long long stairs

第十五話 


「大暴風」、原因も理由も語られる事なくそう発表された使徒戦から一週間が経った。
破壊された街は少しずつ修復されていき、人々の生活も少しずつ元に戻り始めていた。
学校と言う子供達の生活の基盤も例外ではない。
教師も生徒も総出でまずは校舎の清掃から始まった。
割れた窓ガラスの撤去、入り込んだ風によって散らかった教室内の清掃、やる事は幾らでもあった。

「あ〜あ、勉強しなくて済むのはいいけど掃除ばっかってのも、もう嫌だな」

クラスの誰かが漏らした一言は、誰もが持つ考えだった。
恐らく学校だけでなく家でも似たような清掃を行っていたのだろう。
できればお金を払ってでも清掃業者に頼みたいところだが、その様な業者はすでに借り出されているか、業者の事務所自体に清掃の必要性が発生していた。

「そうよね、私の部屋なんか窓が割れたのはまだしも雨が振り込んじゃってさ」

「天気不安定だったもんね。私も大切なアルバム何冊かおじゃんだったよ」

後から後から俺なんて、私なんてと不満が続いた。
その一言一言が一人の少女の心をえぐっているとは知らずに。

誰か一人が不満を漏らす度にアスカは「私のせいじゃない」と自分に言い聞かせていた。
自分はただシンジの事だけしか考えていなかったのだ。
自分が住む街を破壊するつもりなどあろうはずもない、ただ結果そうなっただけ・・・
だが、「結果」と考えている時点でアスカは自分がそうなるように自分が導いてしまったことを自覚していた。

「アスカ、なにぼうっとしてるの?」

「別にぼうっとしてなんかないわ。はやく片付けちゃおうって」

ヒカリに尋ねられ、抑揚の無い声で答えたアスカは散らかったガラス片の前にしゃがんだ。

「ちょ、アスカ!」

「っ!」

アスカが素手でガラス片に触れようとしている事に気付き止めようとするが、遅かった。
すぐさま引っ込めたアスカの指先には血がぷっくりと球状に膨らんでいた。

「やっぱりぼうっとしてたんじゃない、ほら見せて」

「平気、これぐらい」

「平気じゃないでしょ、バイキンでも入ったら大変じゃない」

アスカの手を無理にとると、胸のポケットからハンカチを取り出すと膨らんだ血を吸い込ませ傷口を凝視する。
わりと大き目のガラス片だったので欠片が侵入したとは考えにくい。
それでも用心するに越した事はないと、ヒカリは教室の中から適任者を選び出した。

「ねえ渚君、アスカがガラス片で指きっちゃったから保健室に連れて行ってくれない?」

当然受け入れてもらえると思っていたが、帰ってきた言葉はそっけなかった。

「指を切っただけで歩けないわけじゃないんだろ。子供じゃないんだから一人でも行けるよ」

耳を疑ったのはヒカリだけではなかった。
つい先日まであんなにアスカと仲が良かったカヲルの言葉とは教室の誰もが信じられなかった。
確かに言葉は正論だが、あまりにも優しさが感じ取れなかったからだ。
なんなのよと口のなかで毒づきながらヒカリはあまり選びたくなかった者を選んだ。

「碇君」

「知るか」

たった一言で教室を去って行ったシンジ。

「もういいわよ、アスカ行きましょう!」

「うん」

二人が連れて行かないのならと名乗りを上げた男達を無視してヒカリはアスカの手を引っ張っていった。





「全くなんなのあの態度。そりゃあ指先だから歩けるけど、それに知るかって何よ」

運悪く保険医はいなかったが、ヒカリは一人でアスカの治療を終えていた。
血を洗い流しガラス片の有無を確認すると消毒をして絆創膏を巻きつける。
その間怒って口に出るのは二人への不満だった。
あまり人の悪口は言わないように気をつけてはいるが我慢の限界は当然持ち合わせていた。
もしかすると当のアスカが何も言わなかったのが多少関係あったかもしれない。

「アスカはあんな言い方されてなんとも思わないの?」

「別に・・・仕方がないわ。それだけの事をしちゃったんだもん」

学校が再開するこの一週間欠かさず二人に会いにコンフォート17まで足を運んだ。
何度もネルフ関係者に足止めをくらい、玄関先までこぎつけてもドア越しの帰れの一言で会うことは叶わなかった。
徒労に終わった結果と教室で聞いた「大暴風」への皆の不満。

「なんだか疲れちゃったな、本当に」

腰を下ろしていたベッドに倒れこむように体をあずける。

「シンジの事もカヲルの事も」

「そっか」

何があって仕方がないと思えるか、その理由を聞く事無くヒカリはアスカの横に腰を下ろした。
自分に背を向け体を少し丸めているアスカの頭をゆっくりと撫でる。

「なら無理する事はないんじゃないかな。私は元気のないアスカを見るの嫌だもの」

「無理、してたのかな私?」

「私はそうだと思ってた。もしアスカ自身わからないなら、試してみる?」

ヒカリが取り出したのは二枚のチケットだった。

「先週まで渚君といい感じだったから渡さずにおこうかと思ってたんだけど、お姉ちゃんの知り合いの人がアスカの事誘いたいって。聞いた感じでは大人しい人らしいから」

「でも試すためにデートするなんて気が引けるな」

「悪い事じゃないわよ。試すって言う行為もきっかけの一つにすぎないんだから」

「そう・・・なのかな」

疲れたという言葉は本当だった・・・シンジを追う事に疲れていた。
ここで追うことを止めてしまえば後悔はするだろうし、いずれただのクラスメイトと考える事もできるだろ。
そう考えた時、チクリとアスカの胸が痛んだ。
それでもアスカはゆっくりとチケットを受け取っていた。

「土曜の午後一時に入り口の所で待ち合わせよ。がんばってね」

「うん、ありがとうヒカリ」

まだ少しぼやっとした目でチケットを見つめているアスカ。
ヒカリは気にしないでと手を振ると保健室を出て行き、そのままある者の所へと走っていった。









思ったよりも人が集まっていた遊園地に、十分ほど早くついてしまったアスカの表情は硬かった。
相手が時間に正確であればあと十分で自分の前に現れる。
気合が入っているとまでは行かないが、それなりに気を使った服装が変ではないか何度も見回す。
そう、惣流・アスカ・ラングレーは緊張していたのだ。

なにせ今まで男と二人きりで何処かへ出かけた事は無く、さらにその男は顔すら知らない相手なのだ。
やっぱり中止にしてもらって後で謝罪でも述べようかと思い始めていた。

「惣流アスカさん?」

「はい?」

少々疑問系の返事だった為、名を呼んだ男は困った顔をしていた。
イエスなのかノーなのか判断に苦しんだのだろう。

「あ、惣流・アスカ・ラングレーです」

アスカが言い直した事で男の顔が綻んだ。
身長はアスカよりやや高い程度で筋力と言う言葉とは無縁そうな体格で、小顔の男だった。
決して恰好いいとは言えなかったが、今目の前で微笑んでいる顔は何故か落ち着ける雰囲気があった。

「よかった待っててもらえて、本当はもっと早く来るつもりだったんですけど遅れちゃって」

「遅れてって、まだ時間に少し早いぐらいですよ」

「人を待たせるのが苦手なんです」

それから何かを言いかけた男はそのまま言葉を止めた。
妙な間があったがすぐに男が気を取り直す。

「それじゃあ、行きましょうか」

ぎこちなく差し出された手は震えていた。
アスカが相手も自分と同じように緊張しているのだと妙な納得をして手を握ろうとしたが、できなかった。
触れる直前にまで手を伸ばす事ができてもそこから一歩先が踏み出せない。
嫌だったわけじゃない、ただできなかった。

「は、はは・・・まだちょっと早かったでした?」

「ごめんなさい」

「謝らないでください。ほら、まだ会ったばかりですし」

男の笑いと言えない笑いにアスカは謝る事しかできなかった。
ぎこちなさを隠し切れないギクシャクとした雰囲気のまま入り口でチケットを渡して入場していった二人。
そんな二人を見張るように、心配するように後をつける者たちがいた。
彼らもまたアスカたちの後を追って入場していく。





入り口付近もそうだったが、園内にはなおさら先日の爪あとは殆ど残されていなかった。
その事は多分にアスカの心を軽くはさせていたが、別の事がアスカの心にのしかかっていた。
触れられなかった手、そして今歩いている相手との距離。
そこには人一人分程度の間があり、並んで歩いているとは少し言いがたい。
自然と何が違うのだろうと考えてしまう。

あの月の下で手を取りあう事のできたシンジと、同じ傘で並んで歩けたカヲルと。
何が違ったんだろうと。

「あのアスカさん。少しそのベンチで待っててもらえますか?」

「はい」

殆ど上の空の返事だったが男はそのまま走っていってしまった。
その直後に今自分はデートの最中だった事を思い出し、相手がいる事を忘れていた事に自己嫌悪におちいる。
いつも自分は自分の事で頭が一杯で、そのせいで嫌な思いをさせ、迷惑をかけている。
それなのにシンジは・・・・・・シンジは、いつも何?

「はい、これ」

何かを思いつきそうだった所に差し出されたのはアイスクリームだった。
当然差し出しているのはアスカのデートの相手。

「あり、ありがとう」

「どういたしまして、なんだか元気がなさそうだったからこれで元気がでないかなって。・・・ちょっと手が幼稚かな」

「いえ、十分嬉しいです」

今度こそ、その笑顔に答えてアスカが笑う。
冷たくい甘い味が心地よく、少しだが晴れやかな気分が生まれた。
先ほど何か思い出しそうな感じだったが、何時までも上の空では失礼だろう。
考える事なら後でもできると、今はソレを忘れて相手に付き合おうとアスカは決めた。





入り口からずっとアスカたちをつけていた者の一人がほっと一息ついた。

「なんだか、ちょっとはうまくいきそうね」

会話の内容は聞こえないが、傍から見ていてその雰囲気が変わった事が解り隠れていたヒカリが呟いた。
そして隠れていたもう一人、カヲルが頬を掻きながら自分達を批評する。

「さあ、僕にはよくわからないけど、今してる行為が良くないことは解ってるつもりだよ」

「だってしょうがないじゃない。紹介した手前何かあったら大変だし、私じゃどうしようもないし」

「だったら僕よりもっと凄みのある鈴原君かシンジ君を連れてくるべきだと思うけれど?」

「それはそうなんだ、けど・・・」

少し顔を赤らめた後、直ぐに嫌そうな顔になったヒカリでカヲルは大体の事を想像できた。
トウジとはちゃんとした理由で訪れたく、シンジは・・・あまりヒカリに好かれていないといった所か。
やれやれとヒカリに解らないように肩をすくめると改めてアスカと男を見た。

良く知っている底抜けに明るい時の笑いではないが、アスカは確かに一人の男の前で笑顔を見せていた。
人が人と仲良くする事はいい事だ・・・自分だって多くの人と分かり合いたいという想いがある。
なのに今自分の心の中で目の前の光景に割り込みたくなる何かが芽生えていた。

「さて、もう大丈夫そうだから私は退散するね」

「僕はもう少しここにいるよ」

「そういうと思った。がんばってね」

カヲルの肩をポンッと叩いて去っていったヒカリ。
まだ芽生えた感情の意味は解らなかったが、ヒカリはソレの正体を知っているようだった。
見透かされていたのは僕の方かとカヲルは苦笑した。





思ったより早く過ぎて言った時間は、それだけ自分が楽しめた証拠だろう。
名残惜しそうにする男を前にしてアスカは向き直った。

「今日は本当にありがとうございました。とても楽しかったです」

「それじゃあ」

次もと言葉を続くはずだった言葉をアスカが止める。

「ごめんなさい、私はまだ自分の事が手一杯でそういうことは考えられないんです。多分今のままだと嫌な思いさせると思うから」

「そんな、僕は絶対に嫌な思いなんて」

「私の中の問題なんです。それじゃあ、本当にありがとうございました」

大げさに頭を下げると走り去るアスカ。
本当はちょっといいかなとも思ったが、中途半端な状態でいたくなかったのだ。
まだまだ自分は考え、行動しなければならない事がたくさんあるのだから。

立ち止まる事無く遊園地の出入り口から出て行くと、見知った顔が視界の隅に映り立ち止まる。
見間違いとも思ったが、自分を待っていたかのようにこちらを見ているカヲルがいた。

「やあ、お疲れ様」

「カヲル・・・なんで」

「洞木さんがアスカちゃんの事を心配しててね、ボディーガードみたいなものかな」

「そうじゃなくて!」

首を強く横に振るアスカ。
カヲルもアスカが何を言いたいのかは解っていた。
近寄るなと間接的にでも言った自分がここにいるからだと。

「シンジ君がどういうつもりで言ったかは解らないけど、少なくとも僕は君に罰と反省の時間を与える為に言ったつもりだよ。そもそも学校もクラスも同じなのに近寄るなとは不可能だと思わないかい?」

あっとその事に気付いたアスカはへなへなと地に腰を落とした。

「私があんなに悩んだのはなんだったのよ」

「だからソレが目的だったんだよ。だから目的が達成され、君の前に現れた」

この言葉は本当だが、なにも今でなくても良いはずだった。
だがカヲルはあえてアスカが男と別れた今を選んだ。
まだその理由はカヲル自身わかっていないが、座り込んだアスカを楽しそうに眺め手を差し伸べる。
するとアスカはお返しとばかりにわざとカヲルの腕を強く引っ張り、勢いをつけてそのまま腕にだきついた。

「ちょっ、アスカちゃん」

「なによ、この私が腕組んであげてるのよ。もっと涙流して喜びなさいよ」

先ほどの男に見せなかった態度とその笑顔に優越を感じ、顔が綻んでしまう。
これが本来のアスカだからだ。

「そうだね。あまりの嬉しさに君をこのまま食事に誘ってしまいそうだよ。・・・ラーメンだけどね」

「色気ないわね。幻滅よ、幻滅」

「お互い、色気より食い気じゃないのかい?」

「ま、それもそうよね。ただし、カヲルの奢りよね」

美男美女が交わすこの奇妙なやり取りは当然のごとく周囲の視線を集める事となった。
二人にそのつもりが無くともそれは自然のことである。
ただ、二人は忘れていた。

「なんだよそれ。なんなんだよそいつは・・・」

まだここが遊園地の出入り口であり、帰るためには誰もがここを通らねばならぬ事を。
その光景を見て呟いた男の手が、震えるほどに強く握り締められていた。









翌日の放課後、すでにシンジが帰ってしまった教室でアスカが声をあげる。

「カヲル、帰るわよ」

「はいはい、ちょっと図書館に寄るから先に昇降口に行っててくれるかい」

「さっさとしなさいよね」

解ってるよと手をあげて図書室へと向かったカヲルに不満そうな顔を向けたが、やがて顔に笑みが浮かぶアスカ。
ある日を境にふっと失った者のうち一人が戻ってきたのだ、当然だろう。
もう一人失った者がいるのだが取り戻す手口さえ見つからない今、取り戻せた一人を大切にするしかない。
そんな自分でも理解していない状況が頭をよぎった時、アスカの背後からそっと近づく者がいた。

「ア〜ス〜カ」

「なによヒカリ、気持ち悪い声出して」

「渚君と朝も一緒に登校してたよね。どうしたのかなぁ? デートの相手が違うと思うんだけどぉ」

後ろから顔を回り込ませ、覗き込むように投げられた言葉はからかい以外の何物でもない。
なによりもあの時カヲルを差し向けたのがヒカリだと言う事は本人も言っていた。

「さあ、どうしたのかしらね。お節介な誰かさんがカヲルに何か頼んだからかしら」

「・・・もしかして怒ってる?」

そっぽを向いて棘のある言葉を吐かれ失敗したかなと眉をひそめるヒカリ。
だがその直後、困惑に目を見開いた。
突然振り向いたアスカがその体全部で覆うように抱きついてきたのだ。

「怒ってるわけないでしょ。感謝してる、ありがとう」

「ほら泣かないの、せっかくアスカが笑ってくれたのに」

「ごめん、もうちょっと」

ヒカリは抱きつかれた時の驚きで硬直した体をふうっとため息をつく事で力を抜いた。
そのまま優しくアスカの背中を撫で付ける。

「あら?」

もうちょっとと言いながらなかなか離れようとしないアスカに困り始めた頃、校門にたたずむ一人の男に気付く。
私服であったため学校の者ではない事にすぐに気付いたが、他にも心当たりはあった。
今自分に抱きついているアスカが休日にデートした相手である。

「ねえ、アスカ。あの人って」

「え? あっ・・・」

やはりそうなのか、知り合いであると言う反応だ。

「なんだろう。どうせ帰るついでだし、ちょっと話してくるね」

「ちょっと、アスカ」

抱きついた気恥ずかしさもあったのか、制止も聞かずに教室を出て行ってしまうアスカ。
別に止める必要は無いはずなのに自分が止めようとした事をヒカリはもっと考えるべきだった。
もう一度校門にたたずむ男を見ると、下校する生徒の誰もが迂回するように避けている。
直感的に出た言葉は、時に思考よりも正確に現状を把握しているのかもしれない。
ヒカリの足が図書室に向かったはずの男の下へと急いだ。





「あの、何か御用で、した・・・か?」

段々と途切れていく言葉は、目の前の男から感じた違和感ゆえだった。
つい昨日会った時は初対面であったのにもかかわらず、何処か人をほっとさせるような温かみがあった。
なのに今アスカの目の前にいる人物は同じ人物なのか疑いたくなるような暗さがあった。
特にその眼が、深く暗い。

「用・・・そう用があるんだ。すぐに終わるだろうけど」

男が一歩踏み出した時、自然とアスカは一歩退いていた。

「用って、なんですか?」

「聞きたい事があるんだ。昨日の男は誰だい?」

「昨日の?」

一瞬何の事だがわからなかったが、すぐに言葉の意味が理解できた。
あの時デートの後にカヲルと自分が会っていた事を見られていたのだと。

「あれは、その・・・」

答えられるはずがなかった。
カヲルはアスカのボディーガードとしてきていたのだ。
その事実は相手にとっては侮辱以外の何物でもない。

「やっぱい答えられないよね。それともまだ君たちは僕をからかう事を続けるつもりなのかな?」

「からかう?」

「そうだよ。おかしいと思ったんだ。あの惣流アスカが僕の相手をしてくれるなんて!」

「ちょっと待って!」

凄く不味い誤解のされ方をしていると声を張り上げるが、男は聞く耳を持っていなかった。

「どうせあの後あの男と二人で僕の事を笑ってたんだろ。人が一生懸命好かれ様としてたのに!」

ここは第一高等学校の校門、アスカとこの男のやり取りにやがて人だかりができ始めていた。
それでも男は気にした様子も無く、ただアスカに暴言の吐き続ける。
その言葉が真実かどうかは観衆には判別がつかないが、男の必至な形相からそうなのかと思う者は多かった。
段々と周囲の視線が厳しくなるにつれ、アスカの顔が気弱に陰りをみせていく。

「私は、そんな事」

否定の言葉は弱く、押しつぶされそうになる不安の中で声が届く。

「アスカちゃん!」

「カヲル」

人垣の向こうから届いた声に振り向くアスカ。
だが男はこれを待っていたかのように、ニヤリと口を曲げて笑った。

「ちょっと通してくれ、アスカちゃん!」

「やっぱり来たか。でも、もう遅い。取り返しのつかない事があるって事を教えてあげるよ」

誰が最初に気付いたのか、人垣の何処からか悲鳴が上がった。
それは男がその手に握る一本のナイフへの、そしてソレが向かう相手へ危険を知らせる悲鳴。
アスカが振り向いた時にはナイフが振り下ろし始められており、悲鳴をあげる暇さえなかった。
叫ぶ事も避ける事もできず、振り下ろされるナイフをアスカはただ待つしかできない。
アスカの名前を呼ぶ者が何人もいたが、それでも動く事は叶わずアスカの顔に鮮血がとんだ。

「シ、シンジ」

血飛沫に眼を瞑り再び開けた時、アスカはナイフによって貫かれた人の手を見た。
そう、碇シンジの手によって止められたナイフを。

「なんで、なんでそんな奴をかばうんだよ。なんで邪魔するんだよ!」

「なんでだろうな」

自らの手に刺さったナイフの痛みに苦悶の表情を浮かべながら、シンジは自嘲的な笑みを浮かべるとすぐに首を横に振った。

「いや、理由はわかってる。ただ口にすれば本当に・・・ッ」

「シンジ!」

右手から電流が流されたような痛みにシンジが膝をつくとアスカが駆け寄った。

「なんだよ。なんなんだよ!!」

頭を抱えて叫んだ後、男は標的をシンジに変えて蹴り上げようと足を繰り出した。
もしくはアスカがシンジを庇うと確信があったのかもしれない、その通り庇ったアスカに向かう足。

「君には一生解りそうも無いね。こうも短絡的に人を傷つけようとする君には」

男が振り上げようとした足を同じく足で上から押さえつけるようにカヲルが止めた。
その眼には大切な者を二人も傷つけられた怒りが渦巻いている。
そのまま受け止めた足を地面に押しつぶすと、前のめりになって悲鳴をあげた男の顔面に拳を突き入れた。
ぐしゃっと擬音が聞こえてきそうな威力に男は吹き飛び地面を舐めた。

もう大丈夫だろうとカヲルが振り向くと、痛みを堪えているシンジをアスカが保健室へ連れて行こうとしていた。
カヲルはシンジに寄り添うアスカを見て、痛むように手を胸に当てる。

「離せ、一人で歩ける」

「放っておけるはずないじゃない。それに、なんで私を。私は邪魔だったんじゃないの?」

「ああ、邪魔だ」

その一言で寄り添うとしていたアスカの足が止まる。

「俺は、俺以外の全ての者が邪魔だ。だが・・・またこうするんだろうな。これからも、ずっと」

「また」そう言ったシンジの言葉を聞き、再びアスカの足が動き出しよろめいたシンジを支える。
確かにアスカの耳は聞いたのだ、「またこうする」と言うシンジの言葉を。

「聞いていなかったのか。一人で歩ける、離せ」

「嫌よ。だいたい私はシンジの部下じゃないのよ。そんな命令みたいな言葉聞く必要ないじゃない」

支える手を離そうと身をよじるシンジに対し、アスカはよりいっそう力を込めてシンジを支えた。
しばし堂々巡りにその行動が続いたが、やがて観念したのかシンジが諦める。
何も言わず、アスカのしたいようにさせるようにしたようだ。

それに満足したアスカは、シンジを支えながら昨日思いつきそうだった考えを今ここで思い出した。
シンジは何時も口でなんと言おうと、自分を守ってくれていたのだと。
シェルターを抜け出した日も、使徒が落ちてきた日、そして今日。
例えその結果シンジの身にどんな危険が待ち受けて言おうと、守ってくれていたのだ。

何も変わっていない、表面的な態度や容姿はともかく根本的なことは十年前から何も変わっていなかった。
恐らく変わったのは、シンジを昔守ってくれた大切な幼馴染と思い込んでいた自分だ。
守ってくれたと過去形で語るのではなく、守って欲しいと現在形で思っている自分。
好きなのだ、碇シンジのことが。