王都より山を三つ、谷を三つ、河を三つ越えた場所にあるフラン村。 たとえ一ヶ月前に異界より魔王が現れても、その村では澄みきった晴れ空が広がり、青々とした草花が咲き乱れている。 魔王が現れたのが本当は別の世界なのでは無いかと疑いたくなるような緩やかな時間のもと、とある一軒家の庭に子供たちが集まっていた。 子供たちが思い思いの場所で地面に座り込んで、興味津々の顔で見上げているのは、一人の青年であった。 田舎の青年にあるまじきほっそりとした外見の彼は、一冊の本を手に持ちながら言い聞かせるように読み上げた。 「今から五十年前、今と同じようにこの世に異界の魔王が現れました。性格は残忍で狡猾、人の苦痛を何よりも好んでいました」 子供たちが興味深く青年を見上げているのではなく、彼が話す言い伝えに興味があるようである。 おそらくはあまりにも有名な話のため、親から、祖父祖母から幾度となく聞いている内容であろう。 それでもなお、ほとんどの子供たちが青年の読み上げる本の内容に聞き入っていた。 「魔王が放つ異界の住人である魔人、魔王の放つ不可思議な波動によって凶暴になった動植物たちによって、人々は怯え生き延びる事に疲れ果てていきました。嘆くばかりの毎日に何時しか笑う事も忘れていた時、一人の勇敢な若者が現れました」 青年の滑らかな声に、子供たちは両手に汗を握って体をこわばらせていた。 先走った子が覚えていた内容を叫ぼうとするのを、青年は目で止めてから言った。 「後に勇者として語り継がれるその若者は、三つの強大な力をもって魔王を打ち破りこの世に平穏を取り戻してくれました」 青年が物語を簡単に締めると、子供たちの反応が真っ二つに別れた。 「せんせ〜、勇者様のお嫁さんが出てきてないよ?」 「魔王を倒せばいいじゃん。別にそんなのいらねえよ!」 「だからあんたはもてないのよ。ぶっ殺せだのなんだの、短絡的なんだから!」 「そんなこと言ってないだろ。なんだよブース、ブース!」 「なんですってッ!」 真っ二つに別れたのは男の子と女の子。 魔王を強力な力で倒せば良い派と、冒険の中にも男女のロマンスを求める派である。 結局は脱線してブスだの馬鹿だのと言った全く関係の無い言い合いになってしまうのが常であるが。 青年は特に矢面に立って言いあいをしている二人の間に割ってはいった。 「こらこら喧嘩をするんじゃない。勇者様のお話にも色々あるんだよ。武勇が中心の言い伝えもあれば、勇者を導いた女性とのロマンスもね」 そう言い聞かせながら青年は、本当に言いたかったことをまとめた。 「言い伝えの内容はともかくとして、今いる魔王もそのうち勇者様が倒してくださる。だから君たちも勇者様に立派な人になれるように、しっかりと家の人の手伝いをするんだよ」 いいねと確認すると、高らかな声が綺麗にそろって良い返事が返ってくる。 満足そうに青年が頷くと、真上の太陽を見てそろそろ時間だと確認してから子供たちを立たせた。 勉強の時間は朝から午前まで、子供たちはお昼ご飯を食べてから言ったとおり家の手伝いである。 ありがとうございましたと青年が頭を下げると、子供たちも同じように頭を下げてから一人、また一人と家路へとついていった。 「ユーシャせんせ〜、またね」 「はい、また明日」 とある子供が青年を名前つきで呼んだが、驚きもせずににっこりと笑って手を振り替えしていた。 ユーリ シャミスタ、それが子供たちから先生と呼ばれ親しまれている彼の名であり、頭文字をとってユーシャであった。 彼自身、誰がそのあだ名を言い出したのかも忘れてしまったが、フランの村中の人がユーリの事を親しみを込めてそう呼んでいた。 午前でユーリの授業は終わりであるが、彼自身にも昼からしなければならない事は当然ある。 お昼ごはんを食べる事もそのうちの一つであり、ユーリは何時もの通りフラン村に一つだけある商店街へと来ていた。 小さな村であっても商店街と来れば活気はあるものであり、新鮮な野菜や干した魚を威勢の良い店主たちが売っている。 ユーリはいつも適当に材料をみてからお昼ごはんを決めるので、ぶらぶらと商店街を歩くのも日課であった。 そして商店街を歩いていれば、当然のようにユーリはあだ名の方で声をかけられていた。 それだけフランの村の人たちがユーリを好んでいる証明でもある。 「ユーシャ先生、どうよ良いもの入ってるぜ。見てってくれよ」 「いつも子供たちの面倒を見ていてくれてありがとうね、ユーシャ先生。これ、もらっていってくんな」 「そんなこんなに僕一人じゃ食べ切れませんよ。それじゃあ、コレだけ」 おばさんからざるに山盛りに盛られた野菜たちを差し出され、苦笑しながらもユーリはその上から真っ赤なトマトを一つだけ貰っていった。 行儀悪くもそれに被りつきながら歩いていると、また一人ユーリに声をかけてくるおじさんがいた。 近くに海や湖のないフランには少ない魚屋の店主である。 「うちにも寄っていってくださいよ、ユーシャ先生。アンタが寄って行ってくれると売り上げも少し上がるんだよ」 「人をダシに使わないでくださいよ。そう言うからには、なにか良いものが」 「ゆ、勇者様ですか?!」 あるんですかと聞こうとしたところで、耳慣れない少女の声がユーリを止めた。 その声に振り向いたユーリが見たのは、純白と空色のコントラストの神官服を着た少女であった。 年の頃十六ぐらいで、その若さでは神官見習いといった所であろう。 もしかして呼び名で勘違いさせてしまったのかと誤解を解こうとした所、何故か魚屋の主人がユーリを押しのけてきた。 「そうそう、ユーシャ様ったらユーシャ様よ。お嬢ちゃんも運がいいな、だがここで会ったってのは秘密だぜ。人が押し寄せてきたら困るからよ!」 「ちょっとおじさん」 本当に魔王が現れたこのご時勢では冗談ですまない言葉である。 その証拠に少女の目がキラキラとおさえきれぬ期待を抱いており、文句を言おうとしたユーリをまたしても別の店主が押しのける。 「良い人だぜ、このユーシャ様は。村中の子供たちの面倒を一手に引き受けてくれて、文字の読み書きまで教えてくれる。そんなユーシャは他にはいないぜ!」 「おじッ!」 「おかげでアタシんとこの坊やが生意気に本まで読んでるんだ。と〜っても良いユーシャ様さ!」 次から次へと商店街の人たちが少女へとユーリの押し売りを始めてしまった。 何が目的なのか、それでも少女は期待を膨らませ続けているようだ。 その期待が膨らみに膨らみきったのを見計らって、商店街のおじさんおばさんが一斉にユーリを少女の方へと押し出した。 押し出されて躓いたユーリが、何を言っていいのか解らずとりあえずどうもと言うと、少女はガッシリとユーリの手を取って言った。 「よくわかりませんけど、勇者様なんですよね。勇者様、私とある場所まで行ってください。今すぐ、すぐにでも!」 「ちょっ、ひっぱらないで。どこへ、おじさんたちも止めてください!」 ズルズルとひっぱられて連れて行かれそうになり、ユーリは助けを求めるが、商店街の人たちは助けてはくれなさそうである。 しかも何を考えているのか、わけのわからない声援を送る始末であった。 「可愛い女の子からのご指名だ。男になってこいユーシャ先生ッ!」 「女に恥をかかすもんじゃないよ!」 「良い若いもんが、こうでもしないと女の子と一緒に歩きゃあしない。これで奥手なユーリ先生が落ち着けたらねぇ」 「でっかいお世話です。いいから、まずは誤解を解いてくださいよッ!」 ユーリの叫びもむなしく一切の助けは入らず、謎の少女はユーリを引っ張り続けてフランの村を出て行った。 地平線の向こうへとすっかりフラン村が見えなくなってしまった頃、ユーリはようやく引きづられるのをやめて自分の足で歩き出していた。 だがいまだに少女は逃がさないとばかりにユーリの手を強く握っていて、離してくれそうに無い。 完璧にユーリを勇者様と勘違いしており、どうすれば誤解が解けるのか。 なにより今のうちに説得しなければフラン村に戻るまでに夜になってしまうと、ユーリは遠くに消えたフランの方角を見て思った。 引っ張りに引っ張られて、いい加減しびれて感覚のなくなった腕に力を入れなおすと、ユーリは思い切って少女に声をかけた。 「あのですね、ちょっと聞いてくれますか?」 「あ、そうですよね。私の名前はトゥルマです。トゥルマ オールです。これからよろしくお願いしますね、勇者様」 「どうもご丁寧にこちらこそって、違います!」 にっこり笑顔で言われて普通の対応をしてしまったユーリだが、どうにか少女の手を振り払う事に成功する。 「僕は勇者なんかじゃないんですよ」 いきなり腕を振り払われた少女はしばしユーリの台詞を聞いてキョトンと、大きな瞳をさらに大きくさせていた。 だがそれではいそうですかと誤解が解けるほどトゥルマは甘くはなかった。 合点がいったようにはクスクスと笑い出して、欠片もユーリの言葉を理解しようとしない言葉を吐いてきた。 「もう勇者様ったら、そんな謙遜を。村の人たちも勇者様のことを褒めちぎってたじゃないですか。ちゃ〜んと、周りは見ていてくれるものですよ」 「だからその周りがそもそもの勘違いの原因を作ってるんです」 「本当に勇者様は謙遜が好きなんですねえ、尊敬しちゃいます」 「だ〜か〜ら〜ッ!」 まったくかみ合わない会話に困り果てたユーリの手を、再び握りなおしてトゥルマが歩き出した。 「はあ……それで、トゥルマさんは何処へ僕を連れて行くつもりなんですか?」 もうこうなったらトゥルマの気が済むまで付き合うしかないと、半ばユーリは諦めて尋ねた。 見慣れない少女ではあったが、連れて行かれるのは精々隣村程度の距離であろうと思っていたからだ。 それでも歩きでは三日以上かかるのだが、またしてもトゥルマはユーリの想像をはるかに超えていた。 「えっと私、王都の大聖堂に所属している神官見習いなんです。勇者様にはまず王都にある大聖堂に」 「ちょっと待ってください!」 ユーリが叫ぶのと同時に立ち止まったトゥルマは、ユーリの手を引きながら前を向いたまま止まった。 だがそこから振り向くわけでもなく、相槌をうつわけでもなく、本当にちょっと待っていた。 何処か寒々しい風が吹いて数秒、不安そうにトゥルマが振り向いてきた。 「いつまで待てばいいんでしょうか?」 「そこじゃないです。王都ってここからどれぐらいかかるかご存知ですか? 一ヶ月はかかるんですよ?!」 「知ってます。私一ヶ月かけてここまできましたから」 なにを当然のことをとあっけらかんと言い放ったトゥルマであるが、普通の少女の体力ではおいそれとたどり着けない距離である。 どうりで先ほどから抵抗しようにもトゥルマの力の前に無駄に終わったのを、ユーリは納得してしまっていた。 だがトゥルマが本気で勇者を探している事は解ったので、なおさら誤解を解かなければならない。 勘違いのままそこに連れて行かれてはユーリも困るし、トゥルマも絶対に困る事はずだからだ。 「聞いてください。間違いなく僕は勇者なんかじゃないんですよ。言い伝えにある三つの強大な力なんて持ってませんし」 「あ、それは全然問題ありません。それが普通ですし。さあ、王都目指してがんばりましょうね。勇者様」 あまりにも奇妙な切り替えしの言葉に、ユーリは言葉に詰まらされてしまう。 「どういう、ことでしょうか?」 「私には難しくてよく解らないんですけど、力のあるなしは関係ないそうなんです。でも、そう考えると素敵ですよね。誰にでも勇者になれるチャンスがあるんですから」 「それって、別に僕じゃなくても良いってことなんじゃ」 少女の言葉がどうにもあやふやで、本当に王都の大聖堂からやってきたのかユーリは疑いだしていた。 このままついていって本当に大丈夫なのかと考えている間に、またしても腕を取られ引っ張られ始めてしまう。 そこへ幸運なのか不幸なことなのか、二人の前をさえぎるように立ちふさがる男が近くの草むらから姿を現した。 「おっふたりさん、さっきから楽しそうじゃないの。できれば慈善事業でそのお楽しみを俺らにも分けてくれねえか?」 「いえ、決して楽しくはないんですけど」 それこそとんでもない誤解だと否定した相手を見て、ユーリの顔が青ざめていく。 薄汚れた衣服はすでにボロ布と呼べそうであり、さらに男は抜き身の剣をぷらぷらと引っさげている。 間違いなくそういった人種なのだろう、明らかに幸運ではなく不幸の方であった。 「と、盗賊? そんなのが出るなんて話、少しも聞いた事ないのに……」 「そうですねえ。たぶん魔人とか凶悪な動植物に縄張りを奪われて田舎に逃げてきたんだと思いますよ。魔王が現れると社会の底辺だろうが、頂点だろうが困るんですよね。これは急がないといけませんよ、勇者様」 トゥルマの台詞に、最初に現れた男の後から集まりだしていた盗賊たちの目が点になっていた。 そしてすぐに顔を真っ赤にしてわななきだしたのは図星だからだろう。 「良い度胸をしてんじゃねえか、お嬢ちゃん?」 「そんな私より勇者様のほうがよっぽど度胸がありますよ。だって勇者って名乗ってるぐらいですから。勇者様このさい人間以下、魔人以下のこの人たちをズバッとやっちゃってください!」 「あおるだけ、あおっておいて僕がですか?!」 「ほぉ、俺らの精神的苦痛はそっちの兄ちゃんが払ってくれるってか?」 すでに盗賊たちの目は子羊から毛を刈り取るだけではなく、憂さを晴らすために肉ごと狩って行く目つきである。 ただでさえすさんだ目つきがより危険な目つきへと変貌しており、ユーリは後ずさろうとするが、いつの間にか背後にまわったトゥルマが許してはくれなかった。 ユーリの背後をグイグイと、無責任さ百パーセントで後押ししてくる。 「勇者様、ここまできて謙遜は無しですよ!」 「わ、わッ! 押さないでくださいよ、あの人たち顔が怖いんですよ!」 前は盗賊たちに囲まれ、後ろはトゥルマにがっちりと固められユーリに逃げ場所はなかった。 唯一あるとすれば何者も邪魔するものの無い空であるが、あいにくユーリには空を飛べるような翼は無い。 翼は無いがそれでもと気持ちだけは大空を舞った気持ちで見上げていると、ユーリの視界に黒い何かが映った。 最初はそれがなにかわからず、死神が前倒しで迎えにでもきたのかと思ったが、そうではなかった。 高速で近づいてくるそれは豆粒ほどの大きさから徐々に大きくなっていき、人に似た形であると知覚できる頃には、大きな牙を持った口を開けた。 「なんだアレは、デカイぞッ?!」 ようやくユーリ以外の者も気づいたが、同時に真っ黒な巨躯もったそれが紫色の燃え盛る火球を放ってきた。 だが自身の速過ぎるスピードからか目測を誤ったらしき火球は、ユーリたちが居る場所を舐めるようにかすめていき、離れた場所に着弾した。 弾けた火球はそのまま空をも焦がすほどの火柱を生み出し、耐え難い熱風が草花を焼き尽くしさらに火の手を伸ばしていた。 その光景に満足したのか、それともはずしてしまった事が悔しかったのか。 大空を舞うコウモリのような翼を持った巨人は耳をつんざく奇声をあたりに響かせた。 「まさか、アレが」 「魔人で間違いないです。本で見たのとそっくりですから。さあ勇者様、記念すべき魔人との初対戦ですよ。がんばってください!」 「無理、無理、無理、無理ッ!」 この期に及んで人を前線に押し出そうとするトゥルマに恐怖を抱きつつ、ユーリは心の悲鳴がそのまま口をついて出ていた。 ゆっくりと滑空しながら降り立った魔人は身の丈三メートルを超え、口からは鈍く光る杭のような歯がはみ出し、深い闇色の瞳が覗き込んでくる。 何処の誰がそんな魔人を見て戦意を失わずに居られるだろうか。 まわりの盗賊たちでさえ戦意を喪失してへたり込む者、無駄だと思いつつも震える手で武器を掲げる者、我先にと逃げ出す者さえ居た。 それらの行為の中で、逃げ出すと言う行為が一番魔人を刺激したようだ。 大きな体からは信じられないほどに素早い動きで、いの一番に逃げ出した盗賊の前へと魔人は回り込み、大きな手の先についている爪で盗賊の体を容易く切り裂いた。 それを切欠として盗賊たちは一斉にバラバラの方向へと叫びながら逃げ出した。 「僕らも逃げましょう、トゥルマさん!」 「どうしてですか、人に迷惑をかけることしか知らない人とはいえ、人が殺されたんですよ。ここで勇者様が逃げてどうするんですか!」 怖いぐらいに人として当然の事を言ってくるトゥルマの瞳に気おされながらも、ユーリは心の中でそれを否定した。 自分は勇者ではないのだ、だから今は逃げなければならないのだと。 だからせめてトゥルマと自分の両方が逃げる事のできる嘘を考え吐き出した。 「わかりました。奴は僕が引き受けますから、トゥルマさんだけでも逃げてください。僕は勇者じゃありませんけど、できるだけ足止めしてみます。いいですね、必ず逃げてください!」 「でも、私は勇者様に」 「いいから、走ってッ!」 有無を言わさない剣幕でまくし立てると、トゥルマの背中を思いっきり押して走らせた。 振り返ろうものなら、今までの人生で叫んだ事の無いぐらいの怒声を浴びせて魔人から遠ざかるように走らせる。 いまだ魔人の目標は逃げ惑う盗賊たちに向いているようで、その間にユーリも魔人から遠ざかるようにトゥルマとは間逆に走り始めた。 どんなに悲鳴が聞こえようと、断末魔の叫びが背中越しに聞こえてきても迷いなく走り逃げる。 何故魔人が唐突に現れたのか、偶然か、狙いがあったのか。 そんなこと命の灯火が途切れそうな現実の前には何の意味もなく、普段使わない筋肉が悲鳴を上げ、胸が張り裂けそうなほどに鼓動を打っても走った。 もう駄目だと何度も思っても足を動かし、気がつけば悲鳴は遠い場所に置き去りにしてきていた。 「どうせ盗賊なんだ、仕方ないじゃないか」 囮にしたという事実を忘れるために自分に言い聞かせるが、言い聞かせても忘れられない人が居た。 上手く逃げられただろうかと、あれだけ大きかった魔人が豆粒ほどに見える方向を見た。 「走れって言ったし、僕のせいじゃない。大丈夫だ、大丈夫」 言葉ではいくら言い聞かせようと、足がそれ以上逃げようとはしてくれなかった。 一ヶ月もかけて王都からここまで歩いてくるような少女であったが、要領の良い少女とは到底言えそうにもなかった。 一人にして逃げられただろうか、まさか魔人に追いかけられては居ないだろうかと段々と心配になってくる。 「くそ、僕は勇者様じゃないんだぞッ!」 振り切るように叫びながらも、ユーリの足は魔人がいた場所へと戻り始めていた。 こそこそと気配を消したつもりになってユーリが元の場所に戻って草むらの中に伏せていると、すでに盗賊は誰一人として生きているものは見当たらなかった。 それでも魔人は執拗に盗賊たちの死体をあさるように大きな爪で引き裂き、何かを探しているようであった。 何を探しているのかは解らないが、血と死体にまみれた付近にトゥルマらしき人影と、彼女の衣服らしき破片も見当たらない。 自分の思い過ごしである事に安堵したのはいいが、今頃冷静になってみれば、酷く自分が危うい事をしている事に気づく。 もはやあたりに生存しているのはユーリたった一人だけなのである。 (まずい、どうやって逃げよう) ほふく前進で素早く逃げるなんて無理であるし、立ち上がれば即座に見つかる事請け合いである。 第三の選択としてこのまま隠れてやり過ごすのも手だが、何時までも見つからずに隠れ続けていられる保証も無い。 どれだ、どれが正解だと冷や汗を流しながら考え込むユーリの耳に、聞こえてはいけない声が届いた。 「勇者様、どこですか!」 戦っているであろうユーリを探すトゥルマの声である。 何故このタイミングでと思う間もなく、ユーリは立ち上がって叫ぼうとしたが、魔人の方がはるかに速かった。 ユーリが名前を呼ぶ前に魔人はトゥルマの背後に回りこみ、逃げてと叫ぶ前にその大きな爪のついた腕を振り上げていた。 そしてトゥルマの小さな体が切り裂かれた時に、ようやくユーリは走り出していた。 「トゥルマさん、どうして。どうして戻ってきたんですか!」 重さを感じさせない小さな人形のように吹き飛んだトゥルマへと駆け寄る。 「……ゃさま」 抱きかかえたトゥルマの体から大量の血が流れ出ていく。 見ているほうが貧血を起こしそうな失血に、どんどんトゥルマの顔色が血の気を失っていった。 「あのまま逃げてればよかったのに」 「これ……わたさ、ないと」 力なく震える手でトゥルマがユーリの左手にはめだしたのは、三つの指輪であった。 青と赤と黄色の不思議な輝きを放つ指輪は、震えるトゥルマの手によって、ユーリの左手の人差し指、中指、薬指と順にはめられた。 三つ目の指輪をはめて満足したのか、力なく垂れ落ちそうになった手をユーリが握り締める。 「ゆ……ゃ、かって」 途切れ途切れの言葉は文章になってはいなかったが、しっかりとユーリの胸には届いていた。 一日にも満たない間であるが、トゥルマが自分に望む事など解りきっている。 勇者として、ユーリに戦って欲しいのだ。 トゥルマを切り裂いた魔人が、二人の頭上で雄たけびを上げる。 探し物を見つけたような歓喜の声に心を乱されユーリは強くトゥルマの体を抱え込んだ。 「守りたい」 魔人の腕が振り上げられるのは空気を切り裂く音で知れたが、逃げ出すよりもユーリは強く願っていた。 勇者だとか、勇者じゃないとかに拘らずに、胸に膨れ上がる思いがユーリの口からこぼれていた。 「この人を、守りたいッ!」 勇者じゃなくても、力がなくても、何もできなくても、守りたい。 ただただ願いを込めて、ユーリがトゥルマを抱きしめると左手の一指し指にはめられた青色の指輪が輝き始めた。 魔人の腕が振り下ろされた刹那、魔人が振り下ろしたはずの腕を抱えて痛みを訴えて叫び声を挙げた。 何が起こったのかと呆然とするユーリの頭上では、薄く青い光が半円球となって二人を包み込んでいる。 振り下ろした腕の痛みに耐えた魔人が再度腕を振り下ろすが、青い光に弾かれ尚且つ接触した手を焼い焦がされていた。 「指輪が光って。三つの指輪…………三つの力。勇者様の力?」 左手に収められた指輪を見ながら唐突に口から出た言葉は、ユーリを十分すぎるほどに納得させてくれた。 ただ何もできなかった現状に、トゥルマから受け取った指輪に現実逃避をしただけかもしれない。 だがもしも本当にそんな力があるのならと、ユーリは願う。 「トゥルマさんを、トゥルマさんの怪我を治してください。彼女は何も悪くないんです! お願いします、彼女を癒してください!」 答えたのは薬指にはまった黄色の指輪であった。 指輪の光がトゥルマを包みだし、大量に流れていた血はやがてその流れをせきとめ、トゥルマの顔に血の気が戻りだした。 消えてしまいそうな呼吸音も大きくなり、まだ目を覚ます様子は無い。 それでもこれで一安心と思いきや、ガラスにヒビが入るような甲高い音が耳に響いてきた。 ハッと頭上を見上げてみれば二人を包み込む結界のようなものにヒビが入っていた。 おそらく魔人が諦めずに何度も拳を叩きつけていたのだろう、今度こそと魔人がひび割れたそれに向けて腕を振り上げる。 青い光が最後の抵抗をみせたおかげで直撃こそしなかったが、真横に落ちた魔人の腕の衝撃で二人は軽々と吹き飛ばされた。 「くっ、トゥルマさん!」 吹き飛ばされながらもユーリは、意識を失ったままのトゥルマをかばってしたたかに地面に体を打ちつけた。 それでも自分よりも彼女を優先させて、怪我が開いていないか、新しく怪我をしなかったかを心配する。 少々苦痛に顔をゆがめているものの正常な呼吸音にほっとしてすぐに、ユーリは彼女を少し離れた場所に避難させた。 できればもう一度あの青い光で守ってやりたかったが、黄色の指輪と同じようにその輝きが弱まっていた。 どうやら何度も連続して使えないらしく、ユーリに残されたのは中指にはめられた赤い指輪一つ。 こちらへと向けてゆっくりと歩いてくる魔人を前に、ユーリは最後の願いを呟いた。 「力が欲しい。僕は勇者じゃないけれど、力が欲しい。勘違いだけど、頼ってくれた人がいるんだ。今だけでも良い……」 魔人が咆哮をあげながら、ユーリへと走り出した。 あれほど恐怖した魔人が向かってくるにも関わらず、ユーリは指輪へと意識を集中しながら叫んだ。 「勇者としての力が欲しい!」 赤い指輪がユーリの願いに応えて輝きだすと、ズッシリと重みのある一本の剣が左手の中に現れた。 指輪と同じ炎を思わせるような赤い柄を持った、儀礼用にも思えるような美しい剣である。 魔人が腕を振り上げるのにあわせるようにユーリも初めて持った剣を両手で握り締めた。 打ち下ろされる拳と切り上げられる剣。 お互いがぶつかり合った瞬間には、全ての決着がついていた。 トゥルマが意識を取り戻した時には、すでに辺りは闇のヴェールが降りきっていた。 クラクラとする頭を片手で支えていると、燃え上がる焚き火の前にユーリが座っていた事に気づく。 薄暗いのと、焚き火が作り出す影でユーリの顔は良く見えなかった。 「大丈夫ですか? 本当はもっとちゃんとした場所で寝かせてあげたかったんですけど、村までトゥルマさんを抱えて戻る自信がなくて」 「勇者様……えっと、魔人は」 「なんとか倒しましたよ。暗くて見えないですけれど、すぐそばに死骸があります。もっとも見ないほうが良いですけどね」 「さすが勇者様ですね。魔人を倒しちゃうなんて。明日からがんばって一緒に王都を目指しましょうね」 興奮した様子のトゥルマに対して、落ち着き払った様子のユーリは火が耐えないように薪を追加しだした。 さすがにユーリの落ち着きが普通のもので無いのに気づいたトゥルマが気まずそうに黙り込んでしまう。 それを待っていたわけではないのだろうが、ユーリはトゥルマを薪の近くに招き寄せてから言った。 「トゥルマさん、昼間から何度も言いましたけれど、僕は勇者じゃありません。僕の名前はユーリ シャミスタ。頭文字をとってユーシャって呼ばれてるんです」 「え……で、でも魔人を」 「この指輪の力のおかげでです。何度も言いますが、僕は勇者なんかじゃありません」 ユーリが何を強調しているのか、ここまで言われればっすがのトゥルマにだって解る。 言葉にこそ出さないが、折角見つけたのにという思いが瞳から涙となってあふれ出しそうであった。 「それでも」 だがユーリの言葉はそこで終わりではなかった。 「僕が勇者じゃなくて、ユーリ シャミスタでいいのなら王都の大聖堂に連れて行ってください」 「ほ、本当ですか?」 「ええ、ユーリ シャミスタでいいのなら」 「もちろん、全然かまいません。だって一度指輪をはめたら死ぬまで外れませんから!」 「………………え?」 聞き捨てなら無い言葉に、ユーリが固まる。 「トゥルマさん、今の話は一体」 「えっと、難しくてよくわからないんですけどその指輪って死ぬか魔王を倒すまで外れないんです。しかも魔人を呼び寄せる効果もありますし」 「それじゃあ、あの魔人って」 「そうなんです。でもこの指輪の話って王都付近じゃ有名なんです。おかげで恒例行事として田舎の方へと私が派遣されたんです。先代も、先々代の人にも私に良く似た人が派遣されたみたいですね」 「トゥルマさんに似た」 それは容姿の話ではなく、明らかに性格のほうであろう。 人の話をほとんど聞かずにマイペースで、なによりも一度関わったら心配で放ってはおけない。 男の保護欲と言うものをかき立てるような女性。 先代も、先々代の勇者もユーリのように、派遣された女性の安否を気遣いなりゆきで指輪をはめてしまったのだろうか。 そして後は指輪に力を与えられる代わりに、魔王を倒すまで魔人をおびき寄せる呪いつき。 「思ったよりも勇者様って大変なんですね」 「そうかもしれません。でも一緒にがんばりましょう、ユーリさん」 肯定の言葉と共ににっこりとトゥルマに微笑まれたユーリは、ようやくお互いがかみ合ったような気がした。 同時に目の前の少女の微笑みに、照れくささとは違う暖かい気持ちが芽生えはじめ、とある事を思い出した。 それはかつての勇者と、勇者を導いた少女。 二人の結末を、思い出していた。
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