The Moon Labyrinth

第十三話 コンタクトレンズ(メガネ)


月の迷宮の二階への挑戦を明日へと控えた夜。
リトはまたダイニングテーブルの上で紙に自分のイメージを書いて訓練を行っていた。
紙の一番上には、「予測」「動く」「リズム」と書かれている。

「う〜ん、まだ何か……一つ足りない気がします」

あくまで気がするだけなのだが、リトは紙の上にペンをグリグリと無意味に動かしている。
すると不意にリトの背後から手が伸びて紙を奪っていった。

「あっ……センセー」

「…………」

「あのなにか気になることでもあるんですか?」

あれこれ足りないと言われるよりも、黙っていられる方が気になってしょうがない。

「……邪魔したな」

それだけを言うと、結局バートは紙を返して何も言わずに行ってしまった。
リトの不安が否応にも上がっていく。

「兄さん、私のメガネ知らない?」

「知らん。それに夜は極力本を読むな。そんな事をするから、目が悪くなるんだぞ」

「悪いって言っても小さな文字を読むのがつらい程度だもん。それに昼間は家事全般でそんな暇ないし……どこに置いたっけ?」

二人の会話が自然と耳に入り、テーブルの上にはちょこんと置かれたメガネが一つ。

「アルマさん、こっち。テーブルに置いてありますよ」

「あ、本当? あはは、そんな簡単な所にあったなんて」

「はい、これです」

小走りによってきたアルマにリトはメガネを渡してやった。
受け取ったままメガネをかけるアルマに、ふとリトは気になった事を聞いた。

「メガネをかけると良く見えるんですか?」

「よく見えるって言っても、無茶苦茶目が悪いわけじゃないから……見やすくなる程度かな? でもどうしたの急に、リトちゃん目はよくなかったっけ?」

「いえ、ちょっと気になっただけです」

そう言ったリトの視線は、ずっとアルマのメガネにあった。





「お前の奇行はそれなりに慣れてはきたつもりだ」

月の迷宮の入り口、そこで懐からあるものを取り出したリトをみてバートはため息をついた。
リトが取り出したのはメガネである。
それをリトは自らにかけ、いつ出発するのかと待っている。

「奇行とはいくらセンセーでも失礼だと思われます。私は私なりの理論で行動してますし、センセーの特訓も同じくらい奇行ですよ?」

「なんで微妙に理知的な喋りなんだよ。メガネか? メガネのせいなのか?」

「これが本来の私です。メガネっ子は、素敵に無敵ですよ?」

クィクィっとメガネを上げる。

「殴って良いか?」

「殴り返しますよ?」

バートが右手を挙げ、リトが鉄の杖を振り上げたまま数秒、お互い上げたものを降ろした。

「時間の無駄だな。どうせ結果は目に見えている」

「見事に期待を裏切ってご覧に入れます」

「じゃあ、行くか」

月の迷宮の入り口を見つめたまま、二人は動かない。
お互いに何かを言い出すのを待っているように見える。
どちらが先に動くべきか、雰囲気だけで互いに察しようとしている。
先に言い放ったのはバートだった。

「……その喋り方、なんとかならんのか?」

「なりまくります。そろそろ私も限界で、実はセンセーが止めてくれるのを非常に待ってました」

「よし、止めろ。早急にだ……実は俺も何度も剣に手が伸びていた。自分の自制心には相変わらず驚かされる」

「そこまでは暴露らなくてもいいですよ! って言うか、自制しないといけないぐらいキテたんですか?! 死という現世とあの世の崖っぷちにいたなんて今頃怖くなりました!」

すっと顔が青くなったリトの顔色が元に戻った十分後、ようやく二人は月の迷宮内へと足を踏み入れた。
目指すは二階と、ズンズン歩いていくつもりだったのだろう。
だが、気持ちに反してリトはフラフラと足元がおぼつかない。
メガネをかけたまま歩いていたリトは前が良く見えていないのか、罪もないスライムを踏んづけた。

「ンギャァァァァァ!! なんか踏んッ」

そのまま足を滑らしすっころぶが、そこまではまだ良かった。
問題なのは転んだ所で、また別のスライムに顔から突っ込み溺れそうになったことだ。

「ガバッ、ブラ……おぼれ、スライ、炎バー!!」

「おい、こら!」

立ち上がれば良いものの、スライムに溺れたままのリトは闇雲に炎矢を放った。
炎が向かう先は、スライムではなくスライムと同じぐらい罪のないバートだ。

「だー! 熱ッッ!!」

間一髪で避けたものの、少々衣服に引火した。
連発されてはかなわないとさっさとリトを起こし、そのまま手を引いて走る。
だがようやく二階にたどり着いた頃には、二人とも満身創痍でボロボロであった。
結局あの後も何度もスライムに遭遇したり、リトがすっころんだりと顔や腕に打った跡があり、体中にスライムの一部が付着していた。
バートはバートで、服が焦げ付いて穴が開いていた。

「期待以上だった。あらゆる意味で期待以上だった。まさか、二階にたどり着くまでに炎矢を撃ちつくすとは思ってもみなかった」

「ずびばせん。まさかメガネの度がずれてたなんて思っても見ませんでした」

「というか、自分のメガネでもないのに度があっていると思うな。まったく」

「フレーム曲がっちゃいました。アルマさん怒るかな」

やれやれと階段の中腹に腰を下ろして、小休憩をとる。
少しずつ荒くれうさぎが階段付近に集まってくるが、バートは行けとは言わずメガネばかりいじくっているリトを見た。
口ではフレームがと言っているが気にしているのは他の事だろう。

「お前煮詰まってるのか?」

「へぃ?」

「だから、煮詰まってないかと聞いているんだ。大体メガネを持ってくるという行動自体がおかしい。確か目先の目標は荒くれうさぎの攻撃の回避。メガネなんて必要ないだろう。攻撃が良く見えそうな気がするなんてアホな事を考えない限り」

「か……考えてませんよ、モチロン。あははは、いやですよ。メガネっ子は目が悪いからメガネっ子なんです……って誰がメガネ猿ですか!!」

誰もそんな事は言っていない。
バートが剣先で壁に小さく刻み付けただけだ。

「メガネをはずした状態、しかも洞窟の暗がりでこんな小さな字が読めるんだ。必要あるまい」

「あわわわわ、て……テレパシーです。エステティシャンなんです私!」

「言い訳を言い間違えるな、アホ」

「だって、仕方がないじゃないですか! センセーが昨日意味深な沈黙をしたもんだから、何か間違ってるんじゃないかってすっごい不安で……」

そんな事を気にしていたのかとでも言いたげに、バートは言った。

「ああ、アレはそういう意味の沈黙じゃない。確かに俺は攻撃を避ける事を前提にお前に特訓したが、お前は素直にそれに従いすぎてたからな」

「だってセンセーが最初にそうするって特訓始めたじゃないですか。いけないんですか?」

「悪くはないが、方法なら他にもあるだろ? 魔術師ならそれらしく新しい魔術を覚えるとか……例えば幻覚系か神経系。自分の幻を作り出して攻撃を分散する。うさぎの神経に干渉して混乱させたり眠らせたり」

「だってセンセーそんな事教えてくれなかったじゃないですか!」

「あのなぁ、俺は剣士だぞ? 魔術なんて範疇外だ。だいたい教えてもらうのを待つな。ラウムのじじいにでも教えてもらいに行け」

「うう……はい。逐一センセーにしてはまともな意見過ぎて突っ込めないです」

この期に及んで口の減らないリトに、アイアンクローを伸ばしかけたバートだがその手が止まった。

「今日は終わりにするか」

「へっ、だってまだ」

「炎矢を撃ちつくしたお前にできる事は少ないだろう。しかし、せっかく此処まできたのに収穫がないのもアレだな」

バートは立ち上がると、階段を下りていく。
そして後一歩で荒くれうさぎに襲われる所まで降りると、リトに振り向いた。

「俺は俺なりのやり方でしかお前を育てられない。手助けはするが、魔術そのものはお前が覚えていくしかないぞ」

「って、センセーすでに荒くれうさぎが数え切れないほど集まって!」

長く階段に留まりすぎたのか、リトの言葉通り十匹以上は軽く集まっていた。
その二階へとバートは剣を抜くことなく足を踏み入れた。
リトから見れば、その行為は自殺行為に見えただろうが、バートは気負った様子も見せず右手でそこにいろよと合図した。

「滅多に見せない手本だ」

一斉に荒くれうさぎが動き出した。
暗がりの中に荒くれうさぎの白い歯が、帯を引いたように幾重にも重なったように見えた。
だが、帯は重なるばかりで止まることがない。
当たらないのだ、バートに。

端から見れば、バートは緩やかに立っているようにしか見えない。
なのに攻撃が一切当たらず、まるで幻のように思えもする。

「あ、センセー魔術を使えないって嘘。 お手本って幻覚系の魔術だったんですね!」

「違うわ、バカタレ」

「アレ、でも?」

「俺は俺なりの方法と言ったばかりだろう。察しがいい時と悪い時の差が激しい奴だな」

「でも、どうやってそれだけの数の荒くれうさぎを……」

「ああ、普通にかわしてるだけだ」

「えーーーーーーーー!!」

どう見てもかわすには不可能な数がいる。
なんだか、また集まってきて二十匹以上になった気がする。

「俺がお前にさせたかったのは、コレだ。俺は前回無駄な動きが多いと言ったな? 事実お前はかわすことに集中しすぎて、魔術への集中と体力を減らした。ならば答えは簡単。無駄のない動きをすればよい」

「いや、無理です」

パタパタと真夏時より早くリトの手が振られた。

「今はだろ? 全否定するぐらいなら、家を追い出すぞ」

「ぜ、善処させていただきます」

「よし、んじゃ帰ッ!」

気を抜きすぎたせいだろうか、一匹の荒くれうさぎの歯がバートの右腕にかすった。
血が滲む事すらないかすり傷だ。
だが、何故かバートの足は完全に止まってしまい、次々と荒くれうさぎの攻撃が炸裂していく。
噛み付き、体当たり、この二つの繰り返し。

普通ならバートを心配する所だが、経験上リトは叫んだ。

「逃げてうさぎさん達ッ!!」

もちろん荒くれうさぎがその言葉を理解するはずがないのだが、感の良い者は逃げ始めていた。

「そうだよなぁ。やっぱり見本というからには、さけるだけじゃ物足りないよな。ちゃんと止めを刺すところまで見せないとな。ハラワタをぶちまけたり、ノウショウをぶちまけたり。搾ってトマトジュースでもいいな」

「ヒィィ、センセー側近さんが、魔王の側近さんが降臨してますよ! ほら、落ち着いてください。悪の黒幕は普段はおっちょこちょいな三枚目が基本です」

「クッ……すまん荒くれうさぎ達。俺がおっちょこちょいな為に無益な血がこれから流れる」

「センセー、つじつまは合ってますけど、止める努力をしましょうよ!!」

さすがに普段は憎きうさぎとはいえ、師による惨殺は見過ごせない。
リトはバートの背中から羽交い絞めを強行したが、いかんせん背丈が違うためにぶら下がっているだけにしかならない。

「クックック、痛みも恐怖もない。俺の姿を見た瞬間には、貴様達は死んでいる。この姿を見た者には等しく死を!」

「嗚呼、なんだか魔王の側近が板についてきてますよ!」

「魔王? そんな奴もいたかなぁ?」

「暗殺済みですか?! 心を壊してすでに傀儡ですか?!」

リトの必死の援護も、結局はむなしい結果となった。
全荒くれうさぎ二十四匹中……生存うさぎ零。
内訳、死亡数三十三匹(巻き添え九匹)。
荒くれうさぎに明日はない。