The Moon Labyrinth

第二十話 没頭


この月の迷宮の最下層が一体何階なのか、まともに数えられた事など一度もなかった。
数える事が出来ないほど必死であったわけではない。
単純に数えるのが面倒で、さらに今自分が居る階の感覚が狂ってくるからだ。
怪我は殆ど無い。
世界の一部がバートを護っているからである。
もっとも、バートが大切だからではなく、己のためにであるが。

「ふん!」

剣を思い切り振りぬくと、二本足で立ち上がっていた大きな生物の喉もとから大量の血飛沫が舞った。
表皮は何かの液体でぬめっていぬかのようにテラテラと光っており、全体的に筋肉の凹凸が激しい。
顔はあることにはあるが、人とは程遠く黒い面の皮、その両面の即頭部から二本の角が伸びていた。
人間が天使と悪魔、そう大別するようになった基の生物である。

喉もとを斬られながらも悪魔のもととなった魔物の腕は、バートを切り裂こうと動いており、返す刀で両腕を切り飛ばされた。
最後の止めに、断末魔を上げる暇も与えず心臓を突き貫く。
貫いた剣は細身であるにもかかわらず、魔物の贓物が背中側から盛大にぶちまけられた。

「少し、手間取ったか」

剣から血を振り払い鞘に戻すバートだが、息はそんなに乱れていなかった。
返り血を気持ち悪そうにぬぐっている以外には、それほど普段と見分けがつかない。

バートが目指しているのは最下層であった。
まだリトには教えていない方法で三百階まで下りてきたものの、そこから何階下りたかすでに忘れていた。
最下層、そこに居るべき者に月に一度は会わなければならず、バートは階段を探している。
辺りを見渡している間にも、血の匂いを感じ取ったのか別の魔物が姿を見せた。
体つきは本物に劣るものの三メートルはある、ミニマムドラゴンである。

「次から次へと……暇な奴らだな。巣にでも帰って読書でもしていれば死なずにすんだものを」

ミニマムドラゴンはドラゴンではない。
言うなれば少し大きく成長しすぎたトカゲだが、鱗の硬さや体力は本物に見劣りしない。

面倒くさそうに鞘から剣を解き放つと、バートの剣の刃に風が絡みつくようにして竜巻が形成されていく。
ミニマムドラゴンが吠えた。
風の力を感じたのか、ドスドスと巨体には似合わないスピードでバートへと向かってくる。
その鼻っ面にバートが風をまとった剣をたたきつけると、まず絡みついた竜巻がミニマムドラゴンの表皮を削った。
叫び声が上がる。
絡みついた風が肉ごと表皮を削りとに、次いで刀身がめり込んだ。

「弾けろ」

バートの短い命令の通り、最後に竜巻がはじけとんだ。
深くめり込んだ刀身から開放された風が、膨張させるようにミニマムドラゴンの体を膨らませ、弾けさせた。
バラバラと細切れになった肉片が飛び散っていく。

「ふう……一体あと何階下りればいいんだ? もうあと二、三階だとは思うんだが」

バートの呟きに答えるように、そよ風がふいた。
血の匂いを拡散し、新たな敵を呼ぶような気がしないでもなかったが、バートが苦笑いした。

「まだ五階あるのか。まったく、いい加減止めたくなってくるな。こんな生活」

少々本気で呟くと、怒ったように突風が吹いた。

「解っている。怒るな、冗談だ」

風そのものが会話相手のように謝罪を行うと、再びバートは歩き出した。
月に一度、それは月の迷宮が内部を変化させる契機。
そこには、世界と月の迷宮の密接な関係があった。
その理由のために、バートは今、最下層を目指していた。





最下層、結局数えていたのは三百二十程度までで、そこからは余裕がなかった。
感で言えば三百五十ほどか、バートは一つの大きな扉の前で立ち止まると、その扉が開くのを待った。
数秒と立たずに開き始めた扉、その置くには鳥のようなものがいた。
全長は、二十メートル、それ以上あり、翼の色は赤から青と薄暗い中にも微妙な光加減で対照的な色にまで変化した。
首は長く、その先にたてがみを持った顔があった。

「久しぶりだな。良くぞたどり着いた、我が僕よ」

紡がれた声は、人とあまり変わらない声であった。
体の割には大きすぎることもなく、まるでベンチのすぐ隣で喋りかけてくるような声の大きさであった。

「ああ、本当に毎度毎度よく来てやっていると自分でも感心する。だいたい月に一回ってのが、間隔的に短いんだよ。でかい図体して細かい奴だな」

「汝こそ小さいなりのくせに、態度のでかい奴だ。退屈なのだよ、我々は。我々は生きてさえ居れば、生理現象として役目を知らぬうちにでも果たしてしまう。人のように必死にならずとも役目を知り、果たせるのだ。それゆえ退屈なのだ」

「ふん、ならば人にでもなればいいだろう。可能だろう? あんた達にとっては」

「だが、我々のうち一人でもソレをすれば、世界は死ぬだろう。それでは意味がない。だから最低限の娯楽として、人間が必要だ」

何度もその言葉のやり取りを行ってきたのか、最後の方は殆ど棒読み状態であった。
バートも目の前の巨大な鳥も面倒そうに、言葉だけを並べ立てているだけである。

「まあ、ココに来る見返りはでかい。さっさと俺の頭の中を読めよ。後で租借するようにいくらでも楽しめばいい。欠片でも死ぬ可能性のあるここは嫌なんだよ」

「我の力の一部を使える汝が死を恐れるか?」

「人間ってのは弱いんだよ。どんな豪傑でも変なもん食えば下痢、死んだりするし。風邪をこじらせたって死ぬ。いいから早くしろよ」

のんびりとしたやり取りにバートがいらつき始めるが、目の前の巨大な鳥に手を出すような事はしない。
相手から借りた力で、相手を殺すことなどできないからだ。
もっとも殴ろうとは思っても、殺そうとは欠片も思っていないが。

「そうせかすな。月に一度の楽しみなのだ。汝の記憶は後で思い出すよりも、覗く時が一番面白いのだ」

「お前……帰るぞ」

最大の攻撃である言葉を放つと、さすがに巨鳥が両翼を勢いよく開いた。

「わかった、わかった。汝は気が短くていかん。ゆとりを持つ事をすすめるぞ」

「妹がさっさと結婚すりゃいくらでもゆとりを持ってやる。くそ、男の影も形もみあたらんとはなさけない」

「汝がそれを言うか?」

「俺にはちゃんとメリルがいるだろうが」

「まあ、気が付いていないのであれば何もいわんが」

バートが巨鳥に歩み寄ると、広げられた両翼が徐々にバートを包み込むように丸められた。
そのまま数分、バートは翼に包まれたまま過去を、先月ここを訪れてから以降の一ヶ月を思い出していた。
リトへの無意味に近い特訓。
メリルとの逢瀬。
アルマとのなんでもない会話。
まるで神がつけた自分の日記のように、言葉一つ間違わずそれらをみていた。
さらにそれをバートを包み込んだ巨鳥が見ていた。
そして、確かに微笑んだ。

「面白い、相変わらず面白いぞバート。お前の人生は、あの者以来と言ってよいほどに面白いぞ」

巨超はバートの記憶を引きずり出し、楽しんでいた。
それは二人の間で交わした約束。
以前メリルに話した月の迷宮で死に掛けた時、その時に交わした約束である。
一ヵ月分を引きずり出しきったのか、ゆっくりと巨長が翼を開いてバートを開放した。

「しかし、あのリトという弟子は弱すぎはしないか? もうすでにお前の所で二ヶ月以上たっているのであろう?」

「まあ、普通の奴ならとっくに卒業してはいるな。用がすんだのなら帰るぞ。次はまた一ヵ月後だ」

「少しぐらい話し相手になっても良いであろうが」

「野郎と薄暗い洞窟の中で何時間も話しこんでいたくない。帰るからな」

本気でそう思っているのか、振り向きもせずバートは入ってきた入り口から出て行った。
そして残された巨鳥が一人で呟く。

「我は一応雌なのだがな……ふむ、次は人間の格好で待っていてやるとするか」

ニヤリとなのだろうか、笑う。

「次の一ヵ月後が楽しみだ」





「お帰り、兄さん。どこ行ってたの?」

「ああ、ちょっとな。リトは?」

家にたどり着いたバートを待っていたのはアルマだけであり、リトの姿が見えない。
もっともリトに待っていて欲しいなどと、チリほども思ってはいないだろうが。

「リトちゃんなら、月の迷宮の二階に行ってくるって。少しずつ囲まれる匹数を増やしてかわす特訓するんだって」

「最近は前向きな奴だな」

「楽しくてしょうがないらしいよ。私としてもおかず代が浮いて助かるしね」

十五のくせに所帯じみた台詞を発した妹に、なにげなくバートは尋ねる。

「お前、彼氏とかいないのか?」

「なんか微妙に馬鹿にされてるような……じゃ〜ん、これな〜んだ」

アルマがエプロンのポケットから取り出したのは、三通の手紙。
やや長方形のソレは、ハート型のシールで封をされていたようで、一度中身を見たのか、切れ目が見えた。
どうみてもラブレターであろう。

「今日買い物してたら貰っちゃった。どう、凄いでしょ。まあ、これは多い方なんだけどさ」

「ふ〜ん」

バートは三通の差出人をみて、とりあえず一枚をゴミ箱に捨てた。

「ラウムのじじいのを持ってんな。すぐに捨てろ」

「兄さんが捨てると思ったから。それに、あんまりしつこければなんとかしてくれるだろうし」

続いて中身を見出したバートに、アルマは止めもしなかった。
受け取って嬉しい事に換わりは無いが、どうでもよくもあるらしい。

「こいつは字が汚いな。いくつか誤字もある。落第だ。次は……なんだ? ガキが書いたのか?」

「それね、5歳ぐらいの男の子なんだけど、お姉さんの事が大好きですだって。もう可愛くて可愛くて」

バートはその子供が書いたらしきラブレターだけを残し、もう一枚のほうは捨てた。
子供のラブレターをアルマに返して一言尋ねる。

「お前、彼氏作る気無いだろ?」

「うん」

バートはとりあえず頭痛がするようにこめかみを押さえた。