long long stairs

第十四話 一番大切な者


雨が降りはじめたかと思えば止み、せめて晴れないまでも雨が治まったかと思うとまた降り始める。
一日中そのような天気であれば、誰しも空を見上げてはため息をつく。
廊下を足早に歩いていくアスカも例に漏れず、時折外を眺めては先刻降り始めた雨に吐息を漏らした。
やがてたどり着いた教室のドアを開くともう一度ため息をつく。
下校時刻を過ぎ、人影が少なくなった教室にトウジ、ケンスケ、カヲルとカルテットの一人が足らない。

「・・・・・・はぁ、やっぱりいないか」

「見つからなかったのかい?」

アスカはカヲルの問いかけにコクンと音が聞こえそうな調子で首を下ろした。
探し人であるシンジの席に上目遣いに視線を送る。
主のいない席にはその帰りを待つように鞄がかけてあり、まだ学校にいるという証のはずだが。

「なんでもかんでもシンジと帰らなあかんわけやないやろ」

「なによ、私に濡れて帰れって言うの?」

トウジの言葉への返答の後、三人の思考が一時停止した。
そしてすぐにアスカが傘を持っていないと言っている事に思い至る。

「なんでこんな天気の日に傘もってきてへんのや」

「確かに。登校時刻は降っていなかったけど、その後どうなるかわかりそうなもんだよな」

不思議そうに頷きあうトウジとケンスケの言葉にアスカはウッと言葉を詰まらせた。
その理由を言えなくも無いが、単純で男に話すには恥ずかしすぎる理由だったからだ。
シンジの傘に入れてもらいたかっただけなのである。
シンジの行方がわからなくなってしまう事は全くの予想外だったが。

「っと、とにかく、帰れないから探してたんじゃない」

「傘があればいいんだね?」

そう言って立ち上がったカヲルの手の中には、当然カヲルが用意した傘が握られていた。

「アスカちゃんが僕で我慢してくれれば、入れてあげるよ」

「あんたねぇ、そんな事言われて嫌って言えるわけ無いでしょうが。わかったわ。カヲルで我慢しておいてあげるわ」

「無理に我慢する必要は無いさ、戻ってくるかどうかわからないシンジ君を待てばいいわけだし」

一見怒った雰囲気を作りそそくさと教室を出て行くカヲル。
置いていかれてはたまらないとアスカも自席から鞄をとって追いかけていく。

「待ちなさい、我慢してあげるって言ってるでしょ!」

廊下から響いてきた大声にトウジとケンスケ、そして教室にのこっていた数人の生徒が苦笑した。
怒った振りをした事も含めて、アレはアスカとカヲルの言葉遊びだと知っているからだ。
年頃な時期に使われる言葉では急接近と言われる類のものであろう。
今のアスカとカヲルの関係は、周りの見解ではおおむね急接近で一致していた。

「シンジには悪いが、お似合いといえばお似合いやな」

「あれほどの美男美女のカップルはそういないぞ。それに俺はこのままあの二人がくっついた方がいいと思ってる」

「そうか?」

「トウジお前、シンジの前であんな風に笑ってる惣流見た事あるか?」

そういえばないなと思うのにのに時間は掛からなかった。
シンジに対する態度や行動を評すると、どうしても健気と言う言葉が浮かんでしまう。
誰だって隣人の健気で必至な顔よりは、幸せそうに笑っている顔の方が好きなはずだが、

「そうやな、シンジには悪いが」

問題はそこであった。
一体シンジがアスカの事をどう思っているのかがわからない。
親しくするわけでなく一歩引いているようだが、それはエヴァのパイロットしての態度だろう。
では碇シンジとしてどうおもっているのか、その一番重要な事がわからずトウジの心はすっきりしなかった。








そのシンジといえば、珍しくぼうっとした雰囲気をまといながら雨の中を一人歩いていた。
道路から跳ね返る雨にズボンをぬらす事も気にした様子は無く、傘を少し傾けて雨を落とす空を見上げる。
なんとなく空を見上げる、そんな事すら何年ぶりだろうか。

この十年、常に一つの目標に向かい進み続けていた。
様々な訓練を辛いと感じた事は何度もあったが、止めたいと思った事は無かった。
何よりも叶えたい想いがあったから・・・だが、今自分は心の何処かで立ち止まろうとしている。
いずれ敵になるはずのカヲルを、見捨てられなかった。
自分を止められる可能性が一番高いアスカとの絆を断ち切ることができないでいる。

何かを斬り捨てることなど慣れているはずなのに・・・

「そこの兄ちゃん、なに空見上げて泣きそうになっとるんや?」

思考の渦の中に急に投げ込まれた言葉にはっとする。
振り向いた直ぐそこにいたのは、肩口まで伸びていそうな髪を頭で結んだ十四、五あたりの少女だった。
パンパンに膨らんだ買い物袋と開いた傘、さらに一本の松葉杖と急がしそうな恰好である。

「兄ちゃんみたいにそこそこかっこええ人やったら大丈夫やけど、怪しい事にかわりはないで」

「そうか」

頷いたものの会話が続かない。
そもそも続ける必要もないのだがシンジも少女も互いに動こうとしない。

「なんや、少し照れるか戸惑うかしてくれた方がとっかかりできるんやけどな」

「そうか、残念だったな」

「ほんまとっかかりにくい人やな、兄ちゃん」

何かを諦めたのかやれやれと肩をすくめると少女がシンジに買い物袋をおしつける。
思わず受け取ってしまったが、松葉杖をついて歩きだそうとしている少女と買い物袋を見比べる。
状況だけを考えれば買い物袋を持って欲しいと言うのだろうが、自分にはその理由が無い。

「何故俺が?」

「雨の中で泣きそうな兄ちゃんをほっといて自殺でもされたら困るやろ。うちに着いてくればお茶ぐらい出すで」

「自殺は考えた事がない」

そのまま買い物袋を返そうとして、シンジの手がとまる。
雨の日に傘をさして松葉杖をついている少女にこの買い物袋を持たせてよいものか。

「真面目に答えらるのも怖いけど、うちはもうそれ持つ気あらへんのや」

「茶菓子はでるんだろうな」

「話の通じやすい兄ちゃんで助かったわ。うちはナツミ言うんや第一中学の二年生」

「シンジだ」

「それだけかいな、兄ちゃん人付き合いものすごっつい苦手やろ」





ずぶ濡れになったわけではないが、それなりに冷えていた体が心からジワジワと温まっていく。
湯飲みを口から放すと、わざわざ小皿に取り分けられた市販のまんじゅうを手にとる。
そのままかじるとケーキなど洋菓子には無い重みのある甘味が口の中に広がっていった。
もう一度お茶を口に含み、口に残った甘みを全て押し流す。

「今更に一つ思ったのだが」

「なんや?」

「見ず知らずの人間を家にあげるのは正気と思えんが」

「まんじゅう食ってお茶飲んで・・・ほんま、いまさらやな。まったくの見ず知らずやあらへん、兄ちゃん碇シンジやろ?」

テーブルを挟んで向かい合うナツミがあっけらかんと言い放つ。
流石に立ち上がって身構える事はなかったが、自然とシンジの目つきが変わった。

「こわ、今の兄ちゃんこわすぎ。表札見てへんかったん、鈴原って」

「なるほど」

言われて改めて目の前の少女、ナツミを観察してみる。
男と女の差はあれど似てなくもない、関西弁はそのままなのだが。

「前にお兄が写真みせてくれたん。強いやっちゃって珍しく褒めてたからよくおぼえてたんやけど、実際に見かけてみたら泣きそうな顔しとるし」

「気のせいだ」

「そういう事にしといたってもええけど、その代わりまた家に寄ってな」

下から覗き込むようなお願いの仕方だったが、笑顔からくる強制力にシンジは頷くしかなかった。
恐らく何故と疑問の声を上げてもナツミは頷くまで同じ言葉を繰り返しただろう。
シンジの返事に気を良くしたナツミは、椅子から立ち上がると時計を見上げてからいそいそと動き出した。
エプロンを取り出し着付け始めれば聞かずとも解る、夕食の準備だ。

「そろそろうちのお兄も帰って来るやろうけど、兄ちゃんも飯食ってくか?」

「遠慮しておくといいたい所だが、食っていけと言っているのだろう」

「へへ・・・正解」

照れくさそうな笑顔につられて、少しだけ笑う。
ほんの少しの懐かしさも一緒に。

一瞬で過ぎ去っていった懐かしさだが、余韻が心にとどまりシンジに疑問を抱かせるには十分だった。
懐かしさとは一体何の、一体誰に対してのものだろうか。
思い出したのはレイ・・・と言う名前、本当に名前だけであった事にシンジは頭を殴られたような衝撃を感じた。
その顔、体つき、なにもかもが霧がかかったように曖昧で何一つ明確に思い出せない。
忘れた事は確かに一度もなかったはずなのに、思い出せない自分がここにいる。

そもそも、何故自分は軽々しく出会ったばかりの少女の家にいるのだろう。
クラスメイトの妹であったことは幸いだが、これがもし何処かの組織の計画だとしたら・・・
何時からこんなに油断をするように、周りに甘くなってしまったのだろうか。

「兄ちゃん?」

急に形相が変わってしまったシンジにナツミが不安げに声をかけると、玄関の扉が開く音がする。

「お〜いナツミ、誰ぞ来とるんかい」

「お兄」

「シンジ、シンジやない・・・か?」

シンジがいる事にさほど驚きはしなかったトウジだが、その雰囲気に並々ならぬものを感じ取った。
一体どうしてしまったのか不安そうにするナツミを奥へと下がらせ、シンジの正面に座る。
シンジはただ呆然と己の手のひらを見詰めていた。

「そない惣流が渚と付き合うかもしれん事が嫌か?」

今のシンジの心境とは的外れかつ多分に誇張された問いかけだったが、シンジの注意を向けるには十分であった。

「なに?」

「渚と惣流や。ちょっと見ればわかるぐらいや、あの二人が僅かにも想いあっとるのは間違いない」

全くのでまかせであるトウジの言葉の真意はシンジの本心を知る事が目的だったが、間が悪かった。
シンジの中で渚と惣流というキーワードだけが塊り、薄れる事無く残っていく。
知らず知らずのうちに甘くなっていった自分。
そのように自分を惑わす者は、惑わされた結果、目の前にいる者だと結論付けられた。

「関係ない。惣流が誰と誰と付き合おうと、むしろ好都合だ」

「なんやて、お前はそれでええんか? いくら渚が仲のええ友達やからって」

「鈴原、お前は一つ勘違いをしている」

なにもかも捨てようと、シンジは決断する。

「誰が何をしようと、どうなろうと知ったことではない。俺には何の関係も無い」

いつの間にかなれてしまった鈴原たちとの友達と言う間柄も、同じ目標を目指すカヲル・・・渚という戦友も。
そして大切だった惣流という少女の事も、なにもかも。
全てを捨て去り、一番大切な者のために再び歩き始めようとシンジは己に誓った。









かけらも興味を引かないテレビ番組のチャンネルを次から次へと変えていく。
時に興味を引かれたかと思えば思い違いで、すぐさまチャンネルを変える。
当然チャンネルにも限りがあり、やがて飽きがきた。

つまらないテレビよりはと眺めた窓の外では雨が止み始めていた。

「遅いね、シンジ君」

「え、なに。なにか言った?」

居間から台所までは少々距離があるため、電気コンロの前に立つアスカには、はっきりと聞こえなかったようだ。

「シンジ君だよ。僕達より先に帰ってるはずなのに」

「携帯にも出ないんだからしょうがないじゃない、そのうち帰ってくるでしょ。それより暇ならお皿ぐらい並べてよ」

「最初に手伝おうとした僕を邪魔と切って捨てた人がいたけど、おかげで僕の心はこの空のように暗雲としている」

「はいはい、ジメジメして鬱陶しいのね」

少々大げさに雨雲を強調するカヲルを再び切って捨て、自ら食卓に食器を用意し始める。
夕飯の献立は単純にして万人に好かれるカレーだ。
何故アスカが夕飯など作っていたかと言うと発端は、ミサトの帰りが遅くコンビニ弁当で済ますと聞いての事だった。
カヲルの傘に入れてもらったお礼を建て前とし、シンジに手料理を食べてもらいたかったのが本音だ。
なおアスカはカヲルの目の前で建て前だと明言していたりする。

「はやくシンジ帰ってこないかな」

「おなかが空いている僕は今からでも全然かまわないのだけれど」

「シンジより先に手をつけたら、コロスわよ」

大げさなと思ったカヲルだが、アスカの尋常でない目つきを見て動きを止めた。
苦労したのにと目が言葉と同じぐらいの棘を放っている。

「うん、僕もちょうどこのカレーはシンジ君が一番最初に食べるべきだと思ったところさ。建て前をもう少し大切にしてくれると嬉しいところだけど・・・」

「建て前は所詮建て前。目的と手段を履き違えるほど馬鹿じゃないつもりよ」

威張って胸を張るアスカに呆れていると、玄関の方でドアが開く音がする。
シンジに間違いないだろうとカヲルを置いて玄関へと走り出すアスカは、おかえりと言おうとして一瞬言葉がつまった。

帰ってきたのはシンジに間違いなかったが、何かが違う事をアスカははっきりと感じた。
何も言わず、何者も寄せ付けようとしない様なシンジの目。
以前にも見た記憶のあるそれは、シンジが第三新東京市へと戻ってきた頃の目だった。
まさかと思わずには居られず、アスカの声が僅かに震える。

「あ、あのさ、今日カヲルの傘に入れてもらって、そのお礼で夕飯作ってみたんだけど」

「邪魔をしたな」

「邪魔・・・邪魔ってなんでよ?」

一言呟いて脇を通り過ぎようとしたシンジの手を掴むが、無造作に振り払われた。

「カヲルのために作ったんだろう。俺が食べていいものじゃない」

「それはそうだけど、なんでシンジが食べちゃ駄目なのよ。わけのわかんない事言わないでよ」

「もう一度言わせたいのか。惣流が、渚のため、に作ったものだ。俺が食べていいものじゃないだろう」

惣流と渚にイントネーションをわざと置いた言葉に、シンジが何を言いたかったのかようやく悟る。
お礼とは言え一人の女が一人の男のために作ったものを食べられないと言っているのだ。
しかしその言葉に単純な嫉妬など感じられない。
シンジは淡々と事実を確認し、受け入れていれようとしているのではとアスカは思った。

「ちょっと待ってよ。状況だけ見ればそうかもしれないけど、私は」

「一体何をやってるんだい。もう待ちきれないよ」

待ちきれないとばかりに居間からカヲルが顔を出した事で、アスカの否定の言葉が止まってしまった。
冗談に近い感覚でカヲルへのお礼を建て前とはいったが、まったくないわけではなかったからだ。
シンジに解って欲しいからと仮に、建て前だと言ってしまえばカヲルへの感謝がすべて嘘になってしまう。
一体どう言えば伝わるのかと思案し始めたアスカに、シンジが言い放つ。

「別に俺は惣流が誰を想って何をしようと関係ないしかまわないと思っている。例えその相手が渚だろうとな」

「だからちが」

「ちょっと二人とも落ちつ」

誰の想いも交錯しない状況の中、シンジの携帯、カヲルの携帯、そして家の電話が同時に鳴り響いた。
偶然などでこの三つが同時に鳴り響く事などありえないことをシンジとカヲルは良く知っている。
携帯を二人がとり、そこから伝えられた情報は当たり前のように同じものだった。
ただ一言「使徒接近中」と。
想いが交錯しない運命を彼らをとりまく環境が助長していく。









「先刻、日本政府各省にネルフ権限における特別宣言D-17を発令しました」

わだかまりを残しつつネルフ本部に到着した三人を待っていたのは、ミサトのこの一言だった。

「D-17か、それじゃあ半径50キロ以内の全市民は」

「避難中よ」

宣言の名を聞いたシンジが呟き、ほんの少しだけアスカの方を見た。
それに気付いたカヲルが宣言とシンジの行動の意味に気付き、アスカを振り向かせる為にその肩をとる。

「アスカちゃん、直ぐに戻るんだ」

「いきなりなんでよ。私はここの出入りを認められてるし、それに・・・シンジが」

「今は拘っている場合じゃない、君は避難対象者だ。お母さんの所に今すぐにでも、戻るべきだ。シンジ君、君からも」

焦りを帯びたカヲルの言葉もアスカの何か言って欲しいという縋るような目も、シンジを動かす事はできなかった。
シンジはただ静かに目を閉じて、下されるべき命令を静かに待っている。
先ほどシンジがアスカを心配するような目で見たのは見間違いだったのかとカヲルは己を疑った。

「私もすぐにお母さんの元へ戻るべきだと思うわ」

時間が無いとばかりに、ミサトが口早に説明する。

「噛み砕いて言うとD-17って言うのはネルフが街の全てを守りきれる保障がないと言うことなの。今頃貴方のお母さんも避難を始めているはずだわ、でも・・・一人娘を置いて避難なんてできるかしら?」

「ママが・・・で、でも」

「邪魔だ」

なかなか踏ん切りをみせないアスカの態度に痺れを切らしたのか、シンジが口を開いた。
だがその言葉には欠片の優しさも見つけられない冷たさがあった。

「目障りだ。さっさとここから消えろ」

「私は、居ない方が・・・いいの?」

「そう聞こえなかったか。消えろと言ったんだ」

今までにもアスカはシンジから様々な言葉を送られてきた。
それらはアスカを守り癒してきた事ばかりだった、再会時の「俺に構うな」と言う言葉の真意も危険から守るため。
間違いなくはじめての事だった、まるで切り捨てるように送られた言葉は。
目からこぼれた雫が、やがて大きな流れとなって頬を伝っていく。

理由はわからないが、シンジにとって自分は邪魔でしかない。

「シンジ君、君は何て事を!」

「やめてカヲル・・・私、戻ります」

シンジの胸倉を掴んだカヲルの手をアスカがそっと押さえ、アスカは母の元へ行く事を決めた。
だからと言って流れ始めた涙が早々にとまるはずも無く、ミサトが呼び出した保安部員に連れられていく間もアスカの瞳からは涙がこぼれ続けていた。
アスカを送り届けるという形だけはなったものの、釈然としないものを感じていたミサトとカヲル。
だが、シンジも含め本当の問題はこれからであった。

「時間が無いわ。すべての説明はエヴァの射出後行います」





「何故」、「どうして」とその二つの言葉だけが頭の中で渦巻いていた。
「何故そうしたのか」でも、「どうしてこうなってしまったのか」でもない。
思考ですらない言葉だけがアスカの思考の全てを埋め尽くしていた。
そして、その思考の中に「シンジ」と言う言葉が無い事が逃避である事の何よりの証拠であった。

「まあ、なんだ」

上ずった声を上げたのは、ミサトより送迎の命を受けた保安部員であった。
本来ならば命令を何も考えずに遂行するだけのつもりであったが、こうも車中で少女に泣かれては放っておけない。

「セカンドチルドレンってもわかんないか・・・碇司令の息子さん、碇シンジ君の事なんだけどな」

「・・・シンジ?」

名前をきっかけに俯き涙を流していたアスカが僅かに顔を上げた。
それを見て保安部員は話ぐらい聞いてもらえそうだとほっとする。

ネルフ本部内でアスカの事は有名であった。
未知の生命体である使徒に唯一対抗できるエヴァのパイロットである碇シンジの幼馴染であり、碇シンジと会うべく危険を顧みずシェルターを抜け出すようなことまでしでかす少女。
大人も子供と変わらずそういった事に関してすぐ恋愛云々を結び付けてしまうものだが、使徒という脅威を前ではそれが更に美化されている。

「彼に何を言われたのか知らないけど・・・本当に彼の本心だったのかな?」

本心、その言葉がアスカの涙を徐々にせき止めていく。

「いや、本当に無責任な言葉なんだけど、男ってのは言葉で気持ちを伝えるのがへたくそなんだ。だから言いたい事の八割はうまく言えない。でもそのかわり、態度では八割言えてるはずなんだ」

「態度で」

「だからもう一度彼と向かい合った時には言葉より態度に注意してみるといいんじゃないかな」

もちろん使徒が片付いた後だけどと続けようとしたが、無理だった。
突然アスカが車のドアを開けた為、驚いて車を急停車させると停止したタイヤが道路をかみ締めて音を鳴らした。
体が受ける慣性の力を腕で支えきってから振り向くと、そこにアスカの姿は無い。

「ごめんなさい、私行かなきゃ!」

車から数メートル離れた場所から聞こえた声に先ほど自分が考えていた事を思い出した。
アスカは危険を顧みずシェルターから抜け出すような少女だと。

「じょ、冗談じゃない。死にたいのか!!」

すぐさま車を乗り捨て追いかけようとするが、焦っていたためうまくシートベルトを外す事ができなかった。
そうして保安部員がまごついているうちに、アスカの姿は通りの角に消えていしまっていた。









晴れ間が見え出した第三新東京市は静まり返っていた。
車一つ通らない道路に、誰一人として働く人影を見ないオフィスビル群、シェルターの中も同様だった。
ネルフ本部と対になるように街の端と端に射出された二体のエヴァ以外に人は誰も残っていない。
いつもと同じ緊急時ならシェルターの中に市民を見る事もできるだろうが、今の第三新東京市は正真正銘ゴーストタウンと化していた。

その理由は、エヴァの頭上よりもはるか空の彼方にいる使徒のせいであった。

『もうあと三十分もしないうちに飛びっきりやっかいな使徒が落ちてくるわ』

「落ちるとはどういうことですか?」

『今回の使徒の能力は「自爆」と表現するのが一番あってるわ。自らの膨大な質量とATフィールド、そして重力、この三つの力を全て使ってこの第三新東京市に落ちてくるの』

シンジの問いかけに、今でも信じられないといった面持ちでミサトが答える。
これまでも人智を超えた存在ばかりだったが、今回はさらに常軌を逸していたじからだ。
街一つまるごと巻き込んだ自爆など正気とは思えない、使徒に正気などがあるのかは怪しい所だが。

『今回の作戦は単純よ。ただ落ちてくる使徒を受け止める、それだけよ。街の事は気にしなくていいわ。爆発の威力は主に下方より上方へ向かう性質を持っているから・・・』

「俺達がATフィールドで使徒を受け止めれば、結果として街も助かる・・・か」

『そういう事。それと遠距離攻撃は控えて頂戴、万が一刺激を加えて使徒がバラバラで落ちてきたらエヴァ以外は何も助からないわ。頼んだわよ』

ミサトとの通信が切れた途端、今まで黙って作戦命令を聞いていたカヲルがシンジのエヴァへと通信をつなげる。
その目に明らかに怒りが込められていた。

『本当は、戦いの前に言うべきか迷ったけど・・・言うよ。超常の存在、神の使いである使徒さえ恐れぬ君が、一体何を恐れているんだい?』

「しらんな。俺は何も恐れない」

くだらんとばかりに問いかけを断つシンジだが、カヲルは言葉を続ける。

『いや、君は確かに惣流・アスカ・ラングレーと言うたった一人の少女を恐れている。君が人を遠ざけようとする時、唯一牙をむいて傷つけるのは彼女だけなんだよ』

「そうか、お前にはそう見えるのか。ならば俺は全てのものに牙をむき、爪を立てよう。俺には誰も要らない」

『それは嘘だ。人は決して一人では生きられない、孤独と言う悪魔に打ち勝つ事など誰にもできないんだ』

「それはお前が弱者だからだ。たとえ心という無形の物が相手でも負けない、それが俺と言う強者だ」

通信を通してにらみ合うシンジとカヲル。
今の二人の間には、ユニゾンを成した頃の同調は欠片もなくなっていた。
完全に二人の我、想いが反目しあってしまっている。

『ならば君に生命の実を渡すわけにはいかない。そして、約束された日に僕は君を倒して先へ進む』

「俺は誰にも負けない。使徒だろうとお前だろうと・・・そして」

会話が途切れ、二人は同時に空を見上げた。
まだ肉眼では確認できないがエヴァを通して使徒が発する気配をビリビリとその肌に感じたのだ。
シンジはこの使徒が持ちうるエネルギーがあの第五使徒ラミエルよりも巨大だとはっきりと感じた。
だがそれでも、シンジの心から恐れがにじむ事は無い。
戦う、全てを駆逐するする力だけなら何よりも自分と初号機を信じていたから。

『二人とも準備はいいわね。目標は光学観測による弾道計算しかできないわ、よってマギが距離一万までは誘導します。その後は各々の判断で行動して、貴方達二人に全て任せるわ』

「『了解』」

ミサトの覚悟を聞いて、零号機と初号機がスタート地点で腰を屈めクラウチングスタートの構えをする。

『では・・・作戦開始』

二機の外部電源が外されると、大地に置かれたエヴァの手が離れスタートの一歩を踏み出した。
零号機はそのまま二歩目も踏み出し落ちてくる使徒目掛けて加速していくが、初号機は二歩目を踏み出したときに一歩目で得た加速を全て殺そうとしていた。
アスファルトを削りながら滑るエヴァの視線を釘付けているのは、ビルの屋上に立つ一人の少女だ。
加速を殺し終えたエヴァの顔が少女の前で停止すると、少女がシンジの名を叫んだ。

『シンジ!!』

いるはずがない者が、今シンジの目の前にいる。
良く知ったその姿で、その声で間違いなくそこにいた。

『私、シンジの邪魔はしたくない。でも、一緒にもいたいの!』

『シンジ君、なにがあったの・・・アスカちゃん!』

『誰か保安部員を、アスカを助けて!!』

『距離一万五千、駄目です。もう今からでは間に合いません!』

『シンジはどうなの、私は本当にいらないの!!』

通信から聞こえる声たちが土砂降りの雨のように勝手にシンジの中に入ってきていた。
その雨粒の一つ一つがシンジの心に穴を開けていく。
もう、アスカは助からない。
使徒を受け止めても余波がないわけじゃない、人一人死なせるには十分すぎる。
例えアスカを助けても、カヲルが一人で使徒を支えきれるはずが無い・・・そして街が消える。
ならば答えは決まっている。

一番大切な者のために、一人の少女を見捨てるだけでいい。

だが心のうわべがそう決断しても、心の奥底・・・本心は嘘をつかなかった。
シンジの本心がシンジに問いかける。

(お前はレイとの時と同じ愚行を繰り返すのか、だから誰も守れない)

今すぐ使徒のもとへと走り出すべきなのに、エヴァの体が、足が少女の下から離れようとしない。

『距離一万!』

刹那の思考からオペレーターの声がシンジを現実へと引き戻す。

「くそおおおおおおおおおお!!」

立ち上がった初号機が胸の前で拳大の空間をあけて手のひらを向け合う。
そこに生まれたのは一滴の雫、そこに水がどんどん集まり流れ続ける球体が生成された。
明らかに体積異常の水が集った球体を掲げて、初号機が狙いを定める。

「カヲル、後は頼んだ!!」

初号機が放った球体は使徒にたどり着く前にはじけた。
失敗かに見えた攻撃だが、本当の攻撃はこれからだった。
エヴァの拳大にまで圧縮された液体は空中ではじけて霧となり、落下中の使徒を丸ごと包み込んでしまう。
見間違い出なければ霧の中から煙がもくもくと立ち上がり、使徒の悲鳴が空に響き渡った。
時間にして僅か数秒、霧から脱出した使徒は表面が全てただれ、何かに食いつかれた様に穴があいていた。
シンジが放ったのは強酸の水球であったのだ。

『使徒は僕にまかせて、シンジ君はアスカちゃんを!』

「アスカ!!」

カヲルに言われるまでも無く、初号機はその手でアスカをつかむ為に手を伸ばそうとしていた。
エントリープラグに招いている時間は無く、アスカを優しく包み込むと使徒の落下点に背を向ける。

『シンジ、貴方の本当の心が知りたい!』

シンジはアスカの叫びに答えず、ただただ優しく彼女を包み込むだけであった。
繰り返し叫ぶアスカを無視してじっと来るであろう衝撃に備えているのだ。
アスカを守るために。

『フィールド全開!!』

カヲルの声が初号機に届いて直ぐに訪れる使徒落下の余波。
初号機はATフィールドでアスカを包み込んだため、己を守る術なく成すがままに木の葉のように宙を舞った。
アスファルトの道路に、コンクリートのビルに、痛まない場所が無いほどに初号機が叩きつけられても、それでもシンジは決してアスカを手放さなかった。









全てが過ぎ去った後、第三新東京市はおびただしい傷跡を刻み付けられていた。
建物にヒビが入り、窓は全て割れ、砕かれた道路にはなぎ倒された街路樹が横たわっている。
そして初号機も動く事なく倒れていた。

エントリープラグからシンジが這い出るように脱出する。
フィードバックのせいか腕をだらりと力なくたらし、片足もひきずっていた。
そんな状態になってさえ向かう先は、いまだに発生しているATフィールドの球体の中にいるアスカの元へだ。
球体の中ではなにかアスカが叫んでおり、シンジが球体に触れると風船が破れるように破裂した。

「シンジ、シンジ、シンジ!」

シンジを心配してか、涙を流しながら抱きつこうとしたアスカの頬をシンジは思い切りはたいた。
以前の教室の比ではなく、その威力にアスカは硬いアスファルトの上に倒れこんだ。
倒れた時に膝でもすりむいたのか、手で押さえて痛みに眉を捻るアスカに言い放つ。

「ネルフのIDカードを出せ」

「シンジ・・・どうし」

「聞こえなかったのか。ネルフのIDカードを出せと言っている」

なかばパニックに陥りそうな思考の中で、アスカはシンジの言葉をなんとか理解しカードを差し出した。
それを受け取ったシンジは何も言わずにIDカードを二つに折り曲げ、アスカの前に放り投げる。

「二度とネルフに、俺達に近寄るな」

ゆっくりと振り向くと、迎えにきたであろうネルフの救護車へと歩き出したシンジ。
その背中にははっきりとアスカへの拒絶が見て取れた。
言葉で、態度で、そして行動で示されてしまっては、アスカに立ち上がる気力は失せてしまっていた。
ただどうしようと言う事も考えられず呆然と歩いていった方を見ている。

「何故だか解らないって顔をしているね」

「カヲ・・・」

突然掛けられたカヲルの声に振り向いた時、アスカは言葉を失った。
腕は動く事無く膝の上に置かれ、カヲル自身ネルフの職員であろう人が押す車椅子の上だったからだ。
カヲルはその事に特に気にした様子は無かったが、車椅子を押している職員は明らかにアスカを睨みつけていた。

「彼女はすでに十分シンジ君から罰を受けています。そんなに睨まないであげてください」

「私に彼女を罰する権限なんてありませんよ。ただ、許せないだけです」

「そう、それなら仕方ないね」

許せないという言葉を仕方ないの一言で済ますとカヲルは続けた。

「君の軽率な行動で二体のエヴァが中破、二人のパイロットが傷つき、街が破壊された。君はあまりにも多くの人に迷惑をかけすぎたのさ」

「でも私は・・・シンジに」

「君のその想いは大切にすべきだ。けれどシンジ君は言った。俺達に近寄るなと・・・僕もそこに含まれている」

最後にさとすように「解るね?」と言うと、カヲルは職員に連れられて救護車へと向かった。
それ以降ネルフの職員は誰一人として被保護対称であるはずのアスカを迎えに来るものはいなかった。
それからアスカがどうしたかの報告は誰にも伝わらなかったが、一人で無事家に帰った事だけは伝えられた。