long long stairs

第二十三話 絶対領域


「僕は大事な人形として全てを与えられ、逆にレイは何もかもを取り上げられた」

暗くうごめく雨雲が空を覆い、雨を流し続けている。
教室の中はそれでも喧騒を失うような事はなかったが、アスカの心の中はカヲルの言葉で占められていた。
カヲルから聞いた綾波レイと、彼自身の事について。
隣の綾波レイを盗み見ると、分厚いカバーの本を手にしていた。
楽しいのか楽しくないのか・・・それさえ感じていないかのように無表情に読んでいる。

一度深くため息をつくと、両腕を机において枕を作り額をそのまま押し付けるように置いた。
重い、と単純にアスカは思った。
良く解らない計画のために二人の人間を思うように操る。
ネルフも以前に異常だと思ったことはあるが、カヲルたちのいた組織はそれ以上だ。
首を傾け机にかけてある鞄を見やると、今日も持ってきていながら渡せなかった弁当が入っていた。

「ねえ」

不意に呼んでみたが返事はない。

「ねえ、アンタ」

「・・・・・・なに?」

ようやく自分が呼ばれていたのかと気付いたように、反応遅く綾波レイが振り向く。
私には名前があると目が言っている気がしたがアスカは気付けなかった。

「アンタお腹すいてない?」

「いいえ、すいてないわ」

「そう」

会話となっているかは別として、なんとか会話を続けようとアスカが頭を捻る。
外で響く雨音が、教室の喧騒を無視してアスカの頭に鳴り響く。
そのせいか大した考えは浮かばず、なんとも盛り上がっていないときの会話が展開されてしまう。

「アンタ休日なにしてんの?」

「別に、なんもしてないわ」

「ふ〜ん、本読んでるかと思ってた」

「ちゃんと寝てもいるわ」

妙におかしな会話だなとアスカは早々に諦めた。
ここ数日挑戦はしてみるが、いつもこの程度で挫折してしまう。
そもそもカヲルから綾波レイはネルフの敵対組織になりうる組織からの使者だと聞かされている。
あまりかまって良いはずの人間ではないのだが、そうせずにはいられない。
それが碇レイの影響である事はアスカ自信自覚もしていた。

綾波レイから視線をそらし、三席ほど前にあるシンジの席を見つめた。
今日はカヲルと共に朝からネルフの方に行っていた。
やけに神妙な面持ちで、あれは・・・使徒を前にした時と同じ。

「来た」

パタンと本をたたむ音が鳴った。
なんだろうとアスカが再び綾波レイに顔を向けると、立ち上がりこちらを見ていた。

「・・・カ、避難して」

「え?」

それだけを言うと教室を出て言ってしまう。
避難とは言っていたが、その前に何を言おうとしていたのだろうか。
そもそも避難とは一体どういうことなのか。
立ち上がったアスカは教室を出て行った綾波レイの後を追うことに決めた。

そしてその時に流された避難警報。

あまりのタイミングの良さに、まさかと追いかける足を早めた。





教室を出るときに呼び止めようとしたヒカリの声を無視してアスカは走る。
上から下へと流れていく人の流れに逆らい屋上を目指した。
正確には屋上へと向かって歩く綾波レイを追ってだ。

本来ならば自分も避難・・・ネルフに、シンジの元へと行かねばならない。
なのに何故、自分は追いかけているのだろうか。
確かめたいのかも知れないとアスカは思う。
綾波レイが敵なのかどうかを。

走る勢いに任せて体当たりをするようにアスカは屋上のドアを開けた。
いまだ雨が降りしきる屋上の鉄柵間近に彼女はいた。

「・・・・・・・・」

振り向いた綾波レイは一度なぜと口を形作ったが、結局何も言わなかった。
遠く空を見上げ始めた。

「あ・・・シンジ」

綾波レイが見ている方向に視線を寄越すと、まだ非難が完了していないのにも関わらず初号機が発進されていた。
初号機の視線は遥か上空に向けられており、良く見れば綾波レイの視線もそうだった。
アスカは使徒がいるのかと目を凝らし空を見上げるが、涙を流す雨雲しか見えなかった。
怪訝な顔をするアスカを無視して綾波レイはその両腕を掲げた。
アスカにはただ単に腕を上げたようにも、まるで巫女が何かを敬い召喚するようにも見えた。

「アラエル、私を導いて・・・彼の心に」

その言葉が発端であるように、雲が熱を帯びるように赤く染まった。
それは光だった。
赤とも黄とも取れる光が初号機目掛けて伸びたのだ。

初号機が地を舐めるような低姿勢で光をかわして体勢を整えると、右腕を掲げた。
放たれるのは同じ光。

全てを貫き溶かす光が放たれる。
そのあまりの眩しさにアスカは後ずさり、水の溜まった屋上の床に尻餅をついてしまう。
加速された粒子が雨を蒸発させ、雲を貫き空へと伸びていった。

「耐えてアラエル」

息子の困難を見守るような声と顔にアスカはこんな顔も出来るんだと妙な感心をしてしまう。
初号機の加速粒子砲によって雨雲は吹き飛び、雨は止んだ。

振り絞った力を一度とどめるように初号機がその右腕を下ろした。
仕留められなかったのか、遠目に映る初号機の手が強く握り締められるのをなんかとアスカは見ることが出来た。

「・・・正面からは入れないのね。回り道をしましょう」

両腕を掲げて空へと向けていた手のひらを反転し、大地へと向け綾波レイがそのまま腕を振り下ろす。
すると先ほどは違う薄い光が第三新東京市全域を覆った。
理解の出来ない現象だが、コレでは初号機が・・・シンジがとアスカが思ったとき、目の前が闇に覆われた。
なにも見えない、聞こえない、自分の体があるかどうか、この思考が自分のものであるのかさえ解らなくなった。
完璧なる無がアスカを覆った。
初めての間隔だが、コレが無と言うことが本能的にアスカは感じた。
闇かと思ったものも、黒でもなく白でもない。
だんだんと意識が遠く、薄れて・・・・・・・その恐怖にアスカの心が叫んだ。

「そこから動かないで」

綾波レイの声が届いた時、アスカの視界には世界が戻ってきていた。
いつのまにか自分が濡れた地面に横たわっており、綾波レイが庇うように前にたっていた。
彼女を中心に赤いドーム上の光が自分達を覆っている。

「なにが・・・」

「喋らない方がいいわ」

そう言ってアスカから目を離し、綾波レイの目は再び初号機へと向けられた。
やや精細さを欠いているものの、正確にアラエルからの光をかわし続けている。

「まだ動けるの。まったくの無の中で何故・・・・・・いえ、むしろ」

「シンジ」

寝転がった状態から無理に首を起こしたアスカの呟き。
ハッとしたように綾波レイがアスカに振り向く。

「まさか」

精細さを欠いたのは明らかに無の世界に誘われたから。
だが初号機の力、碇シンジの力の上昇はアスカの危機に反応したからなのか。
確かめるように一瞬だけATフィールドを開放する。
小さく上がるアスカの悲鳴、その後すぐにATフィールドを展開すると一瞬初号機に睨まれた気がした。

「・・・・・・強すぎる貴方の心、利用させてもらうわ」

仕方ないとため息が聞こえそうな言い方だった。

「アラエル」

その一言でアラエルからの光が消えた。
そして次の一言で初号機の動きが止まった。

「碇君、動かないで。貴方が動けば彼女の保障は無いわ」

『綾波・・・・・・アスカ』

「だめ、シンジ」

まるでテレパシーが聞こえているかのようなアスカの言葉が虚しく響いた。
立ち止まった初号機へとアラエルの光が注がれる。

「これで終わるわ。体を鍛える事は出来ても心まではそうはいかない。ただ、慣れるだけ」

その言葉をきっかけにシンジの絶叫が第三新東京市に響き渡る。





「うああああああああ!」

響き渡るシンジの絶叫に包まれながら、綾波レイはシンジの心の中を泳いでいた。
この叫びは心に踏み込まれる事への不安と真実を暴かれるかもしれない恐怖。
以前にもカヲルやイロウルに心を覗かれた事はあったが、それはまだ表層部分だった。
綾波レイは深く、さらに深いところへとシンジの心の中を降りて行く。

「殺せ!」

絶叫の中に同じ声で別の言葉が放たれる。

「嫌だ、今さらカヲルを殺してどうするんだ!」

「だが今殺さなければ、お前の命も望みも完全に断たれてしまう」

「俺はもうアスカを選んだんだ。カヲルを殺す事に意味なんかない!」

全て同じ声で叫ばれる言葉。
心の中に沈んでいく綾波レイの前に泡のように揺らぐ淡い光景が浮かぶ。
バルディエル、二号機によって首を絞められる初号機。
これはシンジの心の中の葛藤、なかった事に、忘れてしまいたい過去。
綾波レイはそれが見る事が出来るほどに、シンジの心の奥に沈んできていた。

「まだ・・・これじゃない」

まるで何かを探すような台詞を残し、さらに深くへと綾波レイは沈んでいく。

「見捨てようとした。あの時のように」

「違う。結局は助けたじゃないか。あの時とは違う、それに見捨ててもいない!」

「だがお前のせいで死んだんだろう?」

「違う!アレは事故だったんだ!」

「なら、何故二人ともお前を攻めなかった? お前のせいである事に気付かせないためにじゃないのか?」

「ちが・・・・・・」

「お前はレイとの時と同じ愚行を繰り返そうとした。変わってないんだ。あの頃と」

再び、二人のシンジがいるかのような言葉が綾波レイに聞こえる。
その光景はサハクィエルを倒した後のシンジの葛藤だった。
アスカを助けるか、見捨てるかの選択を迫られ、確かにアスカを選んだはずだ。
・・・それとも選ばされた事への迷いか。

「近い・・・でも、まだ」

目指す場所はまだまだ先だと、一気に降りていく。

「しんじくん、あそぼ」

「俺にかまうな」

次に見えたのは、まだ小学生低学年といった所のシンジだった。
お下げの女の子がシンジに話しかけるが、年齢にそぐわない答が返る。

「なんで? だってみんなであそんだほうが・・・」

「それでどうなる? ただ無駄に無能な奴と時を過ごして何になる」

「わかんない。しんじくんのいってることむずかしくて」

「俺にかまうなと言ってるんだ。失せろ!」

まだ諦めきれないといった視線を寄越す少女に、今度は語尾を強めて突き刺す。
全くの理不尽な言葉によって少女の瞳には涙が溜まり・・・同時にシンジの心に小さな傷を生む。
どうして誰も放っておいてくれないのか。
少女から視線をそらしたシンジが走り出す。
自分にはちゃんと道が見えているというのに、邪魔するように安易な道を示す。
クラスメートも、周りの大人も。

「酷い父親ね。お母さんを殺しておいて、子供を捨てるなんて」

そう言ったのは近所の誰だっただろう。
何度も違うとその言葉を否定しても、聞いてもくれない。
殺したのは・・・母の命を止めたのは自分なのに。

鬱積していく傷たち。
凝り固まって、忘れられなくなっていく。

「まだ、もう少し」

いつの間にか綾波レイは額にうっすらと汗をかいていた。
シンジの後悔する気持ちや、苛立ちにあてられたのだ。
ここでしっかりと綾波レイが自分と言う物を持っていたならば、反発や同意ができただろう。
だが己が薄い綾波レイはそのどちらも出来ずに、シンジと同じように溜め込むしか出来なかったのだ。

アルサミエルの力を借りているとは言え、疲労の度合いが増していく中、それは見えた。
ずっと海のようにそこが見えず降りている中、底にたどり着いたのだ。
深い、心の底にある一枚の扉。

「これが・・・・・・碇君の」

十分すぎるほどに、シンジの心にあてられている綾波レイは、初めて躊躇した。
この扉を開けて自分は無事で居られるのか、碇シンジはどうなるのか。
小さな戸惑いが生まれるが、ゼーレの命令へ背くまでには到らなかった。
扉に手を触れると、ドクンと心の海が波打った。

「や・・・」

徐々に開いていく扉、その奥に眠る物は何なのか。
戸惑いを超えた時には、それを見たいという好奇心が綾波レイの中に生まれていた。

「やめろ、思い出すんじゃない! 思い出させないでくれ!!」

そこには、ベッドに横たわるシンジがいた。
そして、それを心配そうに見守る碇レイも。






『やめろ、思い出すんじゃない! 思い出させないでくれ!!』

シンジの叫びが発令所内に響いた。
使徒の精神攻撃の余波をうけて動きの滞った発令所内が徐々に動き出す。

「・・・パ、パイロットの精神グラフが乱れています。このままでは危険地に入ります」

「なんてこと・・・精神に干渉する使徒。使徒が人に興味を示しているとでも言うの」

「そんなことはどうだっていいでしょ。何か対策は・・・ジャミングとか出来ないの?!」

「あの光の波長がわからないことには無理よ。地下にいる私達にさえ影響があったということは、物質を透過する。と言うことはエヴァの電力を切っても同じ事」

「見てるしかないてこと!」

「心理グラフがもう限界です!」

ふらつく頭で苛立たしげに拳を握るミサトをさらに焦らせるような報告が入る。

「せめて、ここにアスカちゃんがいれば」

「それだわ!」

モニターをじっとみつめていたカヲルが漏らした一言にミサトが叫ぶ。
ホトンド直感的な思いつきだが、心が乱れるのなら安定剤を打ち込んでやればいい。
シンジにとってそれはアスカのはずだ。

「アスカちゃんは何処? いつもならここに来てるはずだけど、避難所ならすぐにでも呼び出して」

「とても間に合いません!」

「諦めるんじゃないわよ!。いいから呼び出しなさい!」

苛立たしげにミサトが叫んだ時にはすでに、モニターの中の初号機は両膝をつき懺悔するように頭を抱えていた。
その姿からシンジの叫びは、嘆きのようにも聞こえる。
今シンジが使徒によって何を思い出させられたのかは、発令所の誰もが理解できないでいる。
シンジの父である碇ゲンドウを除いて。

『だ・・・誰か』

弱々しい呟きがシンジからもれる。

『誰か助けて、誰か僕を責めてよ。父さん、母さん・・・アスカ』

「シンジ」

唯一届くはずのゲンドウの言葉は小さい。

『僕を許してよ・・・・・・・・・・・・レイ!』

コレまでで一番大きな叫びに、発令所よりさらに地下にある何かが反応した。

「これは・・・まさか、そんなことが」

「今度はいったいなに!」

「パ、パターン青。ネルフの真下からです!」

「いかん! 赤木博士、これから起こる全ての記録を即刻削除。全ての職員にも緘口を命ずる」

信じられない報告と命令に発令所の時が止まる。
確かにネルフにとって情報の隠蔽は常だが、司令みずから大っぴらに宣言して良いものではないからだ。

「あ・・・パターン青消失。今度は真上、初号機の・・・・・・」

初号機の目の前に現れたそれに、誰もが目を奪われた。
白く、純粋で穢れのない肢体・・・恐らく女性だろう。
目が複数描かれた仮面の隙間からは、黒髪が伸びて風に揺られている。
その胸の部分には深紅の槍が一本、深々と突き刺さっていた。

初号機とさして変わらない大きさの女性は、使徒の光から初号機を守るように立っていた。

『あ・・・あ・・・・・・・・・レ』

言葉に出来ない呟きを漏らしたシンジに反応する事無く、その女性は胸にある槍に両手を伸ばした。
引き抜こうと力を込めると、槍に引かれて周りの肉が盛り上がる。
そこから血は一滴も流れる事は無い。
徐々に、徐々に胸から槍が引き抜かれていく。

誰にもその行為は止められなかった。
行為を止めるという考えが思い浮かばないほどに、彼女の一挙一動が美しかったのだ。

やがて完全に引き抜かれた槍を掲げて、遥か上空のアルサミエルへと向き合う。
両足を離しておき、上体を激しくねじる。
助走、そして投擲。
槍が大気を貫き、光となってアルサミエルへと伸びていく。
その槍がアルサミエルのATフィールドを容易く貫き、アルサミエルそのものでさえ貫き消し去ってしまった。

『ィ・・・』

小さなシンジの呟きに、応えるように彼女が初号機へと振り向いた。
その手がゆっくりと仮面へと伸びる。

『や・・・やめろ』

ゆっくりと剥がされていく仮面。
向こう側にある顔が徐々に現れるにつれ、シンジの顔色が更に悪くなっていく。

『やめてくれ・・・僕は、もう』

口元がシンジには見えた。
優しく、無邪気に微笑むその口が声を出さずに動いた。

(おにいちゃん)

『うああああああああああああああああああああああああああああ!!』