「おっはよぉ。シンジ、カヲル行くわよ」 明るさを惜しげもなく振りまくような元気な声が葛城邸に響き渡る。 ここに来れば自分を監視するような視線はまだ感じるが、アスカはあらゆる意味で開き直っていた。 迷惑をかけたのなら反省をし、もう二度としなければ良い、そして時期が来れば謝罪も可能な限り行う。 だからそれ以外はいつも通りでいいのだと。 「おはよう、アスカちゃん。シンジ君はもう直ぐ来るよ」 再度おはようと返してきたアスカに、特別でない毎日訪れるこの時が嬉しくて微笑み返すカヲル。 その笑顔を見るのが嬉しくその瞳に自分が移る事で心が踊る、だが。 「おはよう」 「おはようじゃないわよ、一番遅く出てきてなんでいまだ寝癖がついてるのよ」 「どうせ誰も気にしない」 「私が現時点で気にしてるでしょ。カヲルちょっと待ってて、これ直してくるから」 シンジが現れる事でもう、ほとんどアスカの瞳に自分が映らない。 乗り気でないシンジの手を引き洗面所へと向かうアスカの瞳に映るのはシンジのみ。 その事が酷くカヲルの心を疼かせる。 「やれやれ、結局は元の鞘って奴か。カヲル君も大変ね、ずっとあんなのに付き合わされて」 「僕は好きで二人といますから・・・」 居間からひょっこり顔を出したミサトに答えるが、「気になりません」と続きが言えない。 好きで、望んで二人といるというのに言えなかった。 自分自身の中に生まれるよどんだ感情にカヲルが僅かに顔を陰らせる。 「カヲル君?」 「いえ、なんでもありません」 どう見ても無理に作った笑顔にミサトがどうしたのと視線で問いかけるが、奥から二人が戻ってきた。 「もう、高校生なんだからいいかげん身だしなみぐらい一人で整えなさいよね」 「必要ない。だいたい俺は近寄るなと言ったはずだぞ」 「命令みたいな言葉を聞く必要はないって私も言ったわよ。あ、カヲルお待たせ」 「ちっとも待ってないさ。行こうか」 気にしてないと笑ったカヲルの顔に、やはりミサトは作り物めいた雰囲気を感じた。 ただその原因が何なのか、心当たりはあるもののはっきりとしない今、ミサトは問いただす事を躊躇し黙って見送る事しかできなかった。 「いってらっしゃい」 アスカを真ん中にして左右にカヲルとシンジが並ぶ、それがここ数日で確立された三人の並び方だった。 以前はシンジを真ん中にカヲルとアスカが両隣だったが、これも三人の心の微妙な変化の結果なのかもしれない。 「それで昨日のドラマだけど」 「テレビは見ない」 「話の腰を折るどころか、いきなり踏み潰すわね」 本気で怒っているわけではないが、それでも半眼で睨むアスカの視線をシンジは真っ向から受け止める。 「こういう場合は見なくても多少話をあわせるべきじゃない。カヲルもそう思うよね?」 「ああ、そうだね」 アスカは話をふって直ぐにまたシンジに向き直ってしまう。 取り立てて行う必要も無いのにカヲルはソレを分析していた。 二対八、それがアスカが自分とシンジに話をふる割合だ。 別に分析したからどうしたと言う事は無い、それでまた胸の疼きが大きくなろうと。 「だいたいテレビは見ない、音楽も聴かない、スポーツもしない。一体何に興味があるのよ。する事が無い毎日ってつまんないでしょ?」 「別に、」 カヲルは、その質問事態がつまらないといった顔をしたシンジが何を言おうとしているのかがなんとなく解った。 (生きる目的の無い奴が言う戯言) 「そんな事は生きる目的を持たない奴が言う戯言だ。確固たる目的があれば、人は一分一秒たりと無駄にはしない」 全てではないが、シンジの台詞を言い当てた事で何故か疼きが僅かに治まった。 ただ何故かと言う理由は全くの不明であった。 何時からだろうかとカヲルは自問する。 ユニゾンを行い僅かばかりにでもシンジと心を通わせたと感じた時からか。 それともあの電気の通わぬネルフの中でアスカを名前で呼ぶようになった時からか。 確実にその時から・・・それ以降から自分は二人といる事に喜びを感じていたはずだった。 いや、実際今ここにいることを自分は嬉しいと思っている。 なのに何時からだろうかとカヲルは再び自問する。 こんなにも胸が疼き、ドイツにいた頃より自分が何かを求めて心が乾くような感覚に陥り始めたのは。 「いったい、何なのだろう」 屋上で一人柵にもたれて呟いたカヲルの一言は、渦巻く風に引きずりこまれ消えていく。 授業をサボってまで風に当たりにきたと言うのに気分が一向に晴れない。 昼を迎えようと頂点に上ろうとギラギラ光る太陽に反して、カヲルの心は沈みきっていた。 時間が経つにつれ疼きが小さくはなっても一向に消える気配を見せないのだ。 それどころか一番自分にとって近しいと思えるシンジとアスカ、この二人によって疼きが大きくなっていく。 その事が胸の疼き以上にカヲルを苦しめていた。 「この僕が悩み事か。悩みは誰かに相談するのが定石だけど」 カヲルにはその相談という行為を行える人物が自分の周りに居なかった。 いるにはいるのだが、今回はその相手二人自身が悩みの根源なのだ。 「僕って友達いないんだな」 一応トウジたちは友達の範疇だが、組織の人間と一般人の壁は厚い。 改めて自分が呟いた言葉の意味を理解して苦笑する。 ネルフの上位組織ゼーレが作り上げた資格者、だがその実態は相談相手もいない寂しい存在だ。 「何を一人で笑っている。不気味だからやめろ」 突然声を掛けられ振り向くとシンジだった。 「色々と考え事をね。どうしたんだい、授業中だよ?」 「それはお互い様だ。それと携帯の電源は常に入れておけ。ネルフから至急実験したい事があると連絡があった」 「もしかして、僕を探しに来たのかい?」 あまりにも意外そうに問いかけるカヲルに、反対にシンジが怪訝そうに眉をひそめた。 「バラバラで行く必要もない。チルドレンが同席すれば護衛もしやすいだろう」 「そうだね。なんだか君らしいよ」 「それと、これは伝える必要もないのだが言っておく。悩みがあるならアスカに言ってやれ、心配していたぞ」 「心配、アスカちゃんが?」 カヲルにとってこちらの方がよっぽど意外であった。 いつの間にか顔に出ていたのはまだいいが、何時それに気がつかれたのか。 ただ気がついてくれたという事実で、胸の疼きが消えそうになるまで小さくなっていく。 「何をぼうっとしている。行くぞ」 「二人ともごめんなさいね、急遽呼び出したりして」 ネルフに着いた二人は、殆ど説明も無いままプラグスーツへの着替えを命ぜられた。 つまりはシンクロに関する実験と推察できるが、それだけなら学校を早引けしてまで行う必要も無い。 命ぜられるままに着替えを済ませた二人は、一つの模擬体用エントリープラグの前に集められていた。 「この所使徒との連や事後処理で立て込んでて、思うように実験が進んでなかったみたいなの。それに今回の実験はどうしても行っておく必要があるらしいのよ」 「構いません」 「僕もです」 それが当然とばかりに二人が受け入れた様子に不満はないと安心したミサトは、本来実験に関しては同席する以上の事は認められていないので二人の下から去り実験責任者であるリツコの元へと向かった。 今回の実験はダブルエントリー、チルドレンが同時に一つのプラグに搭乗したときの影響を調べるものらしい。 元々エヴァが複座式ならともかくミサトには良い影響が得られるとは思えなかったが、リツコには根拠があるらしい。 それは第三新東京市が停電に陥った時に現れたマトリエル戦の事だ。 停電時のため記録が無いのが惜しまれるが、ダブルエントリーをした初号機が加粒子砲を使ったらしいのだ。 映像はなくとも二人からの報告とその現場がかなりの情報を語っていた。 「貴方達が何処からか力が沸くのを感じたと報告した事から、私はただの奇跡と片付けるつもりはありません。まずは手近なダブルエントリーから調べていくつもりよ」 ミサトがちょうど実験室にたどり着いた頃には、あらかたの説明が終わったようだ。 「リツコ、チルドレンの精神状態に以上はみられなかったわ。早引けの不満も無いみたいだった・・・し?」 あくまで同居人として感じた事を言ったまでだが、ある事が引っかかった。 不満もなにも、つい数時間前の朝にカヲルの精神状態は良くなかったはずだ。 「ねえリツコ、この実験すこし遅らせられない?」 「よっぽどの理由じゃない限り無理ね。それに加粒子砲が何時でも使える状況は作戦部にとっても有益でしょ?」 「そうなんだけど・・・じゃあ、少しだけ言っておきたい事があるの」 そう言ってドアの外を指差すミサトにため息をついたリツコは、すぐ実験が再開できるようにダブルエントリーとエントリープラグの挿入を指示してから部屋の外に出た。 「実はカヲル君の事なんだけれど、もしかすると」 実験室を出て直ぐに離し始めたのはいいが、言いよどむミサトがリツコにはもったいぶっているように感じた。 それはただ実験を早く始めたいという気持ちからだったのだが、続けられた言葉に言葉を失った。 「アスカちゃんの事が好きなのかもしれない」 無視など決してできない問題だった。 アスカに対するネルフの感情もあれば、カヲルが持つ戦場での優先順位の変動があるかもしれない。 そして何よりもアスカの視線は常にシンジにある。 シンジもこれまでの行動から少なからずアスカを想っているだろう、ではエヴァのパイロット同士が恋敵か。 「やっかいね。何時それに気付いたの?」 「今朝よ。シンジ君とアスカのやり取りをなんか切なそうに見てたから・・・まだ可能性の話だけど」 「そう」 少し、本当に少しの間目を閉じて思考に専念したリツコは決断する。 「私もできるだけ二人の精神状態については今まで以上に気をつけるわ。けれど、実験は行います」 「ちょっと、リツコ」 「なら、エヴァのパイロットとして恋愛をするなとでも命令する? それで逆に互いを意識させたらそれこそどうなるかわからないわ。私たちは見守って、道を外れそうになったら手を差し伸べる・・・それが最善よ」 あまり納得がいってないようにミサとは渋く顔を潜めるが、最後には仕方ないかと諦める。 大学時代は無理に手を差し伸べて、方々に迷惑をかけた実経験もあるからだ。 「ただ少しでもおかしいと思ったら、即刻実験の類は中止する事。事が事だから作戦部からの要請はできないけど」 「解ったわ。思ったより時間をロスしたわね」 実験室に戻りすぐに実験を再開しようとしたが、その助手であるマヤが受話器を片手にしている。 司令室からなにやら連絡を受けているようだ。 「あっ、先輩。この上のタンパク壁に浸食がみられるそうです。テストに支障はみられません」 受話器を下ろしたマヤからの報告に、次から次へと起こる問題にリツコため息をつく。 「支障が無いのなら実験を始めます。シンクロスタート」 リツコの言葉を機に、実験室の特殊ガラスの向こうの模擬体にエントリープラグが挿入される。 本来ならシンクロ実験は模擬体まで使用することは無いのだが、より正確なデータを欲したためだ。 エントリープラグは元々一人用なので、モニターの向こうではシンジが座席に座りカヲルがその横にたたずむ。 これは報告書で聞いた状況と同じ状況を作り上げる為にリツコが命令した事だ。 今のところ表面上に現れるような違和感はないのか、二人とも目を閉じて静かに結果を待っている。 「マヤ、シンクロ率は?」 「56%です。最近の二人のシンクロ率平均に全く届いていません。下辺平均よりも低いです」 思ったよりもかなり悪い結果に本人たちに問いただす。 「どう二人とも、何か変わった感じはある?」 「模擬体と自分・・・二人の調和。そこに、同じ場所にいるのに何処か遠い誰かがいる」 目を閉じたまま呟いたシンジの言葉にミサトとリツコがギクリと顔を硬直させる。 ソレはまるでシンジたちの現状そのものではないかと。 「たぶんソレは僕だ。ふれたくて、ふれたくて、でも怖い」 独白、上の空に近い声で喋る二人だが、これ以上はと判断したリツコが止めようとしたその時、 「そして、もう一人。君は・・・誰だ?」 上を見上げたカヲルにシンジが続く。 突然鳴り響く警報音、実験室がざわめき出す。 「落ち着きなさい、報告を!」 『シグマユニットAフロアーに汚染警報発令』 「第87タンパク壁が劣化、発熱しています」 「第六パイプにも異常発生」 「タンパク部の浸食部が増殖しています。爆発的スピードです」 「実験中止、第六パイプを緊急閉鎖」 リツコが素早い判断で対処法を命令し実験室が慌しくなる中、一人状況を冷静に顧みるミサトがいた。 先ほどシンジは自分と模擬体、エヴァとカヲルの存在を言い当てた。 それはカヲルも同じで、チルドレンとエヴァの存在・・・もう一人の誰か。 もう一つある知らないが知っている相手とは。 「リツコ、エントリープラグを緊急射出。急いで!」 「そこまでの必要は無いわ。浸食は全てレーザーで焼き払うわ」 「そんな物が通じるはずがないでしょ。相手は使徒よ!」 ざわめきが使徒の一言で消え去り、わずかな空白が生まれた。 『うあああああああ!』 『ぐぅ・・・ああああああ!』 その対処が遅れた一瞬が全てをわけた。 聞こえてきた二人の悲鳴に連動するように、模擬体が頭を痛むように押さえている。 「いつのまに・・・謎の浸食が模擬体の下垂システムを侵しています。先ほどよりさらに浸食スピードが上がっています」 「プラグ緊急射出!」 「はい!」 リツコの命令を即座に実行する魔やだが、顔色が変わった。 何度も、何度もコンソールに同じ操作を行うのに射出されないプラグ。 「し、信号拒絶・・・模擬体が完全に浸食されました」 「二人は、無事なの?!」 「わかりません。ですが、模擬体以外の浸食が急速に停止、元通りになっていきます」 ミサトの叫びに絶望の言葉を吐くマヤ。 先ほどまでプラグの中を写していた映像は途切れ、悲鳴も聞こえてこない。 模擬体の動きまで止まってしまったのは不幸中の幸いか。 ただまだ続いている不幸の中で決定的なことをミサトが呟いた。 「チルドレンが人質にとられた」 「ええ、全て誤報です。ネルフ本部への使徒の侵入などあってはならない事。国連等への報告もありますので詳しくは後日こちらからお知らせします」 いつも通りあまり明るいとはいえない司令室では、ゲンドウと冬月がいた。 ゼーレへの報告を終えで受話器を置いたゲンドウは、机に肘をついた両手で口元を隠すと僅かにため息をつく。 予想外と言えば予想外、使徒の侵入は言うまでも無く、チルドレンを人質にとったと言う表現が一番予想外だった。 「しかし碇、人質とはまた使徒らしくない行動だとは思わんか」 「ああ、あれは恐らく人質ではない」 予想がついているような口ぶりに冬月が言葉ではなく目で問いかける。 「ダブルエントリー、恐らくそのせいで一時的にでも地下のアレの力を超えたのだろう」 「使徒が使徒違いを犯したのか。だが、今回の実験は模擬体で行われ、かつシンクロ率は通常より低かったと」 「生命の実だ」 端的に答を言ったゲンドウの言葉で冬月もそういうことかと納得を見せた。 これまでシンジとカヲルが集めた生命の実は八つ、しかもダブルエントリーで同時に起動させたのだ。 単純に力の源の数が違い、そもそもシンクロ率のパーセンテージは何を基準にしているのか。 千の力の五十%と百の力の八十%は明らかに違うと言うことだ。 「だが原因が解った所で解決方法が見つからなければ同じだ。入りたまえ」 当然と言えば当然の台詞を吐いたゲンドウは、まるで司令室の外にいた事を知っていたかのように扉を開けた。 二人もその事に一瞬驚いたものの、驚いている場合ではないと司令室の中へと歩を進めた。 リツコとミサトだった。 「報告を聞こう」 前おきなく呟かれた言葉に、主にリツコが現段階で調べ上げた全てを報告していった。 模擬体を完全に侵食した使徒の形状、その特性、侵食された模擬体の現状。 その全てが伝え終えられても、表面的な情報だけで解決策とみなされる言葉は一切出てこなかった。 外でミサト達が対策を練っている間、カヲルは夢のような場所に居た。 夢のようなであって夢ではない、だが他の言い方が見つからない。 カヲルはその夢の中では碇シンジであった。 コンフォート17の近くにあるあの公園、小さな子供であるシンジと二人の女の子が砂場で遊んでいた。 二人の女の子のうち一人は確かな面影があり、誰だかカヲルにもわかった。 その髪と瞳の色は日本人には決して生み出せない色、幼き日のアスカである。 もう一人の女の子、何処かシンジと似通った容姿の女の子はカヲルの見知らぬ少女であった。 だがカヲルはその少女を見た事があるような気がした。 「れい」 見知らぬはずの少女をカヲルであり、今は幼き日の碇シンジがそう呼んだ。 そして、れいと呼ばれた少女も答える。 「なに、しんじおにいちゃん」 幼きシンジはレイを呼び寄せ、砂場に作り上げた小山に互いの位置からトンネルを掘り始める。 素手で爪の間に砂が入り込む事も気にせず掘り続けると、やがて互いのトンネルが開通した。 開通したからと何があるわけでもない、たがいの手がトンネルを通じ触れ合った事だけで笑いあう。 それを見た幼きアスカが混ぜてとまた別箇所からトンネルを掘り始めた。 なんでもない、幼き日の思い出であろう。 砂まみれになった三人は家路に着き、家に着いたら服を汚した事で少々怒られ、三人一緒に風呂に入る。 カヲルにはその眩しすぎる時を、幼きシンジの中で羨ましげに見つめていた。 時を同じくして、シンジもまた夢のような場所にいた。 夢のようであって夢ではない、だが他の言い方が見つからない。 シンジはその夢の中では渚カヲルであった。 造りが違うように見受けられるが、やはり似通った雰囲気が見えるそこは恐らくネルフドイツ支部。 そこを自分である幼き渚カヲルは誰かに手を引っ張られ歩いていた。 なにも無理やりにではないがそこに優しさは無く、相手の手から伝わるのは義務感。 引っ張れられて居るのであって、望んで繋いでいるわけではなかったのだが、反抗はしなかった。 「ファーストチルドレンをお連れしました」 名前ではない記号で紹介された相手は、ホログラムの向こうにいる老人達であった。 口々に美しいだの、黄色い猿ではこうはいかぬ、と褒め称えるが、その言葉が真に向くのは己に流れる血にであった。 全く別の進化を遂げた生物ととある人種とのハーフであるカヲル。 誰もが口では幼きカヲルを褒め称え、崇高と証する資格と命令を与える。 そして、同種であり異種である事への孤独を。 「お前の使命は我らの計画の礎となる事だ。現人神、お前は人にして神となってもらう」 そこまではシンジの目的と合致した。 だが現人神計画はまだその先がある、老人たちはその先こそを目的とし命を下した。 とても、とても下らぬ目的を。 自らが渚カヲルであり、碇シンジである。 自らが碇シンジであるのか、渚カヲルであるのか。 確かにそこに違いが存在するはずなのに、少しずつ区別が無くなっていく。 まるで溶け合うような意識の中で両者は合わせ鏡のように向かい合う。 その両者の間に何かが現れた。 (君は碇シンジで、君は渚カヲル) 順にカヲルを指差し、シンジを指差した何か。 (私は碇シンジで、私は渚カヲル) 現れた何かが自分を指してカヲルを指差し、自分を指してシンジを指差した。 三者の存在の中で名前と言う自我がコロコロと移り変わっていく。 (私たちは渚カヲルであり碇シンジであり、イロウルである。一つになろう。そしてこの星をイロウルで満たそう) 命令でも誘惑でもない、イロウルの願い。 「嫌だ」その一言で全ては拒否できるはずなのに、シンジもカヲルも言葉を発せられなかった。 命令でも誘惑でもなかったからかもしれない。 純粋なる願いだったからこそ、相手を拒否してはいけないと言う想いがうかんできた。 (さあ、一つになるために互いの全てをさらけ出そう。君は私で、私は君だ) その言葉で二人は再び互いの過去へと意識を飛ばされる。 同時刻、模擬体へのシンクロ率の上昇が五十%から急上昇を始めた。 シンクロ率の急上昇の報を聞かされた司令室の四人は、互いに意思の確認をする前に走り出した。 司令室と実験室との間でチマチマと情報の行き来をしている場合ではないと言う判断である。 「現在シンクロ値は?!」 一番早く実験室へと着いたミサトがオペレーターへと怒鳴りながら問いかける。 「現在127%、現在もなお上昇中です!」 「シンクロ率が100を超える・・・まさか模擬体が暴走?!」 「それは解りません。模擬体は相変わらず沈黙を保っています」 専門知識が無いミサトではパニックに陥りそうな実験室を押さえる命令が下せなかった。 だが、それは追いついてきたリツコが来てもあまり大差はなかった。 400%を超える事だけは避けてと命令を下しても、命令を遂行する手段がなかったのだ。 模擬体への強制的なシンクロ率への割り込みはすべて拒絶されてしまう。 「模擬体を攻撃しろ」 静かだが、威厳を振りまく声が実験室に広がった。 「模擬体を攻撃だ。手段は問わん、ありったけの火力で攻撃しろ」 「しかし、ATフィールドの前では」 「時間が稼げれば良い」 流石に何の為にとはミサトはゲンドウに問い返さなかった。 確かに時間を稼ぐ事に意味は無いのかもしれないが、時間を稼ぐ事で何かが起きるかもしれない。 このまま黙ってみているよりは・・・ 「レーザー準備して、跳ね返されたって構わないわ。エネルギー惜しまないでよ」 僅かでも指標が見えたことで、実験室内が正常に機能を果たしていく。 「シンクロ率200%を超えました!」 まるで知り合いへの生まれ変わりを経験するように、互いの過去を経験していくシンジとカヲル。 もはや自分がシンジなのかカヲルなのか、それともイロウルなのかさえ解らぬ第四者へとなりかけていた。 自分を渚カヲルと思っていた者は、自分を碇シンジと思っていた人物の過去を見る。 「たった一年だが、時間は与えた。答えは出たか?」 ガラス張りの実験室で一人の男がまるで同世代を相手にするような口ぶりで、息子であろう少年に問いかける。 いや、その行動は正しかったのか、やけに大人びた目をした少年は頷いた。 「決めたんだ。レイのために、戦うんだって」 「いいのよ、シンちゃん。戻ってくる事にはもうシんちゃんは子供じゃないからもしれないけれど、また会えるわ」 言葉は強くとも、心に僅かにくすぶる不安を見取ったエントリープラグ内の女性が言葉をかける。 その言葉に後押しされたのかもしれないが、確かに少年は自分の意思で目の前のボタンを押した。 傍らのコンソールに映る数値が100を超え、200を過ぎ・・・400となる。 プラグ内の女性は何処か満足そうに、消えた。 恐らく母親であろう女性が自らの行動で消えてしまっても、少年は泣かなかった。 ただ強く自らが行った行動をその小さな体で受け止め、記憶に刻み込む。 「シンジ、これからお前はある人のところで過ごしてもらう。強くなれ、誰よりも強くなって全てを取り戻せ」 「わかってる。誰よりも強くなって、また・・・四人で」 震えた声でも少年は最後まで涙を見せなかった。 これまでのようにまた次の碇シンジだった者の記憶をたどるはずだった。 だが順に流れていく記憶の中で、渚カヲルだった者は偶然だがある地点での記憶が抜け落ちている事に気付いた。 もしかするとその偶然も外でゲンドウが下した命令でイロウルの意識がほつれたせいだろうか。 それは碇レイ、シンジの妹が事故で死んでしまう直前であった。 葬式も通夜も、その後の一年も見たのに、事故の直前の記憶だけがない。 (何故) イロウルの意識のほつれが渚カヲルだった者へと伝染する。 自らの意思でそれを知りたいと思った。 碇シンジが生きた十七年と数ヶ月の記憶を深く、より深いところへと降りていく。 そこは時系列とは関係の無い、忘れたくても忘れられない、忘れたいけれど忘れてはいけない記憶の間。 誰かを傷つけ、逆に傷つけられた・・・自責と後悔。 そこにはシンジが強くなる為に捨てた者、傷つけた者たちへの記憶が数え切れないほど詰め込まれていた。 最深部、厳重な扉の向こうに確かにポッカリと抜け落ちた記憶があると渚カヲルだった者は感じた。 (僕は渚カヲルで、僕は碇シンジ) イロウルに洗脳されるままに扉に触れた時、触れた腕から電流のように突き抜ける衝撃を感じた。 (うああああああああああ!!) 感じた痛みはもしかすると渚カヲルだった者の物ではなく、碇シンジだった者の物だったかもしれない。 痛むのは自分の体なのか他の誰かなのか。 (これ以上俺を覗くな。消えろ、消えろ!!) 不意に頭の中に響いた声は、確かな意思があった。 碇シンジと言う名の自我が持つ意思が、そして渚カヲルも己を取り戻す。 絶対的な拒絶が皮肉にも渚カヲルの自我を取り戻させたのだ。 自我を取り戻す事でまるで大きな手に引っ張られるように、カヲルの意識は引き戻される。 気がつけばシンジとイロウルを前にしていた。 (馬鹿な。何故私を拒む・・・私はお前で、お前は私なのだぞ) 「だからなんだ」 あまり感情を表に出さないはずのシンジが、明らかにその目に怒りをたたえていた。 人の形すらとらないイロウルと言う意識の前に立ち、両の手をかざす。 (私を傷つけるという事は、自らを傷つけるという事なのだぞ) 「だからなんだ」 イロウルが、使徒であるはずの存在が碇シンジという人を前にして・・・怯えていた。 「お前は俺を怒らせた。消えろ」 かざした両手からパイルが光の鞭が加速粒子砲が酸が、これまで手に入れた全ての力が放たれた。 貫かれ、斬られ、消し飛ばされ、溶かされ、イロウルが消える。 それでもまだ気がおさまらないのか、シンジの力がやがてこの集合意識の空間へと向かった。 「消えろ、消えろ。全部、何もかも全てだ!!」 唯一の救いはその攻撃がカヲルにだけ向かなかった事だろう。 荒れ狂う力が空間にひびを入れ、壊れた。 「シンクロ率380%、駄目ですまだ上昇止まりません」 「攻撃を続けて、最後まで諦めちゃ駄目よ」 もはや悲鳴に近いオペレーターの報告にミサトの叱咤が飛ぶ。 本心ではミサトも、もう駄目かもしれないとは思っていた。 だが諦めの言葉だけは吐けなかった・・・その時。 『消えろ、消えろ。全部、何もかも全てだ!!』 急に回復した通信から声が届く。 「シンジ君!」 「シンクロ率上昇停止、徐々に下降していきます!」 奇跡は起きた。 原因はまだ不明だが、やがて発令所からもパターン青の消失の報が届けられた。 段々と下降を始めたシンクロ率に伴い、エントリープラグ内の映像も回復していく。 カヲルはプラグ内の座席にぐったりともたれているが、シンジは意識をはっきりと声を上げている。 「直ぐに医療班を寄越して、リツコ行くわよ」 「ええ、マヤこのままシンクロが通常値にまで低下したらシンクロをカットした後プラグをイジェクト」 「了解です」 違った意味で慌しくなった実験室の喧騒の中で、成り行きを見守っていた冬月はやれやれとため息をついた。 「まったく、お前の息子は心臓に悪いな」 そう問いかけた隣には、すでにゲンドウの姿は無かった。 シンジの声とパターン青の消失の報告で司令室に戻ったのだろう。 「息子の無事を表に出して喜べぬとは・・・辛いな。君、後でこのことを報告書に纏めて司令室に持ってくるよう赤城博士に伝えてくれ」 「了解しました」 もう一度やれやれとため息をつくと、冬月もまた司令室へと足を向けた。 |