long long stairs

第二話 戦いの後


暗闇が支配する部屋に浮かび上がる複数の光。
一つの光に、一人の老人。
その中にはネルフ司令、碇ゲンドウの姿もあった。

「使徒の再来。予想されていた事とは言え、一週間のズレとはな」

「十八年前を考えれば、むしろその程度の誤差は小さいと言える」

「そうだな。模造品が丁度届いただけでも幸運だ。おっと、模造品とは失礼したね碇君。」

「いえ、アレはその為にネルフに呼んだまでですから」

ネルフに居る時と同じように、両手を組んで口元を隠すポーズをとっているゲンドウ。
淡々とした会話の中に含まれる嘲りにも、顔色一つ変えない。

「ふん、さすが妻を生贄にまで差し出した男だ。今更息子一人」

老人達の中で一番ゲンドウを見下していた男の言葉は、そこで切れた。
彼を射すくめたのは、他の者達とは明らかに格の違う雰囲気を放つ老人の目だった。
ただし、機械補助を受けたバイザー越しであったが。

「気が済んだかね?」

重い一言だった。
この会議に出席している老人達の中でゲンドウは明らかに若い。
そこに妬みが集まらないわけが無く、シンジを模造品と呼んだ老人がそうなのだ。
気に入らなければ、持ち合わせてもいないヒューマニズムを持ち出してまで中傷する。
だがこう言われては、引き下がるしかない。
このまま言葉を続けたとしても、進んで泥沼に入るようなものだからだ。

悔しそうに押し黙ったのを見て、バイザーをつけた老人――キール・ローレンツが場を改めた。

「予定より早い使徒の来襲を退けた事は褒めておこう」

「ありがとうございます」

「だが、使徒の殲滅は君の仕事の一部でしかない。現人神計画、これこそが君の急務だ」

現人神計画と言う言葉が出た事で、場の緊張が更に高まった。
この場にいるたった数人の老人達で構成される、ゼーレと呼ばれるネルフの上位組織。
その権力は裏社会だけではなく、表社会にまでも手を伸ばす事ができる。
となればネルフが超法規を施行できるわけも、自然と見えてくる。

そしてゼーレが設立された意義こそ、現人神計画であった。

「その要ともなるのが、使徒の持ちうる生命の実。第三使徒から奪い取ったそれが消えたとはどういうことかね?」

「現在特別チームを編成して捜索中です」

動じる事無く言い切ったゲンドウに噛み付いたのは、やはり先ほどと同じ老人だった。

「上手い事を言って、何処かへ隠したのではないのかね?」

「消えた現場はネルフ職員の目の前で起こりました。監視映像にも残っております。お疑いなら映像を進呈いたしますが」

「情報操作は君の得意とするところのものだ。遠慮しておこう」

「それは残念です。キール議長一つよろしいですか?」

「なんだね」

「もしやとは思いますが、ゼーレの用意した資格者の他にも、他組織の用意した資格者がいる可能性があります」

ゲンドウの進言に、表情を固めていたキールにわずかだが揺らぎが見えた。
現人神計画とはゼーレの最高位に位置する、この場の数人しか知らないのだ。
もし他組織が資格者を有しているとすれば、何処からか計画が漏洩したとしか考えられない。
警戒心を表出さぬように、慎重に互いを見合うゼーレメンバー達。

「碇君、不用意な発言は控えたまえ。君からゼーレの椅子を遠ざける事になるぞ」

「そうとも、計画の漏洩などあってはならない事だ」

言葉では否定していても、一度持った疑心はなかなか打ち払えるものではない。

「裏死海文書のコピー全てを我々が抑えられたとも言い切れない。一概に裏切りと決め付けるわけには行かない」

やはり疑心を打ち払う一言は、キールからだった。
完全にとは行かなくとも、効果は十分であった。

「ではここからは委員会の仕事だな」

「碇君、ごくろうだったね」

次々と闇に霞む様に消えていくゼーレのメンバー達。
その中で最後まで残っていたのは、ゲンドウとキールだった。
ゲンドウは静かにキールの言葉を待った。

「碇、後戻りはできんぞ」

そう言って、先ほどのメンバー達同様闇に消えたキール。

「ふっ、考えた事もありませんよ」









「ここは・・・・・・どこだ?」

目を開けたときに広がったのは、白。
それがやがて白い天井である事に気付き、自分が病室で寝ている事に気付いた。

「生きてる。勝った・・・んだよな」

何時気を失ったのか、ぼうっとする頭で考える。
少しずつ思い出していく。
使徒を殴るエヴァの手。砕ける使徒の仮面。掲げた赤い球。
そこに思いついた時、おもむろに手のひらを見つめた。

何かがあるわけでもないのに見つめ続けると、不意に手の中に現れた赤い球。
使徒のそれに良く似ているが、大きさが全く違う。
その様な事は小さな事なのか、シンジはそれを両手で握り締めた。

「勝ったんだ」

今度ははっきりと確信を持った呟きだった。

シンジがひとまずの勝利に打ち震えていると、シュッと言う音と共に開くドア。
パッと顔を上げたシンジが見たのは、ミサトとリツコの姿だった。
この時にはすでに、先ほどの赤い球はシンジの手の内から消え去っていた。

「ご苦労様、シンジ君。気分はどう?」

「少し頭がぼうっとしますけど、大丈夫です。特に体にも異常は感じられません」

「感じないからといって油断は禁物よ。調整無しのエヴァに乗ったんですもの、脳神経にかなりの負担が掛かったはずよ」

「そうですね。・・・それで葛城さんも赤木さんも、どうしてここに?」

そう聞かれ、ミサトもリツコもまずい顔になった。
シンジの容体が気になったのは確かだが、伝えなければならない事があったのだ。
しかもその顔から察するに、言いにくいことなのは明らかだ。
意を決したようにミサトが口を開く。

「シンジ君、貴方の住居の事だけれど・・・地下F区の第六番二十四号だそうよ」

「そうですか、わかりました」

あっさりと納得してしまったシンジに、伝えた方のミサトが驚いた。
シンジの住居となる予定の場所は個室なのだ。
父親が同じ都市、同じ組織にいるのになぜ同居をしないのか。

「それで本当にいいの、シンジ君。個室なのよ?」

「かまいません。何処に居たって・・・」

シンジが言葉の途中で溜めを作ったことで、この話は大きく流されていく事になる。
押し流した波の名は、葛城ミサト。
彼女の脳内では、素晴しい速度で悲しい物語が作成されていく。

十年も知り合いに預けていた息子を、急遽呼び出した父親。
そこに親子としての絆をわずかでも求めた息子は、父の用意した舞台で戦い、傷ついていく。
例え優しい言葉を投げかけられなくとも、冷たくあし払われようとも、
全ては父との絆のために・・・

ここまで一方的な主観で物語を作成できたのは、自らの人生とゲンドウの髭面への偏見。
そして最も重要なのは、彼女のお節介的性格だろう。
もちろんいらぬお節介なのは間違いない。

「会いた」

「シンジ君、私の家にいらっしゃい。そうよ、それが良いわ。ちょっと待ってて!!」

会いたければ、会いに行けばよいと最後まで言わせて貰えず、走り去っていったミサトを呆然と見送るシンジ。
長い付き合いであるリツコは、また何か妙な勘違いでもしているのだろうと呆れていた。
気を取り直して再びシンジに向き直った。

「それにしても、本当に大きくなったわねシンジ君」

慣れた手つきで、シンジの頭を撫でるリツコ。
十七にもなれば普通こういった行為に気恥ずかしさから反発するものだが、シンジは受け入れようとしていた。
母から受ける慈愛に似たその感覚に安らぎを感じた瞬間、反射的に身を引いた。
触れてはいけない物に触れたように。

シンジの突然の行動にリツコも驚き固まったが、すぐさまシンジが取り繕った。

「あ、リツコ姉さん・・・ですよね?」

「あら、ようやく気付いてくれたかしら。赤木さんだなんて他人行儀に呼ばれた時は、結構ショックだったのよ」

仕事場では決して見せない笑みを見せ、泣きマネまでしている。
それだけリツコとシンジの距離の短さをあらわしていた。

二人の出会いは十年以上も前まで遡る。
場所はここネルフ。ただし、当時の呼称はゲヒルンだった。
リツコが学生時代母親に会いに来た時、暇そうだからと三人の子供の相手をさせられたのだ。
そのうちの一人がシンジであった。

「染めてるから解りませんでしたよ」

「本当にそうかしら?」

意地の悪い笑みを浮かべるリツコ。

「・・・・・・奇麗さっぱり忘れてました」

観念したシンジが白状した。
お互いしばしの沈黙。

先に噴出し、クスクスと笑い出したのはリツコの方だった。
やがてシンジも笑みを浮かべた。
すると、ドサッという何かを落とした音がし振り向くと、ドアの所でミサトが目を丸くして固まっていた。
落ちたのはクリーニング済みのシンジの服、落とし主のミサトは震える手でリツコを指差した。

「そんな・・・リツコが笑ってる。しかも男の子と楽しそうに」

「私が楽しそうに笑っちゃいけないかしら?」

聞き返したリツコの目だけが笑うのを止め、マジックで書いたかのような怒りの四つ角がおでこに現れた。
落ちた服をシンジに返すと、未だ固まっているミサトを廊下へと連れ出そうとする。

「そうね、着替えが終わったらロビーに来て頂戴。ゆっくりとね」

ゆっくりとを、意味ありげに呟いたリツコ。
白衣の懐に手を入れ、何処にしまったかしらと呟いたのが印象的だった。









ジオフロントから地上へと出るトンネルを走る一台の青い車。
ガムテープで無理やり補強されたそれは、聞かずともミサトの愛車である事がわかる。
その車中には、不機嫌な二人。

「リツコ姉さんかぁ・・・」

もう何度目の呟きだろうか、いい加減無視することにも疲れたシンジは的確な反撃をした。

「葛城さん、俺が何かしましたか?」

「ぐっ・・・べっつにぃ、なんでも無いわよ」

言葉どおりのはずがない。
幼い頃の知り合いであることを思い出し、リツコを姉と呼ぶのはわかった。
だが、同居の許可が下りた自分は未だ苗字でさん付け。
ミサト姉さんとは呼んでくれないのだろうか。そこは、三十路一歩手前の微妙な心理である。

しかし、その原因をちゃんと理解しているのに改善しようとしないシンジもいい根性をしている。
そして呼んでくれないのなら呼ばせればいいのだと、無駄に頭を働かせるミサトも負けず劣らずいい根性だ。

ここは一つ、頼れるお姉さんをアピールするのよ。
人との絆に飢えているシンジ君なら、甘えられる人に弱いはず。
リツコが甘えられるお姉さんかどうかは置いておいて・・・

勝手に失礼な事を考え、決め付けてしまうと、
いかにも考えていましたといった風にさりげなく呟く。

「そうそう、コンビニに寄って色々と買い込まなくっちゃね」

「なにをです?」

「もちろん、新たなる同居人の歓迎会よ」

多少誘惑を含めてウィンクをするのも忘れない。
それに対しシンジは、曖昧に頷いた。





「さあシンジ君、好きなものとってカゴに入れていいからね」

コンビニに到着してカゴを持ったミサトの第一声がそれだ。
ミサトは自分が飲むビール、自分が食べる缶詰、サラミ、カップ麺等を次々とカゴに放り込んでいく。

「これこれ、これがまた美味しいのよ」

そう言って放り込んだのは、軟骨のから揚げ。
シンジは思った。
ミサトお兄さんと呼んだら流石に起こるだろうなっと。
違った意味で認められ始めているのかもしれない。

呆気にとられてばかりいるわけにも行かず、最低限自分が食べるものをカゴに放り込むシンジ。
一通りの食べ物が放り込まれてるカゴをレジに置く。
清算が行われている間に聞こえてきたのは、主婦の声だった。

「やっぱり引っ越されますの?」

「まさか本当にここが戦場になるだなんて、思っても見ませんでしたから」

「ですよねぇ。主人が私と子供だけでも、疎開しろって」

「疎開ねぇ。いくら要塞都市だからって、何一つ当てにできませんもんね」

段々と遠ざかっていく声。
バーコードを読み込むレジの音がやけに大きく聞こえた。
主婦達にとっては本音と噂話の半々だろうが、直接戦ったシンジは一瞬だが苦渋の顔を浮かべた。
使徒と国連軍、そして自分もまた街を破壊した一人なのだから。

「ねえ、シンジ君」

「なんですか?」

「ちょっと、寄り道しよっか」

ミサトがそう言い出したのは、シンジの表情に目ざとく気付き、
純粋にシンジを心配しての言葉だった。





ミサトが連れて行った先は、街を一望できる高台の公園。
車から降り、落下防止用の柵のあるところまで歩み寄った。
すでに夕暮れ時を迎えた街には、夕日によって赤いヴェールが掛けられていた。
何処と無い寂しさを感じさせる。
それはこの街に、何かが欠けていると感じたからだ。

なんと表現していいのかシンジが戸惑っていると、ミサトが時計を気にし始めた。
時間が来ると何が起こるのだろうか。
シンジは黙って十年ぶりの街を眺めた。
記憶と一致する街並みなど何処にも無い。
街が変わってしまったのか、自分の記憶が不確かなのか。

「時間よ」

言葉が終わるか終わらないかのうちに鳴り響くサイレン。
その意味はすぐわかった。
都市部ににつかわしくない空き地、そこから隔壁を開き競り上がってくるビル群。
そう、先ほど感じた欠けている何か。
それこそが、人が住むべき街並みであるビルだったのだ。

「ビルが生えてくるみたいだ」

「これが使徒迎撃用要塞都市、第三新東京市。私達の街よ」

僅かに感動を顔に出したシンジに、ミサトが呟いた。

「そして、貴方の守った街よ」

胸を張りなさいとも聞こえるミサトの言葉を聞いて、シンジの感動は吹き飛んだ。
単純に使徒を倒していくだけなら、そうとることもできるだろう。
だが実際は・・・自分が蹂躙し、踏み台にしていく街なのだ。
どうしてそれを守ったなどと誇れるだろうか。

固く心を閉ざすように表情を固めるシンジ。
それを悟られぬように、呟いた。

「葛城さん、行きましょう」









ネルフのスタッフには二つの階級がある。
一つは軍隊式の尉官や佐官といった階級。
こちらは主にエヴァに関した仕事に従事するものに与えられる。
もう一つはA級やB級と言った役職に対する階級で、こちらの方が幅は広い。
最上位は司令やチルドレンから下を見れば、ネルフ内の売店員や清掃業者までが含まれる。

ミサトの仕事は作戦部部長、階級は一尉でB級。
かなり上位の階級に所属するミサトは、それなりの住居も用意されている。
コンフォート17、それが葛城一尉に与えられた部屋のあるマンションだ。
若い女性が一人暮らしをするには広すぎるほどな一室で、足を踏み入れたシンジは驚いた。

その汚さに。

「・・・・・・葛城さん、さっき引っ越してきたばっかりだって言いましたよね?」

「そうよぉ。あ、ビールは冷蔵庫に入れておいてね」

颯爽とゴミを掻き分けて自室へと向かったミサトから返事が帰ってくる。
今一度改めて部屋を、廊下を見た。

半開きのダンボールから衣類が飛び出しているぐらいは、まだ良い方だろう。
備え付けの棚の上に並べられた外国酒の酒瓶、もちろん空だ。
テーブルの上にはビールの空き瓶や、使用済みのどんぶりが重ねられている。
床に無造作に置かれたゴミ袋を良く見れば、内部には虫が沸いているかも知れない。
見たくも無いので目をこらすようなことはしなかった。

「よくもまぁ・・・ゴミを溜め込んだと言うより、耐えられるよな」

諸事情で潔癖とは程遠いと自覚しているシンジだが、ここはそれを遥かに超えた場所と化している。
せめてリラックスできる場所は確保したいものだが、
病み上がりに似た状況で、他人の汚した部屋を掃除などしたくは無い。

「そのうちするか」

早々に諦めると、冷蔵庫を開ける。
入っていたのは、氷とビールとおつまみ・・・ある意味三種の神器。
どんな生活をしているんだと聞かなくとも解る、こういう生活だ。
手早くビールを詰め込み、コンビニで調達したものをレンジに放り込んだ。

「掃除はできない、料理もできない。彼氏、いないんだろうなぁ」

あきれ返ると言うより、すでに同情の声だった。

「勝手に決め付けないでくれる?」

いつの間にか戻ってきていたミサト、聞かれたようだ。
ラフな恰好をしてはいるが、リラックスせずこめかみの辺りが引きつっている。

「まさか、いるんですか?」

「まさかって失礼ね。男の一人や二人・・・・・・貰ってくれます?」

「アパートやマンションはペット禁止ですよ」

「ペットって・・・そこまで言う」

上目使いまでして言った台詞を皮肉で返され押し黙った。
私そんなに酷いかしらと、現状に気付いていないことが一番まずいだろう。
チーンと鳴ったレンジの音がより深く悩ませたが、

「ま、そんなことよりシンジ君の歓迎会よ。ビール、ビールっと」

悩みから浮上するのがとてつもなく早かった。
ビールを数本取り出すと、テーブルに座り缶詰を開けた。
そして一気飲み。
喉を何度も鳴らすものの、口を話す気配は無い。
缶ビールを逆さにしてまで飲み干すと、

「ぷっはぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

上がる奇声。
ちなみにこの時まだシンジは冷蔵庫の前に座ったまんまである。
一体誰の歓迎会なのだろうか。

「やっぱ人生この時の為にあるようなもんよねぇ。・・・・・・ってシンジ君なにしてるの。シンジ君の歓迎会なんだから椅子に座ったら?」

一応憶えてはいたらしい。

「それとも、シンジ君も飲むかしら?」

「そうですね。たしなむ程度ですけど・・・」

明らかに茶化して言ったはずなのに、ビールに手を伸ばすシンジを止める気配は無い。
ミサトの向かいに座ると、プシュッと個気味いい音をさせて飲み口をあける。
一口含んでから出た言葉は、

「まずい」

「背伸びしちゃって、まあ」

本当にまずそうに顔をしかめるシンジを見て、微笑ましそうに笑う。
ほとんど笑った顔を見せないが、そういう所はちゃんと歳相応の反応だからだ。

「そういう事をしたがる年頃なんですよ」

こういったひねくれた台詞も可愛く聞こえる。
勢いで同居を決定してしまったものの、仲良くやっていけそうではないか。
欲を言えば後一点どうしても譲れない事がある。
すでに一本空け、もう一本行くべきかどうか迷っているシンジに呼びかける。

「ねえ、シンジ君」

「はい?」

ミサトに向けた顔は、上気していた。

「私の事はミサトおね」

「無理です」

夜の静寂とは違う沈黙。
ミサトの手の中にある缶が音を立てて潰れた。

可愛いと思った自分が馬鹿だったわって言うか、無理ってどういうことよ。
歳?リツコとは同い年なのよ!
それとも薬?リツコに何かキメられたのね?
そうよ。そうに違いないわ。だってリツコだもの。

またしても勝手に脳内で話をでっち上げていくミサト。
アルコールも手伝ってそのスピードはいつも以上だ。
数度目ともなると大体を察知しているシンジの両手をとった。

「シンジ君、今まで辛かったでしょう?ううん、過去は過去でしかない。汚れた両手は洗えばいいのよ」

まるで犯罪者のような言い草だ。

「体を洗うにはお風呂が一番。さあ、お風呂に入ってらっしゃい」

「ご飯中ですよ?」

「気にしない気にしない。お風呂ならちゃんと入ってるはずだから」

すでにミサトの中ではシンジが風呂に入る事は確定事項のようだ。
根負けしたシンジは、よっと掛け声を上げると立ち上がり風呂場へと向かった。

手早く服を脱ぐと、無造作に洗濯籠へと放り込んだ。
そして浴室の前に立ちドアを開けると、足元の視界ギリギリに何かが映った。
それに焦点をあわせようとした瞬間、かけられた水しぶきに目をやられた。
慌てて目元の水を拭い、今一度何かを見た。

ペンギンだ。

初めて、しかも浴槽に住まうペンギンを見て思考を停止させられたシンジ。
ペンギンの方も同じく、誰だこいつはと固まって動けないで居た。
対面する二者(一人と一匹)に緊張が走った。
先に動いたのはシンジだ。

ペンギンの両脇に手を入れ、クルっと回転させると片脇に担いだ。

「クエェェェェェ!!」

ペンギンさらいだとでも叫んだのだろうか。
構わず風呂場へとペンギンを持ち込むシンジ。
その顔は風呂前だと言うのに赤く上気し、明らかに酔っている事がうかがえた。





「それでどう、シンジ君の様子は?」

「どうって言われても、どうかしらとしか言えないわ」

シンジの去ったリビングで受話器を取っているミサト。
すでに先ほどの酔っていたような雰囲気はなくなっていた。
今日初対面のシンジにくつろぎ易い様に、わざと砕けた調子でいたのだ。
世界でたった二人のチルドレンが相手だ、それなりに気も使っていたのだろう。

「・・・そう」

電話の相手、リツコのため息に似た返事に片眉を上げた。
何事もはっきりと言う親友らしくないからだ。

「なによ。何か気になることでもあるの?」

「笑わないのよ」

「は?」

母が子を心配する時のような気弱な言葉に普段とのギャップを感じ、持っていたビール缶を落としかけた。
彼女はこんな母性にあふれている女だったろうか。

「小さい頃のシンジ君は良く笑う子だったわ。なのに久しぶりに会ったら終始すまし顔で・・・もしかすると」

「もしかすると?」

「いえ、なんでもないわ。とにかく、シンジ君を引き取ると言い出したのはミサトなんだから、今まで見たいなずぼらは勘弁しなさいよ」

「電話してくるほど気になるなら、リツコがシンジ君を引き取ればよかったじゃない」

なんだか小姑みたいねと言う言葉を飲み込んで、尋ねた。
今思えば、自分より小さな頃からシンジを知っているリツコが引き取るほうが妥当だからだ。
姉呼ばわりするぐらいだ、自分よりはリツコの下のほうが気楽だろう。

「貴方ね。私の先月の帰宅日数を知ってて言ってるのかしら?」

「知らないわよ。・・・・・・十日ぐらい?」

「ゼロよ」

悔しそうで、それで居て皮肉めいた言い方だった。
リツコもシンジを引き取りたかったのだろうが、自分が家に帰られなければいないのと同じだ。
それならばまだミサトの方がマシだと言う事だろう。
心情的に納得できているかはともかくとして。

ミサトもミサトで素早くリツコの心情を察知して会話を終わらせ、電話を切った。
アレ以上会話を続けていたら、小言に突入する事が目に見えていたからだ。
それでも「ずぼらは勘弁しなさい」と言う言葉を思い出し、リビングを見渡してみる。
空き瓶、空き缶、ゴミだらけ。

「ペット扱いは嫌だし・・・」

腰を上げ、動き出した。









その日シンジは、何かがこげる様な匂いに目を覚ました。
未だ冷め切らぬ眼のままベッドを抜け廊下へと出た。
何処と無く空間が曇っているようで、時折聞こえるのは焦りから来る悲鳴。
それをたどるように向かった先はリビング。

「おはようシンジ君。もうちょっと待っててね」

「おはようございます」

挨拶をそこそこにバタバタとキッチンを走り回るミサト。
味噌汁らしき鍋は噴いており、玉子焼きらしきフライパンからは煙が出ている。
それらを必至に取り繕う様は、慣れているはずも無く危なっかしい。

シンジは無言でキッチンに進むと、鍋のガスを止め、黒くなった玉子焼きを皿に移した。
自分だって慣れているはずも無いが、二人ならなんとかと言う話だ。
洗ったレタスとトマトに包丁を入れているミサトに大皿を渡し、自分は茶碗等を食卓に並べた。

「あ・・・ありがとう」

「いっぺんにやろうとするからですよ」

「ごみん」

茶碗をそろえている時初めて、昨日のゴミがほとんどなくなっている事に気付いた。
良く見ればミサトの手にはお約束のように絆創膏が張り巡らされている。
一体何時に起きて支度を始めたのだろう。
僅かに口の端をあげたシンジは、茶碗にご飯をよそい、味噌汁をつけた。

黄より黒が多い玉子焼きに、雑炊のような白飯。
極めつけはやけに薄く、味噌の塊が入っている味噌汁。
シンジは相変わらずのすまし顔で食卓に着き、ミサトは何処かすまなそうであった。

「いただきます」

「い、いただき・・・ます」

茶碗を左手に持ち、玉子焼きに手をつけるシンジをじっと不安そうに見つめるミサト。
そんな目が何を期待しているのか、シンジは経験から知っていた。

「上手ではないですけど、美味しいですよ」

一言多いものの、それを聞いて途端に笑顔を取り戻した。
自分でも手を付けてみれば、確かに上手ではないが美味しかった。

「今日から学校だけど、送って行こうか?」

「地図は頭に入ってます、大丈夫ですよ。それに車だと目立ちますから」

「確かに不必要に目立つ必要も無いけれど・・・まあ、いいわ。しっかり友達を作って勉強してらっしゃい」

「わかりました」

頷いたシンジを見て満足そうに笑うと、べたつくご飯をかきこんだ。
今日は何故だか格別気分が良い。
その何故を理解してしまえば、脱ずぼらへの道は明るい。
どんどんご飯をかきこみ、お代わりまでするミサト。

そんなミサトとは対照的に、相変わらずのすまし顔なシンジだった。









第三新東京市立第一高等学校、それがシンジの通う高校の名である。
校舎を歩くシンジ。
その先には先ほど職員室で会った担任の教師が歩いていた。

ミサトの手前友達を作ることを了承したものの、シンジにはそのつもりが無かった。
必要が無いとかそういう気持ちからではない。
言ってしまえばお互いの為だろうか。
エヴァを動かす事のできる貴重な道具としての価値をシンジは理解していた。
知られれば何処から自分の正体がばれるとも限らない。
ばれた自分も危うければ、ばらした本人も危ういからだ。

「さあ碇君、私が呼んだら入ってきてくれたえ」

「はい」

リツコは言うに及ばず、ミサトの前よりも更に酷い仮面を被った無表情。
目の前の教師は緊張しているからだと軽く考え、教室へと入って行った。

転校生の存在を明かされ、大いに沸く教室内。
昨日にこの街で未知の生物との死闘があったなど微塵も感じさせない明るさだ。
それとも薄々感じている危険を、転校生と言う僅かな希望で打ち払っているのか。

「碇君、入ってきなさい」

名前が呼ばれ静まり返る教室内に、一つだけ椅子を無理やり引いた様な音がした。
ドアを開けると突き刺さる複数の視線たち。
それらを無視し教師のいる教卓へと歩く数メートル。
その人物へと視線が動いたのは、一人だけ立ち上がっていたからだ。

一度吸い寄せられたら離す事が出来なかった。
十年経っても変わっていない。
夕日のように赤く煌く髪を持ち、夕日に負けることなく青く海原を思わせる瞳。
自分が見間違えるはずがない、強く記憶に刻まれた少女。
シンジの仮面が剥がれ落ちた。

「アスカ・・・惣流・アスカ・ラングレー」