君。こちらに姫様はこられなんだかな?」

「いえ、僕はお姿を拝見していませんが。またお逃げになられたんですか?」

「全く歴史の授業中にお逃げになる姫など、これまで講義したこともありませんよ。毎度毎度、一体何処へお逃げになられるのか。老体にはきつい話です」

言葉通りこの広い場内をミル姫を探して走り回るのは体に悪そうで、かくまっている後ろめたさから思わずアレクは呟いていた。

「すみません」

「ん、なにか言いましたかな?」

「え、いいえ。そうだ喉が渇いていませんか? トマトが良い具合に熟れてるんです。お一つどうぞ」

「おお、ついにそこまで育ったのかね。ありがたい、では一つ頂いて」

砂漠で一杯の水を貰った旅人のように、瑞々しいトマトにむさぼりついた先生は、軽くアレクに頭を下げてからまた走り出していった。
そんな後姿を見送ったアレクはミル姫をしかりつけようと振り向いたが、逆に不満げな視線を一身に浴びせられていた。
かくまい、しかも追っ手を上手く他へ向かせたのに何が不満なのか、尋ねる前にミル姫が不満をぶちまけてきた。

「そのトマトはわらわに一番に食べさせてくれるのではなかったのか。しかもつまらない授業をするようなあやつにくれてやるとは、どう申し開きをするつもりか?!」

ミル姫が怒りをあらわにするたびに綺麗な金糸の髪が波打つが、それに見とれるよりも先にアレクは口を動かしていた。

「大丈夫です。ちゃんと一番良いトマトは残しておきましたから」

「そうなのか?! むっ、だがわらわは一番に食したかったと申しておるのだ。そのような詭弁には騙されぬぞ!」

「そうですか……ミル姫様が食べたくないのなら、これは厨房にでも持って行って」

「ま、待てい!」

一番出来の良いと評したトマトと、その他をもいで持っていこうとするアレクの袖をミル姫が掴んで止めていた。
アレクの笑みに、すぐに乗せられたと気づいたミル姫は、言葉を失い唸るぐらいしかできなかった。
最初をとられたのは悔しいが、このまま一番を逃すわけにもいかないといったところだろう。
こうやってミル姫を困らせるのがアレクであれば、逃げ道をちゃんと用意してあげるのもアレクであった。

「それじゃあ、そこのティーテーブルで食べましょうか」

そこと言うのは、中庭の花園でお茶を飲むために用意されたテーブルの事であった。
アレクの服の袖から手を放したミル姫は、テーブルの前まで行くとアレクが椅子を引いてから座り込んだ。
他の誰かが今の行動を見たのならどう見ても執事見習いとお姫様なのだが、それを突っ込んでくれる者は今はここにいない。
それを言うならば、もいだばかりのトマトにかぶりつこうとする姫も考え物だが、授業から逃げ出す行動を考えれば納得できるだろう。
アレクから渡された一番のトマトに目を輝かせながらミル姫は思い切りかぶりついていた。

「ん〜、食事中に出てくるトマトとは全然違うぞ。こんな美味しいのは初めてだ」

「そりゃ今そこでもいだばかりですからね。それにこのお城まで生の野菜を運んでくるには距離がありすぎますから」

聞いているのかいないのか、ミル姫は両手の中にあるトマトに夢中であった。
理由あってミル姫のこの城は、城下町と言う物が存在せず、近くの町や村へも歩いて半日ほどの距離が離れている。
これはミル姫の城が特別と言うわけではなく、大陸を収める唯一のラウル女王家、その現当主以外の一族は全員が大陸のいずこかに城を構え人里離れて暮らしている。
ミル姫は現当主の数多く居る子の中で第二十四子である。

「はあ、美味しかったぞ、アレク。お前がこの城に騎士見習いとしてやってきた一ヶ月前に中庭を貸してくれと言って来た時は正直馬鹿にしたが、今では良かったと思っておるぞ」

「ありがとうございます。僕は騎士見習いのくせに、どうも土いじりしてないと落ち着かないんですよ」

「変わっておるのう、お主も一応は貴族であろうに」

「地方のど田舎貴族はそのようなものですよ。当主だろうが長男だろうが、みんな土をいじりながら生きてます。僕は次男なんで、こうして外に出ちゃいましたけどね」

それからは自然とアレクの田舎の話になり、授業とは比べ物にならないほどに熱心にミル姫は話しに聞き入っていた。
幼い頃にこの城にきてからずっと外に出た事がなければ、外の世界に興味がわいても不思議では無いだろう。
簡単には外に出られない理由を知っているからこそ、アレクも喜んで自分の田舎の話を聞かせている。
ミル姫の気が済むまでずっと話していると、興奮も冷め出したのか、ミル姫は息をついて椅子に背を預け出した。
眠くてもなったのかとその顔をアレクが覗き込むと、どうやら違ったようだ。
明るく笑う事の多いミル姫にしては珍しく、感慨にふけるような憂いを帯びた瞳を見せてきた。

「先ほども申したが、アレクが来て一ヶ月経つのだな。明日は満月の夜、降魔の儀式だ」

降魔の儀式とは、見習い騎士が正式な騎士になるには避けて通る事はできない儀式の事である。
そして、ミル姫のようにラウル王家の一族が当主以外は人里離れた場所で済んでいる理由にも関係している儀式であった。
降魔の儀式を行った正式な騎士は、この城には現在二人いる。
形式にそって行えば間違いはないのだが、だからと言ってアレクが緊張しないかと言えば別問題であった。
そして今現在も少しずつ緊張している故に、儀式を何度も行っているはずのミル姫までもが緊張している理由を、アレクが察する事は出来なかったが。

「のう、アレク」

風が流れ中庭に植えられた花々がさわさわと鳴るのが聞こえる程の沈黙の後、ミル姫が名前を呼んですぐに別の声が割って入ってきた。

「ミルシェール様、イワン殿がお探しでしたぞ」

「ぬお、ソレイル。いつからそこに?!」

ミル姫が驚くのも無理はなく、アレク自身も全く気配の察しようのなかった先輩騎士の登場に驚いている。
急に現れた事もそうだが、凛々しくも無表情すぎる大柄なソレイルは一度気がつけば存在感がありすぎた。
逆にどうしてこの人に気づかなかったのかと恐れを抱いてしまうほどである。

「つい先ほど、降魔の儀式が話題に上り始めた頃からです。さあミルシェール様、お部屋にお戻りください。それとアレクも。お前は明日の儀式のための予習があるだろう。農作業を認めたのは、やるべきことをやると言ったお前の言葉を信じたからだぞ」

「申し訳ありません。すぐに戻ります。それでは、ミル姫様。また」

「あ、待てアレク話はまだ……」

走っていってしまうアレクに手を伸ばすが、届くはずもなくすぐにアレクの背中は中庭から消えてしまった。
まだ言いたいことがあったのにと椅子から飛び降りたミル姫は、そこに突っ立っている朴念仁の騎士のすねを思い切り蹴り上げた。
ゴンッと鈍い音が響き足を押さえてうずくまった、ミル姫自身が。

「ミルシェール様、鋼鉄のすねあてを蹴られては危ないです。おやめください」

「誰のせいだと、くぅ」

正式な騎士ともなれば、全身これ鋼鉄の塊であり、しばらくミル姫は動きたくても動けない状態へと陥っていた。





満月には一日足らずの月が空に昇る頃、不気味なほどに静まり返った城内を歩く人影が二つあった。
一つはランプを片手に見回りを行うアレクであり、もう一人はソレイルとは違うアレクのもう一人先輩である。
懸命に辺りに目を光らせるアレクとは対照的に先輩であるカシムの姿勢はいいかげんな者であった。
いいかげんと言っても、堂々とあくびをしているわけでも夢うつつに見回りをおこなっているわけでもない。
問題なのはカシムの周りに明かりの代わりとして浮かぶ火の玉であった。
最初はカシムの悪ふざけを我慢していたアレクであるが、ある火の玉が目の前を横切った事で我慢の限界がきた。

「カシムさん、いい加減に力をみせびらかすのは止めてもらえませんか?」

「いいじゃねえか。どうせ明日の儀式の後にはお前も何かしらの力がもらえるんだからさ。自慢できるのも今日までだろ?」

「だったらせめて火の玉は一つにしてください。逆に気が散るんです」

「へいへい、わかりましたよっと」

カシムの言葉が終わらないうちに、漂っていた火の玉たちが次々にその姿を消して最後の一つだけが明るさを増しながら残っていた。
不可思議極まりない光景に、少しばかりアレクは見とれてしまっていた。
気がつけばその眼差しをカシムに見られてしまい、明日にはと自分を納得させつつ見回りを再開しはじめた。

「しかしお前もタイミングが悪かったよな。降魔の儀式ができる満月が終わった次の日に赴任だったからな。一ヶ月も見習いする奴なんて他に知らねえぜ」

「理由は知らないんですけど、本当に急でしたから。カシムさんはその理由を知っているんですか?」

「まあな。どうせお前も明日には正式な騎士なんだから、教えても問題はないだろう」

軽い気持ちで聞いてしまったアレクだが、思ったよりも真面目な声が返ってきたため思わず身を正してしまっていた。
話題の振り方に失敗したかと思いつつも、だまってカシムの言葉を待つ。

「知っての通り、魔法が扱えるのは降魔の儀式を行った騎士だけだ」

「はい、ラウル王家の初代女王が夫に魔法を与えたのがはじまりなんですよね。そして初代女王の血を引く一族の女性は、皆同じ魔法を与える力を持っているって、子供でもそれぐらい知ってますよ」

「それだけ王家は特別で神聖なものだと教えられるわけだが、ただ王族に認められるだけで特別な力が手に入るのなら、誰だって欲しいと思う。ここ数ヶ月で各地の王族が何度か狙われたらしい。だから急遽警備増強の意味で見習いを各地に送り込んだんだ」

もちろん警備増強を名目に騎士見習いを送り込めば、人となりを判断する前に騎士に昇進させなければならない。
となれば当然裏切りを考える者も出そうだが、騎士にとってそれは絶対にありえなかった。
降魔の儀式と言われるだけあって王家との契約を持って魔法という特別な力を与えられるのだ。
儀式の瞬間から騎士の体のどこかに金色の輪がはめられ、裏切りの末路は壮絶な物とされている。
何故されているとあいまいなのかと言えば、大抵裏切った瞬間には周りの騎士の誰かに斬られているからだ。

「そうだったんですか。全然知りませんでした。でも王家を狙ってまで力が欲しいものなんですかね、どう考えても割りにあわない気がしますけど」

「そりゃお前が恵まれてるからだ。欲しいやつには、どんな方法だろうと手に入れたいと思うんだろうよ」

そういわれてもやはりピンと来なかったアレクは何気なしに、窓から外へと繋がる夕闇を見上げた。
一つの王家に統一されたこの大陸で争いごとはほとんどなく、アレクは騎士を目指すまでぬくぬくと育ってきていた。
それが恵まれている事なのか、恵まれているからこそ解らないので奇妙な悪循環が出来上がってしまう。
思考のループに囚われる一歩手前で視界の中で動いた何かがアレクの意識を呼び戻した。
場所は窓から見下ろせる中庭であった。

「カシムさん、中庭になにか。おい、そこのお前動くなッ!」

「ヒャ!」

窓に足をかけて中庭へと飛び出していったアレクだが、間抜けな悲鳴にすぐに飛び出したときの勢いを殺していった。
一体誰がとランプの光を向けてみると、そこにはネグリジェ姿のミル姫がしりもちをついて倒れていた。
ホッとする反面どうしてと戸惑うアレクへ、すぐにミル姫は怒鳴ってきた。

「急に大声を出すでない、アレク。躓いてしまったではないか!」

「申し訳ありませんと言いたいところですが、こんな所で何をしているんですか?」

アレクが不思議に思うのも無理はなく、現在時刻は普段ならばとっくにミル姫は夢の中の時間帯である。
寝付けなかったにしてもわざわざ部屋から中庭にまで歩いてくるのはかなり不自然であった。

「う、うむ。実は昼間に落し物をな」

「みつかったんですか?」

「いや…………まだ、だ」

アレクが振り返り頼み込む前に、沢山の火の玉が中庭に現れ辺り一体を照らし出していた。
炎の中心で笑っているカシムは何故か意地悪い笑みを浮かべている。
それは辺りが良く見えるようになって逆に困っているミル姫を見てのことであった。

「さあ、これで存分ん落し物を探せるんじゃないですか? 気にしないでください、この力はもともと姫に与えられたものです」

「そなたの魔法をわらわのために使うのは、当たり前のことだ。ことだが……」

「それで、一体何を落としてしまわれたのですか?」

言葉を濁してばかりのミル姫に尋ねるアレクだが、口を結んで黙り込まれてしまう。
おいそれと人に言えないものなのか、心配そうに伺うアレクを見て、抑え切れないようにカシムは口元を押さえて大声で笑いたい衝動をしのいでいる。
ミル姫の口ぶりから落し物などで任せである事は容易に知れ、だとすれば何故ミル姫がこんな時間に中庭にいたのか。
答えはわりとそばにあり、中庭でも特別な一角、花ではなく野菜が植え込まれた場所だからである。
ミル姫は明日の降魔の儀式の緊張から安心を得るためにそれを眺めに来たのはいいが、アレクを前にそう言えなかっただけである。

「ミル姫様?」

「う〜……なんでもない。落とした物はさっきみつけたばかりだ。わらわはもう寝る!」

ついに癇癪を起こしたミル姫は、口からでまかせに見切りをつけて歩いていってしまう。
結局最後まで答えの解らなかったアレクは黙って見送るだけで、その尻をカシムが蹴り上げた。

「痛ッ、なにするんですか?!」

「姫様を一人で部屋に戻らせるつもりか? 見回りは俺が続けるから、送って来い。それとちゃんと戻ってこいよ」

「あ、はい。すみません、それじゃあ行って来ます」

先に歩いていったとはいえ、ミル姫にアレクが追いつくには全く時間が掛からなかった。
実はミル姫の方が追ってきてくれないかと何度も振り返っていただけで、実にカシムの読み勝ちといったところであろう。
恩恵にあずかったのは読み勝った本人ではなく、ミル姫とアレクであったが。
もっとも結局ミル姫が何故中庭にいたのかまだ理解できていなかったアレクは、黙ってミル姫の横を歩いているだけであった。
ミル姫自身も癇癪は納まったものの、怒鳴ってしまった気まずさから何もいえないでおり、まったく恩恵にあずかりきれていなかった。
お互いに無言のまま廊下を歩き続けて、何も無いままにミル姫の寝室にまでたどり着いてしまった。

「ご苦労だったな、アレク。もう、戻ってよいぞ」

「いいえ、これも仕事ですから」

これほど残酷な言葉はないと、ミル姫が沈み込んだ顔を見せたのは正解だったのか、不正解だったのか。

「ミル姫様、もしかして眠れなかったんですか? だったらコレ試してみてください。ハーブを煮詰めて造ったアメ玉なんです。落ち着いてよく眠れますよ」

現金なものでアレクが心配してくれたかとわかると、即座に笑顔を取り戻したミル姫がアメ玉を受け取り口に放り込んだ。
鼻から冷たいと錯覚できる空気が流れ込み、それが体の隅々にまでいきわたるような不思議な感じが広がっていく。
最初はその空気のせいで目が覚めていくように間隔が鋭敏となるが、不思議と心臓の方は落ち着いた音色をかなで始めていた。

「うむ、少しは眠れそうだ。褒めてつかわすぞ、アレク」

「ありがとうございます。もう夜も遅いですから、お休みなさいませ」

最後の最後で笑って別れると、ミル姫は部屋に入りベッドへと直行し、アレクは再びカシムを追って見回りへと戻っていった。





翌日は朝からアレクは大忙しであった。
朝食も中途半端に呼び出され、午前中はご老体の昔話が八割を占める騎士としての心構えや儀礼の説明。
やっとそれから開放されたかと思えば、お昼も無しのままで城のメイド長からミル姫の教育係長といった役職持ちへのあいさつ回り。
今度こそと開放されてから厨房へ向かう暇もなく捕まってしまい、今度は降魔の儀式で身にまとう鎧を着させられながら儀式の復習。
まわりに振り回されている時には気づいていなかったが、夕方になってもまだミル姫と一度も顔を合わせないのは、実はこの城に着てから初めてのことであった。
無意識のうちにアレクがミル姫の顔を思い浮かべている間にも、流されるままに降魔の儀式の準備は開始に向けて着実に進んでいた。

「はあ…………疲れた」

普段の鍛錬よりもキツイのではないかと思える事ばかり連続で行われ、儀式の前にすっかりアレクは疲弊してしまっていた。
本当にあとは儀式を行う所まできたところで、控え室に通されたアレクの元へと二人の先輩が訪れる。

「よお、やっぱり予想通りの顔してるな。顔に鍛錬以上にキツイって書いてあるぜ」

「カシムさん、それにソレイルさんも。お二人の時もこんなだったんですか?」

「みな似たようなものだ。儀式を受ける本人よりも、まわりが騒いで気がつけば儀式の直前だった。だがここまで来れば、もう終わったも同然だ」

珍しくソレイルが多弁なのは、懐かしい見習い騎士最後の日を思い出しているからだろう。
無表情ながらにも、その瞳が数年前のこの部屋の光景を見ているようであった。
だがそれはカシムも同じようであるらしい。

「俺もここでガチガチに緊張してたら、当時の先輩が声をかけに来てくれたぜ。まあ、恒例行事って奴だな」

「後十数分で降魔の儀式が始まる。明日からは同じ騎士だ」

「騎士と言われてもピンとこないですけど」

何か変わるんですかねと、どうにも実感の薄そうなアレクの言葉にカシムもソレイルも含みをもって笑っていた。
かつての自分たちもそう思っていたのか、アレクの認識の甘さを笑っているのか。

「とりあえずお前のすべきことは満足に儀式を執り行い終える事だ。我々は先に儀式の間へと行っているぞ」

「力んでも力まなくても結果は同じだ。緊張するだけ無駄だぞ」

対照的な言葉を投げかけてきた二人の先輩が部屋を出て行き、再びアレクは一人儀式の始まりを待つことになった。
実感のなさからガチガチに緊張するような事はなかったが、それでもアレクは目を閉じて教えられた段取りを何度も頭の中でなぞらえていた。
儀式を頭の中でなぞらえるたびに、自分が得るはずの力は姿かたちを変えていっていた。
一体自分はどんな魔法の力が具現化するのか、繰り返し儀式の流れを頭の中でなぞらえるたびに心臓の鼓動が大きくなっていった。
つられるように頭がふやけたように意識が滲む中で、控え室のドアが叩かれた。
時間だと立ち上がったアレクは、呼びに来たメイドの子に案内され儀式の間へと歩いていった。
儀式の間は城の中で一番月が近くなる場所、もっとも高い塔の中に収められていた。
その儀式の間の扉をアレクが開くと、空から垂直に降りてきた月明かりの中に同じ色の金糸を持ったミル姫が待っていた。

「これより、見習い騎士アレク スコルピオの降魔の儀式を執り行う」

厳かな声に、普段の元気な印象とは違う大人びたミル姫に見とれていたアレクがハッと我にかえる。
円形の部屋の真ん中に水鏡を張った一抱えもある杯を挟んで、アレクとミル姫が向かい合っている。
さらにその二人を囲うように城の重鎮や二人の先輩騎士が円を描いて並び立っている。

「アレク スコルピオ。我が前に誓いを、汝の心を剣に添えて月に掲げよ」

もうすでに儀式は始まっているのだと、ミル姫の声を聞いてすぐにアレクは腰に帯びた剣を抜き去り両手で掲げた。

「我が剣は我が主の為に。我が命は我が主の為に。我、アレク スコルピオは騎士となりて、生涯我が姫君を守り抜く事を誓う」

幾度となく行われてきた儀式のために作られた言葉であったはずなのに、アレクの目にはっきりとわかるほどにミル姫の顔が紅潮していた。
つられるようにドギマギとしてしまったアレクは危うく掲げた剣を落としかけ、慌てて柄を握りなおした。
なんとか平常を保つと、剣の柄から片手を離して水鏡の杯の上に腕を伸ばし、自らの剣の刃を薄く腕の上に走らせる。
ジワリと滲んだ血がやがて雫となって水鏡の中へと吸い込まれていった。
立った一滴の血はすぐに薄れて跡形もなくなってしまったが、その一滴をすくうかのごとくミル姫が水鏡に映った月を手のひらで救い上げる。
すくわれた一部の水に引かれ浮き上がる水面が零れ落ちていくと、ミル姫の手の中には小さな月の様な輝く光源が輝いていた。

「汝の誓いはしかと受け取った。我を敬い、汝の剣を捧げよ。さすれば我は汝に我を守るべき力を授けよう」

言い切った途端にミル姫の手の中にあった光が弾け、アレクの体に降り注いでいく。
アレクの体全体にいきわたるそれはやがてアレクの体の一部に集まり出していた。
左手の薬指に集まった光が形を現しだして、金色のリングとなってしっかりとはまっていた。
辺りを占めていた緊張の空気が儀式の終わりと共に崩れ、契約の証であるリングをしげしげと眺めながらふいにアレクが呟いた。

「なんだか、婚約指輪みたいですね」

「ば、ば……ばか者! なにを、急になにを言っておるか。そのようなたわ、たわごとを申す前に試すべき事があるであろうがッ!!」

「でも魔法ってどうやって使ったらいいんですか? どんな力かもわからないのに使ってみろと言われても」

今にも教えてくださいと呟きそうなアレクの言葉に、顔を真っ赤にしてたった今怒鳴りつけたばかりのミル姫の顔色が瞬く間に青くなっていっていた。
あまりの急な顔色の変化に、どれだけ自分が変なことを言ったのか理解していないアレクは周りにいた重鎮や先輩たちに視線をよこした。
視界に飛び込んできた彼らの態度もミル姫と似たようなもので、激しい動揺が手に取るように解った。
あるものはそんな馬鹿なと驚いており、またあるものは隣り合う者と前代未聞だとささやき合っている。
そのうちカシムがアレクに駆け寄ってきていった。

「アレク、冗談はいいから真面目に使ってみろよ」

「ですから、魔法ってどうやって使ったらいいんですか? 今まで出来なかった事を急にやれって言われても無理ですよ」

儀式の緊張の反動からからかわれているのかと思ったアレクであったが、さすがに重鎮たちまでもがそうする理由も思いつかずすぐにそうではない事に気づいた。
おかしいのは自分なのだと思いながらも、何がおかしいのかわからず焦り始める。

「そんなはずはない。もう一度儀式を行えば」

「ミルシェール様、安易な行動は慎んでください」

「放せソレイル!」

ミル姫の腕を掴みながら放さないソレイルは、すぐにアレクへと事実を突きつけてきた。

「今まで持っていようとなかろうと、魔法を授けられた瞬間に本人だけは理解できる物なのだ。呼吸をするのと同じように、理屈は理解できなくとも行えるものなのだ」

「それじゃあ、僕は……」

「降魔の儀式で魔法が授けられなかったような前例は聞いた事が無い。それでも残念だが、魔法が使えない以上、お前は騎士になれない」

ざわつく儀式の間の中で、ミル姫のもう一度と叫ぶ声だけがやけに大きく聞こえていた。
一生みならいのままでいられるはずもない。
自然と導き出されるのは、この城に、ミル姫のそばにいられないと言う事実であった。
だが前例の無いこと故に、すぐに決められずアレクは一たび謹慎という事で自室へと連行される事となった。
もちろんアレクは抵抗するような事はしなかったが、ミル姫だけは最後までもう一度と言う言葉を繰り返していた。





「全く、前例のない事でまじめに謹慎してんじゃねえよ」

言葉と共に開けられたカーテンの向こうから陽の光が差し込み、昨晩からずっと闇に閉ざされていたアレクの部屋があらわとなった。
カシムはそのまま窓を開けて風通しをよくすると、部屋の主であるアレクへと振り返った。
騎士になれないことがショックなのか、微動だにせず俯いたまま椅子に座っている。

「今朝方ソレイルが王都へと向けて馬を跳ばして向かったよ。王都の歴史資料室になら、こういった事例も載っているんじゃないかって言ってた。もちろん確認が終わるまでの間は、お前は今までどおりってご老体たちを納得させてからな」

「正直、わからないんです。僕は田舎貴族の次男坊で、なんとなく騎士訓練を受けて見習いとなって、ここに派遣されて。ただこういう結果になっただけで、本当に騎士になりたかったのかもわかりません」

確かにそれはアレクの本心であり、言ってしまえば自分がここまで落ち込む理由がわからなかったのだ。
そんなに騎士になりたかったのか、だがこれまでの見習い期間を思い出してもとてもそうはおもえなかった。
ならばなんで自分はとますます落ち込むアレクを見て、カシムは処置無しだなと呆れていた。
同時に昨晩からずっと落ち込んでいるもう一人と全く同じであると、有る意味感心はしていた。

「お前がどう思っていたかはともかくとして、少しつきあえよ。お前に部屋から連れ出して欲しい人がいるんだ」

「でも僕は謹慎中で」

「だから原因不明なのに謹慎ってのがそもそもおかしいだろう。いいから付き合え、姫様が昨晩からずっと部屋から出てこねえんだよ」

「ミル姫さまがですか?! でも、どうして……」

半ば本気で呟いたアレクに、戸惑うことなくカシムは呟いていた。

「馬鹿か、お前? もういい、とにかく来い。お前が来れば少しはましになるもんだ」

最初から可能性を考えないアレクの腕をとり引っ張って椅子から立たせると、無理やりに部屋から連れ出していく。
城に直接部屋を持てるのは騎士と、見習い騎士のみであり、アレクの部屋はお城の片隅の一角にあった。
そこからミル姫の部屋へは歩いて十分に満たない場所にあるため、すぐにミル姫の部屋は見えてきた。
想像していたのはミル姫の部屋の前で大勢の人が群がり、それぞれがそれぞれの理由でミル姫を心配し、物言わぬドアに言葉を投げかける工芸。
だが実際は、その群がっているはずの人たちが物言わず倒れており、物言わぬはずのドアが半開きとなって揺れていた。
カシムはもとより、虚脱状態であったはずのアレクも走り、半開きのドアを蹴飛ばすようにして開けた。
もぬけの空である姫の部屋の中でもまた、中途半端に開いた窓とそこにかかるレースのカーテンが揺れているのみであった。

「誰もいない? 姫様は……」

「カシムさん、みんな大きな外傷はないですが気絶させられているみたいです!」

ぱっとみて見張りを含めても十人以上はいるだろうか、アレクの見た限り全員が一様に首筋に打撃を受けた跡が見えた。
明らかに侵入者がいたであろう形跡に、二人はすぐに立ち上がるが侵入者がどちらへ向かったかわからない以上追う事ができなかった。
この場にいた者たちは何時気づくかわからなく、あまりにも情報が少ない中で誰かがアレクの耳へとささやいた。

「え?」

聞こえた途端そらみみではないかとアレクが耳をふさぐ様に両手を置くが、何処からかささやかれる声は続いていた。
その時左手の薬指にはまっていた指輪が昼間の光にかき消されそうな程度に光を放っていた。

「ミル姫様?」

とてもか細く小さな声は何を言っているのかわからなかったが、その意思だけはしっかりと伝わってきていた。

「おい、アレク?」

「先輩ついてきてください。ミル姫様の声が、こっちです!」

言うか言わないかのタイミングで走り出したアレクの後をとまどいながらもカシムも走り出した。
本来ならばすぐにでも兵たちに連絡を入れて人海戦術で探すべきなのだが、それを知りつつもカシムは黙って着いてきた。
アレクが向かった先は城の裏手にある馬屋であり、伝っていった城の外壁を曲がった時にそれは飛び出してきた。
危うく馬に轢かれそうになりながらもアレクとカシムの目の前を、全身を黒いマントで覆いきった人影がミル姫を馬の背に乗せて走っていってしまう。

「ミル姫様!」

「ぼうっとするな、アレク。俺たちも追うぞ!」

すぐにカシムが馬屋からつれて来た馬にまたがり、今は城門を抜けてしまっているであろう先ほどの男を追う。
アレクたちが城門を出た時にはすでにその姿は豆粒ほどには逝かないまでも、かなり小さく距離が開いていた。
だが向こうは本人に加えてミル姫を乗せており、さらにアレクたちの馬はカシムが抜け目なく城でも一、二を争う良い馬を選んできている。
追いつくことの出来る可能性は十分すぎるほどにあった。

「まさかアレが王家の人間を狙っている奴なんですか?」

「かもしれねえ。こんな時にソレイルは王都に向かっちまってるし。いや、こんな時だからか。言いたくはないが、昨日から儀式の失敗の事で皆頭が一杯になってたからな」

「じゃあ僕の…………くそおッ!」

アレクは激情にまかせて馬の速度を上げて距離を縮めていく。
その距離が十メートルぐらいにまで近づいていくと、追われることを嫌ったのか黒マントの男が振り返り、追っ手が二人なのを確認してから馬を止めて降りてきた。
だが観念したと言うわけではないのは明らかで、追っ手をすぐにでも断ち切ることが目的なのだろう。
二人もある程度の距離を置いてから馬を止めて降り、腰に帯でいた剣を抜刀した。

「さて知っていると思うが、王家の人間に手を出した奴は釈明の機会もなく、騎士の勝手な判断で断罪できる。アレク、俺が奴の相手をしている間に姫様を連れて逃げろ。何よりも優先すべきは奴の断罪でもなく、姫様の身の安全だ」

カシムに言われてアレクは、相手の馬の上で物言わずぐったりと身を預けているミル姫を見た。
正直に言えば自分も黒マントで全身を覆った相手を許せないが、カシムの言葉に従い返事を返した。

「わかりました。同時に行きます」

未だ黒マントの男は動きを見せる気配はないが、カシムはタイミングを合わせるために二人の間に聞こえるだけの声量で呟いた。
三からカウントダウンされるのを聞いて、アレクが身を屈め飛び出す前の反動をわずかながらに生み出していく。
二で剣の柄を握り締め、息を細くして吐いていく。
一の声が消えていく中で二人は同時に、だがやや方向を変えて走り出した。
カシムは未だ動きを見せない黒マントへと、アレクは黒マントを回避するように大回りに横から馬にのせられたミル姫へと向けて。
そのままカシムが黒マントの相手をしている間に相手の馬へとまたがり駆け出すのが理想であった。
だがアレクの視界の片隅で信じられない光景が広がり、足を止めてしまっていた。

「馬鹿、な」

カシム自身、わが身に起こったことが信じられなかった呟きなのだろう。
鎧の腹部にある僅かな隙間にから血が噴出しているが、男は僅かに黒マントをなびかせただけで何も武器を持っていなかった。
何もしていないのにと言う思いと、もう一つの疑問を持ちながらカシムは男の脇へと倒れこんでいった。

「カシムさん?」

「これほどザルな警備と質の低い騎士も初めてだな」

そう呟いた男のマントがひるがえり腕がしなると、何かが風を切る音が聞こえた。
直後にはアレクの右肩に何かが突き刺さっていた。
何かはわからないが、開いた傷の奥に見える肉と滲み流れ落ちる血、脳髄へと駆け上がる痛みだけが刺し貫かれたのだと教えてくれた。
一瞬で崩れ落ちそうになる膝に力を込めなおしながらアレクは、開いた傷口の辺りを手でまさぐると何も無い場所で硬い感触が伝わってきた。
主の手を離れて徐々に効力を失ったそれの姿が現れ、はっきりとアレクの右肩に小ぶりなナイフが突き刺さっているのが目に入った。

「くっ……まさか、魔法?」

「知ってどうなるものでもあるまい」

深く突き刺さったナイフを抜こうと左手を添えた途端、男がアレクを始末すべく走り出した。
本来ならばナイフを無視して男を迎え撃つべく激痛を押し込んで剣を構えるべきだが、アレクは迷いを見せていた。
実践の経験不足からなる迷いをあざ笑い男が何かを振り上げる素振りを見せると、二人の間に燃え上がる火柱が入り込んできた。
燃え上がるそれに足を止められた男が見たのは、つい先ほどまで自分がいた足元。

「クソッ、やっちまったか……」

苦痛に顔を歪めながらも倒れこんだまま顔を上げたカシムが、口惜しげに呟いていた。
ミル姫を最優先だと自分で言っておきながら、男を焼くのではなく、アレクを守るために間に炎を割り込ませてしまったからだ。
自分ができる最後の手段があっけなく終わり、炎が消えると同時にカシムは今度こそ気を失っていった。

「笑わせてくれる。なんて甘い奴だ。結局こうして、この小僧も」

「やられるか!」

マントのがひるがえり大振りに振り上げられた腕を見て、アレクは剣の腹を頭上へと掲げていた。
伝わる衝撃から見えない剣が受け止められたが、受け続けられるほどは甘くはなかった。
剣を受け止めることだけに集中したアレクを見て、男が反撃を気にせず大きく踏み込んできた。
もう一度と下から上へと振り上げられる腕の動きを見て想像した剣先を受け止めようとしたアレクであるが、受け止めるよりも先に見えない剣の刃が体へと到達していた。
右足の太ももから僅かに腹へと裂傷が走り血が飛び散っていた。

「うあぁぁぁぁッ!」

「このように死ぬ運命なのにな」

特に深い傷の足を押さえながら倒れこんだアレクへと、男は垂直に突き立てるように剣を落としていた。
自分の中に直接異物が入り込んでくる激痛を味わいながら、アレクの叫びが空気を震わせながら響いていく。
するとその声に起こされたように馬の背に無造作に横たえられていたミル姫のまぶたが僅かに開き、身じろいだ途端に馬の背からずり落ちていた。
思い切りしりもちをついて痛がったのは一瞬で、すぐにアレクが訴える痛みの声に我に返らされた。

「アレク? アレク?!」

「もうじきにでも、貴方を守るべき騎士は二人とも死ぬ。あきらめる事だな」

「二人? カシムまで……そなたは一体、魔法ならやらぬぞ。わらわは決して脅しなどにも屈さぬ!」

「誰でも最初はそう言う者だ。この力を私に与えてくれた人も」

物体を不可視にする魔法を得たからこその言葉なのだろう。
これ以上騒がれても面倒だと、ふたたび気絶させるために男が歩み寄っていく。
それに合わせてミル姫もあとずさるが、所詮このだだっ広い草原では逃げ場など何処にも無い。
馬にまたがり逃げようとしてもまたがるまでにつかまるであろうし、例え馬にまたがれたとしてもミル姫は自分のために怪我をした二人を置いてなど逃げられなかった。

「てこずらせないで頂きたい。できれば魔法を頂くまでは、丁重に扱いたいのでね」

「アレク……」

男の腕が痛みを伴うほどに強くミル姫の方を掴み足が止まってしまう。
助けてくれと思いを込めて名を呟くが、その人は今血を流し意識があるかどうかも怪しいぐらいである。
それでもミル姫はその名を呼ぼうと声をあげていた。
騎士見習いだからではなく、もっと別の意味を込めてミル姫はその名をもう一度呼び、叫んだ。

「誓ったであろう、アレク。お主は生涯わらわを守ると誓ったであろう。アレクッ!!」

このとき、叫んでいたミル姫自身でさえ気づいていなかった。
アレクの左手の金色のリングが輝きを放ち出していた事に。

「いい加減に」

「その手を放せ」

苛立った声を上げて揺さぶるようにミル姫を招きよせた男の背後に、いつの間にかアレクが立ち上がっていた。
未だ抑えた腹から血は流れていたが明らかにその量は減少しており、アレクの声にもしっかりとした意識が戻っていた。
振り向きざまに男の手がナイフを握り、腹部へと流れるように突き刺そうとするが、その腕を掴まれてしまう。
振り払うようにして距離を取ると、警戒心を強めてアレクを観察したが、すぐにそれは嘲笑にも似たものへと変わっていった。

「なるほどな、治癒の魔法をすでに授けられていたか。だが貴様が私の攻撃を防げなければ同じだ。治癒の暇を与えなければ良いだけだ」

確かに治癒の魔法が使えたのなら、その通りなのであろう。
だがアレクは徐々に癒されていく傷の痛みに耐えながら、薄く笑っていた。

「アレク、ばかもの。心配したではないか。大丈夫なのか?!」

「ミル姫様、一つ気づいた事があるんです。僕を想ってください。強ければ強いほど良い。僕を想ってくれませんか?」

「アレクを……」

そんな場合ではないのにと思いつつも、ミル姫はアレクのことだけを一心に考え始めた。
初めて城に来た日、中庭でトマトを育てるアレク、儀式で生涯守ると誓ってくれたアレク、そして今誓いを実行しようとしているアレク。
頭からつめの先までアレクの事だけをミル姫が考えた刹那、アレクの左手にはめられていた金色のリングがコレまで以上に輝き始めた。
癒されると言うよりは速いスピードで傷が修復されていき、アレクの乱れていた息が整っていく。
金色のリングだけが放っていた光もやがてアレクの全身を包み込みだしたところで、男呟いた声に焦りがにじみ出ていた。

「違う、癒しなどではない。なんだこれは。肉体強化? それも違う。一体なんだ、これはなんの魔法なのだ?!」

「貴方になんか教えたくありません」

言うや否や、アレクは男へと向けて跳び出していた。
光の帯を描きながら突き進むその姿は光そのものであり、男が何かを掲げたしぐさを見せると甲高い金属音が鳴り響いていた。
勢いのまま男の脇を駆け抜けていくアレクは、すぐには止まれなかったのか大地を削りながら自分の勢いを殺していく。
初撃はなんとかさばいたものの、技術以上の動きに男は迷うようなそぶりをみせていた。
その間にもすぐさま方向転換を終えたアレクが向かうが、意を決した男が距離を取って何事かを呟いていた。
次の瞬間にはその姿全部が消え去っており、アレクは完全に相手を見失ってしい必死に辺りを伺うがその姿は景色に溶け込んで全く見えなかった。

「まさか、全身を消せるなグアッ!」

何処だと目を凝らす間に、背中に突然裂傷が生まれた。
そこかと闇雲に剣を振りぬいたが何かにかするような感触もなく、空気を切り裂く音だけがむなしく響いた。
傷口そのものはすぐに癒されていったが、そのぶんアレクを覆っていた輝きが薄れたような気配を見せていた。

「無限のエネルギーなどないという事か。やはりこの勝負私の」

姿なき声が勝機を見出したように呟くが、何を想ったのかアレクは最初の台詞を再び繰り返していた。

「ミル姫様、もっと。もっと想ってください。僕の事を想ってください!」

「これ以上どうせいと……」

「言葉でも何でも自分を誘導すればいいんです。ミル姫様が僕をッ」

闇雲に剣を振り回しながら叫んでいたアレクの声が、ふいに途切れてしまう。
前屈みとなったアレクの口から血の塊が吐き出されたかと想うと、目に見えて体が崩れ落ちて握り締めていた剣が刀身から地面に突き刺さる。
何が起こったのか、徐々に見え出した男の姿がそれを明確に教えてくれていた。
アレクの崩れようとする体を支えるように懐に入っていた男は、今はすでに見えている剣でアレクの腹部を深々と刺し貫いていた。

「終わりだな」

致命傷どころの騒ぎではなく、そのまま横になぎ払われてしまえば絶命であろう。
少しずつつい刺さった状態から横へなぎ払おうと、動いていく男の剣を視界に納めながらミル姫は思い切り叫んでいた。

「やめて。アレク、死んではならん。好きなのだ。ずっと前から好きだったのだッ!」

その言葉が放たれた直後、アレクの体をコレまでには比べ物にならないほどに輝き始めていた。
まるで本日二度目の朝日が昇るかのごとく、アレクの体は輝き出し、みなぎる力を込めた瞳で男を睨みつけていた。
理解を超えた減少に男は恐れおののき、剣から手を放してしまうと変わりに柄を握ったアレクが自ら腹部に突き刺さった剣を抜き去り始めていた。
抜いたそばから血は流れる事はなく、代わりに光の粒が風に舞う砂粒のように流れていた。

「王家の人間に、ミル姫様に手を出した奴は僕が殺す。僕の意思で、僕の判断で。僕が殺す」

腹部から抜きさった剣を掲げ、その剣の刃に輝きが集まり始めていた。
炎でも風でもなく、純粋なエネルギーである光を集めた剣を一気に振り下ろし、決着はそこでついていた。





「結局さ、アレクの魔法って何だったんだ?」

中庭で相変わらずトマトの世話を楽しそうにするアレクを、城内の廊下から眺めながらカシムはソレイルへと尋ねた。
ミル姫が城内から連れ出される事件からすでに三日もたっているが、一向にアレクは何の魔法を授けられたのか口を割らなかった。
ただ解っているのは地面に巨大なクレーターを作り上げるほどに強力な力であることだけであった。
そのおかげで男の身元はおろか、衣服や体の欠片でさえ見つかる事はなかった。

「だいだい、お前動くのが遅いんだよ。てっきり打ち合わせ通りお前が姫様をさらって一芝居うってるかと思ったら本物の誘拐犯で、お前じゃないって気がついた時には斬られてたぞ」

「その点についてはすまないな。だがアレクの魔法が何であるのかは、書物からヒントを見つけてきた」

大きな傷が残ってしまった腹をなでつけながら聞かされた言葉に、カシムは明らかな興味を見せていた。
普通王家から与えられる魔法は一人一種類であるのに、アレクは最低でも治癒と何かしらの攻撃をみせている。
もし気のせいでなければ、ミル姫の部屋の前で突然アレクが走り出したのも何かの魔法だったのかもしれない。

「アレは初代女王が騎士であり、のちの夫となる人物に与えたとされる元初の魔法だ」

「なんでそんな凄い魔法なのに、アレクは黙ってるんだ?」

「俺にもその気持ちはわかる。俺だって出来れば口にしたくはない」

一体どんな魔法なのだと喉を鳴らしてから待つカシムに、とうとうソレイルは呟いた。

「恋の魔法」

「へ?」

「二度は言わん」

「恋の……だーっはっは! 恋の、あのソレイルが。真面目な顔で、ヒーーッ!!

バタバタと笑い転げるカシムをだから言いたくなかったのだと憎々しげにソレイルは睨みつけていた。
どうやらアレクにも笑い声だけは届いていたようで、何事かと二人を見てきていた。

「だから私は大真面目だ」

そう言った自分でも馬鹿らしいと思いつつも、その威力だけはすでに実証済みである。
それに本当に初代女王の夫が手にしたのと同じ魔法であれば、無敵に近い。
二人はそうやってこの大陸を単一国家になるまで導いたのだから。
もっとも今となってはそこまで大きな力は必要ないが、ほかに問題が無いわけではなかった。
それを確かめるために、とある人物がアレクへと駆け寄ろうとしている中で、ソレイルは通りすがりのメイドに声をかけた。

「ああ、君すまないが頼みごとをしていいかな?」

「え、私ですか? 出来る事ならばかまいませんが」

「うむ、それならばつい先日騎士になったばかりの、あそこにいるアレクを様付けで呼んで見てくれないか? できれば憧れているような雰囲気をだして」

「はあ…………それぐらいならば」

どういう頼みごとだと怪訝な顔をしつつも、律儀に笑顔をだしながら通りすがりのメイドが片手を振って声をかけた。

「アレクさまぁ!」

アレクもアレクでどうしていきなり自分がと不思議がって首を傾げてから、ペコリを頭を下げていた。
それがどういう結果をもたらすのか少しも考えずに。
なんだったのだろうと疑問を残しながらも再びトマトの世話へと戻ろうとしたアレクへと、にじみ出る嫉妬を隠しもせず声をかける人物がいた。
もちろんソレイルの場所からは何を言われているのか聞こえてはいないが、容易に想像がつくことではあった。

「アレクゥ……なんだいまのは、一体誰なのだ! 正直に申せ、今ならまだ昼食を抜くぐらいで許してやらんこともないぞ!」

「ってミル姫様。僕は別に、というかなんでいきなり昼食抜きなんですか?!」

「うるさい、うるさい。聞いているのはわらわの方だ。夕食も抜きだ。今ならまだ明日の朝食は間に合うぞ、アレク」

「なんでもありませんよ。ただいきなり声をかけられて」

本当にそうなのであるが、事実を知らなければ勝手に想像して勝手に怒り出してしまうのがミル姫だ。

「しらじらしくも。ならば何故あんな声を出す必要があるのだ!」

「そんなの知りませんよ!」

「もうよい、アレクの事など知らん。もう謝っても許してやらんからな!」

ついに問い詰める事もやめて歩いていってしまおうとする。
誤解されたままなんて嫌だと手を伸ばしながら歩き出したアレクは、その一歩目でなぜか躓いてこけた。
すぐに起き上がって今しがた躓いた場所を見ても、自分が一体何に躓いたのかがわからなかった。
それでも何に躓いたかなんて小さな事だと距離の開いてしまったミル姫を追いかけ走ると、今度は中庭の世話にやってきた庭師のおじさんとぶつかってしまう。
すいませんと何度も謝っているとすでにミル姫の姿はなく、キョロキョロと探しながら中庭を出て行った。
その数秒後、誰かにぶつかったり躓いたりと姿が見えなくなってもアレクの悲鳴が聞こえてきていた。

「なんだ、アレ?」

いつの間にか笑い転げるのをやめていたカシムまでもが、アレクの奇行を見て尋ねてきていた。

「好かれればプラスになるが、嫌われればマイナスに働くのがあの魔法の特性だ。辛いのはこれからだぞ、あいつは」

「そうか? アイツが自分と姫様の気持ちにちゃんと気づけば終わるような気がするけどな」

ハッキリした方が良いぞという視線を二人して見えなくなったアレクへと送っている。
その視線の先では見えないながらもまだミル姫に機嫌を直してもらえないまま、恋の魔法のマイナス効果に苦しむアレクの姿があった。

「ミル姫様、聞いてください。ああ、すみません。ごめんなさい!!」

「知らぬ、知らぬ。アレクのことなんて、知らぬぞ。ええい、道を開けろ!」

二人のはた迷惑な魔法は、まだしばらく続きそうであった。

目次