The Moon Labyrinth

第十四話 白紙


「ばあさんや……飯は、飯はまだかのぉ」

テーブルの反対側でプルプルと震えながら虚空を見つめる老人、ラウムを前にしてリトは深くため息をついた。
どう見てもボケた老人にしか見えず、そんな老人に教えを請いに来た自分が情けなくもあったのだ。
リトは今、幻術を習うためにラウムの家へと来ていた。

「おじいちゃん、さっさとやる気を出して幻系の魔術を教えてください」

「すまんのぉ、ばあさんや。ワシも寄る年波には勝てず、すぐに出せと言われても無理なんじゃ。今準備をするから待ってくれんか」

「って、なんでそこでズボンを脱ぎだすんですか!!」

「ズボンの上からは……気持ちが悪いぞ、ばあさんや」

「なんの話ですか〜の、撲殺!!」

「フゴッ」

叫びの言葉とは対照的に、ボコッと地味な音がラウムの頭と鉄の杖から発せられた。
息を荒くして血のついた鉄の杖を持つリトの目の前に、ズボンを半脱ぎで頭から血を流すラウムが倒れた。
リトは自分を落ち着かせるために二、三度深呼吸をする。

「スーハー……だいたいセンセーが魔術を使えないのが悪いんですよ。だからラウムおじいちゃんに教えてもらわなきゃいけなくなるんです。センセーには魔王の側近としての自覚が足らないんですよ!」

落ち着きもせず、怒りの矛先までもがズレ始めている。

「しかしのぉ、バートが魔術を使えるようになったらもう誰にも奴を止められんぞ、チンクシャ。あやつはアレで、世界の冒険者の十本の指にははいる」

「って、チンクシャは止めてください!!」

「十本の指は無視かチンクシャ! あぁ、そうかそうか……悪かった」

「解ってくれれば」

「確かチン垂れに昇格したんじゃったな」

「解ってな〜いの、炎矢ッ!!」

鉄の杖がほのかに赤みをおび、その先端に炎が生まれた。
段々と荒れ狂っていく炎を前に、今度はラウムが叫んだ。

「甘いわッチン垂れ、反鏡(はんきょう)!」

「きゃーッ、アチッチチチチチ」

ラウムの前に現れた透明な壁の前に、リトの炎矢が跳ね返された。
当然その炎は術者のリトへと向かい、容赦なく焦がした。

「全く、美女でもない分際でワシの事をぶちよって。お前みたいなチン垂れにぶたれてもゾクゾクせんわい」

「アチチチッ、変態が……へんたッチチ!!」

「変態ではない。あらゆる色事に前向きと表現せんか! その証拠にワシはムチと蝋燭で攻めるのもアリじゃ!」

「胸を張って言う事ですか!!」

ようやく炎が鎮火しだし、リトは体中から煙を吐き出しながら講義する。

「失敬な。張っているのは胸ではない……下半身じゃ」

ツーッとリトの視線がラウムの顔から降りていった。
胸へ、腹へ、腰へ……そして。

「ギャーーーッ!!」

「さすがにチン垂れ相手でも恥ずかしいものがあるのお」

脱ぎかけだったズボンがいつのまにか、落ちきっていた。

「うぐ……エグッ。汚されちゃったよぉ。センセー、いつの日にか目の前の悪魔をチョン斬って、塩漬けにして海に流してください」

「まったくこれぐらいで……今仕舞うから待っておれ。これでは話がすすまんではないか」

「なんで事の発端のおじいちゃんが偉そうなんですか?! なんでですか?!」

非常に納得いかないものの、リトはラウムに背を向けてズボンを履くのを待つ。
ラウムに会いにきてろくな事にしかならないが、リトの目的を果たすにはラウムに会うしかないのだ。
リトはこの村に他の魔術師がいない事を激しく呪った。

「それで、今日は何を教えてもらいにきたんじゃ?」

「もうなんでもいいんで、幻系の魔術を教えてください。できれば、敵をかく乱するタイプのを」

「かく乱か、バートにでも入れ知恵されたか。まあ、教えても良いが条件がある」

「解ってますよ。後でデートでも何でもすればいいんでしょ」

ふんっと鼻から勢い良く息を出しながら嫌そうに言うリトだが、少し意外な答えが返ってくる。

「毎日牛乳をリッター単位で飲め。それで巨乳になってデートをせい」

「アレ? 微妙に予想通りですけど、何ですかこのやるせない怒りは?! いつまでも何処までも減らずに沸きあがってくる便利アイテムのようです!」

リトは混乱しだしているが、奇妙な力がわきあがっている。
無常なる現実に対する怒りである。

「条件を受け入れたとみなすぞ。確かチン垂れは炎系が得意……しか使えなんだな」

「なんでそう、微妙な言い草をするんですか」

「気にするな。ワシは貧乳が嫌いなだけじゃ」

「言い切った! 普通に嫌いと言いきりましたよ、今!!」

「煩いのぉ」

両手で耳を塞ぎ、嫌そうな顔をするラウムだがどちらが悪いかは一目瞭然である。

「何処まで話したか……おお、そうじゃ。チン垂れが炎系しか使えんという話じゃったな」

「もうなんでもよいです」

深くため息をついてリトはラウムの全ての発言を諦めた。

「炎なら、陽炎(かげろう)がいいかもしれんな」

「陽炎ですか?」

「炎で幻を作り出す陽炎じゃ。ただ、炎はユラユラと落ち着きがない分、幻を作り出すのが難しい。だがその反面、幻自身に攻撃力が伴う」

「特質を言われても良くわかんないです。実際にやって見せてくれませんか?」

「魔術師のくせに実践派か……バートの影響か魔術師の台詞じゃないのぉ。まあ、ええわい」

またもや微妙に気になる台詞を吐かれたが、リトはぐっとこらえてやり過ごす。
その間に、ラウムは両手に赤い光を灯らせ準備に入った。
すると二人が座るテーブルの上にユラリと小さな、十センチほどの大きさのリトが炎で作り出された。
ただし、細部が微妙に違っている。

「なんで巨乳なんですか?」

「気にするな、ただの趣味じゃ。これが陽炎じゃ。実は説明が最後になったが、幻術はきっぱりと難しいぞ。攻撃は単純に力をぶつければいいだけじゃが、相手を惑わすとなると精巧さ、魔力の緻密な制御が必要となる」

「う〜ん、それはちょっと苦手な分野ですけど、やってみます」

そう言ってリトもラウムと同じように手を持ち上げて魔力の制御に入った。
だが真似ているだけで結果は全く違った。

「そ〜っと、そよ〜っと」

机の上に生まれた小さな炎は、人の形どころか土偶の形にさえ見えない。
しかも勢いが弱く、そよ風が吹いただけで消えてしまった。
二人の間に奇妙な沈黙が流れた。

「しょぼいのぉ、まさにチン垂れの乳のごとく」

「激しくやかましいです、今のはなしです! ちょっと待ってて、今から自分で自分の目を潰してください!!」

「無駄じゃ、無駄じゃ」

再度小さな炎をテーブルの上に出現させるリトだが、そよ風が吹く前にラウムが蝋燭の火を消すように息を吐いた。

「あ、なんですか?! まだ幻を作るどころか炎を小さくする途中ですよ?」

「なんですかじゃないわい。たかが手のひらほどの炎を作るのに、いつまでかかっとるんじゃ。炎の調節程度もできんのか?」

「だからこうして、小さな……小さな炎を…………あら? 煙い!」

加減したつもりだろうが、リトの手から炎は出ず煙が上がるだけで終わった。
少し泣きそうな顔でリトはラウムを見た。

「史上最低の弟子だとバートが言った意味が今わかったわい。ここまでセンスのない魔術師は見たことがない。もう諦めろ、全てを白紙に戻して別の職業をみつけるんじゃ」

「そこまで根本的な解決策は求めていません。諦めるのが早すぎますよ!」

「そうじゃな……バートが剣士じゃから、撲殺士なんてどうじゃろう」

「相手の骨を粉砕する感触が癖になったらどうするんですか?! 嫌ですよ、私は魔術師がいいんです!!」

「仕方ないのぉ、ならば粉砕士でどうじゃ?」

「だ〜か〜ら〜ッ!!」

ラウムはその後も十個程、職業を薦めてみたがリトの気に入る職業は無かったようだ。

「だから、私は魔術師がいいんです! 解決方法なら、制御が出来るようになる特訓でも教えてください!!」

「普通はある程度感でできるもんじゃから、そんな特訓は聞いたことがないのぉ。それでも考えるとするならば」

ラウムは立ち上がると近くにおいてあった紙束を持って戻ってくる。
そしてリトの目の前で紙束に指を押し付け、炎の魔力で小さな穴を開けていく。

「別に紙でなくてもかまわん。まずは全てを燃やさずに小さな穴を開けることを何度もやってみぃ。それだけでも制御する力は上がるだろう。それが出来たら次は炎を色々な大きさの球にしてみようか」

「ビー球程度にならできますよ?」

「それは力任せに炎を押し込んだ結果じゃろ。とても制御とは呼べん。……チン垂れが初歩魔術の炎矢を三、四発しか撃てないのも一発一発を全力で撃ちすぎてるからかもしれん」

「って事は、コレが出来るようになればもっと撃てるようになるんですか?!」

「予測だがの。だが、コレぐらい出来なければ陽炎なんぞ無理じゃ」

「わっかりました! すぐに帰ってやってみます。一週間で出来るようにするんで、また教えてください。ではっ!!」

言うだけ言うと、リトは勢い良くドアを開けて帰って行ってしまう。
開けるだけ開けてドアを閉めていないので、やれやれとラウムは重い腰を上げた。

「やる気だけはそこらの冒険者より一流だのぉ。まあ、バートが放り出さんのもそれがあるからやもしれんが」

蝶番のきしんだ音を聞きながら、ラウムはゆっくりとドアを閉めた。