long long stairs

第二十五話 インパクト


綾波レイの手から離れたアルサミエルは、回転を続けながら苦悶の表情を浮かべるシンジに近づいていった。
アルサミエルが近づけば近づくほどにシンジの苦悶の表情が強さを増していく。
ついにはアルサミエルの体が溶ける様にシンジの額に飲み込まれ、シンジが目を開き叫んだ。

「うあああああああああ!!」

植物の種が大地に根をはる様に、アルサミエルが沈んだ額を中心にシンジの体に根がはられていく。
シンジの目は開いているものの意識は無く、抗う術もない。
額から顔全体に、首から胸にと徐々にアルサミエルの体がシンジの体を侵していく。
全身が侵食されるまでには数分も掛からないだろう。

「どうか抗わないで。抗わなければ・・・すぐに楽になれる」

すでに侵食されてしまっているシンジの頬をなで呟く綾波レイ。
その表情はいつの間にか我が子の苦しみに同調するようなものとなっていた。

「やっぱり」

綾波レイの表情に気付いたアスカが、病室の外からガラスを叩いて叫んだ。

「アンタ、本当はこんな事したくないんでしょ!」

綾波レイの手が止まり、表情が消えた。
自分でも気付いていなかったのか、全くの的外れの言葉だったからなのか。

「なにを言っているの」

「そうやって直ぐ表情を消すから解らなかったけど、アンタ嫌なんでしょ? 誰かを傷つける事が。そうじゃなかったら笑ってみなさいよ。苦しんでいるシンジを見て笑ってみなさいよ」

「私は」

「どくんだアスカちゃん!」

カヲルの叫びにアスカが振り向くと、カヲルの手のひらには異様な物が生まれていた。
見た目で評するなら暗黒の嵐。
徐々にそれは力強く大きくなっていく。

「綾波レイに説得は無駄だ。さがっていて」

「何度やっても無駄よ。私のフィールドは全てを受け止める。貴方達のフィールドとは根本的に違う」

また無表情に戻って呟く綾波レイに、カヲルはそうだろうねと笑う。

「使徒のフィールドは基本的に自らを守るために相手を拒絶する事で生まれる。でも、君だけは相手を認め受け入れる事で壁を作る。母性・・・なんとも君には皮肉な能力だ」

「母性・・・それじゃあ、やっぱり」

「だけど力が霧散される前にそれ以上の力で突き破れば、壊すことは可能だ」

「理屈では、だけど無理よ」

「理屈があれば十分だ。僕はシンジ君を助ける」

手のひらに全力で創り出した闇を掲げてカヲルが綾波レイへの壁へと向かった。
元々狭い廊下で距離は無く、すぐにカヲルは力を叩きつけようとした。
だが、彼女がソレを止めようと立ちはだかった。

「駄目ッ!!」

「アス、くっ!」

急に飛び出してきたアスカを避けるために、中途半端に叩きつけられた力がフィールドによって霧散してしまう。

「アスカちゃん、なんで邪魔をするんだ。シンジ君が完全に侵食されるまでもう時間が無いんだ!」

「私にはアンタ達の力とかは良く解らないけれど、アイツの力は母性なんでしょ? おかしいじゃない、だったらなんであの子はいつも冷たい顔しか見せないの? それとも見せられないの?」

「そんな事を言っていられる状況じゃない。僕にとって大切なのは君とシンジ君だけだ」

「アンタさっき自分で言ったでしょ。自分は言いなりになってたって。あの子もそうだったとしたら、言いなりになっているうちに解らなくなってたら・・・アンタはどうするの!」

ハッと気付いてカヲルは綾波レイを見た。
自分と同じだとは・・・以前にも気付いていたはずだ。
なのに二人だけが大切だと思い込み、忘れてしまっていた。

「綾波レイ、君は」

呆然と視線をよこすカヲルから逃げるように綾波レイは視線をそらし、シンジを見た。

「もう、遅い」

「遅くなんかない。遅いなんてことはない!」

綾波レイの奥底にしまわれてしまった心に届くよう、必死に叫ぶアスカ。
届かないかもしれない、けれど届かせなければならない。
声だけでなく目も、アスカの体全てを使って綾波レイを引き止める。
シンジを救いたいのはもちろん、いつの間にかアスカは綾波レイをも救いたいと思っていた。
自分でも気付かぬうちに。

「あんた達、無事!」

複数の足音が響く集団の先頭から届くミサトの声。
パターン青の発信源を特定、もしくは監視映像を見たからだろう。
ゲンドウを先頭にリツコや諜報部の姿もあった。

「邪魔をしないで」

酷く苛立たしげに綾波レイが腕を振るうと、病室を包むのとは別にゲンドウたちを包むようにフィールドが現れた。
駆けつけること自体無意味な事であっても人は増えて欲しくなかったのだろう。

「なによこれ!」

「ATフィールド・・・でも暖かい、これは・・・・・・・・・」

「リツコ姉さん!」

フィールドに包まれた者が一人、また一人と倒れていく。

「しばらく眠るといいわ。起きた時には・・・もう終わっているわ」

「君が綾波レイだな」

一人、綾波レイの力に真っ向から抗い、立ち続ける者がいた。
碇ゲンドウ、彼だけは平然としていた。
ゆっくりと綾波レイを見据える。

「なるほど、シンジが動揺するわけだ。似すぎている、いや似ているのはレイの方か」

「何を言っているの?」

「個人的な感傷だ。君が気にする事でもない」

やけに落ち着いているゲンドウを見て、アスカとカヲルが焦燥にかられる。
シンジの体はすでに残っている部分があるのかと思うほどに侵食が進んでいるのだ。

「君のその姿は、魂によるものか? それとも体に依存するものなのか?」

「それを聞いてどうするの?」

「この十年悩んできた疑問がそれで解決する。十分な理由ではないかね?」

「司令!」

「おじ様!」

痺れを切らした二人が会話を中断させる。

「今はそんなことよりも、シンジ君を救出する事が先です!」

「アイツも助けないと!」

「いや、恐らくあの侵食の具合から見て今からとめることは不可能だ。例えこのフィールドを破り綾波レイを取り押さえても、あの使徒を操る術が我々には存在しない」

言葉はすでに諦めているといった台詞だが、声からは諦めが感じられなかった。
何か他に誰も知らない切り札があるようにも思える。
その事には綾波レイも気付いたようで、ゲンドウにだけ視線をよこす。

「この状況で何ができると言うの」

「我々には術はないだろう。我々にはだ」

では他に誰が抗えるのだろう。
ハッとしたように三人の視線がシンジに集まった、侵食が進み声すら上げられないシンジにだ。

「ゼーレの補完計画とやらは調べさせてもらった。愚かだ、あまりにも愚か。まわりの人間を単細胞以下に降格させ、擬似的に自らを上位的な存在にしようなどと、支配すらに劣る行為だ」

「確かに。それならまだ現人神計画の方がマシだ。他人をおだてて神にした後使徒にしてもらう。馬鹿さ加減は同じでしょうけど」

「もうすぐ、彼は堕ちる」

悠長に話している二人に綾波レイがトドメをさした。

「何を言いつくろっても、もう終わり。彼が地の底よりもさらに深く暗いところへ堕ちた時、人の歴史は終わる」

「アンタまだそんなこと、本当にそれがアンタのしたいことなの?! ちゃんと自分で考えて行動してるって胸張っていえるの!」

この期に及んでというのはお互い様だろう。
それでも自分のしたいように叫ぶアスカを見て、綾波レイが少しだけ笑った。

「ごめんね、アスカ」

光が世界を包み込んだ。





広く、果ての全く見えない真っ白な空間で、シンジは顔を伏せて座り込んでいた。
努めて忘れようとした過去、忘れようとした罪を思い出させられた為だ。
アスカと言う支えを得て過去の罪に砂を被せて忘れようとしても、砂の下の罪は何時か顔を見せる。
決して拭える事の無い罪。

「誰だ」

いつの間にか輪郭の無い発光体がシンジの前にいた。
その発光体がとても無邪気に語りかけてくる。

「本当に拭えないのなら、なんで生きてるの?」

「うるさい」

「だってそれじゃあ、これからもずっと苦しみながら生きていかなきゃ。それって辛くない?」

「うるさいんだよ!」

嘲笑し、嘲り笑っているわけではない。
ただ純粋に聞いてくる、その事がシンジの感に触る。

「だったら、私と一つにならない?」

無邪気な声が突然の変化した。
何事かとシンジが顔を上げるとそこには、綾波レイがいた。
とても優しげに微笑んでいる。

「全てが一己になれば、辛さ、苦しみを感じなくて済む。私と一つになることで、その一切から解放される」

「そんなのは嘘だ。例えそうだとしても、俺の罪は消えない!」

慈愛の女神による誘惑。
だがそれもまやかしであるとは言い切れない。
本当に心から全ての人が一つになってしまえば、互いに傷つけあう事もない。
全くの極論ではあるが、それこそが人類補完計画。
ゼーレのそれとは目的が異なるが、結果は同じである。

「私と一つになる。それはとても気持ちのよいことなの、シンジ」

「かっ」

瞬きするほどの間で、綾波レイの姿がユイ、母親へと転じていった。

「シンジ、もう私は貴方の苦しむ姿なんてみたくない」

「母さん・・・俺は」

「おいで、シンジ。私に貴方と一つにならせて」

「俺は」

迷いを見せるシンジ、その間にもまたアルサミエルの姿が変わる。

「シンジ、貴方はよくやったわ」

「リツコ姉さん」

「あんな小さかったあなたが、いつの間にかあんなに強くなっちゃって。もう、十分でしょ? 私と一つにならない?」

シンジの心が揺れる。
母親や姉の姿を借りた物の言葉が、まるで欲しかったその物であるように聞こえ。
言葉が全身に広がり、十年も萎縮させてきた体を緩めてくれる。
だが、欲しかった物そのものではない。
そしてまた、アルサミエルの姿が変わる。

「シンジ」

シンジの支え、アスカが今目の前で微笑んだ。
シンジの手が自然とアスカへと伸びる。
手が触れれば伝わるぬくもりは、同じだった。

「シンジ、私達一つになればもうずっと一緒よ。カヲルだってそう。一つになればずっとずっと」

「ずっと、一緒にいたい」

座り込んでいたシンジの足が、愛しい少女を前に体を支えて立ち上がる。
大切な少女が目の前で微笑んでいる、例えそれがまやかしであろうと。
全てが一つになってしまえば本物になる。
全てが一つになれば・・・

「本当にそれでいいの?」

かすかに聞こえた誰かの声にシンジがはっとアルサミエルの手を離した。
声の主を探し、果ての無い白を見渡す。
誰も見えない。

「どうしたの、シンジ。私を見て、私と一つになりましょう。心を乱さないで、穏やかに何も考えないでいいの!」

すでにアルサミエルの言葉はシンジに届いていなかった。
それどころか邪魔でしかないように、シンジは睨んで言葉の続きを止めさせる。
もう見せかけの言葉はシンジには届かない、それでも諦めなかったアルサミエルは最後の変化を遂げた。
その姿とは、碇レイ。

「お兄ちゃん」

「あ・・・レィ」

変わらない、時間が止まってしまったままの姿で呼びかける妹。
同じ姿、同じ声で微笑みながら。
自分がレイを殺したから、目の前に現れるはずが無い。
だから目の前にいるのは偽者、本物は自分が・・・・・・殺した。
シンジは自分の視界が白から黒へと染めれるような憤りを感じた。

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」

シンジは自分を呼ぶ妹と同じ姿の者へと右手を上げた。
光のパイルが一瞬にしてアルサミエルを貫き、偽者が口から血を吐いた。

「お兄」

「笑うはずが無い! 自分を殺した者へと微笑むはずが無い! レイは絶対に!」

「なんで・・・お兄ちゃ・・・・・・」

涙を流して崩れ落ちる最後まで姿を偽ったままのアルサミエル。
自分の妹の姿を借りているだけとは言え、シンジの心が痛まないわけが無い。
妹への罪悪感、罪。
長年シンジを苦しめてきたそれらだが、シンジが本当に欲しかった物。
碇レイにしかシンジへと与えられない物。
シンジはそれを手に入れるために、今一度神の座へと赴く決意を固める。

「レイ、俺は確かめたい。お前が俺を!」





シンジの変動に一番早く気付いたのは、一番近くにいた綾波レイだった。
強力な電気でも流されたかのようにシンジの体が跳ね、力で抑えようとした綾波レイの手を無意識に払いのける。

「そんな・・・何故」

心底戸惑い後ずさる綾波レイ。
そうしている間にもアルサミエルの侵食は目に見えて引いていく。
侵食されるときよりも早いように見受けられる。

「何故、辛い思いをしてまでこの世に留まろうというの」

誰かに問いかけたわけではなく、理解不能としての一言だろう。
だがゲンドウがそれに答えた。

「自分の他人も無く、全てが曖昧で互いに傷つけあわない世界。その様なものはシンジにとって無価値だからだ」

「価値・・・価値があるというの、この世界に」

「価値ならある。シンジに罪を背負わせたのもこの世界ならば、許しを与えられるのもこの世界だけだ」

事態が好転したかに見えても、アスカとカヲルはまったく話についていけなかった。
そもそもシンジに罪があるとは到底思えなかったからだ。

「シンジの罪、それはレイを・・・妹を殺した事に始まった」

「なっ・・・だってあれは事故だって!」

「そうだ。紛れも無くあれは事故だった。目撃者もいる。だが・・・あの時、シンジの病気が嘘だったら。自分の嘘が結果としてレイを殺してしまったと考えたなら、ありもしない罪が形となる」

ゲンドウはシンジが単純に妹を生き返らせたいだけではないと知っていた。
シンジは知られているという事を知らない。
それでもゲンドウは知っているという事を伝えなかった。
伝えればシンジが更に自分を責めるような行動をとることは解っていたから。

「じゃあ許しって」

「今、生きているという苦しみ。それこそが許しへと続くシンジだけの道だ」

最後だけ、言動は嘘をついた。
アスカにはそこまで話すべきでは無いと言う配慮でもあった。

「じゃあ碇君は・・・アルサミエルを」

「迷いはしても決して受け入れないだろう」

一同の視線がシンジへと集まった。
すでに侵食の跡は体の何処にも見られず、ゆっくりとだがアルサミエルの円形の体が額から浮き出てきた。
額を離れゆっくりと浮いたソレは、最後の瞬きではじけ衝撃を生んだ。
綾波レイを吹き飛ばし、病室の特殊ガラスとフィールドを砕けさせた。

「くっ・・・」

病室の床に体を打ちつけ、気がつくと急いで身を起こす。
その時にはすでにシンジの姿はベッドには無く、綾波レイの目の前にいた。

「碇君」

「綾波」

観念したかのように綾波レイの手が自らの胸へと向かった。

「私の生命の実、受け取ってくれる?」

綾波レイ自信、何故自分がそんな事を言い出したかは理解していなかった。
シンジに対しての何かしらの敗北感か、それとも失敗によるゼーレの報復への恐怖か。
もしくはシンジと一緒に、人の形をとらずとも長い時間を過ごして見たかったのかもしれない。

「受け取っ」

「駄目だ」

短く言葉を切って首を横に振るシンジ。
さらに言葉を続けた。

「君の本当の望みはそんなものじゃないはずだ。よく考えて・・・君は何を望む?」

世界が二人だけのために回り始めたように、外からこの会話を中断させる事は出来なかった。
綾波レイの眼球が迷いと共にさ迷い歩く、それでも最後に行き着いたのはシンジだ。
紡ぐ願い、生まれて始めて願う綾波レイの自分自身の願い。

「私が何かを望んで良いと言うのなら、私は今の私を変えたい。その先に何があるのかを感じたい」

シンジは綾波レイをゆっくりと抱きしめた。
かつて妹にしたように包み込むように。

「もう、君は変わり始めた。これからゆっくりそれを実感していくといい」

綾波レイは生まれて始めて直に与えられた温もりに包まれながら、泣いた。