機動戦艦ナデシコ
−Fix Mars−
第二話[ No Money ]
記憶がないという事には、自己を確立できない事以上に大変なことがあった。
金と身分証明書が無い事である。
「お金が無いから、ご飯が食べれない。働こうにも身分を証明するものも、保証人もいない。バイトでさえ、履歴書と写真を撮るお金が無い。そもそも僕には履歴がないんだけど……」
確認するように現実をつぶやいた男は、自分で自分を凹ませてしまった。
なんとか気分を奮い立たせて顔を上げた先に見えるのは、宇宙ステーション。
「あそこから近くてよかった。これでもし電車移動だったらと思うと……いや、でもこれから船を持っている人かその関係者に直談判して仕事と火星への移動手段を手に入れないと」
グッとこぶしを握り締めて眼差しを強くするが、それも数秒で弱弱しくなった。
「そんな都合よく行くわけが……でも警察で事情を話しても面倒なことになるだけの気がする。よしっ!」
勢いよく自分の顔を叩くと、涙が瞳にたまる。
いささか強めに気合を入れすぎたが男は宇宙ステーションの自動ドアをくぐっていった。
大体がスーツケースか大きなバッグをもった人が多数を占める中、男はまっすぐ受付へと進んで行った。
だが自然と一番すみの受付カウンターへ行ったのは気合が足りなかったせいだろう。
「す、すみません」
「セントポーリア宇宙ステーションへようこそ。搭乗受付ですか? それともご予約です?」
どもってしまった男の言葉を気にすることなく、受付嬢はにっこりと微笑んで定められた台詞をはいた。
「搭乗受付でも、予約でもないんです」
「では忘れ物でしょうか? それでしたらあちらのカウンターで忘れた物をご記入いただければ数日中には」
「忘れ物でもないんです。実はですね……船に乗りたいんですが、お金がないんです。船を持っている人か、関係者を紹介してくれませんか?」
「少々お待ちください」
これもまたお決まりの台詞だろうが、受付嬢の笑顔に好感触かと男は小さくガッツポーズをした。
数秒後、表示された情報にそのガッツポーズはもろくも崩れた。
「こちら地図の行き先が職業安定所、通称職安となっております」
「え〜っと……間に合ってます?」
「はい、食い下がられる様でしたら警備員をお呼びしますのでお気をつけください」
「ご、ご忠告ありがとうございました」
「いいえ、またどうぞ。セントポーリア宇宙ステーションはいつでも貴方をお待ちしています」
絶対に嘘だっと叫ぶ勇気は男にはなかった。
すごすごとカウンターを離れると、最後の抵抗だとばかりにロビーのソファーに大人しく座った。
どっかりと座らないあたりが、何もしませんよとアピールしている様にしか見えない。
「どうしよう。船を持っている人なんて見ててわかるわけないし……ああ、こうなるとあのおばちゃんもスーツのサラリーマンも誰も彼もが船持っているように見えてくる」
頭を抱えているとグ〜っと男のお腹が鳴いた。
「そういや、ご飯すら食べてなかったんだっけ。近いって行ってもあそこから一時間半ぐらい歩いたし……お腹空いたな」
空腹がどんどん男のやる気を押し縮めていく。
そのままボケッと三十分ぐらい人の通りを眺めていると誰かが男の視界を塞ぐ様に立った。
顔を上げると、先ほどあっさり脅しをかけてきた受付嬢であった。
首の付け根辺りまで伸ばした髪を茶色に染めた、綺麗というよりは可愛いが勝った女性である。
「暴れるようなことはしないから見張って無くても大丈夫ですよ。そんな元気も無いですし」
再びグ〜っと男の腹が鳴り、同意見だと主張してきた。
「別に見張ってるわけじゃないわよ。貴方、日本人?」
「あ、んん」
思い切り歯切れの悪い返事を返すが受付嬢は気にした様子がない。
それにしても口調が先ほどより砕けているように聞こえる。
営業用ではなくこれが本来の口調らしい。
「ふ〜ん、名前は?」
「名前……名前?!」
「ちょっ、そんな立ち上がるほど驚かなくてもいいじゃない。なに、もしかして名乗れないほど有名な犯罪者なの? とてもそうはみえないんだけど、何犯罪? 軽それとも重? 性犯罪はさすがに引くよ?」
「いや、ちょっと待って!」
あたふたと明らかな狼狽を見せながら、男はあちらこちらと見渡した。
全く自分の名前、偽名を考えていなかったのだ。
関係者を紹介してもらっていても交渉は確実に失敗していたかもしれない。
「時計、観葉植物……階段。なにか、なにか……」
小声でつぶやいているのは名前のヒントになりそうなものを探しているのだが、いいものが見つからない。
本当に犯罪者だったらどうしようと受付嬢が半身を引いたところ、外が赤い光に包まれ始めているのが見えた。
夕焼け、人工的なものだが夕焼けである。
「そう、赤い夕焼け……赤井 夕耶。僕の名前は赤井 夕耶だ」
「赤井 夕耶っか。別にもったいぶるような名前じゃないわね。聞いたことも無いから性犯罪者でもないわね」
「犯罪から離れてくれ、これでも精一杯っ」
「精一杯?」
とっさにボロが出ないように一度てで口を押さえた。
「んっんん、精一杯これまでの人生を生きてきたんだ。僕はこの名前を誇りに思うし、犯罪はもうしない!」
赤井 夕耶、命名数秒で大混乱に陥っている。
命名する前から混乱していたのかもしれないが。
「したのかしてないのか、まあいいわ。ねえ、赤井君。よかったら仕事紹介してあげようか?」
「ほ、本当?! え……でもさっきは職安を、職安を通して紹介ってのはなしだよ?」
「疑り深いな君は。紹介してあげるって言ってるんだからもっと食いついてきなさいよ。……あっ、頭も悪いんだっけ? 最初に聞いたでしょ、日本人かって。理由はそれだけよ、私も日本人」
「それなら最初から紹介するって言ってくれても……」
「一応そういうことは禁止されてるから、でも今は休憩中であるからして勤務時間外。嫌ならこの話引っ込めるけれど?」
理由としては十分でも不十分でもあるが、夕耶にとっては言葉通り渡りに船という状況である。
「喜んでその話を受けるよ。えっと……ごめん、名前をきかせてくれる?」
「高坂 青葉、聞いたからには次会うときに覚えてなかったりしたら大激怒するぞ」
「肝に銘じておきます」
次があるのかどうかは不明だが、夕耶は高坂 青葉の名前をこれでもかと言うほどにと心に刻み込んだ。
「っと言うわけで、犯罪者であることに瀬戸際の赤井君を乗せてあげてくれませんか?」
「いや、急にそう言われてもねって言うか、犯罪者? いくら青葉ちゃんが艦長と友達だからって言っても無理だよ」
「そこをなんとか……赤井君ももう犯罪はしませんって私に誓ってくれたし」
普通の輸送船や軍艦に比べると一回りも、二回りも小さな船だったが造りはしっかりしてそうな船だった。
ただし、青葉の交渉が難航していた。
交渉の仕方が悪いことは言うまでも無い。
「あの高坂さん、もう」
「何を騒いでおる!」
そろそろ引き時かと夕耶が動くと年季の入った怒号がドック内に響いた。
二人から少し離れていた夕耶でさえ反射的に首をすくめてしまうほどだ。
「あ、おじいさん丁度いい所に。赤井 夕耶って子をこの船に乗せて欲しいんです」
「だからそれは」
「私は今、おじいさんと話しているんです。貴方は黙って格納庫の隅っこでも掃除してなさい!」
「騒がしいのう。それでその赤井 夕耶とやらはどこじゃ?」
「あの、僕です」
怒号の余韻でおずおずと夕耶は右手を上げる。
繋ぎ姿のおじいさんは夕耶を全身くまなく眺めた後、その両手をとって手のひらを見た。
「ふむ、堅気の手ではないな。だがしかし、目はただの子供じゃな。……正直よくわからん」
夕耶よりやや背が低いことで見上げるように夕耶の目を見ておじいさんは言った。
「よかろう、艦長にはワシから言っておく。付いて来い坊主、お前に仕事を与える」
「ありがとうございます。おじいさん!」
頭を下げてから青葉の方を見るとビッと親指を立ててきたので、夕耶は親指を立てて返した。
「私はもう行くから、頑張ってね赤井君。セントポーリア宇宙ステーションにお寄りの場合は、遠慮なく声をおかけください。それでは!」
「ありがとう、絶対に寄るから。それまで絶対名前を覚えておくよ」
最後を事務的な言葉で締めると青葉は行ってしまった。
その背中に向かって再度頭を下げると夕耶はおじいさんの後を追いかけ始めた。
だがいくらも歩かないうちにおじいさんが立ち止まる。
「坊主、一つお前さんに言っておくことがある」
「はい、なんでしょう?」
「ワシを呼ぶときはじいさんと呼べ、絶対におを付けるんじゃない。ましてやちゃん付けなどもっての外じゃ!」
「え、でも高坂さんは……」
「呼ぶんじゃないぞ、いいな!」
「はいっ!!」
大きな声が苦手なのか、年季の入った声が苦手なのか夕耶は背筋を伸ばして気をつけをしている。
「よしっ、まずはじめはトラックでコンテナの積み下ろしじゃ。高価な代物じゃからして、事故など一切起こすんじゃないぞ」
「わかりました。おじいさん!……あっ」
「坊主、ワシは同じ事を二度言うのは嫌いじゃ。解るな?」
「もちろん、これからは決しておじいさんなどと言いません。おじいさん!…………ん?」
「渇!!」
容赦ないゲンコツが夕耶を襲った。
宇宙ステーションを出向する前に、すでに夕耶の目には幾つもの星が確かに見えた。