機動戦艦ナデシコ
−Fix Mars−
第十一話[ Instability ]

「コウイチロウさん、頼み込んだ身でこういうのも失礼ですが……火星行きの手配はまだ済まないのですか?」

夕耶がミスマル家に身を寄せてから、まだ三日しか経っていない。

夕耶自身、こんな事を尋ねるにはまだ日が浅いと自覚はしていた。

それでも、言わずにはいられない理由があった。

「夕耶君、急に一体どうしたと言うんだね?」

「聞いているのはこっちです。火星行きの手立てはどうなっているんですか?」

たった三日だが、コウイチロウは夕耶の性格をそれなりに把握していた。

だから明らかに彼があせっている事は、理由がわからないまでも理解はできた。

「君も知っての通り、今の火星は規制が厳しくなっている。いくら私でも身分証すらない君を無理やり火星に入れるには時間が掛かるのだよ。退役したとはいえ、妙な勘繰りを入れる輩もいないわけではないからな」

「それは……一体どれぐらい待てばいいのですか?」

「正直に判らないと言っても、今の君は納得しそうにも無いな」

コウイチロウがちらりと夕耶を見ると、間髪入れずにうなづき返してきた。

「ふぅ……判った。一週間、あと一週間待ってくれ。それまでには必ず具体的な案と計画を君に提示しよう。実行は君が納得してからだ。それでいいかね?」

「……判りました、一週間ですね。それまでは、我慢します」

「我慢?」

一体何を我慢する必要があるのか。

コウイチロウがそれを尋ねる前に、夕耶は部屋を出て行ってしまった。

「あと一週間か、とっさの事とはいえ厄介な答えを出してしまったものだ」

コウイチロウはそう言うと、着物の懐から数枚の束になった資料を取り出した。

それは夕耶が火星へ向かうための計画書であった。

実はすでに夕耶が火星へ向かうための具体的な案は出来上がっていたのだ。

「あと一週間か……問題はユリカが彼を手放すかどうかだな。あれ以来夕耶君にはベッタリだから……ん? 我慢とはその事……」

ユリカに付き纏われるのが嫌なのかと思うが、すぐにその意見は廃してしまう。

「いや、ユリカは間違いなく美人だ。付き纏われて嫌なはずが無い。では我慢とはその逆、まさか……」

ウリバタケやコウイチロウはその事を完全に忘れていた。

ユリカを元に戻す事に目が行き、逆に夕耶がユリカに惹かれる可能性を考慮していなかったのだ。

別人の変わりとして愛されはしても、人ゆえに情ぐらいは沸くものだ。

そして、それと同時に別人としてしか愛されない苦しみもある。

「私達はなんて事を……もしこの考えが間違っていなかったら、夕耶君になんて仕打ちをしてしまったんだ。一週間と言わず、明日にでも彼を火星へ行かせるべきか。いや、まだそれは早い。今彼がいなくなればユリカはまた元に戻ってしまうかもしれない」

いくら記憶が無いという同情すべき境遇であろうと、自分の娘を優先してしまうのが親である。

やはりコウイチロウは夕耶よりも、ユリカを優先して考えてしまっている。

「あの……」

「なっ……夕耶君、驚かせないでくれ」

突然戻ってきた夕耶に、コウイチロウは持っていた書類を慌てて懐にしまった。

「先ほどはすみませんでした。少し……焦っていたんです。火星の件、よろしくお願いします」

「ああ、任せてくれたまえ」

「それと、ユリカさんが買い物に行きたいと言うので付いていきます。遅くはならない様に、暗くなる前に帰りますので安心してください」

自分の非をみつけ謝罪し頭を下げる行動や、律儀に報告に来る事。

間違いなく、夕耶は善人であった。

だからコウイチロウの苦悩はいっそう深くなるばかりであった。





繁華街を二人の男女がやかましく駆け抜ける。

腕を組み、楽しそうに喋っているので間違いなく回りは二人を恋人だと認識するだろう。

「ちょっ、引っ張らないでユリカ」

「アキトが遅すぎるんだよ。久しぶりのお買い物だから、欲しいものがいっぱいあるの。ほら、早く!」

「だから引っ張らないでください」

「もう、またそうやって敬語使うんだから。変なアキト」

口調という変えがたい箇所をつかれ、グッと言葉に詰まるその仕草でさえユリカは楽しそうに笑っていた。

実際、夕耶の足はかなり重くゆっくりと動いていた。

綺麗な女性と出かけるのが嫌なはずが無い……やはりアキトが心に引っかかっていたのだ。

「わぁ、可愛い服。ねえアキト、これ私が着たら似合うかな?」

「え、あ……うん。似合うんじゃ、ないかな」

ショーウィンドに両手をついてマネキンが着ている服をみるユリカ。

夕耶はそのショーウィンドに飾られた服ではなく、ショーウィンドに写る自分とユリカを見ていた。

自分がどんなにアキトに似ているのかは夕耶は知らない。

怖かったからアキトが写る写真は見ないようにしてきたのだ。

それでも思う、アキトはこうしてユリカと街を歩き、笑いながらデートをしたのだろうかと。

今の自分は笑っていなかった。

「アキト、ぼうっとしてどうしたの? 最近変だよ、大丈夫?」

「ユリカ、この服買ってあげるから悪いけど先に帰ってくれないか?」

「えー、でも……服より、アキトと一緒にいる方が」

「ユリカ……お願いだ。大事な用事があるんだ」

真剣な夕耶の顔に、ユリカはしぶしぶ折れた。

「よしっ、わかった。服は要らないけど、アキトの言う事を聞く。だから、明日も付き合ってね?」

「仕方ないな。判ったよ……まっすぐ帰るんだよ」

「お姉さんを子ども扱いしないの。アキトこそ、まっすぐ返って来るんだよ。変な所よっちゃ駄目だからね」

遠ざかりながらいつまでもアキト、アキトと叫びながら手をふるユリカに応えながら、夕耶の顔はどんどん曇っていった。

もう、周りは見えず、夕耶の目にはユリカしか映っていなかった。

だから一人の少女が自分とユリカを見ていた事など全く気づいていなかった。

「ユリカさんいつの間に治って、何故提督は私に黙って……それにアッ、アキト……さん?」





夕耶はユリカと別れてから、フラフラと繁華街をさまよい、やがて小さな公園へと行き着いた。

管理という言葉からかけ離れたそこは、草がうっそうと生え、子供一人見かけなかった。

誰もいない寂れた空間、夕耶は知らず知らずにそんな場所を探していたのかもしれない。

ペンキがはがれ、薄汚れたベンチに座り込むと組んだ両手に自然と涙が落ちた。

「違うんです……僕はアキトさんじゃないんです。赤井 夕耶、僕はなんでアキトさんじゃないんだ。僕は一体誰なんですか? 本当はアキトさんじゃないのか?」

夕耶は記憶を失いながらも医者には一度も掛かっていない。

確固たる自分が無い今、何度もユリカにアキトと呼ばれる事で、わずかずつだが刷り込みが進行し始めていた。

「僕は、アキトさんになりたい。アキトさんになって愛されたい。ユリカさんに愛されたいんです。でも……僕はアキトさんじゃないんです。では、ユリカさんに愛されるためにはアキトさんになればいいんですか?」

誰もいないと思っていた公園に人の足音が聞こえた。

だが、夕耶にそれに気づく余裕は無かった。

その足音が自分の手前で止まるまでは。

「貴方は一体誰なんですか?」

明らかに怒りを込めたキツめの言葉に夕耶は泣きはらした顔のまま、声の主を見上げた。

泣いている事と、似ている事で目の前の少女は少しだけひるんだが、続けた。

「貴方はアキトさんじゃない。一体なんのつもりで、アキトさんの振りをしてユリカさんに近づいているんですか?」

「そうだよ、僕はアキトさんじゃない。僕の名前は赤井 夕耶だ。僕の名前を呼んでくれ、誰か僕が赤井 夕耶だと証明してくれ!」

(この人……混乱してる? 他人に頼らなければ自分自身を証明できない。何故そんな事に)

現れた少女、ルリは静かに言い放った。

「貴方は赤井 夕耶です。アキトさんじゃありません!」

「そうだ、僕は赤井 夕耶だ。アキトさんじゃない。だから愛されちゃいけないんです。恨みますよ、ウリバタケさん、コウイチロウさん。何で僕にこんな役を与えたんですか。僕は赤井 夕耶なんです。でも……」

だんだんと夕耶の癇癪が収まっていく。

たった一つの事実に行き着いた事で。

「でも……赤井 夕耶はユリカさんを愛しています」