「第三新東京市・・・か」 駅を出てその街並みをながめた人影は、強い日差しを遮るように腕をかざし呟いた。 十年ぶりの帰郷であるが、こみ上げてくるものは懐かしさではなかった。 自らが辿るべき道を見据えた屈強な目。 顔には少しあどけなさが残っているものの、その体つきはすでに大人と言って差し支えない。 少年期を超えた彼はすでに少年ではなく、青年。 彼の名は碇シンジ、十七歳であった。 駅に人影は見えず、腕時計を見ると迎えの時間までしばらく間があった。 何処かで時間を潰すかと辺りを見渡し、そしてある事に気がついた。 ある理由で厳しい人選が行われ、街に入る事のできる人が限られているとは言え、 人が少ない・・・いや、まったくいないのだ。 何かがおかしいと気付いてからのシンジの行動は速かった。 手近な公衆電話を探し当て、乱暴気味に受話器を取り上げる。 『非常事態宣言の為、現在すべての・・・』 取り上げた時より更に勢いを増して受話器を叩きつけた。 「非常事態宣言だと・・・まさか、使徒」 神の使い、福音を伝えるものを意味する言葉。 その言葉にシンジが込めている感情は敵意と歓迎、相反するものであった。 振り向きざまに走り出そうとしたシンジは、一歩を踏み出す前に硬直した。 先ほどまで、辺りに人影は一切みえなかったはずなのだ。 だがその視線の先、アスファルトの照り返しによるかげろうの向こうには人がいた。 年の頃はシンジと変わらないだろう。 何処かの学校の制服を着込んだ少女は、棒立ちのままシンジを見ていた。 「・・・・・・レイ?」 数メートル先の少女を掴むように震える手を伸ばす。 しかし両者の間を、疾風が裂いた。 咄嗟に両腕で顔を庇い、目を開けた時には少女は影も形も見えなかった。 夢、幻の類か。 本当にレイだったのか、髪の毛が淡い色合いではなかっただろうか。 それにレイが自分と同じぐらいの年のはずが無い。 先ほどの事なのに、曖昧になっていく記憶。 呆然としているシンジを現実に引き戻したのは、複数のエンジン音と巨大な足音のようなものだった。 音がするほうに振り向くと山が見え、山陰から出てきたのは戦闘機と人のような何かであった。 上半身が大きく、腕と下半身が以上に細い。 全体的にのっぺりとした緑色の体を持ち、所々を甲殻で覆い、頭が無い変わりに胸の所に仮面があった。 見た目のバランスの悪さに反し、それは二速歩行を行っていた。 「やはり使徒。父さん、ギリギリに事を進めすぎだよ」 悪態をつくべき事は山ほどあったが、走り出した。 逃げるのではない。あの人のような何か、使徒と戦う為にネルフへ走ったのだ。 父が統括する組織、そこへ行けば使徒を倒す事のできる兵器がある。 走りながらも、時々使徒を振り返る。 国連軍の砲撃げ命中しているものの、晴れた煙の向こうからは無傷の使徒が現れた。 使徒からすれば戦闘機など、羽虫とまでいかないものの無力な鳥のようなものだろう。 エヴァじゃないとダメと思い、足を更に動かし続ける。 一瞬感じた悪寒、足を止めたのは正解だった。 「うわっ!!」 片方の翼をもがれた小鳥・・・戦闘機が十数メートル先に落下したのだ。 横滑りしながら車をなぎ払い、ビルに激突した。 破片が飛んでこなかったのは全くの幸運だろう。 だが安心してばかりはいられなかった。 ふっと、太陽が雲に隠れた時のように暗くなり、見上げた空には使徒が見えた。 本来ならあの巨体が飛び上がったことが驚くべきであったが、その足が戦闘機を踏み潰した。 ひしゃげた戦闘機、それが最後の瞬きを見せ赤くほとばしった。 無駄だと思いつつも、反射行動で顔を庇った。 吹き荒れる風と鉄の塊が飛び散る音、そしてタイヤの悲鳴。 訪れなかった衝撃の変わりにそこに居たのは、青い車とサングラスをした女性であった。 「ごめーん、おまたせ」 間一髪、崖っぷちからの生還といった心境であったが、女性の第一声は酷く軽かった。 第三新東京市の地下にあるジオフロント、街をまるまる覆えるぐらいの広大な空間である。 天井には避難するように引っ込められたビルがぶら下がって並び、ジオフロントの大地にはネルフ本部。 地下に存在するこの空間こそが、第三新東京市の本当の姿であった。 地上からジオフロントに降りてきたシンジと女性――葛城ミサトの姿は、駅付近で出会ったときより薄汚れていた。 足を使わなくてもエスカレーターが運んでくれる為、なおさら先ほどのことを思い出してしまう。 あの後使徒の足元から逃げ切ったまではよかったが、国連軍がN2地雷を使用。 爆風により車ごと吹き飛ばされ、車内でシェイクされたのだった。 当然ミサトの新車は廃車同然となり、ミサトの精神も車同様かなり凹んでいた。 「着いてみれば戦闘に巻き込まれて、地雷で吹き飛ばされて、シンジ君もとんだ災難だったね。アハハハハ」 シンジを精神的に落ち着かせようとした言葉も、どこか上ずっている。 「葛城さんほどではないですよ」 シンジより、ミサトの方が精神的に落ち着くべきだろう。 逆に気遣われてしまっている。 「もう、ミサトって呼んでって言ったでしょう?」 「俺の勝手だと思いますけど」 年下に気遣われて多少なりともプライドが傷ついたのか、必要以上におちゃらけてみる。 が、効果は限りなく薄いようだ。 軽く切り返された後に、ため息まで疲れてしまった。 (か、可愛くない。こんな事なら一張羅引っ張り出さない方が・・・) 自分でそう思い、所々綻びている服を見て落ち込んでしまう。 いかにものんびりとした会話であるが、今ごろの地上では国連軍と使徒との戦闘が行われているはずである。 シンジを落ち着けようと言う考えもあったが、何故ミサトがこんな会話をしているかと言うと・・・道に迷ったのだ。 一口にジオフロントと言っても都市が丸々収められる広さであり、ネルフ本部も同様である。 着任早々と言う言い訳も使えない事も無いが、使ったとしても減俸の日数が増えるだけだろう。 (おっかしいなぁ、確かこの道のはずよね?) 「まさかと思いますけど、葛城さん迷いました?」 確信を突いたシンジの言葉にミサトの心臓は跳ねた。 体中の体温がひいていくのが感覚でわかった。 「や、やあねぇ。そんなわけ」 無いと言いかけたミサトだが、思いとどまった。 シンジのその目が思いとどまらせたのだ。 焦り・・・ここで迷っている間にも使徒はどんどん侵攻してきているんだと言う訴えの目。 落ち着いた会話をしていたシンジも、冷静であったわけではないのだ。 「ごめんなさい、私達にはやるべき事があるんですものね」 「生意気を言いますけど、その為に俺はきたんです。少しは頼ってください」 「そうね。もうリツコはエヴァの所だろうから・・・ここね」 シンジはミサトが指差した場所を、幼い頃の記憶を頼りに現在地と目的地を照らし合わせた。 だが十年も前の記憶だ。記憶違い、改築、様々な理由があるだろうが地図と記憶が一致しない。 早く行かなければと焦るが、現在地さえ何処なのかわからなくなってしまっている。 エスカレーターが途切れ、こうなったら恥も外聞も捨て呼び出しをかけるかとまで思い至ったミサトだが、 丁度右手に見えていたエレベーターから救いの女神が現れた。 「こうなってるんじゃないかと思ったわ」 「ハハ・・・リツコ」 「お久しぶりね、シンジ君」 そう言われたシンジだが、目の前の金髪の女性が誰だかわからなかった。 『繰り返す、総員第一種戦闘配置。対地迎撃戦用意』 「第一種戦闘配置か。なんとか間に合いそうね」 「間に合うように、迎えに行ったのよ」 「それはどうも、ありがと」 お礼を言いつつも子供のように舌をだすミサト。 どうも緊張感の長続きしない性格らしい。 「赤木さん、初号機の方はどうなってるんですか?」 「B型装備のまま現在冷却中よ」 「ってシンジ君もリツコも。普通こういう場合、「どうして僕の事を知っているんですか?」とか、「貴方の事なら何でも知ってるのよ」とかないわけ?」 前者と後者の台詞で大きな隔たりがあるようだが、シンジとリツコはジト目である。 「現在使徒が接近中、かつ第一種戦闘配置ですから」 「何事にも優先順位と言うものが存在するわ」 そして出てきた台詞も、後で聞けばよいと言うような似たようなものであった。 リツコが二人居るみたいとミサトは一瞬怯み、頭を切り替えた。 「・・・それで、シンジ君なら動かせるんでしょうね。動いた事が無いって聞いてるけど」 「オーナインシステムと呼ばれるエヴァだけど、シンジ君が現時点で最も起動確率が高いと言えるわ」 「動かしてみなきゃ解らないって事か」 「動きますよ」 それが確定事項のような言い草に、リツコとミサトはそれぞれ違った意味でシンジを見た。 ミサトはただ単に、エヴァが動くと言った事に対して。 リツコはエヴァを少しだけ知っているからこそ、痛ましいものを見るように。 「俺はその為に、エヴァに乗る為に来たんですから」 もう一度言いなおしたシンジの顔は、とても高校生に見えない決意が見えていた。 チンっと言う軽い音の後に開くドア、その向こうには特殊な液体に肩まで使った巨大な人間。 エヴァンゲリオンと呼ばれる、決戦兵器である。 丁度エヴァの顔の辺りに渡されている橋を渡り、エヴァと相対するシンジ。 その胸中に訪れる想いとは・・・・・・震える手を握り締める。 これから自分は戦うのだ。かつて無い力を持った敵と、同じ力を持つこのエヴァで。 「シンジ君・・・」 呟いたのはミサトだが、リツコもシンジの手の震えには気付いていた。 だがこれから誰も経験したことの無い戦いに参加するシンジに、どんな言葉を投げかけられるだろうか。 不可能だ。 シンジは世界でエヴァの搭乗者としての資質を認められた、二人目の子供。セカンドチルドレン。 仮にシンジが搭乗を拒否したとしても、超法規的な措置がとられるだけである。 つまり個人の意思、人権は一切無視できると言う事。 ネルフに所属するスタッフの誰が、どのような言葉をかけても、白々しいだけである。 しかし、もしこの時ミサトかリツコがシンジの顔を見たら、同じような葛藤を抱くことができただろうか。 二人から見えないシンジの表情は、笑っていた。 手の震え、それすら戦いの前の武者震いであった。 「葛城さん、赤木さん。出撃の準備を」 こみ上げてくるものを必至に押し殺した声だった。 シンジにとっては、このままでは叫んでしまいそうな興奮を押し殺したつもりだが、 二人に更なる罪悪感を抱かせ、戸惑わせるには十分な事であった。 『葛城一尉、赤木博士。聞こえなかったのか、出撃だ』 金縛りにあった様に何も言えず、動けなかった二人を揺さぶる声がスピーカーを通して聞こえた。 ネルフ司令、シンジの父、碇ゲンドウの声であった。 その姿はシンジ達が居る場所から正面、エヴァの頭上より上からであった。 特殊ガラスの向こうで佇むその姿は、超法規的な国際機関の指令としては若いが、威厳は十分であった。 その証拠に、ミサトは自らの仕事場である発令所に急ぎ、リツコもまたシンジが乗るものとして頭を切り替えていた。 「久しぶりだね、父さん」 『ああ、だが今は使徒殲滅が最優先だ』 「わかってるよ」 状況が状況とは言え、十年ぶりに会ったはずの親子の会話は、それだけであった。 ゲンドウはガラス越しに、シンジがリツコに連れられ案内されるのをじっと見ていた。 その胸中は特殊ガラスよりも厚い何かで遮られているように、読み取る事は誰にもできない。 『冷却終了』 『ケージ内、すべてドッキング位置』 出撃が決定されると直ぐに冷却液の排出が行われ、首まで浸かっていたエヴァの全容が明らかになってくる。 人造人間とも呼ばれるエヴァは、その名に偽りが無く完璧なまでの人型であった。 上半身と頭が大きく、それを支える下半身は限りなく細い。 そういった断片的な特徴だけを見れば、先ほどの使徒と似通っていると言えなくもないだろう。 『エントリープラグ挿入』 冷却水の排出が完璧に終わると、エントリープラグと呼ばれた棒状のものが運ばれてきた。 エヴァの脊髄近くに差し込まれたそれは、ネジの様に回転し埋もれた。 さらにそこをガードするように、装甲版が被された。 エントリープラグの中には、出撃の時間を今か今かと待ちわびるシンジが乗っていた。 つまり、操縦席である。 『プラグ固定終了。第一次接続開始』 「どう、マヤちゃん。シンジ君の様子は?」 「軽度の緊張と興奮がみられますが、平常を保っていると言って差し支えないです」 発令所でエヴァの発進準備をモニターで見ていたミサトは、思っていたより良い返答にそうっと呟いた。 ミサトの所属は作戦部であり、その仕事はその名の通りのものである。 そのためにはシンジの、エヴァの搭乗者の心理状況も当然頭に入れておかなければならない。 「エントリープラグにLCLを注水後、シンクロを開始します」 「やってちょうだい」 「シンジ君、これからLCLと言う液体がプラグ内を満たすけれど、心配は要らないわ。LCLが肺に直接酸素を取り込んでくれるから」 『了解』 シンジにLCLの説明をした後、リツコはミサトを睨むように見た。 それに対しミサトは、言葉に出さず目線を向けることで感謝の意を伝えた。 密閉空間に大量の液体が満たされれば、普通人はパニックに陥る。その様な愚行を今行うわけにはいかない。 初出撃の緊張がミサトにも及んでいた事もあるが、シンジの情報をほとんど知らされていない事もあった。 リツコもこれは同様で、シンジの事は司令の実子であり、司令の知り合いに預けられていた事ぐらいしか知らない。 せめて使徒の来襲が一週間後だったらと悔やまれる。 ただLCLの事を了解の一言で納得した事から、ある程度の知識は持ち合わせているのだろう。 情報の伝達が遅れている上のミスか、ミサトのミスかは微妙な所だ。 「シンクロ率41.3%」 「すごいわ」 「ハーモニクス全て正常値。暴走、ありません」 「すごいって・・・ドイツのファーストは80を超えているんでしょ?」 「シンジ君は初搭乗なのよ。それに調整も全くしていない状態で・・・逆にその才能を示しているわ」 リツコは不安の声を抑えようとしたが、ミサトは逆にそうじゃないのよと不安を強めた。 今より先の可能性では無く、現時点での力のことを言っているからだ。 作戦を預かる身のミサトにとって、「いつか」「そのうち」と言った言葉はナンセンスなのだ。 「それでも、出すしかないか」 嬉々としてシンジのシンクロデータを集めだしたリツコを尻目に、ミサトは唇を噛んだ。 シンジがエヴァと相対している時は、あれほどの罪悪感が芽生えていたにも関わらず、今は無いに等しい。 司令の言葉があったとは言え、自分はここでシンジが戦いに出る準備を進めている。 抱えた矛盾や重圧を吹き飛ばすようにミサトは叫んだ。 「発進準備!」 『第一ロックボルト外せ』 『解除確認』 『アンビリカルブリッジ移動開始』 『第二ロックボルト外せ』 『第一、第二拘束具除去』 ミサトの言葉を待っていたように、エヴァを押さえつけていたボルト等が次々と外されていく。 拘束具と言う響きからもわかるがそれは酷く厳重で、まさに押さえつけていたのだ。 『一番から十五番までの安全装置を解除』 『解除確認、外部電源接続異常なし』 「了解、エヴァ初号機射出口へ」 全ての拘束具と安全装置を解除した旨を受けたマヤが、射出口への移動を命令する。 射出口への移動が完了すれば、後は発進の一言でシンジは使徒の目前へと投げ込まれる事になる。 ミサトは振り返り、自分の上司であり、シンジの実の父であるゲンドウを見上げた。 司令席に座り、両手を組んで口元を隠したゲンドウは動じた様子は欠片も見えなかった。 「司令、構いませんね?」 それは自分の迷いへの問いかけでもあった。 「もちろんだ。使徒を倒さぬ限り、我々に未来は無い」 道を示されたミサトは、初号機の移動を待ち、 「進路クリアー、オールグリーン。発進準備完了」 迷いを断ち切った。 「発進!」 住民の退去が完了し、ゴーストタウンと化した第三新東京市。 使徒は何かを探すようにゆっくりと、何故か行儀よく道路を歩いていた。 人のようにキョロキョロと辺りを見渡しているわけではないが、探し物を見落とさぬようにしている様に見える。 ほんのわずかだが都市の地下から列車が通るような音が響く。 それに反応したのか、それこそが探し物なのか、使徒の足がとまった。 胸の所についた仮面にある目が見つめる先、道路の一部が赤く点滅しアラームが鳴り響く。 隔壁が開き、滑るように音の正体が現れた。 エヴァンゲリオン初号機。 「・・・・・・使徒」 急停止し慣性の衝撃をいなしたエヴァの中で、シンジは薄目を開けた。 出撃の準備が整えられる間、ずっと目を閉じて興奮を押さえつけようとしていたのだ。 『いいわね、シンジ君』 「はい」 『最終安全装置解除。エヴァンゲリオン初号機、リフトオフ!』 出撃用のレールから外されたエヴァが、力なく腕をたらす。 『シンジ君、今は歩く事だけを考えて』 「歩く・・・」 リツコに言われたとおり、歩いてくれとエヴァに頼む。 錆びた鉄同士がこすれる音が聞こえそうなほど、ゆっくりとぎこちなくエヴァが一歩を踏み出した。 エヴァが動いた事に発令所内がわずかに沸き、前線に居るシンジと発令所にタイムラグができた。 自分の心臓の鼓動が、喧しいほどに鳴り響く。 使徒が目の前に居る。 さっきは逃げる事しかできなかったが、今はエヴァが・・・初号機がある。 エヴァが動いた・・・なら次は? 鼓動が消えた。 使徒を倒す。 「うあああああああああああああああ!!」 シンジの叫びと共に走り出したエヴァ。 これにはエヴァの起動に歓喜した発令所の熱も、一気に冷めた 止める暇も無い特攻。 向かってくるエヴァに対し、使徒は右手をあげ手のひらを向けた。 肘から突き出た突起物が淡く輝く。 『シンジ君!』 直感的な、危険を知らせる叫び。 ハッと我に返るシンジ。 エヴァの顔面目掛けてパイルが打ち出された。 高音な摩擦音の後に響いた、何かが砕ける音。 右手を左手で支え、パイルの軌道をそらす事に成功したエヴァのはるか後方で、 エヴァの兜の一部が落ちた。 第二射が放たれる前に、後方へと跳んだ。 ゆっくりとパイルを引き戻す使徒は、エヴァに向き直る。 しかしシンジは使徒ではなく、赤くなった右手の甲を見て肝を冷やしていた。 エヴァに用いられているシンクロシステムの欠点は、エヴァの傷までパイロットに影響する事。 あのパイルをまともにくらえば、エヴァの装甲さえ貫通するかもしれない。 その場所が頭や、臓器付近ならショック死さえ考えられる。 『これが無謀な特攻でなきゃ、良くかわしたと褒めてあげたいけれど・・・冷静になれたかしら?』 「はい、すみません。それと・・・さっきはありがとうございました」 シンジをわれに返した声はミサトのものだったのだ。 あれが無ければ、今頃は頭を撃ち抜かれている。 『こっちも起動で喜ぶなんて迂闊だったわ。気を引き締めていくわよ』 「はい」 使徒は、観察するようにエヴァを見るだけで仕掛けてくる気配は無い。 『良く聞いてちょうだい。あの使徒の主な攻撃方法は二つあるわ。一つは今の腕からの攻撃』 「身をもって味わいました。でも、あれは手のひらを向けないと撃てない欠点があります」 『ご明察。もう一つは、あの仮面が光った時に撃ち出される光線のようなもの。ただし一瞬だわ。光ったと思った時には動いてちょうだい』 「わかりました。それでこちらの武器は?」 手持ちの武器を聞かれたミサトは、悔しそうに顔を歪めるとリツコを見た。 返答は首を横に振られるだけ。 『肩のウエポンラックにプログレッシブナイフがあるわ』 エヴァの肩にある突起物が開き、ナイフの柄が出てくる。 柄を握ると、刃の部分が高速振動をし始めた。 『シンジ君、エヴァにはもう一つ』 「すみません。もう悠長に話している暇は無くなりそうです」 割り込んできたリツコを制し会話を打ち切ると、エヴァの腰を落としプログレッシブナイフを構える。 観察に飽きたのか、エヴァがナイフを持った事で危険を感じたのか、使徒が動き始めたのだ。 プログレッシブナイフは当然のごとく、接近戦用。 じりじりと少しずつシンジがエヴァを進めていると、使途の仮面の目が光った。 爆発は奇麗な十字架を描き、道路が砕けてジオフロントへの装甲板が数枚貫通した。 爆煙が晴れた頃には、巨大な穴が見えただけでエヴァの姿は無い。 上空に舞うエヴァンゲリオン。 気付いた使徒が右腕を向けようとするが、 「遅い!」 逆手に持ったプログレッシブナイフを、エヴァの全体重を掛けて振り下ろした。 いけると誰もがそう思ったその時、光によって世界が区切られた。 使徒とエヴァの両者を分かつオレンジ色の光が、エヴァのプログレッシブナイフを受け止め、 更にはエヴァまでもを、持ち上げた状態になった。 「ATフィールドか!」 これこそリツコが先ほど言おうとした事そのものである。 エヴァと・・・使徒の両者だけが持ちうる不可侵の力。 シンジは知識でこそ知っていたものの、実際に見せられると驚かされた。 プログレッシブナイフとの接触面で火花を散らすも、押し切る事はできないのだ。 ATフィールドに手間取っている間に、使徒の手のひらが向ききった。 一瞬の浮遊感、使徒がATフィールドを解いたのだ。 無理やり体を仰け反らせると、顎先を通り過ぎるパイル。 シンジは使徒の腕を取り、両足を胴体に絡め引きづり倒した。 『上手い、そのまま腕を押さえて斬り取って!』 「了解!」 いち早く起き上がるシンジ、使徒は動きが鈍くもたついていた。 左膝で胴体を押さえ、右足で使徒の右腕を押さえつける。 近すぎるとATフィールドが張れないのか、振り下ろしたプログレッシブナイフが今度こそ切り裂いた。 そのまま腕を引きちぎり、紫色の血が飛び散った。 声を持たぬ使徒は、その分体をばたつかせ痛みを叫んだ。 これだけ肉薄すれば光線も撃たないだろう。 自然とシンジの視線は、使徒の仮面下に存在する赤い球に注がれた。 そこが弱点だと思ったわけではない。 声を出さずに動いたシンジの唇は、その球を"生命の実"と呼んだ。 使徒を押さえつけたまま、赤い球へと手がのびる。 シンジの目はすでにそれのみしか映らず、その想いは希望と欲望。 二つの想いにまみれた手が赤い球へと触れる瞬間、世界が伸びる様に流れていった。 ビルに激突するエヴァに降り積もる残骸、頭部から噴射する赤い血。 朦朧とする意識の中、シンジが見たものは左腕からパイルを伸ばした使徒の姿だった。 口元を両手で隠したゲンドウの奥歯が焦燥で軋みを鳴らした。 その両手にも職員に気取られぬようにだが、ずいぶんと力が込められていた。 「頭部破損、エヴァ完全に沈黙!」 「神経接続が次々と断線していきます。パイロットの意識ありません!」 メガネを掛けたオペレーターに続き、マヤからも最悪の報告が届けられる。 それらを耳に入れながら、ミサトはめまぐるしく頭を働かせた。 モニター越しの使徒は討ち取った者の余裕か、すぐさま追い討ちを掛ける様子はない。 千切られた右腕を拾い、繋ぎ合わせ自己修復を始めた。 恐らく状態を万全にしてから止めをさすつもりだろう。 「リツコ、使徒の右腕修復に掛かる時間は?」 「N2地雷での破損率28%を数時間で終えたことから、30分もないでしょうね」 思わしくない返答に舌打ちをすると、決断を下した。 「国連軍にN2爆雷の要請をします。現段階をもって作戦を使徒殲滅から、パイロットの保護を最優先!」 この決断を聞いた職員の誰もが耳を疑った。 意識不明のパイロットの保護はまだわかる、このままではなぶり殺しだからだ。 「正気なの?!今度は郊外ではなく、都市のほぼ中心に使徒がいるのよ!」 真っ先に異論を唱えたのはリツコだ。 心情的には、シンジを助けたいが今N2爆雷を使えば、第3新東京市は瓦礫も残らないクレーターと化す。 それでは、巨額の投資を得て創り上げられた、使徒迎撃用都市の・・・ネルフ自体の存在意義を失いかねない。 地下にあるジオフロントも、どんなダメージを受けることになるか想像も出来ない。 「シンジ君さえいれば、希望を繋げることはできるわ!」 都市をとるか、シンジをとるか。 平行線が目に見えている議論を避けるために、ミサトとリツコは同時司令であるゲンドウを見た。 当のゲンドウは両腕を組み、変わらないポーズをとりつづけていた。 まるで何かを我慢強く待ち続けるように。 「そんな・・・嘘」 司令の決断を待つ二人の下に、マヤの震える声が届いた。 食い入るように何度もコンソールを見直した後、事実を認めて言った。 「エヴァ再起動、シ・・・シンクロ率上昇していきます。45%・・・50%・・・・・・止まりません!」 「まさか、暴走」 リツコも駆け寄りコンソールを見て呟いた後、今はまだ沈黙しているエヴァを見た。 ゲンドウの隠された口元がわずかに笑みを浮かべた。 噴出していた血は既に止まっており、動く気配のない沈黙が逆に嵐の前の静けさを感じさせた。 暴走と言う言葉を聞いた誰もが喉をごくりと鳴らし、エヴァを見つめた。 「・・・・・・80・・・100%を超えました!」 マヤの叫び声が聞こえていたかのように、エヴァの目が光った。 笑うように閉じられていた口を開いたエヴァは、天空に向かい吼えた。 シンジは夢の様なものを見ていた。 あたたかい揺らぎ。 記憶の奥深くにある羊水の記憶に似た感じ。 限りがあるはずなのに、何処までも広がるこの世界に灯る淡い光。 ふわふわとした浮遊感の中、シンジはそれに触れた。 (・・・・・・シンジ) 「・・・さん」 記憶にしっかりと残っている声が聞こえた。 (レイを・・・って・・・・・・子は・・・・・・・・・・・ら) 「わかってるよ、母さん」 力強く頷いたシンジは、自らその温もりを手放した。 まどろみに沈むには早い、自分はまだ何もしていないのだから。 「あああああああああ!!」 覚醒したシンジが吼えると、エヴァも吼えた。 頭部の痛みがなくなったわけではない。 クギを打たれるように、何度も何度も痛烈な痛みが走っている。 「レイは・・・もっと怖かったんだ」 エヴァを立ち上がらせると、使徒が自己修復を中断した。 「もっと痛かったんだぞ!!」 使徒ではなく、己へと向かう呪詛。 その矛先を使徒へとずらし、走り出した。 全くの直線移動、使徒にとっては格好の餌食だ。 手のひらをエヴァへと向け打ち出されたパイルは、エヴァの突進を止めた。 いや、エヴァがパイルを止めた。 エヴァと使徒との間には、光り輝く金色の壁、ATフィールドがあった。 そのままなくしたプログレッシブナイフの変わりに、拳を振るった。 ガァンと音がし、ATフィールドによって拳が止められた。 しかし、シンジが止まらない。 「こんなもの!」 ズブリと指先をATフィールドに差し入れると、そのまま引き裂いた。 これまでで一番使徒と肉迫した。 超接近戦ではパイルも光線も役に立たない、立つのは拳だけ。 振り上げられた拳は、使徒の仮面を打ち砕いた。 仰向けに無様に倒れこんだ使徒に馬乗りになり、次から次へと拳を見舞う。 その戦いは未知の生物相手の聖戦ではなく、昔からあるただの暴力であった。 仮面が仮面でなくなった頃、痙攣を起し始めた使徒を見て、シンジは赤い球へと手を伸ばした。 持っていかないでと伸ばされた手を圧し折り、ブチブチと体組織ごと引きちぎった。 完全に沈黙する使徒。 赤い球を高々と掲げるエヴァンゲリオン。 「まずは、一つ・・・」 エヴァの中からその手にある赤い球を見て呟くシンジ。 わずかに笑みを浮かべた後、その意識は再び薄れていった。 |