long long stairs

第二十話 再会かなわぬ、別れ


(シンジ君!)

確かにそう声が聞こえた時、シンジは授業中にも関わらず勢い良く立ち上がった。
強い思念が届いたかのように聞こえた声には、焦りや困惑、そして恐怖が込められていた気がした。
声が聞こえたのは一度きりで後はシンジの耳に残る余韻と、突然立ち上がったシンジに送られる奇異な視線だけが残った。

「どうかしたのかね、碇君?」

「・・・いえ、なんでもありません」

余韻だけとなってしまった思念は、しっかりとシンジの心に困惑と不安を残していっていた。
席にすわりなおし授業が再会してもそれはおさまる事がなく、大きくなるばかりである。

あれはいったいなんだったのか。
空耳などではなくしっかりと、それは自分に届いていた。
そもそも誰の声だったのか。
誰のと頭ではわかっていなくても理解していたように、シンジの視線がカヲルの席へと移っていった。

「すみません、早退します!」

再び立ち上がりした宣言したシンジは、教師の返答を聞く前に走り出す。

「アスカも、来い」

「え、ちょっとっ!」

クラスメートと同じように困惑した視線を向けていたアスカの手をとり、シンジは教室を飛び出していく。
後ろから教師が待ちなさいと叫んでいるが、構っている暇は無い。

「ねえ、シンジ。一体どうしたのよ!」

手を引いている為すぐ後ろから掛けられるアスカの声も同様であった。
ほとんど無視するようにあいている片手でズボンのポケットから携帯を取り出す。
確か急遽決まったエヴァの起動実験。
聞こえたカヲルの声と、この身を押さえつけるかのような不安。
発進ボタンを押すのより一瞬早く携帯の着信音が鳴り、響く前にシンジが取った。

「シンジです」

「シンジ君、すぐに本部まで来て頂戴。車は裏に回っているはずだから」

「わかっています。松代で何かあったんですか?」

電話はミサトからだった。
走るスピードを少し抑え、電話に集中する。

「なんでそれを・・・カヲル君に聞いたのね。現状はまだ何も解って無いに等しいわ。先ほどスケジュール的に起動実験にはいったはずの松代から、連絡が急に途絶えたの」

「解りました。直ぐに向かいます」

電話を切り、一度後ろを振り返ると激しく息を切らせながらもアスカは不安を顔に貼り付けていた。
急に自分の手を引いて授業を抜け出したシンジ。
相手の声は聞こえなかったが、何かあったとだけは察する事の電話。

「シンジ」

「詳しく説明できるほど俺もわかっていない。ただ・・・」

大丈夫だとも言わず、シンジの顔にもまた不安の色が広がっていく。
こんなに不安そうにするシンジをみたのは、アスカは始めてだった。
隠すこともできないほどの不安。
一体それは何なのか、アスカもできるだけシンジを煩わせないように足を動かした。





発令所へと駆け込むと同時に、司令であるゲンドウから第一種戦闘配置の命が下った。
教室で電話を受けた時にはまだわかっていなかったらしいが、松代から連絡が途絶えたのは大きな爆発があったからであり、その爆心地から未確認移動物体が発見されたからだ。

太陽が真上よりからやや降りてきた空の下に初号機が配置された。
照り付けられる太陽の下、と言ってもエントリープラグの中だがシンジは不安と焦りから汗を流していた。
松代で起こった謎の爆発に未確認移動物体。
無事でいてくれよと操縦桿を握る手に力が込められる。

『シンジ』

モニターに事情を聞いたのか、シンジと同じ不安を抱いたアスカが映る。

「大丈夫」

それはアスカに向けた言葉なのか、それとも自らに向けた言葉か。

「大丈夫だ」

確認するようにもう一度呟くと、もう一つ回線が繋がった。

『野辺山で映像をとらえました。主モニターに回します』

主モニターは発令所のものだが、直に相対するシンジのエヴァにもその映像は送られてきた。
まだ山陰にかくれてその姿を見ることはできないが、山の傾斜からなにか突起のようなものが見える。
ゆっくりと歩くそれが徐々に山陰から姿を現していく。

「っあ、あれは」

先ほど見えた突起は、ウェポンラックだった。
力なく腕をたらし、疲れきった兵士のようにうな垂れて歩いている様にも見えるそれはエヴァ。
恐らく発令所の誰もが見るのは初めてだろう。
今日アメリカから届いたばかりの二号機であった。

恐らく本部を目指して歩いているであろう二号機をみて、シンジばかりでなく発令所内の時が止まっていた。
それを動かしたのはゲンドウの声だった。

『停止信号を発信。エントリープラグを強制射出しろ』

あわててオペレーターの一人が命令を遂行するが、すぐにその顔が凍りつく。

『ダメです。停止信号およびプラグ排出のコードを認識しません』

『パイロットは?』

『呼吸、心拍の反応はありますが・・・恐らく』

恐らく、その後に言葉を続ける事はできなかったようだ。
これから出撃するシンジと、今発令所にいるアスカ、そして本部にいるモノ全てに突きつけるには残酷すぎた。

『エヴァンゲリオン二号機は現時点をもって破棄』

その言葉で発令所にいる誰もが、エヴァにいるシンジでさえモニター越しに父を見た。

『目標を第十三使徒と識別する』

『待ってくださいおじ様。あれには、あれにはカヲルが乗っているんでしょう!』

シンジからも何か言ってくれとアスカはモニター越しに視線を寄越すが、シンジは確かに見た。
これでファーストチルドレンをおやけに処理する大義名分を得たと口の端をあげる父の顔を。
神の座の一番の障害であるファーストチルドレン。
だが、今のシンジにとってはカヲルは障害などではなく、一人の・・・

「解っている。絶対にカヲルは俺が助ける」

見えない不安が残酷な現実となって具現化したおかげだろうか。
シンジの言葉にはこれからなすべき事を理解した力強さがあり、不安は微塵も含まれていなかった。
そして、その言葉を聞いたゲンドウは、眉一つ動かす事無く立ち上がり二号機の元へと移動し始めた初号機を見ていた。





野辺山から少し離れた田園地帯、そこで初号機は二号と相対していた。
二号機は相変わらず腕も体もだらしなく垂らしていたが、初号機は腰を低く落としいつでも動ける構えである。
自分の視線が二号機に解るとも思えないが、シンジは視線をそらさぬままサブカメラを操作する。
映し出したのはエントリープラグ挿入口。

「粘膜、粘菌か」

先ほどの強制射出は粘性の液体に遮られるように止められていた。

「カヲルは返してもらうぞ」

二号機に語りかけていたわけではないが、二号機が応えるように吼えた。
渡してなるものか、これは私のものだとでも言っているのだろうか。
ピタリと咆哮が終わると同時に二号機の姿が消えた。

消えたと思う前にシンジは反射的に上空を見上げた。
助走も力をこめたた様子もなしに高く舞い上がった二号機が初号機目掛けて降りてくる。
反射的に光の鞭で応酬しそうになったが、すぐにバックステップで距離をとった。
下手をすればエントリープラグに当たる。
一度距離をとってから隙をみて接近し、一気にエントリープラグを引き抜く・・・そう考えたが甘かった。

「なにっ!」

元初号機が居た場所に舞い降りるとすぐに右手をあげる二号機。
放たれたのはカヲルがいつも使っている空圧弾だった。
初号機の体を捻りなんとかシンジはそれを交わすが、次弾が次から次へと放たれる。
それならと初号機の周りにいくつもの水球が生まれ、空圧弾を相殺するために放たれた。
だが、水球を易々と打ち破った空圧弾のいくつかが初号機に叩き込まれ、初号機は大きくよろめいた。

「くっ、甘かった。このまま離れていては」

水球弾は本来ものを溶解するのが目的で、叩きつける物ではない。
そう思い出したときも、シンジの判断ミスはまだ続いていた。
一瞬の後悔で気がそれていた間に二号機がまたもや消え、気がついたときにはその膝が腹部に突き刺さっていた。

シンジは腹部を貫き内蔵をぶちまけるような衝撃を感じ、叫ぶ事もできなかった。
仰向けに無様に倒れ伏す初号機。
再度これは私のものだと歓喜と勝利の雄叫びを上げる二号機。
エントリープラグの中でシンジは己の眼力の無さを恨んだ。
まさか、距離の得て不得手はあっても、こうも一瞬で倒されるとは思っていなかったのだ。

「つよい・・・ガハッ・・・・・・ァ」

擬似的な痛みが現実化し、シンジの口からわずかな血が流れ出た。
それを拭うと、まだ終わっていないと立ち上がろうと初号機を動かしていく。
だがその動作はお世辞にも機敏とは言えず、二号機は初号機の目の前にいるのだ。
まだ逆らう気かと二号機の顔に愉悦が浮かび、右腕がゆっくりと初号機へと向けられる。
撃たれる、そうシンジも思ったが二号機の腕が伸び初号機の首を掴んで持ち上げた。

「あ゛・・・ゥ」

首が折れないのが不思議なくらい込められた力に、肺に満たされたLCLが出て行くばかりで飲み込まれない。
首が折れるのが先か、窒息が先か。
呻くシンジは震える両手でなんとか二号機の手首を掴むが、引き剥がす力はなかった。
さらに二号機の手に力は込められ続け、反対の腕には黒い闇が、ディラックの海が生まれ始めた。





「生命維持に支障発生!」

「このままでは危険です!」

首を絞められれば当然だが、信じられないといった顔でアスカは声に振り向いた。
乗っ取られたのかもアスカには解らないが、アレに乗っているのはカヲルなのにとモニターに再び振り向く。
片手で初号機を持ち上げる二号機の闇を生み出した左腕が初号機にゆっくりと迫る。

「マヤ、シンクロ率を60%にカット」

「はい」

素早く反応したオペレーターをと指示を出した親友見て、ミサトは初号機へと通信をつなげた。
明らかにシンジはカヲルを傷つけないように加減して戦っていた。
だが現状からもはやそんな事を言っている場合ではない。
せめて自己を護る程度にはと思ったとき、その声はミサトの上から響いた。

「シンクロ率カットは中止だ」

「しかし、司令」

「中止だ。シンジ、何故本気を出さない」

『いま・・・やってるだろ』

呼吸も困難な状況で、声が絞り出された。

「何故使徒を本気で攻撃しない」

ミサトが控えめに発言しようとした言葉を、ゲンドウは言葉のまま言い切った。
二号機をあっさりと使徒と言い切ったこともそうだ。

『・・・・・・ァ、ウ゛』

段々と意識の繋がりに空白が生まれ出していたが、シンジもゲンドウが何を言いたいかは理解していた。
出撃前にも思ったことだ、ゲンドウは障害になるカヲルを消したいのだ。

「生命維持が限界です。このままでは!」

「使徒を力で攻撃しろ。それともそのままみているだけか?」

『・・・・・・・・・ち・・・よ』

すでに顔色が紫色になり、血の気を失い出したシンジが叫んだ。

『カヲルは友達なんだよ!』

シンジにとってカヲルは特別な事ばかりだった。
境遇は違えど同じ目的を持ち、それに向かって戦い、寝食を共にする。
例えその先に避ける事のできない決別が待っていたとしても、他の同年代にはない共有感があった。
それは神の座を諦めた今もかわらない。

シンジの叫びは、ほとんどの物にとっては何を今更と言う言葉であった。
この父と子の会話の意味を補うには知らないことが多すぎるからだ。
それはアスカも同じだったが、一つだけ他の者達と違う事があった。
誰の視線も状況を忘れ司令を見上げていたが、アスカはずっと初号機と二号機が映るモニターを見ていたことだ。
二号機の目が悲しい光を放ち、僅かに腕が緩みディラックの海が小さくなったのをアスカは確かに見て、そして動いた。

「カヲル、ごめんなさい!」

とても場違いな言葉だったが、あたりに構わずアスカは叫んだ。

「私いつもシンジの事ばかりで、カヲルの事ないがしろにしてた。カヲルはいつも私に優しくしてくれてたのに。今日だって、貴方を傷つけた。ずっと謝りたかったの、私も・・・貴方の友達だから!」





二号機の左手に生まれたはずの闇が砕けた。
強く締め付けられていたシンジの首からも、ゆっくりと圧迫感が抜け出し開放される。
伸びた腕が縮まり、再びだらしなく腕をたらした二号機に対し、初号機は力なく大地に崩れ落ちた。
シンジは貪るように酸素を、LCLを欲して激しく吸い込んだ。
ザッと荒れた通信音が初号機のエントリープラグと発令所の中に響く。

『な・・・て、言えば良い・・・・・・う』

それはカヲルからの通信だった。
涙まじりの声は途切れ途切れに響き、今までの全てが嘘のように二号機は動かない。

『シンジ君、二号機からエントリープラグを』

「あ、ああ」

殆ど無警戒のままシンジは二号機に歩み寄り、力任せにエントリープラグを引き抜いた。
一瞬だけ欲しかった物を取り上げられた子供のように二号機が両手を伸ばしたが、攻撃は無かった。

『バルディエルにはもう戦う意思はないよ。開放してあげてくれるかい、忌まわしい鎖から』

「開放」「忌まわしい鎖」その二つがどんな意味を持つかはシンジには解らなかった。
もしかするとカヲルは誰よりも使徒のことを知っているのかもしれない。
後で聞けば良い事だと神事は初号機の右腕から光の鞭を解き放ち、振り上げた。
両断されるその時までずっと二号機からの、第十三使徒バルディエルからの抵抗はなかった。
それを望むかのように静かに待ち受けるバルディエルの瞳に何か光る物をシンジは見た気がした。









二号機が使徒に乗っ取られたと判断された戦いは終わった。
乗っ取られた経緯や、バルディエルが急に大人しくなった理由はまたしても謎のまま。
赤木博士をもってしても、現在調査中の一言で済ませられた。
カヲルは精神的負担、もしくは使徒の侵食を受けていないかの検査に運ばれ、シンジは一人司令室へと呼び出されていた。

少し距離をあけ、デスクに肘をついて黙すゲンドウと立ち尽くすシンジ。
ゲンドウの様子は普段となんら変わらないように見えたが、シンジの方は珍しく躊躇うような表情を見せていた。
それはゲンドウから放たれるであろう言葉が、告げねばならぬ自分の決意があったからだ。

「ファーストチルドレンを殺す事が出来るか?」

その問い掛け方に妙な違和感を感じつつも、シンジは黙って答えられなかった。
殺せと言われるのも、殺す事が出来るかも、求められている事には変わりがないからだ。

「見捨てるのか。レイとユイを」

ゆっくりと紡がれる言葉がシンジの胸をかき乱す。
見捨てたわけではない、ただ過去よりも今を・・・未来を取ったつもりなのに。
それ以上何も言われず、刻々と時間が流れていく。
お互いどれくらい黙していただろうか、なんとか声を出す事ができるまでに震えがおさまったシンジは言った。

「・・・以前なら、迷わず殺せると言った。レイと母さんを見捨てたつもりも無い。でも・・・・・・カヲルは殺せない」

「そうか」

またしてもシンジはゲンドウの物言いに違和感を感じた。
いつもなら失望したと言うか、悪ければ命令違反で独房行きでさえ覚悟していた。
明らかな戸惑いを見せるシンジにゲンドウの口の端が上がった。

「何故、私がアスカ君をここに入れるようにしたか考えた事はあるか?」

「ない」

戸惑いが困惑になり始めたシンジはなんとか短い言葉を吐き出す。

「お前に後悔をして欲しくなかったからだ。確かに十年前に現人神計画を教え、神となる選択肢を与えたのは私で、選んだのはお前だ。だが、時が経てば様々なものが見え、また考えも変わる。だからアスカ君をここに迎え入れた」

まるでシンジがアスカを好きな事を知っているかのような口ぶりであり、困惑から狼狽へとシンジの顔に朱がさした。
息子の事はお見通しだとニヤリとゲンドウが笑う。

「レイもユイも私の大切な家族だ。ユイはまだサルベージできるが、レイは・・・できることならこの手に取り戻したい。だがその為ならば息子のお前がどうなっても良いというわけではない。お前も私の大切な家族の一人なのだ」

先のとは違う震えがシンジを襲った。
俯いて顔を上げることも出来ない。

「だが、一つだけお前に強制する事がある」

饒舌に柔らかい口調から一転した。
シンジも目元にあふれる熱いものを拭い、ゲンドウを見据える。

「使徒に討ち勝て、そしてゼーレの現人神計画を阻止する。それだけは絶対だ」

「わかったよ。父さん」

「それは心配要りません」

まるで全てを見ていて聞いていたような台詞が、突然あいた司令室のドアから放たれた。
そこには衰弱とまではいかないが、少しやつれたようなカヲルがいた。
シンジはともかくとして、ゲンドウの顔に警戒が映る。

「心配要らないと言ったはずですよ、司令。僕とシンジ君の間に約束の日が訪れる事はないと言うことです」

「どういうことだ」

「僕にその意思が無い事、シンジ君と戦うのは僕も望む事じゃない。なにより今日の二号機の件でわかるように、ゼーレは僕を見限ったからです」

シンジはカヲルも戦う意思が無い事、ゲンドウは見限ったと言う言葉にそれぞれ驚いた。
特にゲンドウの方は、何故その事に気付かなかったのか。
大切なはずの資格者を使徒の手中に放り込む暴挙の事実に今頃気付いていた。
おそらくシンジの決断に気をとられすぎていたせいだろうが、不覚とでも言いたげに唸っている。

「おそらく近日中に僕はゼーレに召還されるでしょう」

「しかし、召還に応じれば消される可能性もある」

「ええ、でも逆に彼らを消すチャンスでもある」

ゲンドウに答えて、胸の内を明かしたカヲルは無表情に言い放つ。
そしてシンジに向けても胸の内を明かす。

「僕が生きている事が知れれば、何処にいても僕に安息の日は訪れない。それが、僕の望んだ場所。シンジ君とアスカちゃんのそばにいても」

「・・・・・・カヲル」

何故もっと早くお互いの気持ちを確かめなかったのか。
自分たちは全く同じだったのにとシンジの顔に後悔と、逆の安堵が浮かんでいた。

「だからドイツへ行く前に、二人に伝えておきたい事があるんです。使徒の真実と生命の実について」









これから沈み行く太陽と、自分の背丈よりも大きく喧しい喚起ファンを背にカヲルは待っていた。
このドイツの片田舎で待ち合わせる相手は加持だった。
ゼーレかネルフかどちらの味方かもわからない相手だが、ゼーレと連絡を取るには頼らなければならなかった。
周囲に警戒の気を張り詰めながらも、思考だけは数日前の空港へと遡っていく。

飛行機への搭乗を控え、トランクに腰を預けるカヲルも今と同じように人を待っていた。
まだ少し距離があるが揺れる赤い風が自分の方へと向かってきている事には気付いていた。

「カヲル・・・・・・あんた」

まさに今さっき帰国を聞かされ走ってきた様で、息を乱したアスカの頬には無数の汗が浮かんでいた。
カヲルの元にたどり着いても、言葉が出ず息を整えるので精一杯のようだ。

「意外と速かったね。シンジ君は来てないのかい?」

「シンジは・・・もう、別れは済ませたからって」

その言葉にカヲルはおやっと眉を上げた。
シンジとは別れの言葉を交わした覚えは無い。
もしかすると気を使われたのかもと目の前で膝に手を当て、肩で息をする少女を見る。

あまり時間が残ってない事を知っているのか、急いで息を整えたアスカがカヲルを見やる。
何から伝えればいいのか、何を込めて言葉を吐けばいいのか。
完結に出来るだけ想いを詰め込んで放った言葉が、

「カヲル、ごめんなさい!」

の一言だった。

「僕にはアスカちゃんい謝れる覚えはないんだけど」

「いいから受け取っておきなさい。だいたい急に帰国って、怒鳴られないだけありがたいと思いなさい。急すぎて何を言えばいいのかわからないのよ!」

「何を言えばいいのか、か。それは僕も同じだよ。だから、帰ってきたら沢山話そう。言いたいことを全部」

「へっ?」

深刻そうな顔から一転、アスカがぽかんと口を開ける。

「あれ、聞いてなかったのかい? 今回はあくまで一時帰国なんだけど・・・」

「聞いてないわよ! このまま帰ってこないんじゃないかって・・・どうしてくれるのよ、今生の別れと思って慌てて来た私の気持ちは!!」

聞いてなかったのは僕のせいじゃないのだけれどとは言えなかった。
散々慌てて損したとか、どうせ直ぐに帰ってくるんでしょと言われたからだ。
確かに一時的な別れだが、あまりにもアスカらしい言い草にカヲルが苦笑する。

「すぐとは言わないけれど、帰ってくるのは確かだよ。それじゃあ時間だから」

「あっ・・・」

時間だからとトランクを手に立ち上がったカヲルに対し、意味の無い呟きがアスカの口から漏れた。
感情的になってしまったが、カヲルが帰ってくる保障は言葉以上になにもない。
もしかしたらカヲルの気が変わるかもしれない。
それとも他にどうしようもない、帰れない理由が発生するかもしれない。
呼び止めようと動いたアスカの右手が所存無く中を彷徨い、それに気付いたかのようにカヲルが振り向いた。

「一つだけ、君に伝えておきたい事があるんだ」

「あ、うん」

一瞬「何よ」と強気に出かけた言葉を飲み込む。

「シンジ君の次に、君の事が好きだったよ」

「私も同じよ。シンジの次に、アンタの事が好きだったわ」

それがカヲルが最後にアスカと交わした言葉だった。
今でも鮮明に思い出せるやり取りに、カヲルは一人微笑んだ。
また日本に戻ってシンジとアスカと共に、これからを歩んで生きたい。
そのためにはと、さび付いた蝶番が放つ軋んだ音に視線を移す。
自然の風ではない、人が近づく風で揺れていた。

「遅かったですね」

ゆっくりと開いていくドアに向かって放った言葉に期待した言葉は帰ってこなかった。
無言のままに開いたドアから現れた少女にカヲルが目をむいた。
本能的に逃走を選択し、カヲルの右手が深い闇を生み出した。
これが先日シンジに伝えたうちの一つ、生命の実の使い方である。
右手のディラックの海で強制的に出口を作ろうとするが、ファンを削り取る前にふっと消えた。

いや、消されたのだ。
カヲルの目の前に紅く光る壁、ATフィールドが発生していた。
すべてを削り取り消し去るディラックの海が、逆に包み込まれるように紅い壁に消されたのだ。

「があっ!!」

それを発生させたのが目の前の少女だと思い、空圧弾を放つが一発も彼女に届く事無く消えた。
そこでようやくカヲルは思考を形づくって狼狽した。
一歩一歩少女がカヲルに向かって歩いてくる。
カヲルもATフィールドを形成するが、少女の手がフィールドの表面をなぞるだけであっさりと消えた。

「何故だ! 何故君が・・・ロストナンバーである君が!」

応える様に足を止めた少女の顔は、何の表情も浮かべていなかった。
本当の意味での無表情であった。

「切り札。っとあの人たちは言っていたわ」

あの人たちが指すのが誰なのかは明白であった。

「加持さんは、加持さんはどうしたんだ!」

「死んだわ」

少女の真っ白な手のひらが、不釣合いなほど無骨で黒い銃を抱えた。
その銃口は真っ直ぐカヲルの心臓を狙っており、引き金が引かれた。
申し訳程度に立てられた小屋の中に響く荒々しい銃声。

「さよなら、アダム」