空が朱色に染まり始めた頃、昼間は大勢の生徒がひしめいていた教室をたった一人で独占し、机に広げたノートに鉛筆を走らせている生徒の姿があった。 家に帰る前にその日に出された宿題を済ませているのかと思えば、そうではない。 もしもそうであれば解けもしない難問の前に、もう少し厳しい顔つきになっていた事であろう。 今の彼、真鍋 光太(まなべ こうた)はどう見ても楽しみながらノートに鉛筆を走らせていた。 急に鉛筆の動きが止まり、光太がふと天井を見上げながら別の場所を見つめ始めた。 「なんか、違うな」 鉛筆の頭を顎にあて、くにゅりと眉間にしわが寄りはじめる。 その苦心さえも楽しんでいるような節があり、妙案でも浮かんだのか、やがて先ほどまでと同じようにノートに鉛筆を走らせ始めた。 時々止まる事はあれど、踊るように動いていく鉛筆に、光太は空に朱色以外の色が混じり始めたのにも気づかずにいた。 自らの手によってノートに生まれていく物語に心を奪われているのだ。 不思議の国のアリスをモチーフにした世界の案内人と、不思議な世界をめぐる少女の物語。 物語を書く事は誰にも教えた事のない光太の趣味であるが、たまには環境を変えてみようと思い切って放課後に教室でノートを広げてみたのだ。 それが功を奏して思いがけないスピードで物語が生まれていっていた。 「真鍋君?」 「へッ…………うわぁッ!!」 あまりに集中しすぎていたため、引き戸であるドアが開かれた音が光太の耳には届いていなかった。 名前を呼ばれてようやく誰かが来た事に気づいた光太は、思いっきり慌てた。 わたわたと無駄な動き満載でノートを閉じて机の引き出しへと放り込み、さらには背中で机を庇いつつ自分を呼んだ声の主を見た。 そして、激しく後悔する事になった。 「こんな時間まで教室で何してるの?」 「橋本さん」 「そうだけど、聞いてるのはこっち。真鍋君って特に部活もしてなかったと思うけど、まさか宿題なんて事はないわよね」 高校生になってまでメルヘンチックな物語を書いていたとも言えず。 もっと言うならば、憧れを抱いている少女に対して言えるはずもなく、光太は言葉を濁すので精一杯であった。 「まあ、ちょっと。橋本さんこそ、どうしたの? もう下校時刻は過ぎてるよ」 「私が何をしてるのか知らないわけじゃないわよね。生徒会の仕事よ。もう少ししたら文化祭の準備とか色々始まるでしょ」 橋本 愛梨(はしもと あいり)は、校内で有名な女子生徒であった。 部活動こそ行っていないものの、そのぶんクラスの学級委員から生徒会の副会長をこなし、もちろん成績は優秀。 快活さを超えた強気な瞳に気後れする者は多いが、整った容姿に欠点は見当たらない。 そんな愛梨に憧れているのは光太だけではなく、かなりの数に上るはずである。 「まあいいわ。私は鞄を取りにきただけだから」 そう言いながら自分の席へと歩み寄り、愛梨が机の脇にかけてあった鞄に手をかける。 吸い寄せられるように彼女の行動を見送っていた光太は、あるものを見て我が目を疑った。 夕焼けの光を浴びた彼女の瞳から、いつもの輝きが刹那とも言える間だけ消え去ったのだ。 「橋本さん?」 「え、なに?」 思わず呼び止めてしまったが、もうすでに彼女の瞳は何時もの力強さを取り戻していた。 「いや、気のせいかもしれないけど。その……疲れてる?」 「疲れって、ちょっとそれって酷くない? 私そんなオバサンに見える?」 「見えない、全然見えない。ただちょっとそう思っただけで!」 「そこまで必死になられると余計傷つくなあ」 クスクスと笑いながら言われているので、からかわれているとはすぐにわかった。 だがそれでも言わなきゃ良かったと光太の顔は、夕焼け以上に赤くなり始めた。 愛梨からも光太の顔色は一目瞭然であったのだろう、仕舞いにはお腹を抱えて笑い始めていた。 「真鍋君って結構面白いのね。私は何時も通り元気一杯よ。何かするたびに疲れてちゃ、今の仕事が何一つ終わらないしね」 ひとしきり笑い終えると、愛梨は黒板の上にある時計を見上げた。 「ああ、もうこんな時間だ。もうそろそろ見回りの先生が来ちゃう。私も帰るから、真鍋君も早く帰った方がいいわよ。それじゃあね!」 「うん、また明日ね」 バイバイと挙げられた手につられて光太も手を挙げると、愛梨は瞬く間にその場から走り出していた。 時計はまだ六時前でありこんな時間と言うには中途半端であるが、電車の時間でも気にしていたのだろうか。 再び机からノートを取り出した光太は、先ほどの光景をもう一度思い出してみた。 笑い飛ばされてしまったのだが、やはり光太は一瞬だけ見た愛梨の瞳が疲れを訴えているように思えてならなかった。 かといって光太自身、疲れている愛梨というものは想像できなかった。 いつも率先してクラスの仕事を受け持ち、生徒会などの学校単位での仕事だって自ら進んでしているのだ。 「やっぱり気のせいだったのかな。どっちだろう?」 愛梨が元気でいてくれるのならばそれでいいが、もしも誰にも打ち明けられない疲れがあるのならば何とかしてあげたいと思う。 憧れてはいるが特別親しいわけでもなく、ましてや恋人でもない自分に何か出来る事があるのだろうか。 うんうんと唸りながらやがて光太は、愛梨が現れる前と同じようにノートを開いて鉛筆を走らせ出した。 唯一つの違いと言えば、世界の案内人を自分に見立て、世界をめぐる少女を愛梨に見立てて書き出した事であった。 教室から見える二度目の夕焼けを背に受けながら、光太は一冊のノートを手に持ちながらとある机の前で躊躇していた。 あれから通常ありえない速度で物語を書き連ねたものの、このノートを手にとって愛梨が読んでくれるとは限らない。 鞄があることからまた生徒会の仕事で残っている事は間違いないのだが、そもそもこれはストーカー紛いではないだろうか。 人に自分の書いた物語を読んでもらったことのない不安と、愛梨に呼んでもらえるのかという不安が入り混じり、光太を躊躇させる。 そんな光太の背中を押したのは、網膜に妬きついた一枚の情景であった。 愛梨が一瞬だけ夕焼けの朱色の中で見せた疲れとも、憂いとも見える瞳。 意を決した光太は愛梨の机にノートを置いて、自分はそのまま背を向けて教室の後ろにあるロッカーへと向けて歩き出した。 「でも、やっぱりこれってストーカーだよな」 掃除道具入れの扉にある取っ手に手を伸ばしつつ呟いた光太は、諦めも半分で掃除道具入れの中へとその身を隠して扉を閉めた。 こうした理由は、色々ある。 そのほとんどが言い訳であるが、愛梨が読んでくれたか確認しないと続ける意味も無いし、ノートを後で回収もしなければならない。 自分に言い聞かせるように確認しながら、じっと愛梨が来るのを待つ。 待つこと五分も経たないうちに、光太は思った。 「教卓の下でもよかったかも……臭い」 ほうきや塵取りについたほこりや砂粒だけでなく、中途半端に絞られた雑巾などたまったものではない。 だがもはやいつ愛梨が現れるのか解らない今では、のこのこと出て行くわけにもいかず、ひたすらに我慢するしかない。 あまりの臭さに、当初抱いていた胸が飛び跳ねるような緊張感は薄れてしまっていた。 やがて少しずつ臭いに慣れてくると、はるか遠くから聞こえるような部活動帰りの生徒たちの声が届くのがわかった。 朱色の空に点々と黒点を落としているであろうカラスの鳴き声に、教室の窓に当たる風の音。 掃除道具入れの扉にある四本線の通風孔からは、朱に染まり誰一人としていない寂しげな教室の風景が覗けた事だろう。 「…………ぐぅ」 光太が起きてさえいれば。 まったく当初の目的を忘れた光太が目を覚ましたのは、すでに辺りが闇色一色になってからであった。 「って、寝てどうするんだよ。今何時、真っ暗だよ?!」 目を開けても暗いままの状態に、パニックに陥った光太は思いっきり掃除道具入れの扉を開こうとしたが、歪んでいたのか開きが悪かった。 何度も揺らしてようやく扉が開くと、掃除道具入れの中から見た光景と変わらない夜の教室が眼前に広がる。 何をやっているんだとうなだれる事数分、のろのろと起き上がった光太はノートの回収に向かった。 「寝てどうするんだよ。何やってるんだよ、間抜けすぎる。しかも臭いが微妙に移ってるし」 自己嫌悪に陥る光太に追い討ちをかけるように、ノートは愛梨の机の上に全く変わる様子なく置かれていた。 「本当に馬鹿みたいだ」 一体何を夢見て自分みたいなとりえのない男が、愛梨のような可愛い女の子の力になってやれるのか。 馬鹿みたいだという台詞が震えて涙声が混ざる。 明日からまた何事もなかったかのように普通にしていようと、鼻をすすり漏れそうな涙を拭いノートを手に取ると、ノートのページが無造作に波うった。 すると波打つページの間から、真っ白な四角い紙片が光太の足元へと落ちていく。 「紙切れなんて挟んだっけ、なんだろ?」 覚えの無い紙切れは、メモ用紙のようであるが、暗くてよく読めない。 徐々に暗闇に慣れだした目で蛍光灯のスイッチの場所まで歩き、スイッチを入れると何度も瞬いてから白い光が教室を照らし出した。 それからもう一度メモ用紙を見てみると、女の子らしい丸みを帯びた文字で一言だけ書かれていた。 「面白かったよ」 何の事だか頭が理解してくれず、もう一度読み直してようやく光太は理解した。 愛梨かどうか決定したわけではないが、ほぼ間違いなくそうなのであろう。 読んでくれたのだ。 しかも勝手に読んだ詫びのつもりか本心からか、一言感想のメモまで残してくれていた。 「え、マジで。でも橋本さんぐらいしか、そうだよな。いよっしゃッ!!」 生まれて始めての心からのガッツポーズを決めた光太は、踊るように自分の机から鞄を取ると、ノートとメモを大事にしまい込んで駆け出していた。 すっかり遅くなってしまったことも、うっかり寝てしまった自分の迂闊さも今はどうでもよかった。 たった一枚のメモに心躍らされた光太が家に帰り着いたのは、すでに夜の十時を超えていた。 連絡もなしに遅くなった事をしかる母親が待っていたが、怒声を無視してすぐに光太は自室へと駆け込んでいっていた。 もちろん、物語の続きをノートに書き連ねるために。 全く顔を合わせずに、一冊のノートを介して行う関係は次の日も、その次の日も続いた。 もちろん、光太のノートを読んでメモ用紙を挟みこんでくれていたのは愛梨であった。 二日目と三日目は無事眠ることなく光太は掃除道具入れの中からその姿を確認したのである。 その時は迂闊にも掃除道具入れの中で動揺してしまい、思わず物音を立ててしまったのだが、幸運にも愛梨に気づいた素振りは見られなかった。 そこまではよかった、よかったのだが問題が全くないわけではなかった。 「う〜ん…………」 空が朱色に染まりきるには数時間以上必要な昼休みの教室で、光太は腕を組んで考え込んでいた。 それは愛梨がノートに残してくれた感想が原因であった。 一枚目は「面白かったよ」と言い切られていたのだが、二枚目はそれが「面白かったかな?」と疑問系で書かれていたのだ。 初日と二日目で何の違いがあったのか、浮かれていた光太は気づかなかったが、三枚目の感想はオブラートに包まずに書いてあった。 ずばり「もう少し内容を練った方が良いと思うよ」と書かれていたのである。 「調子よく手が進んで、さらに浮かれてて気づかなかった。勢いだけで書いてたからな」 読んでもらおう読んでもらおうと量を書くだけ書いて、本質的な面白い物を読んでもらおうという点を見失っていたのだ。 かと言って、話を練ろうと考えたならとても毎日愛梨の机において置けるほど話は進まない。 話の推敲なんてやりすぎという事は殆ど無いのだから。 「貴重な昼休みになに頭抱えてんだよ、光太!」 机に肘をつきながら頭を支えて唸っていた光太の背中を叩いたのは、数少ない光太の友人の広信である。 ビクリッと光太の体をびくつかせて置いて、今度はわかっているよとばかりに首に手を回してもたれかかってきた。 「ヒロ、重いよ」 「わかってる。お前の気持ちはよく、わかってるぞ」 光太の顔を見れば鬱陶しがっているのは一目瞭然であるが、広信はわかっていると繰り返すばかり。 こうなったら最後、光太から聞きなおさないと離れてくれないのが常である。 少しでも話を練る時間が欲しいのにと思いながらも、光太は聞きなおした。 「で、何がわかってるって?」 「だよな、俺も心が痛んで痛んで。橋本さんがまさかあんな奴と付き合ってるなんてな。ほら、同じ生徒会の軽薄男の小林」 「何言ってるんだよ。たしかアイツって他の組の奴と付き合ってるじゃん。橋本さんが」 言い返しながらも声が震える光太に追い討ちをかけるように、広信が言った。 「なんか橋本さんと付き合うために振ったらしいぜ。酷い事するよな」 それから先も広信が延々と愚痴にも皮肉にも聞こえる言葉を吐いていたが、光太の耳には全く入ってきていなかった。 ただ自分は何をやっているんだろうと、気持ちが奈落の底へと落ちていっていた。 馬鹿みたいだ、馬鹿みたいだとしか自分を蔑む声しか心の中に響いてこない。 自分が小林をどうこう言う前に、ちゃんと愛梨には癒してくれる相手がいたのだ。 それを横から僕がと面と向かいもせず遠くに回って回りまくって、さらに気づいて下さいとばかりにノートを置いてくる自分。 消えてしまいたいと思いながら、光太は机に寝そべり腕を枕にする事で流れそうになる涙を隠した。 「あれ? 光太、そんなに気にするなよ。どうせ小林の方がすぐに振られるって」 何も聞きたくない、煩いと言いそうになるのが嫌でグッと我慢する。 強く握られた拳を見てそれがわかったのか、肩を二回軽く叩いてから広信は消えた。 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響くまで、ずっと光太は眠ることなく顔を伏せていた。 その日、量は少ないながらも話を練り上げて書いてきたノートを、光太は愛梨の机に置かなかった。 愛梨を苦しみから連れ出す案内人にはなれなかったと次の日も、その次の日も置かなかった。 気分は最悪であった。 空が晴れていようが関係なく、ただ何もする気が起きずにひたすら体がだるかった。 それが精神的なものだとわかっているだけに、対処の仕様が無いのだ。 自分を卑しむどん底の精神状態こそ脱しているものの、正常とはとても言えやしない。 思い体を引きずって学校へとやってきた光太は、授業こそ真面目に受けていたものの、それ以外はだるさを隠そうともせずに机にうなだれていた。 「光太、大丈夫かお前」 「大丈夫もなにも……どこも悪くないんだし」 「そうなんだろうが、重病人にしか見えないぞ」 心配そうに見下ろす広信の言うとおり、今の光太の精神状態を知らないものは、顔面蒼白な光太をみて病人だと思う事であろう。 それは彼女も同じようであった。 「真鍋君、具合悪いの?」 唐突に尋ねてきた愛梨によって広信は椅子の上で後ずさり、光太は反対に伏せていた顔をもっと伏せさせた。 「なんかものすごく失礼な反応されてる気がするんだけど」 「気のせいじゃないかな? ちなみに光太は見ての通り」 広信の言葉を真に受けた愛梨は、机のそばにしゃがみ込んで光太の顔を覗き込んでくる。 その表情は今にも謝りだしそうな程に、何故かすまなそうであった。 「えっと……保健室行く?」 「いや、体調が悪いわけじゃないから。平気だよ」 光太は光太で心配させるのも忍びないと、思い頭を上げて無理に笑ってみせる。 本当に無理に笑っているのがまるわかりで、愛梨は困ったように一度視線をそらしてから立ち上がった。 何を思ったのか光太の後ろに回りこむと、両肩にそれぞれ手を置いてから耳に寄せるようにして呟いた。 「がんばって」 なにを、なにが、なんでと疑問を顔に貼り付けた光太がふりむくと、にっこりと笑われた。 手を振って去っていく愛梨を見送りながら、光太は混乱を極めていた。 「おい、光太。なんだ今のは、橋本さんに何したんだ?!」 詰め寄る広信を無視して、光太はまたしても机に顔を伏せだした。 自分でもはっきりと解るほどに赤くなっているであろう顔を伏せながら、抑え切れない笑みをひた隠す。 現金なもので、愛梨の立った一言で鬱々としていた気分が一気に晴れ渡り、笑みがこぼれてくる。 よく考えれば愛梨と小林が付き合う云々は、すぐそばで騒ぎ立てている広信が勝手に拾ってきた噂に過ぎないのだ。 澄み切った空が晴れ渡りとはよく言ったものだ。 晴々とさせられた心は、霧が掛かっていた答えを単純明快にして、光太に当たり前の事実を教えてくれた。 顔を伏せながらも机の引き出しに手を差し入れた光太は、ずっと持ち歩いていたノートをさわりながら思う。 (また書こう。まだ橋本さんと向き合う勇気はないけれど、がんばってみよう) だから光太は、早速頭の中でコレまでの話の流れを思い出し、これからどうしていくのかを考え始めていた。 「光太、寝るな。俺に詳しく聞かせろ!!」 騒ぐ広信を一人、そこに置いてきぼりにして。 励ましとしか聞こえない言葉を愛梨に貰った次の日の放課後、光太は昨晩書き上げたノートを持って教室に残っていた。 ノートをどうするかだなんて今更迷う事もなく、愛梨の机の上にしっかりと置いた。 そして意味もなく柏手をうってお願いしますと誰ともなく呟いてから、教室後ろにある掃除道具入れと教室前にある教卓を見比べた。 どちらに隠れようかと葛藤したのは一瞬で、教卓では足元が丸見えなので、仕方なくまた掃除道具入れへと向かい臭いを我慢してその中へと入り込んだ。 「この瞬間だけは、やっぱりストーカーというか、馬鹿みたいだな」 苦笑いしながらも、しっかりと掃除道具入れのドアを閉めて光太は待った。 だがやはり掃除道具入れの臭いはいかんともしがたく、ちょっとだけ気持ちが萎えてくる。 我慢できるうちに、もしくは慣れて寝てしまわないうちに来てくれと願うこと五分、教室のドアが開けられた。 ガラガラとすべる音が響き、愛梨がまっすぐに自分の机へと向かっていく。 「あは、あったあった」 まるで待ち焦がれていたかのように光太のノートを手に取り、椅子を引いて座り込む。 その様子を掃除道具入れの中から見ていた光太は、早く読んでくれと、じっくり読んでくれと矛盾した気持ちで胸を押さえていた。 愛梨の細く滑らかな指先がノートを開き、視線が落とされた瞬間、もう一度教室のドアが開かれた。 「やっぱりまだここにいた。一緒に帰ろうぜ、橋本」 「小林君」 思わずお前はっと飛び出しそうになった光太であったが、愛梨の声のトーンに一歩踏みとどまっていた。 酷く冷めた、むしろ迷惑がっているような声であったからだ。 とはいうものの、嬉しそうな声をあげられても踏みとどまっていたであろうが。 「そんな嫌そうな顔するなよ。ただ一緒に帰ろうって言ってるだけじゃん」 「私はまだ用があるのよ」 「それじゃあ、それが終わるまで待っててやるよ」 明らかにその台詞には愛梨がムッとした表情を見せていた。 勝手に誘ってきておいて、待っていてやるよとはどう考えてもおかしい。 まるで自分が悪いみたいに聞こえたのだろう。 第三者であるはずの光太も、愛梨のことを抜きにしても小林の態度は癪に障るものであった。 「別に待っててもらわなくても、けっこう。放っておいてよ!」 いい加減にしろと言いたげに愛梨が声を大きくして言い放つが、小林は笑いながら受け流すだけで底を動く様子が無い。 何を言っても無駄かと諦めた愛梨は無視を決め込む事にしたらしく、視線を一瞬だけあらぬ方向に向けてから椅子に座りなおした。 光太はその様子を見ながら、首をかしげていた。 愛梨が視線をそらした方向が、今自分がいる掃除道具入れの方に見えたからだ。 (あれ? いま橋本さんがこっち見た?) そんな疑問を浮かべていられたのも一瞬だけであった。 「つれないこと言うなよ。こっちはお前と付き合うために、別れたんだぜ」 「知らないわよ、そんなこと。アンタが勝手にやってる事じゃない」 「そういう言い方はないんじゃねえのか?」 お互いにヒートアップしだした言い合いに、怪しげな雰囲気が漂い始めていた。 これは隠れている場合じゃないと光太は掃除道具入れのドアに手を添えたが、力を入れてもたわむだけで扉が開いてくれなかった。 さっと光太の背中に冷たい物が流れ、居眠りを決め込んだ初日の記憶が頭を駆け抜けていく。 (って、これ初日にもやっただろ。扉が歪んでて開かない!!) せめてガタガタと鳴ってくれれば格好悪いながらも気づいてもらえるのだが、しっかりとしまりきった扉はうんともすんとも言ってくれない。 多少は軋んでいるのかもしれないが、声を大きくして言い合う二人には聞こえていないのだろう。 自己主張するのならば声を出すだけでも事足りるのだが、扉が開かない事だけに頭が言っている光太はそれに気づけなかった。 「だいたいね」 光太が間抜けにも掃除道具入れのなかでパニックになっていることを知らずに、また一瞬だけ掃除道具入れに視線をよこした愛梨は意を決して突きつけるように言った。 「私とアンタが付き合ってるって噂を流したのもアンタでしょ。おかげで女の子の間で奪ったとか何とか言われて、迷惑なのよ!」 「なっ、なんで俺がそんなこと。決め付けてんじゃねえよ!」 (そうか、小林が勝手に流した噂っていうか。そろそろ開いてくれよ!!) どもった時点で認めたような物だと、愛梨が余裕を持ってニヤリと笑う。 ほらみなさいと勝ち誇った笑みであったが、小林の顔色に気づいてすぐにその笑みなりをひそめていった。 顔を真っ赤にしながらも、細く鋭く変化した小林の瞳に怯えたのだ。 だがそれでも愛梨は大人しくなるどころか、逆に胸を張って対抗しようとしていた。 「ああ、もういいよ。回りくどい事しないで最初からこうすればよかった」 そう呟いた小林は逃げようともしない愛梨の腕をあっさりつかまえてしまう。 「やめておいた方がいいわよ。この時間、誰が残ってるかわかんないんだから」 「こんな時間に誰が残ってるって言うんだよ」 (ここー! ここー! いい加減に、) ブチッと光太の中で何かが切れた瞬間、愛梨が叫んできた。 「いい加減に出てきなさいよ。真鍋君!」 「開けって、えぇッ?!」 狭い掃除道具入れの中で扉を足蹴にして開いたのは良いが、愛梨がまっすぐ掃除道具入れの方を向いて名前を読んだ事に驚きの声を上げる。 それ以上に、何をやっているんだとある意味恐怖を抱いた小林の視線があったが、そこはあえて光太は無視をしたのだが、愛梨はそうではなかった。 「アンタがしつこそうだから、真鍋君に隠れてるように頼んでたのよ。それで、この手はどう説明するつもり?」 「チッ、なんでもねえよ。別にお前の事なんてどうでもよかったんだ。からかってやっただけさ」 あんまりと言えばあんまりの捨て台詞を残して、小林が荒っぽい足音を出しながら去っていく。 「格好悪い」 「人のことは言えないんじゃないの。私がアレだけ困ってたのに、じっとしてるなんて酷くない? 小林君を追い払う役にはたったからいいけど」 「いや、あれは掃除道具入れの扉が」 そこまで良いわけが口を出ていたが、ハッと気づいた光太は恐る恐る愛梨を見上げた。 何故あの場で光太の名前を呼ぶ事が出来たのか。 やはり何度か掃除道具入れの方を見たのは偶然ではなく、光太がいた事を知っていたからなのだろう。 間違いなく、知っていたのだろうが何時知ったのかという疑問が残る。 「あの、何時から知ってたの?」 「光太君が私の机にノートを置いた最初の日」 「マジで?」 あまりにも早すぎるばれ方に、まさかと聞きなおしたが間違いなく愛梨はうなづいてきていた。 「うん、マジで。いきなり掃除道具入れの中でガンって何かぶつけた音が鳴って、恐る恐る開けてみたら。真鍋君が寝てた」 「しまった。あの時かぁ!!」 「正直に言うとその時かなり引いたんだけどね」 笑顔で言われるにはぞっとしすぎる内容に、光太が顔を青くしていた。 だが愛梨はすぐに否定するように言葉を続けた。 「でもね、真鍋君だったから嫌うまでにはいかなかった」 愛梨の台詞に、面白いように青かった光太の顔色が赤みを帯びていく。 さらに光太は勘違いしてもいいのですかと目を見開き、さらには耳をダンボにしている。 愛梨もその様子がわかっているのか、少し真面目な顔つきとなって話し始めた。 「真鍋君が放課後に教室にいた時にね、疲れてるんじゃないかって言われたのを笑い飛ばしちゃったけど……本当はその通りだったの。疲れてるっていうのは少し違うかもしれないけど、嫌になってた」 「嫌にって、どういうこと?」 「色々と放っておけない性格で色んな雑用を一手に引き受けててたら、そのうち皆がそれを当たり前みたいに思いだして。それでも私は断りきれなかった。なのに皆私が好きでやってるんだって、勝手に納得して、私がどう思ってるか気づいてもくれなかった。たった一人を除いてね」 「それが、僕?」 漠然とそう思って呟いた言葉であっただけに、いまいち光太は実感が欠けていた。 「そのわざとらしくない所がいいんだけどね。それに軽い息抜きも提供してくれたし」 「って、忘れてた。それ返して!」 愛梨が掲げて見せたノートに手を伸ばすが、一足先に愛梨が遠ざけてしまう。 「いや、言ったでしょ息抜きが欲しかったって。途中まで一緒に帰りましょ。その間にじっくり読んであげるから」 「そんな、目の前で読むのだけは勘弁してよ」 「そうでもしなきゃ帰るまでにノートを返せないでしょ。結構楽しみにしてるんだから。ね?」 惚れた弱みで、愛梨にお願いされては光太も強く出られなかった。 愛梨に促され二人連れ立って学校を出ると、やや遅れる感じで光太は愛梨についていっていた。 ノートを広げながら歩く愛梨にハラハラしたり、時折内容についてたずねられたりと愛梨を中心に動いてしまう自分に光太は気づいた。 まるで知らない世界に迷い込んだのが自分で、世界の案内人が愛梨であるかのように思いながら。 (となると僕がアリスってこと?) それはどうかと立ち止まった光太に、愛梨が振り返った。 短くカットされた愛梨の髪がゆれ、夕焼けを背にした姿にかつて無いほどに光太の胸が大きく弾む。 なんでもないとどうにか呟いた光太は、まったく考えていなかった物語のラストをたった今決めた。 世界の案内人と、世界をめぐる少女の二人のラストを。
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