The Moon Labyrinth

第二十二話 曇りガラス


分厚く暗い雲が大空を呑み込み、ボロボロと大粒の雨をこぼしていた。
叩き割るかのごとくぶつけられる雨粒に窓ガラスが悲鳴を上げるように揺れていた。
その窓ガラスの内側が、ふっっと曇った。
足を折ってしまい身動きのとれぬリトが、口元を窓ガラスに近づけ息を吹きかけたのだ。
窓ガラスに生まれた曇りの上を、リトの細い指がなぞる。

「センセー」

と書いている途中でリトは指を止めた。
溜息、その後起こしていた上半身をベッドに受け止めさせた。

「…………」

沈黙して潤んだ瞳が何を思っているのか。
目に映るのが天井であっても、見つめているのは誰なのか。
そのまま瞳は閉じられてしまい、誰にも読み取る事は出来なくなってしまった。
その数分後、ゆっくりと部屋のドアが開かれアルマが顔を覗かせた。

「リトちゃん、寝ちゃった? 痛くて寝られないのなら痛み止めぐらい……寝ちゃってたか」

忍び込むように僅かにあけたドアから体を滑り込ませるように部屋へと入っていく。
手に持ったランプと曇り空から届く僅かな光だけが部屋の中を照らし、部屋の主をベッドの上で見つける。
右足は厳重に固定され、天井から吊り下げられている。
そのわりにはあまり寝苦しくなさそうねと顔を覗き込むと、その瞳にキラリと光る涙が見えた。

「リトちゃん、泣いてたの?」

「うぅ……」

寝ているはずのリトがかなりタイミングよく呻き、ドキリとさせられる。

「でも、なんで」

理由がわからずに何気なく降りしきる雨を眺めると、違和感。
窓ガラスの内側が少しだけ曇っており、消えかけではあったが文字が見えたのだ。
なんだろうと眼を凝らすと、「セン」のあとは消えていたが、言葉を伸ばす意味の「ー」ガ見えた。

「なんだろう。セン……ター? セントー…………セン、セー? センセー?!」

もうそれしかないと決め付け、かつ慌てるアルマ。
叫びださなかった事だけは褒められるべき事か、それでもどうしましょうどうしましょうと慌てる。

「そんなリトちゃんが兄さんを? だって兄さんにはメリルさんが。でもなんで急に……骨折? 骨折した時に何かあったのね?」

再度そう決め付けると、アルマはそろりと部屋を抜け出し、どたばたと階段を下りていった。
運が良いのか悪いのか、その音でリトが目覚める事はなかった。





「兄さん、兄さん! なにがあったの、なにしちゃったの?!」

さすがにいきなり暴露することはなかったが、その言動と行動が怪しいことには変わりがなかった。
わたわたと両手を振り回し、主語のない問答を繰返す。
バートはそんな不審な妹をけだるそうに見てから、手元のお茶をすすった。

「何の話だ?」

「いいから、昨日月の迷宮でなにがあったの? 絶対に何かあったんだから。誤魔化されないわよ」

「なんだその無意味に自信のある言葉は」

「いいから全部話して!」

両耳を塞ぎたくなるほどに間近で叫ばれ、心底迷惑そうにバートは昨日の事を思い出していった。

「まず月の迷宮に入って三階にいった」

「うんうん、そういう何気ない日常からふいに非日常へとかわっていくのね。何気ない言葉だからこそ、色々かきたてられるわ」

アルマは一応落ち着いたのか、バートの前、テーブルに座り近くにあったポットに手を伸ばしお茶を入れる。
一体何が聞きたいのか、なにをそんなサーカスが来たことを知った子供のような目をしているのか。
不審気な目を惜しげもなく注いでから、バートは続けた。

「……それで三階は余裕だから四階へ行きたいとリトが言い出して、俺は止めておけといったんだが」

「きっかけは、さりげない優しさよね。私はそうでもないけど」

何と比較しているのだろうと、聞こうかどうしようか一瞬だけ迷い、バートは続けた。

「だがあまりにも自信満々を持ちすぎたリトが心配になってな、逆に四階につれていくことにした。一度痛い目をみれば、次はよほどの事が無い限り最新の注意を払うだろうと」

「そろそろ急展開が欲しい所ね。中だるみしそう」

「……、それで四階につれていってまずはスライム一匹倒した。そして次に現れた荒くれうさぎと憤り大工さんに戦いを挑んだ」

「戦いの中で生まれたのね? これ以上は私も大人しく待てないわ」

話がかみ合う以前の気がするが、バートはすでに諦めようとしていた。

「一度は炎の矢をかわされ、危うく殴られる所を回避。再度対決しようとした所で、スライムを踏みつけバランスを崩して、それで憤り大工さんに足を折られた」

「それで?!」

「足が折れて泣いているリトを背負って返ってきた」

「………………ある意味落ちは?! 愛に堕落した天使はどこいっちゃったの?! アィタッ!」

少し暴走気味にテーブルに両手をついて身を乗り出してきたアルマに、ストッパーの意味をこめてバートは叩いた。
もちろん軽くではあるが、普段そんなことをされたことが無いアルマは大げさに目に涙を浮かべていた。

「なにするのよ、兄さん」

「それはこっちの台詞だ。お前微妙にリトの意味不明な言葉遣いがうつってるぞ。それに一体何を聞きたかったんだ?」

「だって」

「だってじゃない。落ち着け、そしてちゃんと話せ」

「いえ、その必要はありませんわ。私にはアルマさんの意図が全て伝わりました」

突然同じテーブル、バートの横から上がった声にアルマとバートは椅子を鳴らしてあとずさった。
一体いつから、そして何故ここにいるのか、そんな意味をこめてメリルを指差した。
そんな兄妹に人を指差してはいけませんよとやんわりといい、バートが飲んでいたはずのお茶をすする。

「少しバート様に用がありまして雨の中寄らせていただきました。一応ノックはしたのですが、返事がなく、それでも話し声だけは聞こえてまいりましたので、失礼ながらあがらせていただいたしだいです」

「そんな私どころか、兄さんに気付かれることなくどうやって」

「問題はそんなことではありません。一度は危惧し、問題外と思っていたリトさんが」

「うっ、それは……」

一体なんなんだろうと一人話が見えないバートは、メリルにお茶をとられたため、また新たに二つお茶を入れた。
一つを持って立ち上がると、玄関のドアを開け、そこで一人立ちつくす執事のおじいさんにすすめる。

「あんたも大変だな」

「いえ、執事が主人のあいびきの現場に居合わせるわけにもいきますまい。主人の居ぬ間に馬車の中に入るなどもってのほか。当たり前の事をしているだけでございます」

「そうしたいのなら中に入れとは言わんが、温かい茶ぐらい飲め。風邪ひくぞ」

「ありがとうございます。旦那様」

「旦那様はさすがによせ。まだ早い」

「はっは、ではいずれということでございますな」

男同士妙なわかりあいをおこなっている後ろでは、メリルとアルマの話が微妙にすすんでいた。
後退かもしれないが。

「やはりここは百パーセント敵になる前に排除が妥当かと。できればこれを機にアルマさんも素敵な殿方を、貴族、商人、それなりの家柄の人であればいくらでも紹介いたしますが」

「私はまだいいですよ。それよりライバルが居た方が進展は早そうですよ」

「そのような存在は必要ありませんわ。やはりここは排除の方向で」

「何でそこで包丁を持ち出すんですか?! この世からまで排除しなくても!」

台所からではなく、懐から包丁を持ち出したメリルを必死にアルマが羽交い絞めで止める。
バートはそんなメリルを身ながら、そういや割と過激な性格だったんだよなと今さら思い出していた。
だが、さすがに包丁は危ないと、暴れるメリルからそっととりあげた。

「とりあえず、微妙ながらに話が見えてきた。が、勘違いだ。キッパリと」

「でも、私見たんだもん。リトちゃんがベッドの横の窓ガラスに兄さんの呼名を書いてたのを」

「それがそもそも勘違いだろう。名前を書いたからってなんで好きにと同義なんだ? どうせアイツのことだ、センセー死ねとか書いてて、途中でやめたとかだろ」

「「なるほど」」

「納得してくれたのは嬉しいが、なんでだ……微妙に悲しいぞ俺は」

いじけてやろうかと背中で泣いて見せるが、メリルもアルマもバートを無視していた。

「そうよね。涙目だったのだって、骨折してるんだもん。痛みで涙目にもなるよね」

「ああ、そういえば当初の予定はそのお見舞いでしたわ。突然の障害発生かと慌てて忘れていましたわ」

ポンっとメリルが両手を合わせると、執事の爺さんがすっと果物の包みをバートに差し出した。
中に入っているものはたいした事はないが、普段なら決して買わぬ値段のする籠に果物を押し込めたあれである。

「アルマ、あとでリトに食わせてやれ」

「あ、うん」

執事から受け取った籠を、更にアルマに渡そうとすると声が、絶叫が聞こえた。

「センセーなんて、センセーなんて、死んじゃえ!!」

寝言であろう、間違いなく。
その後めっきり静かになった二階と、一階。
あいかわらず雨音だけは過剰なほどに鳴り響いていた。
バートは無言で籠をアルマに渡すことなくテーブルにおいて、一枚のメモをその下にはさんだ。
喰ったら殺すと書いてある。

「アルマ、虫かごと虫網をもってこい。少し出かけてくる」

「あは……こんな雨の日は川が増水してて危ないんじゃないかなぁ?」

「心配はご無用ですぞ。旦那様のご希望の品を安全かつ、速やかに入手できる場所を教えて差し上げましょう。なあに、私の子供の頃の穴場でございます。たまには童心に返るのも悪くはありません」

「爺? 私には何を言っているのか解りませんが」

困惑する二人を置いて、バートと執事は虫かごと虫網を持ち、雨の中を出て行った。
リトの嫌いなモノ、スライムにカエルに、魔王の側近が降臨したバート。
そのうちのカエルとスライムをとりにいったのだろう。
アルマは容易に想像のついたその行為を思い、ため息をついた。

「そんな事するから嫌われるのに」

「爺! 私を置いて何処へ行くのですか? 爺?!」

雨降りしきるバートの家に、骨折して寝込むリトと、ため息をつくアルマ。
そして困惑するメリルだけが残された。
バートが戻ってくる三時間後まで、残されていた。